第二十四章 赤壁の戦い(六)
「第十五、第十八艦は左方へ進め! 第二十艦、突出しすぎるな!」
旗艦の内部で、呂蒙は伝令達へ指示を飛ばす。
自分でも驚くほどに、彼は指揮官としての役割を十全に果たしていた。
頭脳は高速でその場の最適解を導き出し、滑らかに指示を放つことが出来る。
これも、周瑜が自分を信じてくれているという、心の支えがあればこそだ。
それは、彼が現在傍にいなくとも、何ら変わりはない。
(周瑜様、自分は貴方の信じてくださった自分を信じます。ですからどうか、御武運を――!)
その男は、音も無く、気配も無く、忽然と姿を現した。
眼前にいたのは、思わず息を飲む程の美男子だった。
美男ならば、曹操軍にも張合という男がいるが、宝石で出来た花のような、絢爛さを感じさせる美しさであることに比べ、
彼は、氷で出来た彫像のような、精緻で完璧な、されど人を寄せ付けぬ美貌を湛えていた。
「こ、こいつ、知っているぞ!」
「周瑜だ! 周公瑾だぁ!!」
孫呉の実質的な総司令官が、眼前にいる。
驚愕、動揺、興奮、昂揚、敵意、殺意、義務感、使命感、功名心、様々な感情が瞬時に沸騰し――散った。
武器を構える暇も、仲間を呼ぶ暇も与えられず、周瑜を取り囲んでいた兵士達は、首から上が消失していた。
数十の生首が、生前の表情を留めたまま、ぼとぼとと落下する。
遅れて、鍔鳴りの音が響く。
凌統の父、凌操から教わった居合術。天才、周瑜は僅か一年でそれを極め、更なる魔剣へと昇華させた。
抜刀の勢いに乗せて体を回転させた、全周囲への居合抜き。
「ひっ……」
瞬時に三十人近い仲間が殺され、取り囲んでいた兵士達がたじろぐ。
その隙は、眼前の怪物に対してあまりに無防備であった。
円弧を描く斬撃が、直線へと変わる。周瑜の姿が消失し、前方にいた数十の兵が、瞬時に薙ぎ払われる。
凌統の居合は、敵を瞬殺する速度に重きを置いた技であるが、周瑜のそれは、速さで上回るばかりか、無双甲冑の突進にも似た破壊力を備えていた。
再度納刀/抜刀。
超速の刃は、光の軌跡さえも捉えることは出来ず、ただ咲き誇る血の華だけが、“斬った”事実を証明する。
抜刀の瞬間を知覚できない敵兵の目には、柄に手をかけた周瑜がただ歩いているだけで、死を振り撒いているように見えただろう。
白刃で命を刈り取り、赤い泥濘に沈める、蒼き死神。
絶対の死を理解した兵士達は、我先にと江に飛び込んでいく。
刀には、返り血が全くと言っていい程付着していなかった。
出血するよりも速く人体を切断し、血が降りかかる前に空間を通過する程の超速で、剣を振るっているのだ。
「あれだ! 周瑜のいる、あの船を狙え!!」
隣接する荊州艦が、周瑜のいる船に狙いを定める。
友軍だろうと構いはしない。あの男を討ち取れば、褒賞も栄達も思うがままだ。
「撃てぇ――っ!!」
砲音が轟き、弾丸が飛翔する。
次の瞬間……砲撃手は、信じがたい光景を目の当たりにすることになる。
砲弾を見た周瑜は、躊躇なく弾丸に向かって跳び立つ。
飛んで来る弾丸を足場として、再度跳躍。向かいの船へと飛び移る。
その光景を目にしても、砲撃手の表情が変わることはなかった。
視覚から得た情報が脳に伝わる前に、彼の顔面は上下に分かたれていた。
無色無音の剣風が吹き荒び、鮮血と臓物が手を取り合って舞い踊る。
「征くぞ! 我らも周瑜殿に続くのだ!!」
船首に立ち、両刃の剣を掲げて号令を発する程普。飛来する矢や弾丸は全て、左手の盾で防ぎきる。
周瑜の参戦と殺戮で乱れた戦線に、程普率いる部隊が突入し、傷口を拡げていく。
「うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ――――ッ!!」
黄蓋は、船から飛び立つと、両腕の楕円形の盾を、体をすっぽり包むように閉じ合わせる。
そのまま垂直に高速回転をかけ、敵船へと突っ込む。
自ら弾丸と化した黄蓋の突撃は、敵船に風穴を開け、浸水、沈没させる。
「奇襲、成功……」
韓当の首狩鎌が、その名の通りの機能を十全に発揮する。乱れ飛び、河中へ生首が落下する。
孫堅の代より仕えし歴戦の四将軍。彼らの武勇はまるで衰えが無いどころか、更に冴えを増している。
なお、四将軍の内、戦場に出て来ているのは白、黄、黒の三色のみ。
残り一人、赤の朱治は、柴桑で孫権の護衛についていた。
水面に巨石を投げ込めば、同時に大きな波紋が起こる。
周瑜の参戦は、彼自身の武力と指揮能力以上に深刻な影響を、荊州軍にもたらしていた。
それは、周瑜という存在そのもの。
大将首を狙って戦力を集中させれば、他が疎かになる。予め立てていた作戦や戦術も、変更を余儀なくされる。
結果、荊州軍は更なる大混乱に陥り、死者と沈没船の数を増やしていく。
水上を自在に駆け回る無双甲冑、水虎の存在も、荊州軍の撹乱に大きな役割を果たしていた。
周瑜は、ただ漫然と敵を屠っているのではない。
彼の脳内では、今も目まぐるしく計算と演算が続いている。
刹那の集中も切らすことなく、対人と対軍の思考を同時に展開する。
身近な敵から戦場全域に至るまでを脳内に捉え、自分がどう動けば、敵はどう動くか、味方はどう動くか。
自分という、曹操軍垂涎の首が、どのような影響を及ぼすのか。
周瑜はそれが導く結果も、完全に計算して、戦場を掌握していた。
彼は一人にして一軍。自ら前線に出て軍を率いる軍師の枠を越えた軍師。
周瑜の研ぎ澄まされた采配が、孫呉軍を生きた怒涛へと変える。
甘寧と交戦中の張遼も、周瑜の存在に気づいていた。
しかし、手を出すことはおろか、目を配ることさえも今の彼には命懸けだった。
「あははははははははははははははっ!!」
甘寧の黒渦は、彼の哄笑を巻き込んで、更なる猛威を振るう。
彼が際限なく撒き散らす狂気に、大気が痺れているような感覚を覚える。
張遼は、これ程殺意を振り撒きながら戦う相手と立ち会ったことがない。
まず甘寧を見て、張遼の脳裏に浮かんだのは、かつて自分が仕え、同時に斃すべき目標とした男……中華最強・呂奉先だ。
ただ闘争のみを求め、乱世の野を駆け回った戦慄の鬼神。
甘寧の猛攻、狂乱ぶりは、その呂布を髣髴とさせる。
甘寧の実力は、自分と互角であることからも、さすがに呂布には劣る。
しかし、その殺意の純粋さにおいては、呂布でさえも一歩を譲るだろう。
この男を形成するものは“殺意”。
髪の先端から爪先に至るまで、血の代わりに“殺意”が流れているような男だ。
眼の色、吐息、そのたたずまいの全てから、止め処なく溢れる“殺意”が感じられる。
この男は、人を殺すことだけを考え、弛まぬ探究を続けてきたのだろう。
妥協も諦観も慢心もなく、寝てる間も起きてる間も、ただひたすらに人を殺すことだけに執念を燃やして来たのだ。
よもや、孫呉がこれ程の怪物を擁していたとは。やはり中華は広い。
自分程度の強者など、外に目を向ければ幾らでもいる。
一軍の将としては正しくないのかもしれないが、自分は今、彼らとの戦に充足感を覚えている。
「愉しそうだねぇ! オジサン!!」
そんな張遼の心理を見透かしたように、甘寧が叫ぶ。
愉しい、か。自分が強さを求めるのは、誰のためでもない、所詮自らの精神的充足のためであるが、それを愉しいと言われても否定できない。
