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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第四章 燃える洛陽(二)

「…………」


 董卓軍本陣で指揮を執る賈栩の顔からは、いつしか笑みが消えていた。


 ほんの数刻前だ。歯車が狂い始めたのは。

 膠着状態は変わらないが、現在はこちらの被害が増え、敵軍の守りは堅くなっている。


 勿論、一時の有利不利などで戦況を察することなどできない。


 戦とは生き物。

 個々の武将の力量、天候の変化、その時々の天運が勝敗を分けることなど頻繁ざらにある。

 完璧な軍略を持って制しようとしても、決して上手く行くものでは無い。

 

 それは十分に理解している。

 むしろ、そんな戦の道理も弁えず、天才軍師などと自惚れている輩を陰で嘲笑っているぐらいだ。


 軍師の役割とは、戦を“御する”のではなく“導く”こと。

 智謀の限りを尽くして、脳髄を完全燃焼させ、軍略を組み上げるのは、

 結局のところ“勝てるかもしれない”雰囲気を造る程度の事でしかない。


 しかしこの雰囲気と言う奴が中々重要で、確固たる軍略があると無いとでは兵の士気は大きく違ってくる。

 逆に、軍略で雁字搦めに縛った結果、全くの逆効果を生んでしまう場合もままある。


 最終的には、戦の勝敗は兵の数や質、天運、地形などあらゆる要素が組み合わさって決まるのだ。

 策など、その諸々の内のほんの一つでしかない。

 少々思惑からずれたといって、慌てて策を変えれば、勝てるはずの戦も逃してしまう場合もある。


 だからこの戦況の変化も、取るに足らないもの……

 と、本来ならば見なすべきなのだが…… 

 


 しかし……今の状況に対し、賈栩は危険信号を感じずにはいられなかった。


 今は些細な瑕疵に過ぎないが、放っておけばいずれこちらに致命傷を与えかねない……そんな予感が。

 第六感などという非論理的なものを信じるのは軍師の思考ではないが、賈栩は己の直感をそれなりに信頼していた。


 何かが決定的に変わった――斥候から届けられる僅かな報告から、そんな予感を感じずにはいられないのだ。


「……新たに倍の斥候を投入する。

 しばし攻め手を緩め、敵陣の把握に専念しろ。

 どんな些細なことでも構わん。敵軍に関する情報は、逐一私に報告せよ」


 陣図を睨みつけたまま、賈栩は配下に命令する。


 戦の風向きが、変わろうとしていた。





「ぎひひひひ! ぎひひひひひひ!」

 

 徐栄が長い腕を振るうと、長大な鎖が蛇のごとく踊る。

 連合軍兵の体を絡め取り、細身に似合わぬ膂力で締め上げる。

 肉の軋む音、骨の砕ける音……それを間近で聞くのが、徐栄にとって何よりの快楽だった。


「弱者は死ね! 死ね! 死ねっ! ぎひひひひひ!」


 殺戮を続けながら、進軍する徐栄軍。

 だがその時……


 耳をつんざく爆音が鳴り響いた。

 

「ぎひっ! 何だ!?」


 二発、三発。

 轟音が鳴るたび、徐栄配下の将兵達は爆発に巻き込まれて吹き飛んでいく。


「砲撃か!?」


 急いで砲門を探すが、その必要は無く、“それ”は直ちに姿を現した。


 地平線の彼方から、巨大な陰が迫ってくる。


 天を突くような巨体。全身を覆った暗い銅色に光る甲冑。

 顔も兜に覆われ、一切の感情を表に出していない。


 背中から炎を吹かしながら、大地を滑空する典韋。

 その両肩には、二門の大筒が乗っている。

 大筒は、一定の間隔で砲弾を放ち、董卓軍に甚大な被害を与えていく。


 本来ならば、正体不明の敵が現れた時点で、一旦退くべき……それが賈栩の授けた軍略だ。

 だが、徐栄はこれまでの連勝で調子に乗っていた。


 大砲を撃つ謎の鎧武者に、最初は度肝を抜かれていたが……やがてその顔は、歓喜の笑みへと変わった。


「ぎひぃ! ようやくなぶり甲斐のある獲物が出てきたか!!」


 元々、軍略よりも己の武を頼みにする男である。

 賈栩としても、この徐栄が素直に言う事を聞くとは思っていなかった。

 

