第二十四章 赤壁の戦い(五)
「だぁらぁぁぁぁぁぁっ!!」
鉄甲を嵌めた拳を、高速で繰り出す楽進。
一撃が鉄板を貫通する拳の連打は、一個小隊の放つ矢の斉射よりなお多く迅く鋭い。
その光の雨を、太史慈は脚業で捌き、受け流している。
もはや彼は地に脚をつけていない。繰り出される楽進の拳、それ自体を足場として、宙に浮いている。
奇しくも、両者とも武器を手で“持つ”のではなく、身体に“装着”し、格闘技を用いて戦う武将だ。
違いは、手と脚のどちらを主体にするかという点のみ。ゆえに。
「ぐっ!」
烈火のごとき気魄と共に、相手を圧する手数を繰り出しながらも、圧されているのは楽進だった。
脚の力は腕の三倍、単純な理屈だ。いかに楽進が拳を繰り出そうと、元々の力で凌駕されている以上、その拳は太史慈に届かず、押し退けられるのみ。
太史慈の扱う蹴術の要諦は、脚を徹底して攻撃の道具として使う点にある。
足場とは立つものではなく、蹴り砕くもの。足場が無くなれば、また別の標的へと跳び移る。
地上ではなく、空中を主戦場とすることで、本来、地面と身体を繋ぐべき脚を、その役目から解放し、完全に攻撃の手段としてのみ利用する。
それによって、他の武将と比べ、常時三倍の攻撃力を実現できる。
脚技を主体とした武術は、この世にいくらもあるが、太史慈の扱うのは、その究極と言ってよいだろう。
むろん、易々と実践できるものではない。
並外れた脚力に加え、空中での姿勢制御、何より、手を扱う以上に脚を自在に操ることが出来ねば、成し得ぬ芸当だ。
確かに、武将の身体能力は常人を凌駕する。だが、脚を腕として扱う感覚の齟齬を消し去るのは、至難の技だ。
太史慈は、幼少よりある拳法の寺で育ち、蹴術を身体に叩き込まれた。そんな、“英才教育”を受けた彼だからこそ辿り着けた、蹴術の極地。
旋回しながら繰り出される脚技は、舞踏のように華麗で、砲弾のように苛烈。
その旋律に隙は無く、楽進の拳を封じ込めていく。
「たぁらぁぁっ!!」
楽進の頸動脈目掛けて、脚刃を放つ太史慈。脚を掴まれるような愚は犯さない。
風圧だけで、太い鉄柱を蹴り砕く威力を乗せている。
仮に防御されたとしても、それは相手が護りに入った証。荒れ狂う豪脚で、蹴り潰すのみだ。
だが……
斬撃蹴が、虚空を一閃する。
目標消失。が、太史慈の目は、敵から離れはしない。彼は、後方へと退いただけだ。
太史慈の脚技は、その軌道を自在に変幻する。紙一重で回避して、反撃を放とうとしても、軌道を変えた脚刃の餌食となる。
あえてそうさせるように誘いをかけてみたが、相手もそれを察知しているのか、乗って来ることはなかった。
太史慈の蹴りを避ける方法は、一つ……物理的に脚の届かぬ距離まで、逃れる他ない。楽進がやったのはそれだ。
だが、それも一瞬のこと。
「!」
刹那に満たぬ間に、楽進は再び太史慈の間合いへと侵入していた。放たれた高速拳を、間一髪、振り上げた脚で打ち払う。
「やっぱ、そう簡単には片付けられねぇか」
楽進の口から言葉が漏れる。
口調は冷静そのもの。だが、その形相は野獣の如く、瞳には極限の戦意を煮詰めてある。
「素早く、じっくり、殴り潰してやらぁ」
再度太史慈の眼前から、楽進の姿が掻き消える。
その直後、四十五度離れた場所から敵手が跳んで来る。
咄嗟に蹴りで迎撃するも、その際受けた衝撃は、先程よりも倍加されていた。
(野郎、脚を使い出したな)
あれもまた、一つの脚業であろう。脚を蹴撃に使わず、脚捌き(フットワーク)に集中する。
敵を砕くのは、あくまで己の拳。脚は、間合いを取り、眩惑し、加速により拳の威力を高めるためのもの。
