第六章 暴虐の果て(三)
魔王、董卓死す――――
その衝撃は、長安はおろか中華全土を駆け巡った。
今まで人民を虐げ続けてきた魔王の横死……
これで巨悪は潰え、天下は平穏に向けて進む……はずだった。
だが、董卓というあまりにも巨大な悪の喪失を受け入れるには、人々が受けた傷は大きすぎた。
憤怒に憎悪、怨恨に屈辱……
これまで抑圧され続けてきた人々は報復を求め、それは血の粛清という形で決壊する。
ずっと董卓への反抗の機会を窺っていた司徒王允らが中心となって官軍を動かし、董卓やその配下の一族は皆殺しにされ、董卓にまつわる施設は徹底的に破壊された。
それはあたかも、報復という悦楽に興じることで心に巣食った董卓の恐怖を必死に拭い去ろうとしているかのようだった。
しかし、粘液のようにこびりついた影を振り払うことは容易では無く、人々の心の暗雲はより深くなるばかりだった。
「う〜ん、やっぱり駄目かぁ。完全に炭化しちゃってるや」
長安の科学研究所……
卓の上に置かれた黒い塊を突きながら、陳宮は一人ごちる。
これは、宮殿から回収した董卓の肉片である。
あの戦いの後、長安の宮殿は見るも無惨な有様となっていた。
柱は折れ、壁は壊れ、辛うじて建物の体裁を保っている、いつ倒壊してもおかしくない状態だ。
彼らの争いに巻き込まれ、李儒を始めとして董卓軍の側近のほとんどが亡くなった。
また、無辜の文官や宮女、衛兵の犠牲者はその十倍近い数に上った。
陳宮や李確、郭巳は宮殿から離れていたため難を逃れた。
天子の生存も絶望視されたが、翌朝王允の屋敷で気絶しているのを発見されたという。
そして董卓は……
宮殿の屋根の上で、腕を振り上げたまま全身黒焦げになり絶命していた。
官軍の兵士が近づいた途端、董卓の体は崩れ、粉々に砕け散ったという。
塵よりも細かく砕かれた董卓の破片は、殆どが風に吹かれて何処かへと消えていった。
天からの雷に打たれた董卓の死に様を聞いた臣民は、董卓の度を越えた悪行に天罰が下ったのだと考えた。
天は、董卓に肉体を残すことすら許さなかったのだ。
勿論、陳宮はそんな非科学的な浪漫主義に浸る趣味はない。
呂布が董卓を討ち取ったと聞いて、まず彼が思ったのは、
二匹の怪物がぶつかり合う極限の死闘を見られなかったことへの後悔。
最終的に董卓を討ち滅ぼした呂布の強さへの興味。
貴重な“研究素材”である董卓が死んだことの失望。
最後に、この場に居合わせなかったことで命を永らえたことへの安堵だった。
翌朝、宮殿から呂布の姿は消えていた。
せめて、董卓の死体だけでも持ち帰ってその戦闘力の秘密を分析しようと考えたのだが……
瓦礫の中を漁ってどうにか発見できたのは、この炭化した小石大の肉片だけだった。
細胞の一つ一つが完全に死滅している以上、どう足掻いても分析の仕様がない。
陳宮は、何としても董卓の強さの秘密を解き明かしたかった。
全てにおいて規格外の存在である彼を調べれば、人類の更なる進化を促す鍵を手に入れられると思ったからだ。
しかし、董卓の存命中は、彼の身体を調べるなど出来ようはずもない。
せめて、董卓と血縁のある者の体を調べて、その強さの根源を探ろうと考えたのだが……
調査の過程で驚くべき事実が判明した。
“董卓の一族”と呼ばれている者達は、全員董卓と血の繋がりは無く、ただ一族扱いされているだけの奴隷に過ぎなかったのだ。
