第五章 群雄割拠(二)
「私はね、戦争が嫌いなんですよ」
宮殿の高台から、眼下の都を見下ろしながら、男は先ずそう言った。
黒髪を今で言うボブカット風にまとめ、頭には社のような形の帽子を被っている。
深緑色の衣装に身を包み、細めの三白眼からは狡猾な印象を受ける。
その右眼には片眼鏡が付けられ、縁から鎖が垂れ下がっている。
彼は劉表、字は景升。
荊州を統治する群雄である。
だが、その佇まいからはおよそ武の雰囲気が感じられず、丁寧な言葉遣いも相俟って文官的な印象を受けるだろう。
不老年齢は19歳で、見た目は若き文学青年を思わせる容姿をしていた。
彼は、暗がりにいる相手に向けて、流れるように言葉を紡ぐ。
「人間と他の生物を分ける差が、何処にあるかわかりますか?」
相手は答えない。
彼が答えを求めているわけではないことを知っているからだ。
「それはね。理性ですよ。
本能の赴くまま行動する獣と違って、人間には理性があります。
理性で本能を押さえ込む姿こそ、まさに人間らしい姿と言えませんか?」
相手は答えない。
彼が意見を求めているわけではないことを知っているからだ。
「そしてその理性こそが、知識となり、学問となり、やがては文化を生み出すのです。
この地上において、単なる生物的欲求以外に価値を見出すのは人間だけですよ。
実に素晴らしいことではありませんか?」
相手は答えない。
彼が同意を求めているわけではないことを知っているからだ。
「ですが悲しむべきことに、世間にはそんな人間の素晴らしさを理解しない者達で溢れています。
自分達の優劣を競いたいが為に剣を取り、血を流してでも戦う……
これでは雌を取り合って喧嘩する獣と何ら変わりないではありませんか」
呆れ果てたように、男は嘆息する。
「本能を抑えきれず、感情に流され、人を殺す。何と醜い姿でしょうか。
彼らは刃で人を殺めた瞬間から、人間としての資格を失っているのです。
そう、彼らは人間ではない。人間の皮を被った畜生に過ぎないのです」
男は欄干から、再び都の全景を眼に映す。
「荊州は文化の都です。
ここには、戦火を逃れた多くの文人、学者、芸術家が集まり、
日々議論に熱を上げ、学問を追究し、美を磨き合っています。
そう、文化。文化こそは理性の象徴。人間が生み出した形無き至宝。
文化とは、この世で最も尊ぶべき人類の叡智の結晶なのです」
文化という言葉を口にするたび、劉表の顔に恍惚の色が浮かぶ。
「その素晴らしき文化の都に、今魔手が迫っています。
愚かな派閥争いに耽溺した獣が、その爪牙でこの荊州の平和を引き裂こうとしています。
決して許される行いではありません」
「ですが……貴方もまた、その侵攻に対し、軍を差し向けているのではありませんか?」
この時、暗がりにいた人物が始めて言葉を発した。
劉表の矛盾といえる点を指摘してみたが、劉表には全く動揺の色はない。
「はい。私とて、刃を持って刃を制するのは野蛮極まりない行為と考えています。
ですが、先ほど申し上げた通り、彼らは既に人間の資格を喪失した獣たち。
理性による説得が通じる相手ではないでしょう。
ならば、彼らを人間ではなく獣と見なして排除するまでです。
貴方とて、溢れ返った鼠を殺さず説得しようだなんて考えは浮かばないでしょう?」
暗がりの人物から、くぐもった笑い声が漏れる。
「人間以外を殺す戦いを戦争とは言いませんよ。
狩り……いいえ、この場合は“駆除”というべきですかね」
実に明瞭な理屈だった。
劉表は、戦争に関わる者全てを人間と見なしていない。
だから、武器をもって屠殺したところで、戦争行為には当たらないのだ。
「全く持って傑作ですね。
貴方のために命がけで前線で戦っている兵士達も、貴方にとってはただの獣に過ぎないわけだ」
