第六章 暴虐の果て(二)
怪物二匹の戦意に呼応してか……曇天は雷電を帯び、雷鳴が轟き始める。
風雨は激しさを増し、長安は怒涛の嵐に包まれた。
最強と最悪の戦いに、天すらも恐怖しているかのようだ。
「ヒャァハハハハハハハハハハ――――――ッ!!!」
方天画戟による刺突を繰り出す呂布。
戦場では突きの数だけ敵を屠る連撃だが、董卓は両手を硬化させ、巧みにいなしていく……
洛陽で、初めて董卓と呂布が邂逅した時の立会いを再現するかのようだ。
しかし、完全なる再演ではなかった。
「!!」
董卓の両腕が裂け、血が吹き出る。
鋼鉄にも勝る筋肉の籠手が切り裂かれたことに、董卓は目を見開く。
呂布の戟は、その鋭さも威力も、以前立ち会った時よりも遙かに増している。
関羽との戦いで呂布が知った“成長”……
それは、呂布自身にも更なる進化を促すこととなった。
これまでは、ただひたすらに敵を屠ってきただけで、自身の成長を実感することは無かった。
しかし、成長という概念を知ったことで、呂布は己の強さを生まれて初めて見つめなおした。
自分の強さはここが限界なのか? 否……断じて否。
自分はまだ先に往ける。強さの極限へ、快楽の絶頂へ。
結果……進化を実感することで、呂布は成長速度を速め、さらなる武の領域へと駆け上がることとなった。
「ヒャハハハハハハハハハ!
てめぇはこんなものなのかよ! 違うだろぉ!?」
戟を振るって挑発する呂布。
董卓の冷徹な思考は、既に己に余裕など無いことを認識する。
目の前の相手は、間違いなく生涯最強の敵。
喰わねば喰い殺される……ならば、全力を持って叩き潰すのみ。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
董卓の全身から、真紅の闘気が噴き出る。
筋肉が隆起し、上半身の服を破り散らして膨張する。
浮き出た無数の血管が、沸騰する溶岩のように脈動する。
“道”による能力解放と筋力増強……
魔人の領域に至った董卓は、物理的圧力の伴った闘気をぶつけてくる。
ただ対峙しているだけで、内臓を圧迫され、肌を削がれていく様な威圧感。
外で吹き荒れる数百倍は激しい嵐の中に立たされても……
呂布は、更なる歓喜と狂悦に呑み込まれていく。
「董卓よぉ……やっぱてめぇは最高だぜ」
鋭い歯をむき出しにして、顔面を凶暴な笑みで歪める。
董卓が“道”を解放するのと同様に、呂布もまた己の闘争心をさらに燃え上がらせる。
「消えよ……」
掌から、凝縮した闘気の塊を発射する董卓。
砲弾に等しいその攻撃を、素早い動きで回避した呂布は、方天画戟を構えて突進する。
片方の手から、再度発射される気弾。
今度は呂布は回避しようとせず、そのまま速度を緩めず突貫する。
気弾が戟の尖端に触れた瞬間、衝撃の奔流が呂布を襲う。
しかし、呂布は止まらない。
常人ならば瞬時に細切れになるであろう衝撃も、彼にとっては体に痺れが走った程度でしかない。
呂布にとっては、その程度の刺激は心地よいぐらいだ。
物理的な圧力を持つ気弾ならば、それ以上の圧力を加えれば突破できる。
理屈ではそうなるとはいえ、実際にそれを実現してしまうような武将は、ほんの僅かしかいない。
まして、呂布のように笑ったままで突撃する男などは……
「ヒャハハハハハハハハハ!!!」
方天画戟を突き入れる呂布。
しかし、董卓もそれは読んでいた。
気弾などは所詮牽制に過ぎない。
呂奉先を屠るにふさわしい真の処刑器具は……この拳。
炎のように燃える闘気を拳に纏い、呂布目掛けて撃ち出す董卓。
方天画戟と気を纏った右拳が激突する。
掌から離れた気弾と、気を纏った拳による直接の打撃とでは、破壊力において雲泥の差がでる。
かつてない衝撃が呂布の全身を襲う。