「このデカブツがぁ! 野郎を取り囲めぇ! 近づけば大砲なんざ怖くねーよ!」


 徐栄の命を受け、死を怖れぬ董卓軍の兵は、一斉に典韋に殺到する。

 騎馬隊の速度は、大砲が次弾を発射するよりも早く典韋に到達できた。

 

 数多の槍が、四方八方から典韋に襲い掛かる。


「………………」


 それでも典韋は無言のままだ。

 巨体からは想像できない機敏な動きで、体を大きく旋回させる。

 

 典韋を取り囲んでいた騎馬隊は、残らず首や胴を切断され、その場に崩れ落ちた。


「ぎひっ!?」


「………………」

 

 典韋の両手には、二丁の戦斧が握られていた。

 並みの将兵が使うにはやや大きいが、巨体の典韋にとっては片手で扱うのに丁度いい大きさとなっていた。


 大砲を撃ちながら、斧を振るって進撃する典韋。


 離れた敵は砲弾の餌食となり、近づく敵は鮮やかな切り口で両断される。

 

「ぎひひひひひ! 調子に乗ってんじゃ、ねぇぇぇぇ!」


 徐栄は長い両腕を大きく広げ、自ら典韋へと立ち向かう。



 彼の焦りには理由があった。

 董卓軍最強の将・華雄が、陽人であっさり討ち死にしたことだ。


 勿論、彼に同僚の死を悼む気持ちなど欠片も無い。

 最強最強と威張り散らす華雄を疎ましく思っていたぐらいで、死んでくれて清々したというのが正直なところだ。

 問題なのは、彼の戦死で董卓が、自分達の存在に疑問を持ち始めたことだ。

 

 華雄の死の報を聞いた時、ざわめく諸将に対して董卓は一言こう言った。


「脆弱な羽虫が一匹死んだ。それだけの事だ……」


 その一言で、場の騒ぎは即座に静まった。

 それは、華雄よりも弱い自分たちを暗に非難しているようで、徐栄らは生きた心地がしなかった。

 董卓に仕えるということは、そんな恐怖と日々隣り合わせなのだ。


 董卓は、華雄の名前さえ覚えていたか定かでは無い。

 いや、それは自分たちも同じ事。

 董卓の部下を見る目は、冷酷を通り越して、その存在すら認めていないようであった。


 弱者は死ね……

 それは、徐栄自身にも当てはまる事だった。

 もし董卓に弱者と見なされたなら、その先の末路は無残なものだ。


(何でもいい!とにかく殺して殺して殺して、董卓様に俺の存在を認めてもらう!

 そうしなきゃ、俺は……俺は!!)



 典韋の撃つ砲弾を、機敏な動きで回避する徐栄。

 両腕の鎖を放ち、典韋を縛りつけようとする。


「………………」


 典韋は両手の斧を振るい、鎖を弾き落とす。


「ぎひ……やっぱそう簡単にはいかねーか!!」

  

 向かってくる典韋に対し、徐栄は素早く飛び跳ねて距離を開く。

 仕掛けた時以上の速さで後退し、典韋と距離を取る。

 典韋はその距離を詰めようと、炎を吹かして突進する。


(ぎひひひひ! そうだ! 追ってきやがれ!)


 いつしか両者は、木々の立ち並ぶ林の中へと突入していた。 


(ぎひ! かかったな!!)


 直進する典韋が、叢に巧妙に隠された鎖に腿を引っ掛けた瞬間……


 周囲の木々から、無数の鎖が一斉に伸びる。

 鎖は縦横無尽に走り抜け、典韋を中心として大きな蜘蛛の巣を形成する。

 機敏かつ柔軟に動く鎖は、典韋の四肢から両肩の大砲に至るまで雁字搦めに縛り上げ、完全に動きを封じてしまった。


「………………」


 典韋は体を動かして鎖を引き千切ろうとするが、よほど頑丈なのかじゃらじゃら音が鳴るだけで皹一つ入らない。

 鎖は、周辺の木々に接続されており、抜け出そうと思えば全ての木を根元から引っこ抜くしかなかった。


「無駄だぁ! 俺様の“巣鎖陣そうさじん”にかかった以上、抜け出す術はねぇ!!」


 罠にかかった敵を嘲りながら、徐栄は背中から大きな蛮刀を取り出す。

 本来なら、鎖で首を締め上げて窒息させるか、首の骨をへし折るところだが、あの鎧武者が簡単に屈するとは思えない。

 ならば、一撃で脳天をかち割り、即座に勝負を決めるまで。


「ぎひひひひひひ―――――っ!!」


 地面を蹴って、天高く跳躍する徐栄。

 この位置ならば、砲弾の直撃を受ける心配は無い。


「死ねやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 手にした蛮刀を、典韋の脳天目掛けて振り下ろす。

