序章 歴史の裏側
蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉
仄暗い洞窟の奥……
しわがれた声で、老人はぶつぶつと言葉を紡ぐ。
蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉
全身皺まみれで、酷く衰弱した老人の姿が見える。
蒲団に横たわった彼の周りを、数人の男女が取り囲んでいる。
彼らは皆、頭に黄色い頭巾を被っていた。
「張角様……」
「やはり、もう持たないのか……」
「今このお方を失えば、我々黄巾は……太平道はどうなってしまうんだ……」
皆悲痛な面持ちで、眼下の老人を見下ろしている。
彼らにとって、この老人は信仰の拠り所だった。
腐敗した王朝によって、日々の食糧にも困るほど飢えていた頃……
彼らに教義と信仰……そして、不当な体制に対して抗う意志を与えてくれたのは、この人だった。
ある男は、飢えて死に掛けた所で食糧を恵んでもらった。
ある女は、不思議な術で病を治してもらった。
貧しい者には分け隔てなく手を差し伸べる彼は、救世主として崇められ、多くの民草が彼の下へと集まった。
いつしか膨大な数に膨れ上がった彼らは、武力による体制の打倒を志す。
教祖の主導の下、自分たちを虐げ続けた王朝を滅ぼし、正しき教えを中華に広める為、黄色い巾を頭に巻き、乱を起こした。
戦いは劣勢が続いた……それでも尚、信徒達は教祖を信じていた。
信じ続ける限り、どれだけの血が流れようとも、心は折れない。
大賢良師・張角という男は、彼らにとって希望の星であり、全てを捧げた存在と言っても過言ではなかった。
だが、教祖の命の灯は……もう間も無く吹き消えようとしていた。
医者を含む信徒たちは、夜を徹して教祖を見守り続ける覚悟を決めていた。
しかし……
「ん……」
「な……んだ…………」
猛烈な睡魔が彼らを襲う。いや、眠気などという生易しいものでは無い。
意識を直接削り取られ、白紙になっていくような感覚……
白い霞が洞窟の中を漂う。
程無くして、信徒達は残らずその場に倒れ臥し、死んだように眠ってしまった。
「………………」
沈鬱な空気が場を支配する中で……老人は覚醒する。
緩慢な動きで、上体を起こす。
もう何時間も閉じられていた目蓋を開いたその時……
玲瓏な声が、洞穴内に響き渡った。
「こんばんは。張角さま」
彼の目の前には一人の美しい女が立っていた。
何の前触れも無く、足音一つ立てず、僅かな気配も発さず……彼女は忽然と現れた。
墨を流したような黒髪を背中まで伸ばし、整った白い顔からは紫に潤む瞳が覗いている。
紫の装束に身を包み、手には羽で織った扇を携えている。
微笑みを浮かべたその表情からは世俗を超越したかのような清らかさが感じられた。
その風情はあたかも現世に舞い降りた天女と見間違わんばかりで、彼女の周囲には、白い霞が漂っていた。
周囲にいた者達は全員化石のように眠っている。
老人と彼女以外の時間が止まったかのようだ。
女は一歩一歩、老人へと歩を進める。
老人の目の前まで到達すると…………
力の限り、老人の身体を蹴っ飛ばした。
老人の体が枯葉のように吹き飛ぶ。
宙を舞う彼の体は、壁にぶつかって護謨毬のように跳ねた。
そのまま、頭から地面に激突する。
「なぁ〜〜〜んて……一体何やってんのよ、あんたは!」
天女ごとき柔らかな気品も一瞬で消し飛ばすような、俗っぽい口調で話し出す女。
彼女の瞳は、無残に倒れ伏した老人の姿を……
いや、“老人に見える何か”を見据えていた。
弱った老体ならば、そのまま死んでいてもおかしくない衝撃。
だが、未だに老人には息があった。
小刻みに震えた後……老人の体がゆっくりと起き上がる。
「ふ、ふふふふふ…………」
