第五章 群雄割拠(三)
「ここは……」
孫堅は不思議な世界にいた。
辺り一面に広がる砂漠。
青空には太陽の代わりに月が浮かび、風景は陽炎のように揺らぎ続けている。
砂漠には、塔のように巨大な灯篭や、人形の生首、赤い達磨など奇怪な像が並んでいる。
全く風の止まった空間で、肌に感じるのはただ不快な感触だけだ。
ここは一体何処だ? 自分は何故こんな場所にいる?
襄陽の戦場から突如として謎の世界に送られた孫堅は、戸惑いつつも剣を握り締める。
伝聞でしか聞いたことがないが、これが幻術や妖術の類なのか?
孫堅はあくまで冷静に、現在の状況を把握しようとする。
その時……
「………………」
周囲の砂が盛り上がり、等身大の人影が現れる。
その人物は、頭から襤褸布を被り、姿形を覆い隠していた。
続いて、各所の砂が割れ、同じ姿の怪人物が多数出没する。
「君達は、何者だい?」
奇怪な襤褸布の集団に取り囲まれた孫堅は、最大の警戒を払いつつ問う。
襤褸布達は答えない。
ただ、ゆっくりと孫堅の包囲を狭めていく。
その手には鋭利な爪が備わっていた。
殺気や敵意は感じないが、この集団が自分に害意を持っているのは明白だ。
言葉が通じるような相手でも無さそうだ。
何の前触れも合図も無く、襤褸布の集団は、一斉に孫堅へと踊りかかった。
その速度たるや、武将のそれに追随する。
四方八方から、死の爪が孫堅に襲い掛かる。
「何者か知らないが……今の私は、加減が出来る気分じゃない」
生ある兵士が聴けば震え上がるような、殺意を込めて語る孫堅。
孫堅の碧眼が、静かに閉じられる。
直剣が音も無く振られた瞬間……
刃が宙を舞い、群がる襤褸布達は瞬時に寸断された。
長きに渡り戦の最前線に立ち、磨きに磨いた神速の剣技。
剣の腕前で、本気を出した孫堅に敵うものは孫軍にはいない。
閉じた眼が再び開かれた時……
本来碧いはずのその瞳は、爛々と輝く金色に染まっていた。
孫家の人間が代々受け継ぐ碧眼……
感情が昂ぶった時、その瞳は碧から金色に変わる。
この状態になると、潜在能力が解放され、限界を突き詰めた力を発揮できるのだ。
その戦闘力たるや、まさに人の姿をした猛獣。
覚醒した感覚器で敵を捉え、解放された武力で敵を屠り去る。
人々は、畏怖や尊敬の念を込めて“虎の眼”と呼ぶ……
断ち切られた襤褸布は、黒い染みと化して地面に吸い込まれていった。
斬った感触が感じられなかった時点でおかしいとは思っていたが、やはり人間ではなかったらしい。
だが、今となっては頓着することではない。
誰かが、何らかの手段を用いて、自分をこの世界に送り込んだのは間違いない。
そこには、何者かの姑息な謀が働いている。
今はそれで十分だ。
どんな思惑が隠されていようと、たった一人であろうと、自分は全力を尽くしてこの状況を乗り切るだけだ。
六感を働かせ、本能を研ぎ澄ます。
孫堅の思考は、ただ生き延びることに視力を尽くす、一匹の孤高なる虎と化していく。
「ひょ・う・テ・キ・はっ・け・ン」
そんな中……背後から、全く抑揚の無い女の声が耳に響いた。
振り向いた瞬間、数本の矢が飛んでくる。
孫堅は神速の剣でそれらを全て討ち払うと、新たな刺客と相対する。
少女だ。黒髪のおかっぱ頭に、茜色の衣服を身に纏った少女。
眼は蛍色で、肌はまるで陶器のように真っ白だった。
袖の無い、むき出しの腕は、肘の部分が球体になっていた。膝も同様である。
顔には感情の色が無く、全く生気を感じなかった。
「君は何者だい?」
口調だけは穏やかだが、孫堅は既に臨戦態勢に入っている。
少女は何の武器も携帯していなかった。
先ほどの攻撃は間違いなく矢によるもの……それなのに弓を持っていない。
その不可解さが、孫堅の警戒心を更に煽り立てる。
彼女……貂蝉は、その問いに応じることは無かった。
「まっ・サ・つ・カ・い・し」
そう告げると、貂蝉の腰から四条の紐が伸びる。
その先は、柄の無い短剣と結ばれており、重力に反して宙に浮いていた。
地面を蹴って疾駆する貂蝉。
その加速は、先ほどの襤褸布とは比較にならない。
だが、孫堅に見切れない速度ではない。
紐で接続された短剣による刺突を、直剣を振るって切り払う。
この女もまた、先ほどの襤褸布と同様ただの刺客のようだ。
ならば、何も言わず斬り捨てるまで。
孫堅は己の中の殺意を凝縮する。
「そ・ん・ケ・ん・こ・ロ・す」
その目的を言葉にして表す貂蝉。
茜色の紐が踊り、孫堅を切り刻もうと舞を舞う。
「悪いが、君に殺されてやるわけにはいかないな」
孫堅も、野性の勘で見えない短剣を的確に捌いていく。
その様は、あたかも美しい男女による演舞のようだ。
「あ・たっ・く」
突如、左の掌を翳す貂蝉。