立ち会って分かったが、この男の最大の武器は、異常なまでの観察眼だ。
彼の眼は全てを見透かす。筋肉の微細な動き、相手の心理状態を具に読み取る。
張遼が彼と渡り合えているのは、体力、筋力で上回れているからに過ぎない。
先読みの技量においては、彼には及ばないと言わざるを得ないだろう。
彼が、いかな半生を送り、ここまで殺戮に酔い痴れるようになったのかは分からない。
ただ、彼の溢れんばかりの殺戮への衝動が、彼の強さを培っているのは間違いないだろう。
彼の強さは、人間を殺傷することへの病的な好奇心から生み出されたものだ。
不思議と、不快に感じなかった。甘寧の“それ”もまた、強さの一つの形であると受け入れる。
武人など、どれだけ取り繕ったところでただの人殺しに過ぎない。
戦など、所詮は命のやり取り、殺し合いでしかない。
その点において、自分とあの男に何の違いがあろうか。
ならば、闘争という“過程”ではなく、殺害という“結果”に全ての力を注ぐ甘寧は、武人としてこの上なく理想的な資質を持っている。
無論持っているだけではない。
彼の技量は、その殺人への欲求を糧として、どこまでも熱く強く鋭く、磨き上げられている。
例え歪んでいようとも、この男は紛れも無く超一流の武人。
ならば、自分はそれに相応しい敬意を払うのみ。
そして、武人が武人に払う敬意の形など、ただ一つしかない。
全身全霊で打倒し、その強さを超克する。
張遼は大輪刀を構え、敵手に更なる気魄と闘気をぶつける。
「来るがよい、殺戮の申し子よ。貴殿が無数の屍と引き換えに得た“強さ”……それを乗り越えて、私は更に上に行く!」
「アハハハハハハハハハ!!! いい! いいよぉ!! 僕を殺して御覧よぉ!
僕を殺したくて殺したくて仕方が無い君を殺したら、きっと最ッ高ォに幸福な気分になれるに違いない!!
アハハハハハハハハハハハハ!!!」
物理的圧力さえ伴った張遼の闘気。
それを受け止めるだけでなく、甘露を味わうように喰らい、狂乱の魔少年は哄笑する。
「奴が、周瑜か……」
曹仁の乗る船は、間も無く周瑜のいる主戦場へ到達しようとしていた。
今も奮闘を続けている彼の姿を見て、曹仁は息を飲む。
周公瑾。中原より南方では、その名を知らぬ者のいない天才軍師。
孫呉の大都督であり、現在孫軍を率いている総司令官。
実質的にも、精神的にも、孫呉の支柱である彼さえ討てば、孫軍は瓦解し、勝敗は決するだろう。
それが分かっていても、曹仁は勇んで掛かっていく気にはなれなかった。
その総大将が、自ら最前線に出て来ている。普通に考えれば、愚策としか思えない。
だが現状、曹操軍の誰もが、周瑜に触れることさえ出来ずにいる。
誰しも理解せざるを得ない。
アレは本物の怪物だ。
通常、武将には武人型と文人型の二種類が存在する。
いずれも、ある一定の年齢から歳を取らなくなる、人間以上の身体能力を持つといった点は共通しているが、武人型はその中でも特に腕力、脚力、体力と戦闘能力に秀で、世間で言う武将とは通常この武人型を指す。
対して文人型は、身体能力自体は並の人間をやや上回る程度で、武人型に比べれば常人と大差ない。
ただし、その分彼らは頭脳が発達しており、生まれついて高い知能指数、演算能力を持つ。
そんな彼らにとって、戦局を予測し、戦術を組み立てる軍師はまさに天職で、文人型の数は武人型の万分の一にも満たない稀少種ということもあり、どの軍でも重用される。
大戦における軍師の重要性は、あえて語るまでもない。
それ以外は文臣や官僚となって政に携わる者、文学者や、研究者の道を選ぶ者もいる。