「ええ、そうですよ」
劉表は、やはり動揺することなく即答した。
その爽やかな笑みからは、嗜虐的な感情は読み取れない。
悪意ではなく、本気でそう思っているのだ。
「武器を持って戦う以上、彼らもまた獣です。
ですから、私達文化的な人間が管理して、正しい方向に力を使っているのではありませんか。
猟犬や家畜のようなものです。
動物を調教し、家畜にすることで、食糧供給源を確保する。
牛に車を引かせて動力源とする。獲物を追い詰める際に猟犬を利用する。
それもまた一つの文化。私は偉大なる先人に習っているだけですよ」
さも自慢げに、劉表は語る。
「この世界には暴力が溢れています。
愚かな獣によって振るわれる暴力は、破壊と殺戮しか生み出しません。
ですから、私達文化的な人間によって、正しく管理されなければいけません。
この世界を統治する資格があるのは、私達文化的な人間だけです。
自慢じゃありませんが私、今まで一度も自分の手で人を殺したことが無いのですよ」
自分以外の手ではどうなのか、と相手は思ったが、あえて口にはしなかった。
どうでもいいことだ。
彼は、己が清らかな立場にいると心底思い込んでいるのだから。
劉景升は、ただひたすらに文化を愛している。
だが、同時に文化という言葉は、彼にとっての免罪符になってしまっている。
自分の手を汚す以外の行為は、全て文化の名の下に正当化されるのだ。
彼に野心はない。己の理想こそが正しいと信じて疑わないだけなのだ。
「貴方も、私と同じ立場の人間だと推察しますが……?」
相手は、若干苦笑して「さぁ、どうでしょう?」と答えるのに留めた。
「私の夢は、この世界から戦争を無くすことです。
戦争に費やすような力があるならば、全て文化の発展に注ぎ込めばいい。
そのような無駄を無くす行為もまた、文化の一環でありますしね」
劉表は天を見上げ、どこまでも迷いの無い口調でこう述べた。
「人間同士の戦争こそは、人類にとって最も恥ずべき悪徳。
私はそんな愚かな戦争をこの世から消し去り、
知的で穏やかな文化に彩られた美しい世界を築き上げるのです」
「ですが……その夢を阻む者がいます。
孫堅さん……あの人には、董卓さん、あるいは袁術さんと潰しあってもらいたかったのですが……
予想よりも早く、こちらに仕掛けてきました。
この美しい荊州の都を、野蛮な虎に蹂躙させるわけには行きません」
劉表は決して、専守防衛に務めるだけの人物ではない。
中華全土に斥候を放ち、情報収集を怠らない。
数多の刺客を送り込み、隙あらば要人を暗殺する。
嘘の情報を流して、諸侯を撹乱することもあれば、
諸侯同士の対立を煽り、戦を起こさせて両者の戦力を疲弊させるといった策を頻繁に使っている。
さらに、孫権が攻める前からずっと、劉表は揚州への侵攻を目論んでいた。
されど、それも全ては謀……
自分の手を汚さない以上、全ては彼にとっての文化なのだ。
「また、お願いできますね?」
その言葉だけで、相手は劉表の意図を察した。
これまで、何度もやって来たことだ。
「……ご期待に添える結果を御覧にいれましょう」
相手は恭しく一礼した。
「そうそう、いい加減貴方の名前を教えていただきたいのですが。
お互いの名も知らない会話は、少々文化的ではありませんのでね」
相手はしばし考えた後、こう答えた。
「……最初の契約の折に申し上げた通り、本名を話す事は出来ません。
ですが、名を呼びたい時はこうお呼びください」
相手が暗がりから一歩一歩現れる。
全身に黒い外套を羽織っており、その顔は人間のそれではなかった。
狼を象ったと思われる、紫色の仮面。
鋭い牙がびっしりと生え揃い、額には眼の装飾が彫られている。
「“狼顧の相”……と」