口許から不敵な笑みを漏らす老人。
そこから発する声は、深いがどこか若々しいものだった。
「やはり、お前の目は誤魔化せんか……」
「当たり前でしょ。素人ならともかく、そんなちゃちな幻術に私が引っかかるものですか」
そう言って、手にした扇を一振りする女。
その瞬間、洞窟内に突風が巻き起こる。
渦巻く風は、女を避けて奥にいる老人へと殺到する。
激しい空気の流れにより、空間に溝が生じ……真空の刃が生まれる。
鎌鼬と呼ばれる自然現象……最も、これは人為現象と呼ぶのが相応しいが。
風の刃は、老人のしわがれた皮膚をズタズタに切り刻む。
バラバラになった老人の皮が、地面に崩れ落ちる。
だが、あくまで皮だけだった。
老人の皮を被って潜んでいた本体が、その姿を露にする。
長身の体を包む闇色の装束。
真ん中で分け、肩を覆うように伸ばした漆黒の長髪。
知性と狡猾さを湛えた、剃刀のような三白眼。
口許に浮かんだ不敵な笑みは、天に挑まんとする野心を感じさせる。
死にかけた老人とは似ても似つかぬ長身の青年が現れた。
男は、対面の女を見つめ……嘲るように、呆れたように、言葉を掛ける。
「お前もいい加減しつこいな、孔明」
「ようやく探し当てたわよ、仲達」
久しぶりに再会した旧知の二人は、互いの字を呼び合った。
「で、さっきの質問に戻るけど…… そんな爺さんに化けて何するつもりだったのよ?
まぁ、私もあんたも十分お爺さんだけどさ……
近頃の黄巾党の騒ぎの黒幕は、あんただったわけ?」
「それは違う…… 黄巾の乱の首謀者は、間違いなく張角だ。
ただ、不測の事態が生じた為、私が彼の代行を務めたのだ」
「代行……?」
仲達と呼ばれた男は、信徒たちが聞けば卒倒しそうな事を口走る。
「本物の張角は、1年も前に死んでいる。
民衆の支持に後押しされ、乱を引き起こすことを決意した矢先だった……
ゆえに、私が彼の役割を引き継ぎ、黄巾の乱を…………」
孔明は扇を振って、仲達の言葉を遮った。
「違う違う。私が聞きたいのはそんな事じゃない。
大体、あんたが何の見返りも無しに他人に手を貸すわけが無いわ」
「そうだな。お前相手に飾った口上を述べたところで意味は無いか……」
次の瞬間、彼の周囲を黒い影が通り抜けた。
洞窟の奥の壁が崩れ、藍色の空が顔を覗かせる。
山の頂上付近にあるこの洞窟の先は、空へと繋がっていたのだ。
流れ込む月光を浴びながら…… 仲達は夜空へ身を躍らせた。
「! 待ちなさい!」
孔明もまた、急いで仲達を追う。
外は断崖絶壁の崖となっていたが、気にすること無く空へと跳び立つ。
万有引力の裁きを受け、地上に墜落する……事も無く、
孔明は自在に宙を滑空し、同じく空を飛んで逃げる仲達を追いかけた。
追う孔明に逃げる仲達。
彼らは当然のごとく重力の枷を断ち切り、自在に夜空を舞っていった。
羽根の扇を一振りする孔明。
夜気をはらんだ風が唸りを上げ、仲達に殺到する。
風圧というだけでは説明できない規模で、風そのものが意志を有しているようだった。
迎え撃つ仲達の体から、幾条もの黒い影が伸びる。
それは、黒装束に収納されていた長い帯だった。
先ほど洞窟の壁を破壊したのは、この黒い帯だ。
それらは蛇のように宙をうねり、盾となって仲達を保護する。
黒い帯は防御に使うだけでは無い。
延長した帯は、先ほどの突風と同等の威力を持って、孔明に襲い掛かる。
彼女は扇で風を巻き起こし、帯に叩きつけられるのを防ぐ。
便宜的に“女”や“彼女”という言葉を遣ったが、孔明は女ではない。
かといって男でもない。
男でもあり、女でもある。
さりとて両性具有という言葉も、彼/彼女を表すのに相応しくないだろう。
一つだけ言える事は、孔明、そして仲達もまた、人間の理から外れた存在だと言う事だ。
特殊な能力や、魔法のような術が使えるからだけでは無い。