内臓ごと揺さぶるような震動も、戦の歓喜へと変換する。
その威力は……いずれも互角。
拮抗する力は互いに弾かれてしまう……だが……
「むぅん!!」
董卓には、もう一方の腕が残っていた。
時間差で左の拳も撃ち出す。
だが、左の拳は呂布に直撃する前に、上からの衝撃で叩き落とされた。
呂布が方天画戟を振り下ろしたのである。
既に拳を硬化させていたので、打撃による損傷の身に留まった。
超重武器を扱っているとは思えない機敏な反応。
槍や戟は至近距離に弱いなどという定石はこの呂布には通じない。
近中遠、ありとあらゆる距離に死角がない。
頭で考えて出せる動きではない……肉体の反射として刻み付けられているのだ。
「ヒャハハハハハハ――――ッ!! 踊ろうぜ董卓ぅ――――ッ!!!」
物理現象としては現れないものの、呂布の闘気も董卓に勝るとも劣らぬほどに高まっていた。
董卓もまた、敵を確実に滅さんと闘気の勢いを強める。
この時……
宮殿で眠っていた者達は、室内を揺らす震動に飛び起きた。
大規模な地震でも発生したのか……そう錯覚するほどの震度だった。
しかしこれは天災ではなく……
天災以上の力を持つ二人の怪物によって起こされた、“人災”なのだ。
「むん!!」
董卓の五指が近くの大きな円柱にめり込む。そのまま力任せに柱を壊して引っこ抜く。
そして、それを呂布目掛けて投げつけた。
「ヒャハハハハ――――ッ!!」
方天画戟を振るい、巨大な円柱を輪切りにする呂布。
彼もまた、かつての虎牢関で見せたように、壁に戟を突き刺して、そのまま引き抜く。
お返しとばかりに董卓に投げつける。
董卓の剛拳が壁を砕く。四散した瓦礫を、呂布の方天画戟が撃ち返す。
止まらない戦闘衝動に飲まれた両者の戦いは、玉座の間を徹底的に破壊した後、宮殿中を荒らし回っていた。
この騒動に、宮殿は一気に阿鼻叫喚の様相を呈する。
「と、董卓様! なにご……ぶっ!!」
駆けつけた李儒と董卓軍の一団の肩から上が、瞬時に消し飛んだ。
董卓の懐刀と呼ばれたほどの男にしては、あまりにも呆気ない最期だった。
董卓と呂布……どちらが手を下したのかは定かではない。
もはや二人とも、互いしか見ていない。
互いの血肉を喰らわんと戟を振るい、拳を放つのだ。
人智を超えた攻防を繰り広げる両者は、赤い暴嵐となって、宮殿に破壊の渦を巻き起こすのだった。
方天画戟を旋回させて仕掛ける呂布は、狂える旋風のごとし。
全身から真紅の闘気を放つ董卓もまた、荒ぶる暴風のごとし。
二つの嵐は互いに咬み合い、削り合い、ぶつかり合い、破壊の余波を生み出していった。
因果応報など存在しない。
死は、善にも悪にも平等に、理不尽に降り注ぐ。
ある兵士は戟で真っ二つにされ、ある文官は踏み潰され、ある宮女は崩れた壁の下敷きになる。
老若も男女も貴賤も貧富も関係なく、触れた者は瞬時に屍と化す。
二人が通り過ぎるところ、凄惨な破壊の跡と巻き添えになった骸が転がり、濃厚な死臭を漂わすのだった。
「な、何だ……!?」
宮殿内を襲う震動に、献帝は飛び起きた。
壁を通して、鈍い爆発音が断続的に聞こえてくる。
ただならぬ異変が起こっているのは間違いない……そしてそれは、徐々にこちらに近づいてくる。
恐怖と焦燥が全身を駆け巡る。
寝台から降り、誰か警備の者を呼ぼうとした瞬間……
天井を含む壁が、一気に崩れ落ちた。
悲鳴を上げる暇もない。
献帝の体は、落ちてくる巨大な瓦礫に押し潰され……
その刹那、当身のような衝撃を受け、献帝の意識は途絶えた。
献帝はまだ生きていた。
気を失った彼の頭上では、奇怪な現象が起こっていた。
とっくに落下しているはずの瓦礫が、全て空中で静止しているのだ。
万有引力の法則に反逆する事象である。
だが、この奇跡を演出した人物は、その引力を統べる力を持つ者なのだ。
