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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第四章 燃える洛陽(五)

 切り立った崖に挟まれた谷間のごとき、単に傷と呼ぶにはあまりにも長く深い裂け目。

 左肩から右脇腹まで、斜め一直線に胸板の肉を抉っている。

 内臓にまで達していない辺り、董卓の筋肉の分厚さと強靱さを物語っているが……重傷であることには変わりない。


 曹操の倚天の剣は相手の気を吸収するだけではない。

 吸い取った気を光の刃に変えて、そのまま相手に返すことができるのだ。

 曹操に対し、あらゆる術や気は無意味なだけでは無く、その威力が大きければ大きいほど、跳ね返って来る裂傷もより甚大ななものとなるのだ。


 鮮血が洪水のごとく噴き出る。

 筋肉を瞬間的に膨張させ、出血だけは止められた。

 それでも、傷口までは塞ぎきれない。

 この時董卓は、初めて“痛み”という感覚を知った。

 その事に対して、何らかの感慨を抱く暇は与えられなかった。

 夏侯惇ら三将軍が、すぐさまこちらに殺到してくるのが見えたからだ。


 曹操の意外な“秘密兵器”に度肝を抜かれたのは彼らも同じだが、それで自失してしまう程柔な鍛え方はしていない。

 眼前で起こった現象が理解できなくとも、彼らにとって最も重要なのは、董卓が深手を負ったという一点のみ。

 この千載一隅の好機に彼ら三人の体はとどめを刺すべく自然に動いていた。


 夏侯惇の大鎌が唸りを上げ、夏侯淵の矢が風を切り、曹仁の戦斧が咆哮する。


 完全に域の遭った同時攻撃に対して董卓は……


 この時、初めて完全な防御に徹した。


 硬質化させた両の腕を翳し、矢を防ぎ切る。

 同時に、後方に向けて高く跳躍し、大鎌と戦斧を回避する。


 着地と同時に、指を鳴らして指示を送る。

 三将軍が追撃をかける時には、両翼から集まった恐騎兵が、その進路を阻んでいた。


「ち……!」


 夏侯惇は舌打ちして、恐騎兵の掃討にかかる。


 董卓の紅い眼は、曹操をじっと見つめている。

 次に彼が口にしたのは、恨み言でも悔恨の台詞でもなく、ただ簡潔に一言……



「退くぞ……」



 それだけ告げて、董卓は背を向ける。

 彼の周囲には絶えず恐騎兵が付き従い、三将軍を持ってしても突破できない。

 元々、董卓との死闘で大きく体力を消耗していたのも足枷になっている。


(ここで何の躊躇いも無く撤退を選ぶとは……成程、そなたは紛れも無く“最悪”よな)


 曹操は、感心したように董卓の後ろ姿を見つめている。

 彼の目的は、暴虐を行うことであり、戦争に勝つことではない。

 故に、僅かでも命の危機を感じたならば、即座に撤退する。

 

 生に執着するものは誰よりも強い……曹操はそう考えていた。

 覇道を歩む者にとって最も重要なのは、何が何でも生き延びること。

 董卓は、さすがにその点をよく理解している。

 やはり、この男の王道には一点の迷いも曇りも無い。



 これまで餓狼の勢いで攻め立てていた董卓軍は、主君の支持によって瞬く間に守勢に転じた。

 これも、董卓の恐怖による調練の賜物だろうか。

 完全に守りを固めた董卓軍を抜きさることは、今の曹操軍には不可能と曹操は素早く判断する。

 加えて、深手を負ったとはいえ董卓に完全に止めを刺そうと思えば、更なる苦戦を強いられるだろう。

 手負いの獣の抵抗ほど侮れないものは無い。

 切り札である倚天の剣の種も、既に割れている。


 一言も発さず、黙々と戦場から去る董卓の歩みは、後退していることを感じさせない、まさしく王者の風格を漂わせていた。

 その背中には、怨恨、憎悪、憤怒……それら全ての感情が封じ込められているようだ。

 あるいは、彼には何も無いのかもしれない。

 ただ悪を成す事だけを存在意義とする彼には、屈辱と言った感情とも無縁なのだろう。


 誰にも悟れぬ内情を抱いたまま、董卓は虎牢関から姿を消した。




 残された曹操軍は、虎牢関の残存勢力の掃討にかかる。

 曹操自らも、四天王に交って剣を取って戦う。

 