彼を産み落とした、本当の父と母は何処にいるのか……そのことを知る人間は一人もいない。
両親も子孫も存在しない、完全なる孤独の暴君。
たった一人で、漢王朝を地獄に叩き落した戦慄の悪鬼。
彼は何処から来て、何処へ往ったのか。
董仲穎は、己の正体にまつわる一切を残さずに歴史から消え去った。
何の前触れも無く現れ、同じく忽然と消え失せる。
その生き様は、まさしく天災のごときものであった。
「あ〜あ、打つ手無しか。董卓様については、もう諦めるしかないのかな……」
天井を見上げて慨嘆する陳宮。
しかし、董卓に関する研究を打ち切らざるを得ないのには、また別の理由があった。
王允らによる董卓軍への粛清は苛烈を極めた。
一族や配下のみならず、董卓によって奇跡的に庇護された文学者や研究者にも処断の手は及んだ。
都から、董卓の記憶を残すものを全て葬り去らんばかりに。
董卓の恐怖を、地上から完全に消去するために。
いずれ、陳宮にも官憲の手は伸びてくるだろう。
これまで董卓の許しを得て、散々非道な人体実験をやって来たのだ。
勿論彼は、それを非道とも禁忌とも思ってはいないが。
あまりのんびりしても居られない。
最低限必要な研究資料と、ようやく完成した“アレ”の試作品を、手早く取りまとめる。
その時……
「陳公台! 董卓に加担した罪で、貴様を捕縛する!!」
居丈高に叫んで、数名の官軍兵が研究所に雪崩れ込んでくる。
全員武装しており、槍を一斉に陳宮へと突きつける。
「ちょっと、困るなぁ…… そんな汚い身なりで僕の研究所に入ってこられちゃ。
礼儀がなってないよ、君たち」
陳宮に恐れた様子は無く、兵士達の無礼を咎める余裕まで見せる。
「黙れ! 董卓の下僕となって人体を切り刻み、怪しげな儀式に興じていた妖術師め!」
「王允様の命により、貴様を連行する!」
(よりによって妖術師……か)
兵士達の程度の低さに、陳宮はため息をつく。
自分は、そんな非科学的な迷信とは最も縁遠い人間だと自負しているのに。
この時代においては、ある程度科学技術は進んでいるものの、人々の間ではまだまだ邪術や妖術扱いされる対象だった。
陳宮の得意とする生体医学などその最たるもの。
人体を切り刻み、異形の合成獣を生み出す彼の技術は、まず妖術の類としか思えないだろう。
故に……彼の研究は、漢王朝において真っ当な研究として認められることなど無かった。
在野の諸侯達の間でも同じことである。
彼の才能を正しく認めて重用したのは、董仲穎ただ一人。
そのことに、陳公台は常々強い侮蔑と憎悪を抱いていた。
自分より遙かに劣る頭脳の持ち主に見下される屈辱。
己こそ至上の天才だと信じて疑わぬ彼にとって、その屈辱は心に暗い野心を抱かせるのに十分だった。
己の研究を広く世に知らしめ、自分を見下した人間達を見返してやる。
どんな手を使ってでも。
中華全ての人間が驚愕し、ひれ伏すような奇跡を、この世に具現させてやる。
その独善的な復讐心は、ますます彼を研究にのめり込ませ、容易く禁忌の壁を越えさせた。
「しかし、僕の研究の素晴らしさを理解できないなんて、王允もとんだ俗物だよねぇ。
その程度の低脳が仕切ってるようじゃ、どの道漢王朝も長くはないか」
「この期に及んで何をほざくか!