彼らは戦場で、あるいは議場で、刀剣矛槍を持つのではなく、議論を競わせ謀略を練り上げ、時には国家の行方すらも左右する。
このように、稀少かつ重要な文人型であるが、更に稀少な存在として、武人型と文人型の混合型がいる。
代表的なのが、自分達の主、曹操だ。
彼のことは幼少期より知っているが、全てを見通す高い知能と、並の武将を上回る武力を持つ天才だった。
だからこそ、彼はあの泥沼の黄巾の乱に寡兵で参戦し、生き延びて来られたのだろう。
武将の力と軍師の知略、双方を併せ持つ者は、一軍の統率者、あるいは“王”たる素質があるとされる。
武将は基本的には皆、武に生きる求道者達だ。
優れた知略に感嘆し、敬意を払うことはあっても、やはり相応の武力を持つ者で無ければ、心から仕えようとは思わない。
そのため、王や領主には武人型が大半を占め、文人型はその裏方として働くことが多い。
しかし、文武共に一流である曹操だが、武においては夏侯惇や張遼といった将軍級には及ばず、頭脳も荀或や郭嘉らには一歩を譲る。
一流の混合型は、己が長所を超一流になるまで伸ばした武人や文人には及ばない……それが常識だ。
最も、曹仁が曹操に仕えているのは、単なる能力値では計れない“何か”を感じ取ったからなのだが……
ところが、その常識を覆す存在が目の前にいる。
周公瑾、彼は一軍を自在に操る軍師たる才能を持ちながら、刀槍と砲火のただ中にあっても、戦闘専門の武将を圧倒しうる、超一流の武力を兼ね備えている。
曹仁が見たところ、その強さは関羽や張遼に匹敵するだろう。
文武双方を極めた、武将の枠にも収まらぬ不世出の天才。
孫呉が、絶望的な戦力差を知りつつ、曹操に抗う道を選んだのも、彼の存在があればこそだ。
あの呂布にも似た、威圧感と絶望感がひしひしと感じられる。
立ち会えば、死ぬ……
曹仁の脳裏に去来するのは、絶望的にして厳然たる事実のみだった。
彼と単騎で勝機を見出だせるのは、我が軍では張遼か許楮ぐらいだろう。
しかし、張遼は今甘寧と交戦中であり、許楮は曹操の護衛についていて動けない。
現状の戦力で、彼を何とかするしかない。数分でよい。
時間を稼げば、後方に控える曹操軍本隊が、数で呉軍を圧殺する。
恐怖を義務感と忠誠心で噛み殺し、前へ飛び立とうとした時――
荊州軍の艦隊が、左右、あるいは後方へと移動していく。一定の調子で鐘が鳴り響き、兵士達に合図を伝える。
船上の兵達は、戦闘を放棄して、我先にと河へ飛び込む。
それらと入れ代わるようにして、新たに後方から、霧海を破りて黒い船影が姿を現す。
鈍色の岩壁が迫り来る……孫呉の兵達は、一瞬、そんな錯覚に囚われた。
無論、それらは山や岩などではない。それ以上に強固で恐ろしい、曹操軍の甲鉄艦隊だ。
船体は鉄甲で覆われており、火矢や砲弾の類は受け付けず、各所に李典轟雷砲を改良および量産した火砲が備え付けられている。
曹操軍の資産と技術力があってこそ実現した、これまでの水戦の常識を越える艦隊を間近にして、孫呉の兵達は圧倒されていた。
数十隻の甲鉄艦は、鏃型の陣形を組んでいる。
その中央に、真紅の軍旗を掲げた、一際巨大な戦艦が鎮座していた。
曹操軍の旗艦、“瑞鳳”。
あの中に曹操が、敵の首魁がいる。彼奴めを討ち取れば、我々の勝利だ。
この呉の地を守り抜くことができる。主君に勝利を捧げることができる。
呉の将らの胸に、期待と希望の灯が点った。
だが、彼らは孫軍、中華で最も水戦に長けた一団である。
故に、彼らは希望と同時に、絶望を抱かざるを得なかった。
旗艦瑞鳳を取り囲む曹操軍の艦隊には、一部の隙もない。
陣形を見れば、それが水戦に熟練した者の指揮であることが一目で解る。