「やれやれ……」
仮面の怪人物、“狼顧の相”は、当て身で気絶させた天子を抱えて、滞空している瓦礫を見上げる。
「こちらの手を下さず董卓と呂布が争い始めたまではよかったが……
巻き添えで天子まで死なせてしまっては全てぶち壊しだ。
見境を知らぬ凶獣どもめ」
狼顧の相は、仮面の裏で顔をしかめる。
そして、背後に付き従う女に献帝の体を預ける。
「貂蝉、天子を連れて、宮殿から可能な限り退避しろ」
「りょ・ウ・か・い・し・マ・し・タ」
そう答えた女は、右腕が肩口から欠損していた。
それでも、細い片腕で青年である献帝の体を軽々と持ち上げる。
彼女は命令に従い、献帝を抱えてその場を離脱する。
「天子……民衆に奉られた神の偶像か……
だが、いずれその役目も終わりを告げる。
神が……この私が、自ら天を統べるのだからな。
それまでは、精々偶像としての役割を全うしてもらおう」
彼にとっては、この中華に生きる人間の全てが、己の目的の為に配置された駒であり、役者に過ぎなかった。
「さて、問題はこの後か。
あの二匹の獣の勝敗がどうなるかはまだ分からぬ。
場合によっては、私自ら“力”を解放して手を下さねばならないが……」
そんな事を呟きながら、部屋を出た後に“術”を解除する。
重力の枷を解かれた瓦礫は、轟音と共に地面に落下した。
どれだけの破壊を繰り返そうと、どれだけの犠牲を生み出そうと、二体の怪物による死闘は終わらない。
そんな中、呂布の戟は更に鋭さを増し、遂には董卓の鋼鉄の皮膚を切り裂く。
進化を続ける呂布の力が、“道”を発現させた自分に追いついた……
その事実を認識した董卓は、今まで使わなかった技を解禁する。
それは実に単純な……ただの足技だった。
脚の力は腕の約三倍……
しかし、城門を砕き大地を陥没させる董卓の剛拳の三倍である。
その威力たるや、単なる数値で表現できる領域を絶している。
「むん!!」
無造作に、かつ豪快に、闘気の纏った脚を蹴り上げる董卓。
呂布も、これは危険すぎると判断したのか、野性の本能で回避する。
だが、董卓の“蹴り”は、呂奉先と比して尚規格外の破壊力を有していた。
膨大な闘気の奔流が、脚部より放たれる。
爆風が吹きぬけ、董卓の直線上に絨毯爆撃を行ったような深い溝が刻まれる。
その暴風は、空中の呂布を木の葉のように揺さぶった。
その隙を董卓が見逃すはずもない。
腕を伸ばし、呂布目掛けて張り手を放つ。
巨大な掌が呂布の身体を掴み、董卓は前に向かって走り出す。
爆走する董卓は、次々と壁を破壊しながら進む。
壁が壊れる音が断続的に鳴り響く。
前からは董卓の膂力を、後ろからは壁に激突しながら、逃れることもできず翻弄される呂布。
そして、数部屋を破壊した後、董卓は呂布を掴んだまま、地面に叩きつける。
蜘蛛の巣状の亀裂が広がり、円形の陥没が形成される。
そのまま力を込め、五体を握り潰そうとした瞬間……
「!!」
方天画戟の尖端が、董卓の頚動脈を貫いていた。
五体が引き裂かれるほどの衝撃を受けながら、呂布は腕を伸ばし、董卓の首筋を狙ったのだ。
どれだけの痛みを味わおうと、彼は冷徹な本能のまま、反撃の機会をうかがっていた。
首から噴水のごとく鮮血が吹き上がり、血の雨を降らす。
とうに出血多量で死亡してもおかしくない量であるが……董卓にとっては、頚動脈であろうと幾つもある身体器官の一つに過ぎない。
首筋に力を込める。筋肉を膨張・硬質化し、それに伴って千切れた血管を無理矢理繋ぎ合わせる。
それにより、これ以上の出血を抑えることができた。
だがその瞬間、掌による拘束が一瞬緩んだ。
呂布は体を橋状に大きく逸らすと、董卓の掌を弾き返す。
そして、その空白から再び空へと飛翔する。
「ヒャハハハハハハハ――――ッ!!!」