 倚天の剣の効果は、あくまで術を相手に発揮されるもの。

 当然、何の能力も持たない恐騎兵相手には意味を成さない。

 曹操は、四天王を率いながら純粋な剣術で、恐騎兵を討ち払っていく。


 その時……



 漆黒の影が、恐騎兵らの間に割って入った。

 影に触れた恐騎兵は次々に身体を引き裂かれ、血煙の中へと倒れ臥す。


 影は曹操の周囲の恐騎兵を一層した後、彼の前でその姿を露にする。


「あんたが、曹孟徳か……」


 くぐもった声で語りかけるその人物は、口を覆面マスクで覆っていた。

 くすんだ灰色の髪をざんばらにして、漆黒の衣に身に纏い、同じく黒い貫頭衣で全身をすっぽり包んでいる。

 黒い布の間からは、血で染まった鋭利な爪が、雫を滴らせている。



 突如現れた怪人物に、四天王は警戒心を強める。

 曹洪は、彼こそがあの黒い影の正体だったと理解する。

 夏侯淵は、いつ彼が曹操に仕掛けてもいいように弓矢を構えるが、曹操はそれを掌で制した。


「そなたは?」


オレの名は于禁うきん…… 于文則うぶんそくだ……」


 男は簡潔に名乗りを上げる。

 そして、曹操を見上げたまま、抑えた口調でこう続ける。

 

「……やはり、あんたは恐ろしいな」

「董卓より、余の方が恐ろしいというのか?」

 

 曹操は、興味深そうに于禁の話を聞いている。


「ああ…… あんたは、オレや董卓と同じ、心に闇を持っている。

 闇は何処まで行っても闇でしかない。

 董卓は言うなれば闇の極致…… 闇以外の何も持たない人間だ。

 だが、あんたは違う。

 あんたはその闇で、大勢の人間を殺しながらも、同じぐらいの人間の心も掴んでいる……

 心に闇を持たない、“向こう側”の人間もだ……

 あんたみたいな人間は見た事が無い……」


 于禁は死んだ魚のような目で曹操を見つめる。

 実に不遜極まる発言だが、曹操は気分を害した様子は無く、むしろ納得したように笑みを浮かべている。


「光と闇は本来相容れないもの……

 だが、あんたはその摂理を平然と覆し、光だろうが闇だろうが呑み込む……

 そこがオレには恐ろしくて仕方が無い……

 あんたの恐ろしさを、もっと間近で感じたい…… そして……」


 于禁の瞳は、紛れも無い恐怖の色に染まっていた。

 だが、彼の中でそれは強い興味の感情へと転化されていたのだ。


「あんたがどんな一生を送り…… どうやって死ぬのか…… 是非見てみたくなった」


 物騒な一言に、四天王の間に緊張が走る。

 次の瞬間、于禁の腕の爪が、音も無く消え去った。


 鎖で接続された爪手甲は、于禁の腕から射出され、勢い良く宙を舞う。

 そして、背後に近づいていた恐騎兵らの喉下を切り裂き、瞬時に血祭りにあげた。


「それまでは、あんたに近寄る敵はオレが皆殺しにしてやるよ……」


 于禁は地に膝を突き、曹操に対し臣従の姿勢を取った。


「よかろう。余に仕える事を許す」


 曹操は倚天の剣を突きつけ、于禁を臣に迎えることを宣言する。


「余の影となりて、余の道を阻む者を滅戮めつりくせよ。

 見返りとしてそなたには、余の生き様をその眼に焼き付ける権利を供そう」


「承知……」


 短く呟くと、于禁は黒衣で全身を覆うと、再び黒い影と化して敵陣へと切り込んでいく。

 

 夏侯惇らは、呆然と今のやり取りを見ていたが……

 すぐに、“いつものこと”だと割り切る。


 彼らの知る曹孟徳は、実際こんな男だった。

 人間に強い関心を示し、能力があるならば誰であろうと登用する。

 それは、于禁のような不遜な態度を取る男だろうと例外では無い。


 そして、曹操の強さの秘訣は、まさしく于禁が言ったとおり、清濁を平然と併せ呑む器量にあったのだ。





 袁紹軍本陣……


 荀或は、敵の攻勢が変化したことを察知していた。

 諸侯同士を分断して、内紛を防ぐ策は既に敵に見抜かれていると見ていいだろう。


 董卓軍の主だった軍師といえば、李儒と賈栩がいるが、李儒は主に朝廷内での汚れ仕事に真価を発揮する策士だったと聞く。

 ならば今の相手は賈栩……

 大陸中の名だたる軍師を記憶している荀或ですら、涼州出身ということ以外何も分からない、謎に包まれた男だ。

 だが、素性が謎であろうと、一度軍略で戦ってみれば、その卓越した軍師の才は嫌でも分かる。

 実力至上主義の董卓軍において、武力を持たずして軍の統率を許されているだけのことはある。

 