抵抗するならば、この場で殺しても構わぬと命ぜられている!」
槍を一斉に構え、殺気を解き放つ兵士達。
並みの武将以下の能力しか持たぬ陳宮にとって、この状況は絶体絶命であるはずだが……
「もういいよ。君たち程度の肉体じゃ、実験体としても大した価値は無さそうだ。
とっとと廃棄処分にしちゃおう」
今まさに自分の命を奪わんとする兵士達を、まるでモノのように見る陳宮。
「くっ……この妖術師め…… もういい!殺せ!!」
その態度に不快を覚えたのか、兵士達は槍を構えて走り出す……
「魏続、宋憲、出ろ」
陳宮は、無感動な口調で名を呼ぶ。
その直後、憲兵と陳宮の間に、二つの黒い影が立ちはだかった。
「!!」
忽然と現れた二人に、官憲は思わず足を止める。
二人が放つ不気味な存在感に、威圧されてしまったのだ。
二人とも筋骨隆々の大男で、肌色より黄色に近い不気味な体色をしている。
頭髪を含む一切の毛が抜け落ちた裸の上半身の上に、鈍色の鎧兜を纏っている。
魏続は白い眼に青い瞳、宋憲は黒い眼に赤い瞳を宿していた。
そして、二人の眼は、いずれも生気を失ったように虚ろだった。
「な、何だ!貴様らは! 邪魔だてするなら……」
次の瞬間……
一歩前へと踏み出した隊長の首が、右に九十度折れ曲がった。
魏続が眼にも止まらぬ速さで腕を動かし、男の首をへし折ったのだ。
後続の兵士達は、皆一斉にうろたえる。
その反応を、陳宮は実に楽しそうに眺めている。
「あはははは! この二人はね、僕の手で“改造”した武将だよ。
より強い武将や、幻獣の細胞を移植して、彼らの身体能力をおよそ四倍に強化したんだ。
赤兎馬の人間版と言っていいかな。
一応、“獣人将”という名前をつけてみたよ」
よく見ると、魏続、宋憲の皮膚は爬虫類のような鱗に覆われており、指の先には鋭い爪が備わっている。
また、閉じられた口の奥には、猛獣のような牙がびっしりと並んでいた。
「けどねぇ…… 何十人もの武将で試してみたけど、拒否反応が続出して中々上手くいかなかったんだよね。
全く脆弱な実験体揃いで困っちゃうよ。
で、何人も何人も死んじゃった末にようやく完成したのがこの二人。
本当なら、この後もっと大勢の武将を相手に改造実験をするつもりだったんだけど、董卓様が死んだ今となっちゃ無理だよね。
欲を言えば、董卓様か呂布殿の細胞を使いたかったんだけど、あの二人でしょ……ちょっと難易度が高すぎるよね。
だから、仕方なく幻獣とかの細胞で妥協したんだ。
でも、僕的には中々いい感じに仕上がったと思うよ。
赤兎馬に施した改造が、人間にも応用できるって証明できたし」
己の考えを包み隠さず、嬉々として喋り続ける陳宮。
彼の異常な世界に、兵士達は完全に圧倒されていた。
「ああ、勿論脳味噌をいじくって、僕の命令には絶対服従するよう刷り込んであるよ。
例えば…………」
その言葉に、兵士達は一斉に身構える。
陳宮はぞっとするほど酷薄な笑みを浮かべ、静かに命令を発した。
「こいつら全員、“処分”しろ」
それから一分も発たぬ内に、研究所内は血の海と化した。
無残に引き裂かれた兵士達の肉片が、あちこちに転がっている。
その中央には、血に濡れた魏続と宋憲が仁王立ちしている。
「………………」
彼らを赤く染める血は、全て敵の返り血だ。
自らの血は一滴たりとも流してはいない。
周囲には、へし折れた槍も転がっている。
魏続と宋憲の硬質化した皮膚の前には、鉄の槍でさえ小枝のようなものだ。
「あ〜あ、こんなに汚しちゃって。
ま、どうせここにはもう戻るつもりは無かったからいいか」
血みどろの惨状を目の当たりにしても、陳宮は部屋が汚れた程度にしか感じていなかった。
そうこうしている内に、何かが焦げる臭いが鼻孔へと届く。
「ん?」
魏続、宋憲を伴って外に出てみると、併設する研究施設が赤々と燃えている。
この区画の研究施設は、陳宮のものも含めて全て焼き払うつもりのようだ。
ますます、ここに戻ることは出来なくなった。
「全く、董卓様への憂さ晴らしに巻き込まれるなんて、いい迷惑だよ。
これだから俗物どもは嫌いなんだ。
叡智の価値を理解せず、一時の激情だけで全てを台無しにする……」