現状の戦力で挑めば、総員玉砕は火を見るより明らかだ。
されど、今ここに集ったのは、周瑜、甘寧を初め、孫呉の最精鋭。
曹操の首のみを狙い一点突破を仕掛ければ、あるいは……
程普や黄蓋の内で、危険な誘惑が首をもたげる。少し離れた位置にいる周瑜を見遣ると……
「全艦、間もなく射程圏内に到達します!」
「ドーックックックッ! よくもやってくれやがったなぁ孫呉の船虫どもめ。
だぁが、調子に乗るのもここまでだ。この甲鉄艦隊の火力で、纏めて長江の藻屑に変えてやらぁ」
最初の奇襲で配下を大勢殺された蔡瑁だが、彼の顔には怒りの色はなく、ただこれから喜悦のみが浮かんでいる。
彼にとっては、配下など使い捨ての駒であり、身を守るための盾でしかない。
そんな生き方をしてきたからこそ、彼は水賊の頭目に上り詰めることが出来た。
盗み奪い殺すが賊の本性、それを味方に適用せぬ法はない。
程旻は、いつもの如く巌のような無表情を保っているが、号令を発する直前、曹操の顔を見た。
周瑜が前線に出ていることについては、既に報告を受けている。
総司令官として孫軍を束ね、類い稀なる才を持つ傑物。
優れた人材ならば敵味方問わず好む曹操が、直接会おうという気を起こしてもおかしくない。
曹操は、程旻の思考を読み取ったのか、先んじて告げた。
「余のことを気にする必要はないぞ。そなたの思う通りにしてみせよ。
この場で周公瑾を滅しようと、余は一向に構わぬ」
「たりめーだ。また妙な気を起こしやがったら、ふん縛ってでも止めてやるからな」
同様の危惧を抱いていたのか、夏侯惇は鼻を鳴らす。
程旻は、主に頷き返すと、伝令に対し命を発す。
「全艦、攻撃開始――」
周瑜の声には、毫ほどの迷いもなかった。
「全軍、撤退せよ」
後方の艦から、退却の鐘が打ち鳴らされる。周瑜が何らかの合図を送った様子はない。
彼は、曹操軍の艦隊が出てくる時間を予め読み、呂蒙にその時刻に鐘を鳴らすよう命じたのだ。
「迅速、帰還……」
「撤退だぁ――っ! 撤退せよ!!」
周瑜の決断を聞いた程普、黄蓋、韓当の動きは速かった。
敵兵を牽制しつつ、自軍の兵に叫びかける。
一度逃げると決めれば、後は容易い。ただ、河に飛び込めばそれでいいのだ。
装備を身につけての潜水と遠泳は、長江と共に育った孫呉の将兵の基本技能の一つだった。
「えぇ!? もぉ時間なのぉ?」
鐘の音は、張遼と死闘を繰り広げていた甘寧の耳にも届いていた。
彼の目に宿るは、相も変わらずの濃厚濃密な殺意と、微かな逡巡。
かつて無い程に殺意が昂ぶっているのに、途中で止めてしまってよいものだろうか……
しかし、刹那に満たぬ間で彼は決断した。張遼は自分や周瑜と同じく怪物だ。
無論、殺すつもりでいるが、一分や二分で決着をつけられないことは明らかだった。
周瑜らが撤退し、友軍の援護を受けられなくなった自分は、曹操軍に包囲され、呆気無く討ち取られるだろう。
それでは駄目だ。宴はまだ始まったばかり。自分はこれからまだまだ多くの人間を殺さなければならない。殺したい。こんなところで、終れない。
「うふふ、楽しかったよ、おじさん。残念だけど、今日はここまで。
続きは今度、じっくりねっとり、殺りまくろうね♪」
満面の笑みでそう告げると、錨を振り回し、張遼から大きく距離を取って、河中へと飛び込んだ。
張遼の目論見は外れた。
あの狂戦士ならば、撤退の指示など無視して交戦を続けるだろう。
甘寧との戦いに付き合ってやったのは、増援を待って孤立した彼を討ち取ろうという意図もあった。
それを見抜いた上で、これ以上の交戦は不利だと判断し、彼は後退を選んだのか。