 ここからが正念場だ。敵も、少しずつこちらの隙を見つけて攻勢を強め始めている。

 荀或も、軍を操ってそれに対抗しなければならない。

 諸侯同士の衝突を抑え、かつ、敵の侵攻も抑える。

 極めて緻密な計算を要する難しい采配を迫られているが、荀或に気負いの色は無い。

 自分はただ、曹孟徳に認められた才を信じ、己の全力を尽くすだけだ。


 そんな中……

 

 あまりにも意外な知らせが、本陣へともたらされる。

 それは……





「全軍、包囲を解いて撤退せよ。虎牢関を放棄し、洛陽に帰還する」


 賈栩は感情を殺した声で、全軍に指示を下す。


 全軍撤退……

 

 董卓自らの命令となれば、賈栩には異の唱えようも無い。

 俄かに信じがたいが、虎牢関にいる董卓に何かあったのだろうか。

 董卓とて完全無欠の怪物では無いのだから、何か予想外の事態が起こる可能性もあるだろう。

 

 それでも、守りの要害である虎牢関をあえて捨ててしまうのは、戦略上賢い選択とは言い難い。

 董卓ほどの男が、それを理解していないはずは無いのだが……

 

 最も、そんな事より賈栩にとっては、敵軍の軍師との対決が流れたことが一番の心残りだった。

 あの軍を率いているであろう軍師は、久々に己の脳髄を完全燃焼できそうな相手だった。

 こちらも敵も、互いの目論見を知り、ようやく智謀を尽くしての戦が始まる矢先に、突然の撤退命令……

 勿論命令に逆らう意思は欠片も持ってないが、賈栩は大変惜しく思えた。

 

 しかし、そんな感傷も長くは続かない。

 自分は軍師という名の駒だ。

 命令に服従するのは当然で、己の戦に拘るようでは駒としての身分を逸脱してしまう。

 それを良く理解している賈栩は、気持ちを切り替え、軍を迅速に後退させる。


(確か、虎牢関に向かったのは曹操の軍だったか……

 奴が董卓様を倒した? だとすれば……)


 見極めなければならない。董卓を越えたかもしれない存在の真価を。

 賈栩の中では、謎の軍師と同様に、曹孟徳に対する興味が芽生え始めていた。





「撤退だと……?」


 敵軍の突然の撤退に面食らったのは、袁紹らも同じだった。

 董卓軍の後退は実に鮮やかなもので、風が吹くよりも早い後退で、殺気の余韻すら残していない。


 荀或は、あまりに急な撤退に罠の可能性も考えるが、敵は虎牢関にすら戻らず、そのまま洛陽へ逃走しているという。

 あの軍師が、多少形勢が不利になったぐらいで勝負を捨てるだろうか……

 違和感を覚えつつも、敵軍に何か不測の事態が起こったのだと推察する。

 軍師の意すら超越する、何者かの意思が及んだのだ。


 やがて、典韋と許楮が本陣に戻ってきた。

 許楮は典韋の肩に乗り、ぐったりと身体を伸ばしている。


「………………」

「んあ〜〜荀或〜〜〜もうおらお腹ぺこぺこだぁ〜〜

 何か喰わせてくれだよぉ〜〜〜」


 無言の典韋と、呆けた声で食べ物をねだる許楮。


「そうですね…… そろそろ曹操様の下に戻りましょうか」


 荀或は立ち上がり、袁紹に対して一礼する。


「袁紹様、此度は我が主の要請を聞いていただき、大変感謝しております。

 ありがとうございました」


 この礼には、荀或自身の感謝も篭っている。

 大きな戦を経験し、強敵と智で渡り合うことで、自分はまた軍師としても成長できたのだ。

 この経験で、いずれは曹孟徳をたすけることができるだろう。

 

「いや、こちらも貴公の采配のお陰で窮地を免れた。礼を言おう」


 あの傲岸不遜な袁紹が他人に礼を言うとは……

 居並ぶ側近達は目を丸くする。


「それで…… これから曹操の下へ戻るのか?」

「はい。僕としても曹操様と今後の事を協議しなければなりませんから」

「……どうだ荀或よ。曹操よりも、この袁紹に仕える気は無いか?