もっと根本の部分で、人間とは異なる存在なのだ。
宙を舞いながら、攻防を繰り返す二人の黒髪の麗人。
誰一人として観客のいない、鮮烈にして壮麗なる舞踏会。
いつしか二人は、張角のいた山を遠く離れ、未開の砂漠地帯に到達していた。
砂漠が広がる不毛の地……
両者の眼下に、違った個性を放つ巨大な物体が見える。
女の顔に七つの突起を持つ王冠を被り、松明を持った右手を高く掲げている。
砂漠に体の半分を埋めた、巨大な女神像だった。
孔明は王冠の端に、仲達は松明の頂点へと、それぞれ着地する。
「孔明、お前も知っていよう。この私が何を欲し、何を目指しているのか」
「ああ、あまりに下らない戯言だったんで忘れかけていたわ。
確か“神になりたい”とかそういう子供の妄想みたいな話だったかしら?」
思いっきり馬鹿して言ったのだが、仲達はまるで恥じる事無く答える。
「そうだ。私はこの世界の神になる。
この司馬仲達こそ、神になる資格を持つ唯一の存在なのだ」
「そーゆー台詞を臆面も無く言えるのは一つの才能だわ」
呆れ果てる孔明だったが、仲達の全身には堂々たる覇気が漲っており、妄想でも冗談でもなく、限りなく真剣なのが分かる。
「で、その神様になりたい事と、死にかけの爺に化けてた事がどう繋がるってのよ」
「それが、正しい歴史を導くことに繋がるからだ」
「正しい歴史?」
仲達は微笑を浮かべて、こう続ける。
「この世界は歪んでいる……とうに滅び、消えてなくなるはずだった世界の残滓……
渾沌の果てに生まれた世界は、文明も、社会も、人間も、全てが歪んでいた」
指し示すように、足下の巨像を爪先で叩く。
「この像も、本来はありうべからずもの。
かつて存在した別の次元から流れ着いたものだ。
そして、その歪みは全ての運命を司る因果律すらも狂わせ、誤った歴史を刻み続けているのだ」
「ええ、知っているわ……」
そう、“あの人”が教えてくれたことだ。
自分と仲達の師であり親でもあったあの人が……
「だが……私はその歴史を修正する」
「修正……」
「あの張角だが、本来はこの年まで生き延び、黄巾の乱を起こす。
それが正しい歴史なのだ。
だが、この世界ではそうはならず、張角は一年も前に病死した……
私は張角の死を隠蔽し、彼の代行となる事で、歴史の誤りを修正したのだ」
それはまやかし……という非難は無意味な事を、孔明は知っている。
歴史とは真実ではない。
その時代に生きた人々が、後世に残し、受け継いでいく記憶なのだ。
真実に誤りがあったとしても、世界の大半を占める人間が正しいと認識すれば、それが歴史となる。
孔明や仲達ら、人間を逸脱した存在の行いは、決して歴史の表舞台に登る事は無い。
「はっ、誤った歴史を糾す、正義の使者でも気取るつもりなの?」
「まさか。そんな主観的な概念を私が信じていると思われているとは心外だ。
これは儀式なのだよ。この司馬仲達が神の座に登り詰めるための、な」
孔明の中で、言い知れぬ不安が沸き起こる。
仲達は、自信の塊のような男ではあるが、決して過信はしない。
彼が自信たっぷりに物を言う時とは、絶対の確信がある場合に限られるのだ。
「ふ……ふふふふふ……ふははははははははははははは!!」
孔明の不安を裏付けるかのように、笑い出す仲達。
「ここからが傑作だ。私は正しい歴史に触れ、最後まで読み進めた。
そして……私は知ったのだ。
正しい歴史は、この司馬仲達を乱世の覇者に選び、神たる存在へと昇華させることを……!」
「………………」
孔明は沈黙する。
彼が決して虚勢で物を言う男では無い事を知っているからだ。
一つだけ分かる事は……
この男が神となって作り出す世界は、間違いなく“最悪”だという事だ。
「ゆえに、私はこの誤った歴史を修正する!
正しき歴史を刻み、私が神となるための道を築き上げるのだ!