掌に丸い穴が開き、そこから一斉に薄い桃色の矢が発射される。
先ほどの矢は、掌から放ったものだったのだ。
種は分からずとも、警戒していた孫堅は、首を逸らせて矢を避ける。
逆にその隙を突いて、貂蝉の喉元に突きを繰り出す。
貂蝉の右腕が、高速で回転を始める。
細い少女の腕は、瞬時に螺旋状に回転する槍と化した。
その回転する腕で、孫堅の剣を討ち払う。
腕に衝撃が走る。どうやら、細腕に似合わず、膂力は自分に匹敵するらしい。
「やれやれ……君は一体どれだけの武器を隠し持っているのかな」
呆れたような、面白がるような顔つきの孫堅。
もはや相手が人間ではないのは疑いようもないが、今の状況からして既に常識を逸脱している。
この程度で動揺しているようでは、この窮地からは生き残れない。
「て・キ・せ・ん・ト・う・りょ・ク・よ・ソ・う・い・じょ・ウ
せ・ん・じゅ・ツ・しゅ・う・セ・い・の・ヒ・つ・よ・ウ・あ・り」
「そうか、だがそれでは甘いよ」
長々と喋った貂蝉に、孫堅は微笑みと共にこう告げる。
「何故なら、私はまだ本気を出していないからね」
孫堅の闘気が、一気に膨れ上がる。
彼の勇名を知る者ならば、ここで彼の背後に吼える虎の姿を幻視することだろう。
闘気の昂ぶりに呼応してか、金色の眼も焼け付くような光を灯す。
これが真の孫文台。
若くして大志を抱き、血みどろの戦場を潜り抜け、今天下を狙おうとする猛虎の姿だった。
今度は、孫堅の方から仕掛ける番だった。
全身殺気の塊と化し、大地を蹴って虎のごとく疾駆する。
「げ・い・ゲ・き・カ・い・し」
四条の紐が伸びる。
先端の短剣は、四方から孫堅の急所を狙い撃つ。
孫堅は空中で身体を回転させ、剣でその全てを弾いてしまう。
間髪入れず、左の掌から矢を連射する。
だが、孫堅の動きは追撃の矢も見越したものだった。
微妙な身体の捻りにより、矢は悉く外れてしまう。
右の腕を高速回転させ、削岩機と化す。
不安定な体勢の孫堅の喉元目掛けて、突きを繰り出す。
「……どうやら君は、本当に強い敵と戦い慣れていない様だ」
あくまで穏やかに呟くと、腰を後ろに曲げ、致命の一撃を身体を逸らせてかわす。
立ち合いにおいて、喉や心臓などの急所を狙って一撃で勝負を決めるのは定石だ。
だが、ある程度の実力者になれば、敵が急所を狙ってくることなど分かりきっている。
だからこそ、いつ狙われてもいいように万全の対策を立てている。
その隙を突いて、反撃を繰り出す術も修得済みだ。
およそ名のある武将ならば、誰でも身につけている上級者同士の戦いにおける基本だった。
中原へ発つ前に、孫策と周瑜に教えてきたことだ。
孫堅は、身体を逸らせた体勢のまま大きく剣を切り上げる。
その一閃は、貂蝉の肩口を切り裂き、右腕を刎ね飛ばした。
貂蝉は、ここで迅速に後退を選ぶ。
地面を蹴って跳躍すると、孫堅と大きく距離を取った。
「惜しい……」
今の孫堅は、獲物を追い詰める獰猛な虎の眼をしていた。
本来ならば、一気に身体ごと切り裂いて勝負をつけるはずだったのに。
あの女が素早く身を逸らせたせいで、右腕を切り飛ばすだけに留まってしまった。
今度は、こちらが少々見くびっていたということか。
「み・ぎ・ウ・で・は・ソ・ん・け・い・セ・い・フ・り」
右腕を切り飛ばされても、痛みを感じないかのように無表情の貂蝉。
切り口からは一滴の血も流れておらず、いよいよ人間離れしている。
「そうか。だからと言って見逃すつもりはないよ」
口調だけは穏やかだが、今の孫堅は貂蝉に対する殺意で漲っている。
獣を越え、敵対者を沈黙させるまでは決して止まらぬ殺人機械と化したのだ。
「い・ち・ジ・た・イ・きゃ・く」
背を向けて、一目散に逃げ出す貂蝉。
「……逃がしはしない」
確実に仕留めるのは勿論だが、同時に彼女を追跡して、彼女を動かしていた者にたどり着くのも目的の一つだ。
不気味な彫像の並ぶ砂漠を駆け抜ける貂蝉と孫堅。
身の軽さと逃げ足ではあちらの方が上なのか、中々追いつくことができない。
加えて、もう随分追いかけているはずなのに、あちらは全く息が上がる様子が無い。
足は全く鈍ることなく、一定の速度を保ち続けている。
「どこまで続いているんだ……この世界は……」
いくら走っても一向に変わらぬ風景に、孫堅が思いを馳せたその時……
再び、空間が大きく歪んだ。
「これは……!」
ここに来た時と、全く同じ現象だ。
周囲の風景も、孫堅自身も、歪む空間に飲み込まれていく……
歪みは収まった時……
彼は、とある街の中に立っていた。
あえて確認するまでも無い。
どこでも頭に思い描けるほど見慣れた街並み……
そこは、自分の本拠地揚州の街であり、目の前に見えるのは自分の屋敷だ。
自分は時空を越えて、揚州まで飛ばされたのだろうか?