 これで勝負は決まる……はずだった。



「………………」


 信じ難い現象が起こった。

 典韋の鎧の背部が開き、中から複数の節に分かれた、蛇腹状の“腕”が飛び出てきたのだ。

 その腕の先端には、一丁の鉄斧が握られている。

 鎖の束縛を受けない第三の腕は、落下してくる徐栄を、袈裟懸けに切り裂いた。


「がはっ……」


 斧の刃は、徐栄の肩から腰まで深々と切り裂いている。

 鮮血が舞い上がり、臓物が零れる。もはや勝負あった。


(隠し腕……だ……と……)


 弱者は死ね……結局自分自身で、その掟を全うしてしまった徐栄。

 薄れ行く意識の中で、彼は見た。

 

 典韋の兜の隙間から見える、たった一つの赤い瞳を……


 いや、あれは瞳なのだろうか。

 自分には、生命も意思も存在しない、無機質な赤い光にしか見えなかった。

 そもそも、あの鎧武者は人間ではなく別の……


「………………ぎひひひひ」


 最期に気味の悪い笑みを浮かべて絶命し、その亡骸は地面に落下した。



「………………」


 続けて、鎧の腿の部分から、第四、第五の隠し腕が現れる。

 それらの腕にもやはり斧が握られており、自分を拘束する鎖を断ち切っていく。


 自由になった典韋は、五本の腕に五丁の斧を備えていた。

 だが、その内三本はすぐさま収納する。

 あくまでこれらの腕は、敵の不意を打って使う隠し武器だからだ。


 典韋は敵将を討ち取った歓喜など微塵も示さず、次なる戦場へと疾駆する。





「我……屠ル……」


 斧を振るい、敵兵を次々と屍に変えていく牛輔。

 董卓の恐怖によって感情を全て殺され、

 『恐騎兵』の隊長となった彼には、董卓以外への怖れや、焦りといった感情は存在しない。

 ただ董卓の命じられたとおり、彼に仇名す敵を屠っていくだけだ。


 そんな恐騎兵が猛威を振るう戦場で……一人の小柄な少年が、とぼとぼと歩いていた。


 足まで伸び、顔を覆いつくすような長い黒髪。

 女性のように柔らかな顔立ちだが、黒い眼は半開きで、その表情はどこか虚ろだ。

 囚人が着るような簡素な衣服を着用し、白と黒の縞々模様が施されている。


 だが、最も人目を引くのは、その容姿よりも彼の左手に繋がれているモノだろう。


 手枷のような腕輪から鎖が伸びている。

 その鎖は、彼の身の丈の倍以上もある、巨大な鉄球と繋がっていた。


「んあ…………」


 黒髪の少年は、虚ろな瞳で大地を見下ろしながら、とぼとぼと歩く。

 外見だけでは、まるで責め苦を受けている罪人だ。

 華奢な体格だが、鉄球を引きずったまま歩ける辺り、想像以上の膂力の持ち主と思われる。


 彼は屍のようにひっそりと、何の怖れもなく、恐騎兵の陣形の中に侵入した。



「我……問ウ……何……奴……」


 突如現れた不気味な闖入者を見下ろしながら、牛輔は問う。

 

「んあ〜〜……おらの名は許楮きょちょ

 字は仲康ちゅうこうっていうだよ。おめぇ〜が敵将だか?」


 その儚げな外見に似合わぬ、方言丸出しの言葉で喋る許楮。


「我……牛輔……」


「ん、荀或が言ってた奴だなや。ちゃっちゃと片付けるっぺ」


 次の瞬間……両端から恐騎兵が襲い掛かる。 

 殺気すら感じさせない、迅速なる包囲と奇襲。

 許楮は、まるで気づいていないかのように呆けている。

 そんな彼がした事は……

 