実のところ、驚きは少ない。何度も刃を交える内に、張遼は、甘寧がただの凶獣ではないことを理解しつつあった。
脳を殺戮の狂熱に焦がしながらも、頭は何処までも冷静。
彼の最優先目的は、あくまでも殺人。そのためならば、誇りなどいつでも捨てられるし、合理的な判断を下すこともできる。
甘興覇とは、そんな優れた知性を宿した、狂える獣なのだ。
思えば、呂布も強者と戦うためならば、ある程度理性的に動ける男であった。
無論、呂布は敵を前にして逃げるような男ではない。
しかし、呂布と違って逃げを選ぶことの出来る甘寧は、彼以上に厄介な存在やもしれなかった。
これから、本格的に呉との戦が始まる。
自分達は、あの甘寧に苦しめられることになるだろう。
何としてでも、討ち取らなければならない。
それが、曹操軍の将としての義務感なのか、強者と戦いたいという己自身の渇望なのか……恐らく、両方とも正解なのだろう。
甘寧が狂気と理性を併せ持つように、一軍の将としての義務感も、一人の戦士としての闘争心も、等しく己の中に両立する。それが張文遠という男の本質だ。
我が主は、その全てを見抜いた上で、己を手元に置いている。
甘寧という障害の無くなった張遼は、周瑜の下へと黒捷を走らせた。
だが、遠すぎる。甘寧との戦いのせいで、離れすぎてしまった。
あるいは、周瑜はそれも計算して位置取りをしたのか。
いずれにせよ、こちらが辿り着く頃には既に逃げられているだろう。
生半可な将兵では、あの鬼才を止められまい。
最も近くに居て、彼を止められる可能性がある将は――
周瑜は、刃を振るって敵兵を切り裂きつつ、撤退する兵達の殿を務めた。
敵兵達も、周瑜の恐ろしさを思い知ったのか、思い切って手を出すことが出来ない。
その隙を見逃す彼ではない。他の兵達が撤退し終えたのを確認すると、彼もまた身を翻す。
その時……周瑜は一瞬、曹仁に背を向けた。
「!!」
間を置かず、曹仁の体は動き出していた。全身の筋肉と神経が稼動し、戦斧を大きく振りかぶる。
「らぁぁぁっ!!」
渾身の力を込めて、曹仁は戦斧を投擲した。
戦斧は、周瑜の背目掛けて過たず飛んで行く。
直撃すれば、背骨を断ち割り臓物をぶち撒け、正中線に沿って両断せしめるだろう。
無論それは、曹仁の希望的観測に過ぎない。実際は、それを幻視する暇もなかった。
周瑜の背に、一条の光が走る。だがそれは、周瑜を切り裂くものに非ず。
曹仁の戦斧は、神速の抜き打ちの前に事もなげに弾かれ、甲板へ突き刺さった。
その後、周瑜は眼前の船から消え、友軍を先導しつつ戦線から後退していった。
「ぐっ……!」
曹仁は歯噛みして、甲板を強く踏み締める。
もし、あそこで斧を投げるのではなく、曹仁自らが飛び掛かっていったのならば……
きっと命は無かった。斧を浴びせる前に斬られて、それで終わっていたことだろう。
周瑜の刃に両断される自分の姿が、克明に浮かび上がる。
自分にはそれが見えていた。だから、あの時斧を投げるに留めたのだ。
自分は、周瑜を怖れた。周瑜から逃げた。
それが、偽りようのない、己の内の真実だった。
(俺ぁ、いつからこうなった? 敵を恐れて、命を惜しむような真似を……俺は……俺は!!)
戦士の性で、絶えず周囲に警戒を払いながらも、曹仁は臆病になってしまった己に絶望していた。
津波の如く押し寄せた孫軍の奇襲部隊は、それ以上の速度で後退していった。
曹操艦隊も直ちに砲撃を開始するが、呉軍の先を読んだ迅速な撤退により、砲弾は全て川底に没した。
こうして、孫呉軍と曹操軍の緒戦は幕を下ろし、戦は次なる舞台へと移る。