そんな疑問を抱く前に……
「伯符!!」
屋敷の庭には、木にぶら下がった的を相手に剣を振るう息子、孫策の姿が。
彼の肝を冷やしたのは、息子が現れたからではない。
その間に、貂蝉が立っていたことだ。
貂蝉が、左手を孫策に向けていた。
孫策は気づいた様子がない。
あのままでは、息子は射殺されてしまう。
「伯符、逃げろ!!」
疑念を抱く暇もない。
孫堅は息子の名を叫びながら、一撃で貂蝉を倒さんと剣を取って突進する。
突然揚州に飛ばされたこと、息子が窮地に陥ったこと、貂蝉が背を向けていたこと……
それら全てが、孫堅から冷静さを奪っていた。
それが……彼の命取りとなった。
貂蝉の背中の衣がめくりあがる。
そこに見えたのは、白い背中ではなく、ぽっかりと開いた四角形の空洞だった。
そして、そこから大量の矢が射出され……
孫堅の全身を、隈なく突き刺した―――――
「殿! 殿ぉ!!」
次に目を覚ました時、孫堅の身体は襄陽の本陣にいた。
あの世界に飛ばされる前と、全く変わらない風景。
違うのは、ここが自軍の本営だという点だけだ。
先ほどのことがまるで夢のようだ。
本当に一時の悪夢を見たのだろうか。
いや、決して夢ではない。
何故なら……自分の身体は、こんなにも赤く染まって…………
孫軍の本陣は混乱の極みにあった。
突如として消えた主君が、またも突然現れたのだ。
さらに全身に矢が刺さった状態で……
従軍した医師は全力で治療に当たっているが、手遅れなのは誰の目にも明らかだ。
必死に呼びかける程普と黄蓋。
朱治と韓当の顔は、既に絶望に染まっている。
孫堅の全身に刺さった矢は、心臓や喉も貫いており、もはやどんな名医とて蘇生させるのは不可能だった。
「おらぁ! 殿を死なせたらただじゃおかねぇぞ藪医者!!」
「…………やめろ」
恐らく初めて、熟語以外の言葉を口にして、荒れる黄蓋を制止する韓当。
寡黙な彼も、心は黄蓋らと同じく千々に乱れていた。
「見てください! 孫堅様が……!!」
泣き腫らしていた朱治が、孫堅の瞳が開いたのに気づく。
「殿!!」
「殿ぉ!!」
程普と黄蓋の叫びが聞こえる。
この時の孫堅が思うのは、矢を喰らう直後の出来事だった。
あの揚州の風景に、孫策の姿……あれは全て、ただの幻だったのだ。
自分に動揺を誘うための罠……自分はまんまとそれに引っかかった。
そして、あの女の背中に隠れた矢の雨を正面から食らってしまった。
不覚と恥じ入る前に、孫堅は息子に害が及ばなかったことに、どこか安堵していた。
「てい……ふ……」
「殿! 喋ってはなりません!!」
震える手で、程普に手を差し伸べる孫堅。
程普は、しっかりとその血で染まった手を掴んだ。
「おん……な……」
「女!? 殿を殺めたのは、女だというのですか!!」
首を縦に振る力も残されていない。
一語一語言葉を紡ぐたび、僅かな命が削られていく。
「べつの……せか……い……」
「別の世界?」
この言葉の意味は、今の彼らには理解できなかったようだ。
だが、いずれ……
「はく……ふ……を……た……の……む…………」
それが、孫堅の最期の言葉となった。
もう、どうやっても喉から声が出ない。
伝えたいことは他に幾らもあった。
あの女はただの刺客に過ぎない。
何者か……人智を超えた存在の悪意に、自分達は晒されている。
恐らく、次にその標的となるのは、自分の息子達だ。
まだ未熟な彼らを遺して逝くのは、悔やんでも悔やみきれない。
せめて、信頼できる臣下に後事を託すしかない。
最期に想うのは、長兄・孫策ではなく、次兄・孫権のことだった。
彼は、次男が自分をどう思っているのか薄々気づいていた。
自分の身の程を弁えず、天下に挑んだ夢想家……