 ただ、左手を振っただけだった。



 左手を無造作に振る。それだけで、鎖で繋がれた鉄球がまるで軽い紙玉のように宙を舞った。

 だが、中身は奥まで詰まった正真正銘の鉄球だ。

 

 肉が潰れる音が次々に聞こえてくる。

 その重量と加速をまともに喰らった敵兵はことごとく肉塊に変じていった。

 着地した鉄球には餌食となった者の血と肉がこびりつき、地面を赤黒く濡らした。

 許楮に襲い掛かった恐騎兵は、残らず鉄球の餌食となった。


「ふう……」


 一息つく許楮だが、疲労の色などは微塵も見せない。

 再び首をだらりと下げたその時……


「我……断ツ……」


 髑髏の戦斧が、背後から振り下ろされる。

 小さな体が幸いしたか、許楮は素早く横に跳んで致命の一撃を避ける。

 落下した鉄球が地面に沈み、続けて許楮が音も無く着地する。


「んあ、おめさ、思ったよりすばしっこいだなぁ」

 

 距離を取って牛輔と対峙する許楮。

 全身を覆う甲冑から鈍重な印象を抱きがちであるが、牛輔は鎧を着ても機敏に動けるだけの脚力を備えていた。


「我……駆逐スル……」

 

 斧を両手で持ち、刺すような殺気をぶつけて来る。

 恐怖から生まれた、純粋にして濃密な殺意の奔流。

 

 一方、許楮はその全てを受け流すような、呆けた表情をしていた。


「ほんだら、いっくだよ〜〜」


 地面を蹴り、鉄球ごと飛び上がる許楮。長い黒髪が宙にたなびく。

 手枷の大鉄球など存在しないかのような、軽やかな跳躍だ。

 許楮は空中で器用に姿勢を保つと、左手を振り下ろす。

 鉄球が宙を舞い、牛輔目掛けて落下してくる。


「我……潰ス……!」


 牛輔もまた、両手で構えた斧を肩から上まで持ち上げ、渾身の力で振り下ろす。

 剛力と剛力。戦斧と鉄球がぶつかり合い、文字通り激しい火花を散らす。

 両者の力は拮抗しているように思われたが……


 鎧の下に隠された、牛輔の二の腕に血管が浮く。

 彼の剛力が一瞬だけ勝り、許楮の鉄球を弾き返すことに成功した。


「んああ〜〜〜〜」


 気のない声を上げて、吹っ飛ばされる許楮。

 空中でくるりと回転して、またも綺麗に着地する。


「我……粉砕スル……」


 戦斧を手に、歩を進める牛輔。

 全身に漲る殺意は、いよいよその濃度を濃くしていく。


 対する許楮は、競り負けたというのに緊張感の欠片もない。


「やるなあ〜〜びっくらこいただ。

 おらの鉄球を真正面から止められる奴なんて、典韋と曹仁将軍だけだと思ってただよ。

 もーとく様の言ってたとおりだぁ。やっぱ中華は広ぇなぁ」


 口許にあどけない笑みを浮かべて、牛輔を見る許楮。


 ここで、彼は信じ難い行動に出る。

 鉄球の繋がった左手首の手枷を、何と自ら外したのだ。

 今の許楮は、完全な徒手空拳である。


 勝負を投げたのか……


 いや、彼の陰の篭った表情が、それは否であると告げていた。

 

「ほんだら……おらも本気でいくだよ」


 牛輔の吹き荒れる嵐のような殺意と違い……

 許楮の戦意は、全身にねっとりと粘り付いていた。

 恐怖を知らない牛輔は何も理解できなかった。

 その殺意が、自分のものと同等か、それ以上の密度を有していることに……



「“利き腕”を使うだ」



 そう言って、これまで一度も使ってない“右腕”を、準備運動とばかりに振り始めた。



「我…………」


 両者の距離が縮まっていく。

 先ほど同様、牛輔は戦斧を構えているが、

 許楮は手枷のついた左手を後ろに下げ……代わりに右腕を、前方のやや斜め下に突き出している。


 互いが互いの必殺の間合いに入った瞬間…… 



「滅ス!!!」


 最速の踏み込みで、最大の膂力で、戦斧を振り下ろす牛輔。

 許楮もまた、地面を蹴り、背後の鉄球を蹴りつける。

 その反動によって、さらなる加速を得、小柄な体を矢のごとく発射する。

 鉄球が無くなったことで、その速度はさらに増している。



 大小二つの影が交錯する――



「………………」


 駆け抜けた牛輔は、無言のまま動かない。

 斧を握り締めたまま、彫像のように固まっている。


 その斧は、鮮血でべっとりと濡れていた。



「んあ…………」



 許楮がそう呟いた瞬間……


 牛輔の戦斧に皹が入る。亀裂は瞬く間に広がり斧の柄から上を粉々に砕き散らした。


「我…………」


 虫の鳴くような声を漏らす牛輔。

 