復讐に逸る彼らを心底軽蔑したように、鼻を鳴らす陳宮。
しかし、いつまでも低脳達の喧嘩に構ってはいられない。
王允がどうしようもない石頭なのはよく分かった。
生き残った董卓の部下たちも、李確、郭巳を初めとして脳味噌まで筋肉で出来ている愚物ばかりだ。
どちらに組したところで、彼の研究が評価されるとは思えない。
自分の才能を天下に示すには、それに相応しい舞台が必要。
漢王朝などは、もはや滅びを待つだけの、忘れられた形骸。
中華の表舞台は、群雄が鎬を削る中原の大地にこそある。
長安を捨て、戦乱に沸く原野で、思う存分才覚を振るうとしよう。
人類は今、新たな段階へと導く天才を欲している。
その導き手に相応しいのは、この陳公台以外に有り得ない。
(さぁて……まずはどうしようか……
董卓様に哀悼の意を込めて、“こいつ”をちょっと試してみようかな……)
研究資料と共に持ち出した、黒い卵型の入れ物を不敵な笑みを浮かべて見つめる。
勿論、彼に死者を悼む気持ちなど欠片もない。
彼が望むことは、ただ己の研究成果をこの眼で確かめる……
そんな純粋、かつ歪んだ探究心のみなのだから……
「………………」
呂奉先は、赤兎馬に跨り、小高い丘の上から長安の夜空を見上げていた。
彼の額は、董卓との戦いで割れ、十字型の傷が残っている。
董卓の死後も、都から喧騒が静まることはない。
今日もまた、粛清によって血の嵐が吹き荒れる。
呂布にとっては、雑魚同士の小競り合いなど、全く興味を惹かれぬことであったが。
右手で、方天画戟を握り締める呂布。
あの死闘から一夜が明け、ほぼ丸一日経過しても……呂布には、董卓を斃したと言う実感が沸かなかった。
自らの意思で董卓に挑んだ呂布は、熱情に動かされるまま、脳内を狂気で塗り潰していった。
正気に戻った今、その時の記憶はすっかり抜け落ちている。
呂布にとって、戦とは全て食事と同じだ。
世界に美食があるならば、如何なる手段を用いてもそれを得ようとするが、一度食べてしまえばその料理への執着は失われ、次なる美食へと興味を移す。
食事をしている間は、その美味に酔い痴れるが、食べ終わってしまえば僅かな余韻を残すだけで、舌に残った記憶はすぐにおぼろげなものとなる。
董卓との死闘は、これまで味わったことの無い至福の満足感を呂布に与えてくれた。
しかしその充足感も、結局は一時のものでしかない。
殺し合いという至上の美食は、一度喰い散らかしてしまえばもう二度と同じものは食べられない。
その摂理を知りながらも、呂布は新たな得物を求めて戦場を駆け抜ける。
彼には、それ以外の生き方などありえないのだから。
ただ、危惧することといえば、董卓を斃してしまったことで、この先どんな相手と戦ってもあれ以上の満足感を得られないのではないか、ということだ。
限りなく窮極に近い美味を味わってしまった今、これからの戦が全て味気ないものになってしまうかもしれない。
あるいは、董卓はその事も予見して、自分を最後に殺せと言ったのかもしれない……
「ふん……まぁいい」
いずれにせよ、呂布は迷うような人間ではなかった。
董卓に勝る美食が得られないならば、見つかるまで地の果てまでも駆け抜けるまでだ。
今、董卓に砕かれた左腕は完治していない。
腕があらぬ方向に曲がり、骨が幾つも皮膚を破って突き出ている。
呂布の驚異的な治癒力で徐々に回復しつつはあるが、大雑把な応急処置を施した程度で、欠損しているも同然だ。
だが、これもちょうどいい枷となるだろう。
関羽ら在野の武将が、董卓や自分と同じ領域まで成長するには、まだ時間がかかるはずだ。
その間戦を愉しむならば、左腕が無いぐらいが程よい刺激を与えてくれるだろう。
緩やかな風が、呂布の肌を通り抜けていく。
その時……
「誰だぁ?」
背後に気配を感じ、振り向きつつも呼びかける。
そこには、数十名からなる将兵達が群れを成していた。
いずれも“武”の雰囲気を身に纏っている。
その一団の中から、二人の将が呂布の前へと歩み出る。
「失礼……私は彼らの隊長で、高順と申します」
「同じく、副隊長の張遼……字は文遠と申す」
慇懃に挨拶する二人の将。
呂布は一目見ただけで、彼ら二人が、一団の中でもずば抜けた武勇の持ち主であると見抜く。