方天画戟を旋回すると、董卓の胸部に何条もの裂傷が刻まれる。
鋭い一閃が顔の左側を通過し、彼の左耳を削ぎ取った。
流れる血が、元々赤かった彼の体を更に赤く染める。
「ぬぅぅぅぅぅん!!!」
それでも、頚動脈を断たれたことに比べれば大したことはない。
“道”の効果は精神状態に大きく影響する。
士気が下がれば効果も弱まるが、逆に常時精神を昂ぶらせていれば、“道”が衰えることはない。
生粋の武人……そして、暴悪の化身である董卓に、それらを敢えて意識する必要はない。
彼は常に、狂おしくも冷静に、自身の精神を昂揚させ続けられる男なのだから。
一発一発が巨砲級の拳を連打する董卓。
大木を貫く刺突を、高速かつ正確に乱射する呂布。
この空間に存在する生者は二人だけ。
両者の戦は、何人たりとも立ち入ることを許さぬ破滅の領域を形成していった。
雨は激しさを増し、風は勢いを増し、雷は留まる所を知らずに鳴り続けている。
そんな荒れた天候ですら、二人の闘気の昂ぶりに比べれば実に貧相なものだった。
宮殿の屋根が、二箇所同時に破壊される。
中から、これまた同時に二体の悪鬼が飛び出てくる。
天を真上に臨む場所で、両者は対峙する。
全身から血を流し、既に満身創痍といった風体だ。
それでも、二人の闘気が衰えることはなく、更に激しく燃え盛っている。
董卓は、ひたすら己の道を歩み続けるが故に。
呂布は、自身の傷も他者の傷も織り交ぜて、この戦に至高の快楽を感じているが故に。
「ヒャハ……最高だ……全く最高だよお前は……」
風雨に掻き消されるようなか細い声で、呂布は喋り出す。
董卓が聞いている様子はない。呂布も、話しかけているのではない。
「だがな……俺はその最高を越える……
ここから先の世界を味わう為になぁ…………
ヒャハハハハ……ヒャハハハハハハハハハ!!!」
完全に理性の糸を切って、突撃する呂布。
董卓は、両手から闘気の弾丸を連続発射する。
体中傷だらけとは思えない俊敏な動作で、それらを回避する呂布。
気弾の流れ弾は、屋根に穴を穿ち、また幾つかは宮殿から逃げ惑う人々の下へと直撃した。
自身の間合いまで肉薄し、方天画戟を繰り出す呂布。
同時に、左の拳を放つ董卓。
闘気の衣で拳を包み、最大限に硬質化させた一撃であったが……
戟の穂先は、深々と董卓の腕を貫いた。
呂布の進化は止まらなかった。
体が傷つくたび、相手を傷つけるたび、闘争本能は際限を知らず上昇し、それに伴って身体能力も、本能が求める戦闘に適応できるよう成長していったのだ。
呂布には、元々桁違いとも言うべき進化速度を有していた。
だが、今までは相手が弱すぎた為、その真価を十全に発揮できなかったのだ。
されど、目の前にいる相手は董卓……
彼の桁違いの“暴”は、呂布の秘めたる才気を覚醒させるには、十分すぎるほどの刺激となった。
肉が抉れる感触を味わいながらも、董卓もまた止まらない。
即座に右の拳を全力で放つ。咄嗟に左腕を掲げる呂布。
拳の直撃を受けた左腕は、轟音と共にぐにゃぐにゃにへし折れた。
肩から消し飛ばなかっただけ、呂布が頑丈だったと言えよう。
軽く意識が消し飛ぶ激痛を味わいながらも、呂布の攻めは止まらない。
右手一本で方天画戟を持ち上げ、董卓の左腕を腕に沿って一文字に裂いた。
濁流のごとく流れる血が、雨と混じって屋根を赤く濡らす。
「ヒャハハハハハハハ――――ッ!!」
そのまま董卓に体ごとぶつかっていく呂布。
董卓も頭を振ってそれに応える。
両者の頭部が激突し、嵐ですら止むような轟音を響き渡らせる。
お互いの頭突きによって、二人の体は弾かれ、大きく距離が開く。
董卓、呂布共に、頭から滝のように血が流れている。
頭蓋に皹が入ったかもしれない。
「ヒャハハハハハハ! ヒャハハハハハハハハ!!」
右手だけで方天画戟を持ち、哄笑する呂布。