 彼の、心臓を含む胸の左半分は……


 巨大な丸太に抉られたように、ごっそりと消失していた。 


 血塗られた許楮の右手には……今だ僅かに鼓動を続けている、牛輔の心臓が握られていた。



 純粋な暴力。そうとしか言いようが無い。

 あの“右手”から繰り出された一撃は……

 鋭利な戦斧も、堅牢な甲冑も、鍛え抜かれた筋肉も、軽々と破り散らして、自分の身体に風穴を開けた。

 抗うことすら敵わない、絶対的な暴力。


 その瞬間、彼が回想したのは、同じく規格外の暴力を振るう、董仲穎の姿だった。

 董卓の拳を喰らい、たまたま生き延びた……

 彼が董卓の奴隷になったのは、それが切欠だった。


 董卓の膂力は確かに常軌を逸している。

 だが、今受けた一撃は、あるいはそれよりも――


「我……我ハ………………」


 死の間際に、封じられた心は解放されたのか。

 

 彼自身知る事の無いまま、牛輔の生命活動は停止した。

  


「さてと……」


 許楮は再び手枷を嵌める。


「運動したから、お腹が減ってきただ。

 荀或のとこ行けば、何か喰わせてくれっかな〜〜」


 呑気な声でそう言いながら、鉄球を引きずり彼はその場を後にした。





「徐栄、牛輔両将軍、何者かによって討ち取られました!!」


 主力武将二名の戦死は、董卓軍に揺さぶりをかけた。

 この後も、部隊の壊滅の報告が相次ぎ、もはや形勢は連合軍に傾きつつあった。

 

(徐栄に牛輔……奴らは数で押してどうこう出来る相手ではない。

 個々の戦闘力に優れた将も、何人か投入されていると見るべきだな)


 賈栩は再び陣図に目を走らせる。

 間違いない。今の連合軍は、あえて諸侯同士を分断して戦っている。

 それによって諸侯同士の内紛は無くなり、連合軍に付け入る隙は消えつつある。


(僅かでも采配を間違えれば、戦力の減衰に繋がるこの分断……

 しかし、この布陣は個々の働きが、全体の戦果に繋がるよう奇跡的に噛み合っている。

 いや、奇跡などでは無い。

 全ては巧みに計算し尽くされている……この陣形を立案した、何者かの手によって……!)


 何者か……

 

 その誰かが、途中で全ての指揮権を集め、軍を再編成したのは明らかだ。

 賈栩はその人物に並々ならぬ興味が湧くのを止められなかった。

 連合軍の全てを、駒のように扱ってみせる傲岸かつ繊細な軍略。


 これを立案した人物は、稀代の天才に相違ない。

 いずれ必ずや時代を動かす……否、もう既に動かしている。


 

 賈栩の軍略が、音を立てて軋み始めていくのがわかる。

 たった一人の異才によって、意味を失った軍略は、もはや壊れるのを待つのみである。



 ならば……



(壊れた策ならば……壊れたまま動かせばよい!)



 賈栩の表情は、抑えきれない歓喜に沸き立っていた。


 ここからだ。彼の軍略はまだ、始まってすらいない。

 渾沌に渾沌を重ね、不条理で不条理を動かすのが賈栩の軍略だ。

 今までの作戦など、単に教科書をなぞったに過ぎない。


 あらゆる計算が意味を失い、戦局が無明の闇に包まれた今こそ……

 賈文和の迷宮の如き脳髄は、その真の力を発揮するのだ。

 

「いいだろう……本気あそびは終わりだ。

 ここから先は、この賈文和の遊戯ほんきでお相手しよう……」


 己の毒々しき才を十全に発揮できる好敵手に巡りあえた事に、賈栩は董卓への恐怖さえも忘れて歓喜に震えていた。


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