練磨された刀剣のような気質は、真の戦を潜り抜けた者のみが纏えるものだ。
高順は色黒の肌を持つ長身の男で、黄色い髪を坊主頭のように短く刈り込み、分厚い唇をしていた。
張遼は波打つような黄土色の長髪を中央で分け、彫りの深い顔立ちをしている。
いずれも大柄で、黒い甲冑を身に纏っていた。
「はん……で、俺様に何の様だ?」
「単刀直入に申し上げます。我ら五十七名を、呂布将軍の麾下に加えていただきたい」
慇懃に申し出る高順。
「俺様の手下になりてぇってか?」
「はい。董卓を斃した貴方様は、紛れも無く中華最強……
武の道を歩むもので、貴方の強さに敬意を払わぬ者などおりませぬ」
高順は冷静な口調で語り続ける。
強面な印象とは裏腹に、中々知的な人物のようだ。
「今、天下は乱れております。
ですが、それは逆に、我ら武人が勇躍できる時代の訪れでもあります。
我らは、呂布将軍と共に、天下の覇を目指して戦いとうございます!」
高順、張遼の顔を見回し、呂布は更に質問を発する。
「てめぇら自身はどう考えているんだ?」
「先ほども申しましたとおり、呂布将軍の武勇は天下無双。
ならば、最も強い男が天下を統べる……それが当然の理だからです
弱者が治める天下がすぐに腐敗することは、今の漢王朝を見れば明白……
強者が強者として生きられる世界……
呂布将軍の掲げる、純粋な弱肉強食の思想こそ、今の中華に必要なのです!」
呂布にとって見れば、それは思想ではなく本能に近いものなのだが、あえて訂正する必要も無い。
高順が熱く弁を振るった後、傍らの張遼が口を開く。
「私は……天下の覇などに興味はありません」
いきなり高順と相反するようなことを言い、落ち着いた口調でこう続ける。
「武に生きる者として、呂布将軍と共に戦い、己の武をさらに磨き上げんが為です。
私もまた、最強への道を目指す者……いずれは、貴方に牙を剥くやもしれません」
表情は湖畔の水面のように静かながらも、その眼には強い闘志が宿っている。
慇懃無礼とも言える態度だったが、呂布は高順よりも好感を覚えた。
「ヒャハハハハハハ! いいねぇ!!
ここでそんなこと言い出すたぁ、お前は実はただの莫迦だろ?」
哄笑した後、呂布は唇を嘗めると、挑むような目つきで張遼を見る。
「何なら今から俺と闘るか?」
そんな呂布の申し出に対し、張遼はやはり表情を変えぬままこう返す。
「……今はご遠慮させていただきます。
例え我らの力を結集してかかろうとも、将軍には到底及びませんでしょうから……」
呂布は残念そうに鼻を鳴らす。
しかし、彼が単に臆病なだけで自分との戦いを避けたわけではないことは、呂布にはすぐ分かった。
自分と呂布との力関係を、冷静に推し量っているのだ。
この男は、これからもっと強くなる……ならば、更なる強さを得た時に殺す方がより美味しく食べられるだろう。
そのための“家畜”として飼うのも悪くない。
「俺様も、天下なんぞに興味はねぇ。ただ強い奴と殺し合いたいだけだ」
そんな呂布の紛うことなき本音にも、高順は敬意の姿勢を崩さない。
「それでよろしいのです。
曹操、袁紹、袁術……群雄たちは皆、天下の平定を謳いながらも、
結局は己が手で天下を好きにしたいだけの野心家に過ぎません。
ですが呂布将軍、貴方は違う。
貴方は天下に囚われることなく、ただ強者との戦のみを欲する。
その純粋無垢なる生き様こそ、全ての武人の憧れであり、中華の頂点に立つに相応しいのです」
「なるほど、ねぇ……」
適当に相槌を打って、呂布は考える。
人々からはただの戦闘狂と思われている呂布だが、自分の興味の赴くことに対しては、実に冷静に思考を巡らすことが出来た。
その興味とは即ち、闘争に関する事柄について。
自分一人で在野に出立するよりも、彼らを取り込んだ上で勢力を形成した方が、より諸侯の目を引くだろう。
また、好んだ相手と一対一でやり合うためにも、自分にも部下が居た方が都合がいい。
そんな計算の後、呂布が出した結論は……
「はっ…………!」
呂布の右腕が唸る。方天画戟を旋回させ、その刃が高順、張遼に襲い掛かる。
彼ら二人は、すぐさま飛び跳ねて難を逃れた。
「ヒャハ……ヒャハハハハハハ!!