脳内が沸騰する。全身の神経がのた打ち回る。
思考回路は狂気に塗り潰され、湧き上がる本能にのみ身を委ねる。
しかし、痛みが麻痺しているわけではない。
発狂するような痛みを痛みのまま受け入れることで、彼は更なる快楽の絶頂を目指す。
上へ、ただ上へ。その道に果てはなく、快楽に終わりはない。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
対する董卓も、己の全身全霊を尽くして呂布を滅殺する意志を固めていた。
嵐を吹き飛ばすほどに増幅される闘気の奔流。
董卓という活火山が噴火したようだ。
それでいて、闘気を無駄に浪費することなく、全て己の体の中へと凝縮していく。
最後の激突の火蓋は、唐突に切られた。
終焉ですら、これまでの戦いの仮定に過ぎないかのように。
天空に飛翔する呂布。全力で驀進する董卓。
呂布は方天画戟を突き出し、流星となって標的へと加速する。
董卓は、舞い降りる赤い禍星を、最強の拳で迎え撃つ。
拳を放つと同時に発生した闘気の爆流が、呂布の体を呑み込む。
全身の皮を焼き剥がされるような苦痛を味わいながらも、呂布の突撃は止まらない。
痛みをも戦の快楽に換え、闘気の波を貫いていく。
極限まで闘争に純化した呂布の戟は、最後の難関である董卓の鉄拳をも抉り取り……
遂には、その心臓を貫いていた。
これまでの争いが夢幻であるかのように、場は静けさを取り戻していた。
空は変わらず荒れ狂っているが、それが別の世界の出来事であるかのように、二人の間には静寂が流れていた。
「ヒャハッ!!!」
呂布は、間髪入れずに戟を旋回させ、貫いた心臓を完全に破壊する。
戟を引き抜くと、そこには向こう側が見えるほどの空洞が穿たれていた。
血を吐き出し、二歩ほど後じさる董卓。
彼の冷徹な頭脳は、己の終焉を明確に悟っていた。
そこに……一切の悲しみも後悔もない。
ただ、自身の死をあるがままに受け入れる。
他者の命を塵芥と見なした彼は、己の命についてもそれを貫いた。
勝因は何処にあったのだろうか。
両者の力は、勝負が決まる寸前までは紛れも無く互角だった。
最後の最後で、呂布の進化が董卓を上回ったのか……
これまでに蓄積した損傷の差か。それともほんの些細な偶然が勝敗を分けたのか。
どれもが明確な答えを決定付けるものではない。
ただ、結果として勝利は呂布の下にもたらされた……それがこの戦いの全てだった。
「ヒャハハハハハハハハ!!
アヒャハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」
血塗られた戟を掲げ、狂ったように笑い続ける呂布。
本能の赴くまま、荒れ狂い続けた彼にも、勝利の実感など無いのだろう。
そんな呂布を見ながら、薄れる意識の中董卓は考える。
それは、呂布への憎しみでも己の運命への韜晦でもない。
自分は間もなく死ぬ。だが、呂布に殺されたことは幸いと言えるだろう。
これが他の諸侯ならば、漢王朝を残そうが壊そうが、魔王を倒した英雄として天下を平定する。
だが、この男は、ただの救国の英雄に留まるような器ではない。
必ずや、更なる乱を天下に巻き起こす。
万民の苦しみは続き、巷には殺戮が吹き荒れることだろう。
それでいい……
死の寸前に至っても、彼の“悪”の思考は止まらない。
己の死すらも未来の災禍の布石とする。
最期まで、董卓は董卓のままだった。
烈風吹き荒ぶ中、董卓は右腕を天に向けて振り上げる。
天すらもこの手に掴み、蹂躙し尽くそうとする傲慢と共に。
「天上天下! 我に跪けい!!」
彼の命が尽きると同時に、無数の雷電が降り注ぎ、その肉体を焼き尽くす。
肉体は死滅し、魂魄の破片も残さず、その性のままに世界を蹂躙した怪物は、完全に滅した。