 貴公ほどの逸材ならば、褒賞は思いのままぞ」

 

 突然の引き抜きの申し出。

 袁紹は、荀或の有り余る才を手放すのが惜しくなった。

 それに、名門荀家の出身ならば、袁紹軍に迎えるのに何の問題も無い。

 袁紹としては、これ以上無い程破格の待遇といっていい。


 しかし、荀或はきっぱりと断った。


「申し訳ありません。どれだけ恩賞を積まれようと、僕の居る場所は、曹孟徳のお傍と決めておりますので……」


「そうか……」

 

 自分の意に沿わぬ返答を受けたにもかかわらず、袁紹の顔は穏やかなままだった。

 曹操には、金や権力を越えて惹きつけられる魅力がある。

 袁紹も、荀或と同じくそれをよく理解していたからだ。


「では、失礼いたします!」


 荀或は典韋に持ち上げられ、肩に乗せられる。

 典韋は二人を乗せたまま、火を吹かして袁紹軍の本陣を後にした。



 去っていく典韋を見送りながら、袁紹は述懐する。


 荀或、典韋、許楮……いずれも優れた智や武を持つ者達だ。

 あの人材こそ、曹操軍の強さの秘訣。

 曹操という男の人間的魅力が、立場や財力を越えて優秀な将を集めるのだ。

 

 自分には、曹操ほどの魅力は無い……

 口惜しいが、それは認めざるを得ない。しかし……

 

(私は、貴様のように何の肩書きも持たぬ男ではない……

 私には袁家の血が、名門の威光がついている!)


 この世の全ての人材が、曹操に従うような変わり者なのか?


 否。

 人間は、権力や富に魅せられる生き物だ。それは人材とて同じこと。

 多くの人間は、己の才を、より高い見返りを与えてくれる主君の下で生かしたいと思うはず。

 曹操の下にどれだけ有能な将が集おうと、自分は金と権力でそれ以上に優れた、それ以上に多くの人材を集めればよい。


 曹操は所詮、闇夜でしか生きられぬ者が憧れる月に過ぎない。

 ならば自分は太陽となり、この中華を名門の威光で照らすのだ。

 名門袁家の下に集いし最強の軍勢。

 それが完成した時こそ、袁本初は曹孟徳を凌駕し、名門こそが至高である事が証明されるのだ。


 袁紹に一切の迷いは無い。

 名門の力で天下を統べることこそ、彼の決して揺るがぬ信念だからだ。


「ふふっ、ふはははは…… ふははははははは!!

 何をしておるか! 勝ち鬨をあげい! 太鼓を鳴らせい!!」


 宝剣を翳して、部下達を一喝する袁紹。

 唖然となっていた武将達は、慌てて声を上げ、鼓を力強く叩く。


「良いか! 逆賊董卓は、我らの力に怖れをなし、尻尾を巻いて無様にも逃げ去ったのだ!

 これは即ち、我ら連合軍の勝利に他ならない!!

 我々は、勝ったのだ!!」


 袁紹の雄叫びは、武将達全員に染み渡る。

 突然の撤退に動揺していた者達も、皆勝利の実感を掴み始める。

 沸きあがる歓声は、たちまち大きなものへと変わっていった。


「もはや董卓など恐るるに足らず!

 奴の時代は終わった! 我らの勝利が歴史を変えた!

 各々、今日という日の勝利を噛み締めよ!

 正義は必ず勝つのだ! 我らがそれを証明したのだ!

 誇れ! 誇れ! 誇れ! 勝利を誇れ!!

 巨悪は滅び、新しい時代が幕を開けるのだ!!」


 武将達の歓声は最高潮に達する。

 袁紹はかつてない陶酔感に浸りながら、さらなる時代の先を見据える。 


(そう、腐った王朝ではなく、輝かしい名門による統治が始まる。

 この…… 袁本初の手によってな!)




 虎牢関の戦いは、董卓軍の突然の撤退によって連合軍の勝利で幕を閉じた。

 

 袁紹の煽動もあり、連合軍は勝利に沸き立っていた。

 実際、守りの要害である虎牢関を捨てた董卓軍には、もはや本拠地洛陽しか残されていない。

 

 だが、誰が予想しえただろうか……


 董卓が、あのような神も恐れぬ暴挙に打って出るなどと…………


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