いいぜぇ! 合格だ!!」
完全に殺すつもりで放った今の一閃は、彼らを試したに過ぎなかった。
高順と張遼も、全く顔色を変えない。
呂布と共に往くのならば、この程度は日常茶飯事、すぐにも命を奪われることへの覚悟が必要なことは、最初から良く分かっていた。
呂布としても、この程度で死ぬような雑魚を部下に加えるつもりはない。
これで決意は固まった。
満月に向けて方天画戟を掲げる呂布。
「天下! 獲ってやろうじゃねぇか!!」
己の新たなる意志を、高らかに宣言する。
抑えていた熱情を解放するように、志願兵達は雄叫びを上げた。
粛清の続く長安で、元董卓軍の軍師・賈栩は、まだ追及の手を逃れていた。
狡猾な彼は、自分の住居を決して他の者に漏らすことは無かった。
いざとなれば、官軍の兵を相手にしても逃げ切れるだけの護身術は備えてある。
(無様におたつきおって……そんなに董卓様が怖かったのか。
怖かったんだろうなぁ……例え死んだと聞かされても、誰が心の底からそれを信じられる?
お前達の心の中の董卓様は、決して消えることはないのだ)
魔王は死した後も人の心を縛り付ける。
その生き様に、賈栩は改めて深い興味を覚える。
しかし、生き残りの浅ましい小競り合いに付き合うつもりは無い。
こんな戦では、軍師の出る幕など無いだろう。
その才を振るうに相応しい舞台は、在野にこそある。
彼もまた、長安を脱出することを決めていた。
だが、その前に往かねばならぬ場所がある。
賈栩を初めとして、ほんの一握りの側近しか知らない、董卓軍の秘密の隠れ家……
予想通りなら、彼らもここに逃げ延びているはずだ。
一見、壁にしか見えない場所から、秘密の扉を開く。
中には二人の武将がおり、賈栩の姿を見た途端、怯えて奥へと後じさった。
「どうした? ついに官軍の追っ手が来たと思ったのか?」
底意地の悪い笑みを浮かべて、二人を見る賈栩。
董卓軍の数少ない将軍で、李確と郭巳の二人だった。
「な、何だ、賈栩か……脅かすな」
ほっと安堵のため息を漏らす李確。
郭巳も同様で、その姿にかつての居丈高な様子は微塵も感じられない。
「それにしても情けない限りだな。
董卓軍の“双頭の狼”として恐れられたお前達が、今や鼠のように怯えて引き篭もるしかないとは」
侮蔑をたっぷり込めた視線で、狼を模した甲冑を纏う二人の将軍を見やる。
「な、何だと?」
「董卓様が死んだとはいえ、まだ董卓軍の精強な軍勢は残っている。
官軍にいい様にやられているのも、指揮を執る者がいないせいだ」
指揮官級で生き残っているのは、ここにいる三人だけだ。
華雄、徐栄、牛輔は先の戦で討ち死にし、それ以外は李儒を初め宮殿に居たところを董卓と呂布の争いに巻き込まれて命を落とした。
「いいか? 董卓様が死んで動揺しているのは奴らも同じだ。
お前達が指揮を執り、董卓軍をあるべき姿に蘇らせれば、地力で勝るお前たちは必ず勝てる。
董卓軍の生き残りとして、董卓様の仇を討とうとは思わないのか?」
「ば、莫迦抜かせ!!」
自分より遙かに劣る知能の持ち主に莫迦といわれた……
そのことに屈辱を感じるよりも、そこまで追い詰められた李確への侮蔑の念の方が勝っていた。
「官軍には、あの呂布がついているんだぞ!!」
「そ、そうだ! 董卓様を斃しちまった呂布に、俺たちが束になっても敵うわけがねぇ!!」
(ああ…………)
心中で、賈栩は納得の声を漏らす。