過ぎたる野心を抱けば、いずれはその身を滅ぼす……
まさにその通りの結末になってしまったことには、返す言葉もない。
(済まなかった……仲謀)
彼の意思に従い、一家の主としての責務だけを全うしていれば、こんな最期は遂げなかったかもしれない。
それでも……
息子達を愛していたからこそ……
父は、見せたかったのだ。
天下という遼遠な夢を。
果てしなく広がる世界に、身体一つで向き合う生き様を。
最期まで息子たちの事を想いながら、孫文台の意識は静かに消えていった。
「孫文台……お前の死もまた、歴史の必然に過ぎない」
孫軍本陣より離れた丘の上で、仮面の怪人“狼顧の相”は、孫堅の死を感じ取っていた。
「所詮、お前は天に君臨する器ではなかったということだ。
だが、安心するがよい。
お前の死は、この私が神となる為の礎となったのだからな。
これで、歴史はまた正しい方向へと転換される」
狼顧の相は身を翻し、後ろにいる二人の少女に向かい合う。
「よくやった。貂蝉、于吉」
「に・ん・ム・か・ン・りょ・う」
右腕を失った貂蝉だが、相変わらず平静を保っている。
隣にいる于吉も、同じく無表情だったが……
「……一つお聞きしてよろしいでしょうか?」
「何だ?」
無口な于吉が問いを発したことに、狼顧の相は少々意外に思う。
「貴方様の指示通り、あの人に息子の幻を見せましたが……
あれには何の意味があったのでしょうか……?
何故、あの人はあんな簡単に冷静さを失ってしまったのでしょうか……?」
「ああ、そんなことか」
狼顧の相は鼻で笑う。この娘は、そんなことも理解できないのだ。
それも当然のこと。
並列する次元に幻から成る特殊な空間を創り出し、任意の人物をその空間に引きずり込む幻術の最高峰、“夢幻結界”。
術の開発者以外、どんな仙人ですら再現できなかったこの秘術を修得させる……
于吉は、その為だけに生み出されたのだから。
脳内のあらゆる器官を術の完成だけに使用した為、彼女には人間らしい感情や常識が完全に欠落している。
そんな彼女に、狼顧の相が新たに刷り込んだのは、自分に絶対服従するという命令だけだった。
僅かながらも、それ以外の感情が芽生えつつあるのか……
狼顧の相は、若干興味を抱きつつ、彼にとっての“真実”を教えてやる。
「それはな、あの男が愚かだったからだ」
「愚か……ですか」
「そうだ。人間の中にはな、他人の痛みを自分のことのように感じて、挙句他人を助けるために自分の命を捨ててしまうような者がいる。
生物としては、致命的な欠陥と言っていいだろう」
「ふ・カ・ん・ぜ・ン」
表情は見えないが、仮面の下で嘲笑する男。
貂蝉も、同意の声を上げる。
「だがな、その欠陥は弱点として利用できる。
人間は情に流されやすい生き物だ。
弱味を突いてやれば、簡単に躍らせることが出来る。今回のようにな」
「……わかりました。その情というものは、人間にとって弱点なのですね」
「そういうことだ。そして、そんな欠陥を抱いた人類に、世界を統べる資格はない。
完全な生命体だけが、神の座に昇ることができるのだ」
右腕を伸ばし、狼顧の相は、仮面の下で笑う。
「地を這う愚かな人間どもよ、低俗な覇権を競って浅ましく喰らいあうがいい。
お前達は所詮、歴史という檻に囚われた鼠に過ぎん。
私は神の座から、お前達の滅び行く様を観賞させてもらおう。
ふはははははは……
あはははははははははははははははは!!!」
江東の虎、孫文台、死す――――
これにより、襄陽を攻めていた孫堅軍は総崩れとなり全面撤退。
孫堅軍は瓦解し、敗残兵は袁術軍に吸収された。
天下を平定する夢を抱いた優しく猛々しい将星は、その足がかりを築く前に墜ちることとなった。