その言葉の意味の通り……
彼の仮面は、用心深く背後を振り返る、警戒心が強く老獪な狼を象徴しているかのようだった。
「孫文台、玉璽を得て野心に目覚めたか。これも歴史の必然であるが……」
“狼顧の相”は、劉表と分かれた後、何処かの回廊を一人で歩いていた。
そして、傍らに広がる闇に向けて呼びかける。
「貂蝉、于吉、出番だ」
彼の声に応じて、暗闇に二人の人影が現れる。
一人は、髪をおかっぱに切り揃え、茜色の衣を着用した少女だった。
淡い蛍色の瞳には、およそ生気が感じられない。
「い・エ・す・マ・い・ま・す・た・あ」
異国の言葉を織り交ぜた返答には、全く抑揚が無い。
もう一人に至っては、言葉を発しようとすらしない。
「………………」
水色の髪に、赤い文字の刻まれた呪符を全身に纏った、まだ幼い少女だ。
その顔には感情の色が見えないが、こちらは単に表情の変化が苦手なだけと思われる。
「手筈は分かっていよう。孫堅を……討て」
「い・え・す・さ」
「はい…………」
二人の女は簡潔に返答すると、再び闇の中へと姿を消した。
(今の段階で、私自身が直接歴史に介入することは、歴史を歪める危険性を孕んでいる……
ならばこそ、あの女達のように、本来正史に関わらぬ者達を駒として利用せねばな……)
劉表に習って、彼もまた自嘲の意味で呟いてみる。
「これもまた、一つの文化……か」
荊州・襄陽に侵攻を開始した孫堅軍に対して、劉表は配下の黄祖を差し向けた。
しかし、あの董卓軍とも互角に渡り合った孫堅軍に対し、黄祖軍は開始早々劣勢を強いられることになる。
「お、親分! 孫堅の奴ら、強すぎますぜ!」
親分と呼ばれた男は、椅子にどっしりと腰掛け、悠然と構えている。
縦にも横にも大きな巨漢で、強面だがどこかユーモラスな顔立ちをしている。
赤ら顔で、鼻の下には八字髭を伸ばし、頭には扇形の青い帽子を被っている。
その中央には、十字に組み合わせた骨と、髑髏の絵が描かれていた。
左手は存在せず、義手として湾曲した鉤が備わっている。
彼の名は黄祖。江夏太守であるが、実質的には劉表の子飼いの配下である。
水賊上がりで、大雑把だが荒々しい気性を備えていた。
「ゲララララララ……そう慌てるない、まぁだ始まったばかりだろがよ」
黄祖は笑い飛ばしながら、足下の樽へと手を伸ばす。
そこには、油で揚げた小海老がみっしりと詰まっている。
大きな手で海老を鷲掴みにすると、そのまま口へと運ぶ。
口いっぱいに揚げた海老を頬張ると、バリボリと咀嚼して呑み込む。
続けて、陶器に入った酒を一気に飲み干した。
「ぷはぁ――っ。ま、正面からやりあうのは得策じゃねーわな。
とぉ―りあえず守りに徹して、敵の隙を伺うとすっか」
「しかし、孫堅はそう簡単に隙を見せる相手じゃないっすよ」
手下の言葉に対し、黄祖はまたも豪快に笑い飛ばした。
「そんときゃ負けるしかねーな! また水賊に逆戻りするかぁ? ゲララララ!!」
劉表が自分を利用しているのは重々承知であるが、それは黄祖とて同じことだ。
単なる水賊という身分に我慢できず、劉表の申し出を受けたまでのこと。
捨て駒にされるぐらいなら、また水賊に戻って一から出直すまでだ。
彼は、賊らしく乱世を生き抜くしたたかさを備えていた。
「命が惜しい者は投降せよ! 我ら孫家の旗の下に!!」
両刃の剣をかざして、敵陣に切り込む程普。
白銀の鎧を身に纏い、剣と盾を手にしたその姿は、まさしく西方の騎士のいでたちである。
「…………駆逐、殲滅」
韓当は手にした武器を振るい、敵兵の首を刎ねていく。
彼の武器は、刃の部分が大きく湾曲した大鎌で、敵の首を狩るのに特化した形状をしていた。
落ちていく敵兵の首を、無感動な目で見つめる韓当。
背後から襲い掛かる黄祖兵。