彼らは、呂布が董卓を裏切って官軍に寝返ったと考えているのだ。
考えてみれば、それは当然の思考であり、人々からはそのように受け止められている。
呂布は官軍と通謀した上で、董卓を暗殺したのだと。
彼らが恐れていたのは、官軍ではなく呂布だったのだ。
董卓よりも強い呂布ならば仕方が無い。
脳筋とばかり思っていたが、意外にも頭は回るようだ。
「なるほど、そういうことか……ククククク……」
「な、何だよ!」
不気味に笑い出す賈栩。
そして、二人にあの事実を告げてやる。
「呂布なら、もう長安から逃げたぞ」
「な……」
「に……?」
今聞いた事が信じられないといった様子で、きょとんとした顔になる李確と郭巳。
そんな彼らを面白そうに見ながら、賈栩は続ける。
「本当だ。呂布が官軍についたというのも奴らが流したデマだろう。
呂布の裏切りと官軍の決起には何の関係も無い。
お前達は、見事にそれに踊らされたというわけだ」
李確と郭巳の顔色が変わる。
もう一押しだな……賈栩は心中で冷徹に計算する。
「さて、お前達の怖がっていた呂布はもういないぞ。
ここで官軍を打ち破れば、董卓様の地位はそっくりそのままお前達に転がり込む。
朝廷の権力も、何もかもがお前達の思うがままだ」
董卓の地位……という言葉に、二人の眼の色が変わる。
並ぶものなき董卓の地位……
限りなく俗物である彼らにとって、それはあまりにも魅力的なものであった。
「長安を離れた呂布には、董卓軍の残党も合流し始めている……
ぐずぐずしていると、使える兵士を全て持っていかれてしまうぞ。
残された時間は少ない。さっさと決断を下すがよい。
このまま見つけられて殺されるのを待つか、尻尾を巻いて逃げるか……
それとも、枯れることの無い栄華を掴むか? 好きな選択を選べ」
答えは……聞くまでも無い。
李確と郭巳の瞳には、かつての濁った欲望の輝きが宿っている。
残忍で強欲な本来の気性を、完全に取り戻したのだ。
これから先は、あえて自分が手を下すまでも無い。
(クククク……これでいい。
魔王が死んでめでたしめでたし……じゃあ困るんだよ。
この漢王朝には、もっともっと乱れてもらわないとなぁ……)
国が乱れれば、群雄それぞれが己の正統を謳い、中原の争いは一層激しいものとなる。
その中でならば、見つかるかもしれない。
賈栩の嗜好を存分に満足させる、“悪意”の持ち主が。
賈栩に唆された李確と郭巳は、董卓軍の残党を結集し、官軍への猛反撃を開始する。
董卓に組した者は全て誅戮するという王允の方針が、ここで仇となった。
官軍に下ったところで、どの道命は無いと知った彼らは、死に物狂いで戦った。
董卓に怯え、今まで何もしてこなかった官軍と、猛獣の牙を研ぎ続けてきた董卓軍では、兵の錬度において歴然たる差があった。
結果として、官軍は多いに打ち破られ、王允も李確らにより処刑される。
献帝を確保した李確と郭巳は、朝廷に自分達を中心とした政権を樹立。
その内容は、董卓の再来を思わせる暴政だった。
彼らは毎晩酒池肉林の宴に耽り、城下に兵を放ち略奪を働いた。
長安は飢民で溢れかえり、董卓の支配下と何ら変わらない状況が続いた。
董卓に成り代わったという思いが、李確と郭巳の欲望を更に煽り立て、董卓をなぞるかのような暴虐の限りを尽くす。
董卓が死した後も、彼が遺した“悪”の因子は、漢の民を蝕み続けたのだった。