孔明!お前に私は決して止められない!
何故ならば、お前が正しい歴史を知る事は無いのだからな!」
「その……正しい歴史ってのは……」
「そうだ。あの男が後生大事に隠していたもの……
それこそが、正しい歴史の記された書だったのだ。
私はあの男からそれを奪い、解明する事に成功したのだよ」
この時初めて……孔明の顔に、憎悪らしき色が浮かんだ。
「だから先生を殺したの!?あんたの下らない野望とやらのために!」
孔明の詰問に、仲達は実に悠然と答えた。
「左慈か……あの男は、私の計画の唯一の障害だった。
だが、奴はもういない。私が消した。
誰一人として、この司馬仲達の道を阻む者はいなくなったという事だ!!」
「さぁて、それはどうかしらね……」
「孔明、まだ私に抗うつもりか?
師の仇討ちを気取って、人間らしさにでも浸るつもりか?
愚かだな……あのような不完全な生命体に憧れるなど……」
「あんたもそうじゃないの。まだ、神に“なろうとしている男”なんだから」
軽い皮肉を飛ばして、こう続ける。
「それにね。私があんたを懲らしめるのは、別に先生の仇ってわけじゃないわ」
「ほう……」
「単に……あんたが嫌いだからよ!」
扇を振り、突風を巻き起こす孔明。
仲達は自律する帯を数枚重ねて、孔明の風を防ぎ切る。
帯だけではなく、彼の正面に空間の歪みが生じ、見えない障壁となる。
孔明は天候を操る術を体得しているが、仲達は重力を操る術を得意とする。
黒い帯も、重さを数倍にしたものを重力操作で自在に操っているのだ。
女神像から飛び立ち、再び熾烈な空中戦を繰り広げる二人。
孔明は風に乗って飛行し、仲達は己の重力を零にする事で飛翔している。
唸る風は竜巻となって、うねる帯は大蛇となってぶつかり合う。
あたかも幾頭もの蛇が互いに喰らい合っているようであった。
攻防の中で、仲達は叫ぶ。
「諸葛孔明! お前は所詮、無力な傍観者に過ぎん!
精々無駄なあがきを続けるがいい!
歴史の真実を知り、己の運命に絶望するまでな!!」
帯の先端に膨大な重力を纏わせ、孔明を押し潰そうとする。
頭上から舞い降りる、帯の形をした巨大な鉄槌。
孔明も旋風による盾を構築し、その重圧を受け止める。
「我こそは司馬仲達! 歴史の修正者! 乱世の統括者!
そして、神になる男だ!!」
力の波動が生じ、砂塵を巻き上げる。
砂嵐の音すら掻き消すような、仲達の哄笑が響き渡る。
「ふははははははははははははははは!!
あはははははははははははははははははははははは!!!」
ヒトにあらざる者同士の闘争は、いつ果てるとも知れず続く……
そして……
夜が明け、朝日が昇る頃……
「ん……眠っていたのか……」
「ちょ、張角様!?」
信徒たちは慄然となった。
蒲団で眠っていたはずの張角が、忽然と姿を消していたのだ。
異変はそれだけでなく、洞窟の奥の壁が壊され、澄み切った蒼天が覗いていたのだ。
同様と驚愕が信徒の間に広がる。
教祖は自分では動ける体ではなかった。
だとすれば、この状況をどう説明すればいいのか?
彼らは、教祖に対し絶対的な信心を寄せていた。
程無くして、彼らは一つの結論を導き出す。
「張角様は、天に召されたのだ……」
「そうだ、あの御方の行いを天がお認めになったのだ!
「我らは正しい! 我らの道は、蒼天によって照らされている!」
こうして……
彼らは張角の消失を、崇高なる昇天と見なした。
例え真実を聴かされたとて、彼らは決して信じようとはしないだろう。
この瞬間……張角の死は、歴史の一部として決定付けられたのだ。
正義が極めて主観的なものであるように、歴史も決して客観的に記される事は無い。
歴史とは、その時代に生きる人々が信じた事を記しているに過ぎない。
歴史の裏側を、彼らは決して知る事は無い……
そして物語は、歴史の表側へ……