だが、彼らの喉元を飛翔する円盤が通り過ぎた。
全員、血を吹き出して絶命する。
「大丈夫ですか? 韓当殿!」
大きく弧を描いて戻ってきた、血染めの円月輪を手に取る朱治。
続けてもう片方の円月輪を投擲し、更に敵兵を仕留める。
身の軽い朱治はこの武器の扱いに長け、中距離での戦闘を得意としていた。
「…………肯定、感謝」
短く返答と礼を述べる韓当。
「オラオラオラァ!! 雑魚どもはどいてなぁ!!」
両腕を振るって、迫り来る敵兵を蹴散らす黄蓋。
彼の腕には、身を覆うほどの大きな楕円形の盾が備わっていた。
一見、攻撃一辺倒の黄蓋には似合わない武器のようだが、盾には鋭い突起が付属し、そのまま殴りつければ重量と凶器で敵を即座に撲殺できる。
武器にも防具にもなる盾。
怪力の持ち主で、単騎で切り込むのを好む黄蓋にとってはこれが最も相応しい兵装だった。
そして、この円盤盾の使い道はただ殴る、防ぐだけではない。
貝を合わせるように、黄蓋は二つの盾を合わせ、ぴったりと閉じる。
二つの盾の中に閉じこもった黄蓋は、そのまま地面を転がって敵陣に突撃する。
進路上にいる敵は残らず跳ね飛ばされ、堅牢な盾は剣も矢も通さない。
圧倒的な突進力と、完全なる防御を兼ね備えた攻防一体の形態。
その様は、西方に生息するというアルマジロを髣髴とさせる。
戦場を駆け抜ける黄蓋によって、黄祖の兵は次々に轢き殺され、恐れを為して逃げ出す者も現れた。
孫家の四将軍の進撃は、まさしく瀑布の如く敵軍を蹴散らしていく。
孫堅は誇らしげな気持ちでそれを見ていたが、猛る心を抑えきれず、自らも馬を走らせる。
「殿、お下がりください!この場は我らに……」
「済まない程普。やはり私は、戦場で大人しく待っていることなど出来ないようだ」
そう答えながら、直剣で黄祖の兵を討ち払う孫堅。
「仕方ありませんなぁ!」
程普と朱治が孫堅の両側に動き、護衛につく。
しかし、孫堅の戦いぶりは、護衛など不要と言わんばかりの驚異的なものだった。
前線で戦う主の勇姿に、孫軍の士気はさらに高まる。
孫堅は確信する。
この素晴らしい忠臣達が支えてくれる限り、自分は必ず天の頂まで駆け上がれる。
“絆”の力こそ、乱世で荒んだ人の心に輝きを取り戻し、天下を平定するだろう。
志を新たにした、その時……
彼の視界が、大きく歪んだ。
「孫堅様……?」
ほんの一瞬のことだ。
僅かに孫堅から目を放した隙に……
孫文台の姿は、朱治の目の前から消えていた。
「殿……? 何処に行かれた! 殿!!」
動揺したのは程普も同じだった。
自分は主の傍を片時も離れなかった。
何故、孫堅がいなくなっているのか。
遅れたのか、それとも一人で先行してしまったのか。
孫堅の性格からは考えにくし、そんな動きがあれば必ず気づくはずだ。
「どうなってんだぁ!?」
「…………主君、消失」
孫堅が消えたことに、黄蓋と韓当は動揺を隠せない。
「殿! 殿ぉ!!」
「孫堅様! 返事をしてください! 孫堅様!!」
どれだけ声を張り上げても、声は返ってこない。
戦場を広く見渡しても、孫堅は何処にもいない。
主君の突然の消失によって、兵士達にも動揺が走る。
これでは戦えないと判断した程普は、即座に決断を下す。
「く……退却! 退却せよ!!」
程普は大声で叫ぶ。
孫堅がいれば、この動きにも何らかの反応を示すはずだ。
一旦、軍を一手に集めて、孫堅を探し出さねばならない。
その様子を、切り立った崖の上から見つめている人影がいた。
呪符を折り重ねたような衣装を着た、水色の髪をした幼い少女である。
周囲の地面には、幾つもの呪言が刻まれた八卦図が描かれている。
彼女はその中心に座り、一枚の符を手に取り、小声で解読不能な言葉を呟き続けていた……