楽進は、太史慈の蹴りの射程から逃げ、その隙を狙い再度地面を蹴って突撃を仕掛ける。
回避と打撃……戦法としては単純だが、速度と威力の伴った打撃、さらに、あらゆる方向から襲い来る包囲攻撃に、太史慈の蹴撃はその威力を殺されていた。
高速で移動しながら、ただ一人で包囲し、撃滅する拳の監獄。
逃げを知らぬ楽進が、曹操への忠義の為に逃げを覚え、新たに獲得した戦術。
短時間での決着は望めないが、確実に敵を逃さず、削り尽くして仕留める戦い方だ。
暴風に飲まれ、拳の驟雨に晒され、太史慈は微笑む。
卑怯だとも、せせこましいとも思わない。これは将の戦い方だ。
例え己の信条に反しようと、確実に勝利を手にするための戦い。
その根底にあるのは、主君への灼熱の忠誠。何が何でも勝たんとする絶対の意志。
あまりにも熱すぎる忠義を持つがゆえに、どこまでも冷徹に、冷酷に勝利を追い求められる。
なるほど、周瑜が忠告した通りだ。曹操軍の将は、皆尊敬に値する、気持ちのよい漢だと。
それを聞かず、余分な先入観を抱いたまま開戦を迎えていれば、僅かな迷いを抱いたかもしれない。
こいつとは、味方として共に戦ってみたかったと……
周瑜は、太史慈のそんな“悪癖”を知り尽くしていた。
彼が孫策に降ったのも、そんな感情があったからだ。
戦場における最大の敵は、自分自身の無自覚な弱さ。
それは、病魔の如く内に巣食い、知らぬ内に脚を引っ張り死地へと沈める。
迷いとは、惑いとは、いつ動き出すかも分からない、最も恐ろしい敵だ。
だが、その弱さを自覚し、意図的に別の方向へ向けることが出来たならば……
それは、何より強力な追い風となる。
「っらぁっ!!」
太史慈は、船板を蹴って駆け出す。
そう、好ましく思う相手だからこそ、共に戦ってみたいと思う相手だからこそ、
同じ格闘技を扱う者同士、強い共感を覚えるからこそ……
どちらが強いか確かめたい。
一方が死ぬまで、いや、自分が勝つまで、ただひたすらに潰し合いたい……
太史慈は、そんな将にあるまじき、窮めて素直な願望に従うことで、一切の迷いを振り払った。
相手が高速で駆けて間合いの利を確保するならば、こちらも走ってその差を埋めるのみ。
二人の闘士が、船上を爆走し、互いの暴をぶつけ合う。
最大の加速をつけた双拳と、最大の加速を乗せた蹴撃が激突する。
今や、両雄の力は拮抗していた。
忠誠、友誼、義務感、そして何よりも、目の前の相手に勝ちたいという渇望。
煮えたぎる闘争本能の渦に、数多の渇望を混ぜ、全身を烈火と成す。
拳と脚、窮極の近接格闘者同士の戦いは、更に激しさを増して行く。
「……っ!」
凌統が跳びはねた瞬間、音も聞こえぬ神速の刺突が、甲板を穿つ。
「えいやぁっ!!」
裂帛の気魄と共に、八角棍を繰り出す李通。
目にも留まらぬ速さで刺突を放ちながら、使い手は鋼のように重厚かつ堅牢。僅かな隙も見出だせない。
それでも、攻撃の間隙を縫って、居合抜きを試みるも……
……!
火花と金属音。
凌統の刀は、鞘から抜け切らぬ内に、棍の尖端で止められていた。自分を一回りは上回る剛力が、それ以上の抜刀を許さない。
このままでは押し込まれる……そう見做した凌統は、一旦距離を取る。
このやり取りをもう何度繰り返したことか。
凌家伝来の抜刀術の要諦は、鞘走りによる加速と、自身の加速を複合し、防御も反応も許さず相手を切り捨てることにある。
最短距離による最大加速。
凌統の技は、今や父と比較して何ら遜色ない域に達している。
だがそれも、刀を鞘から抜けなければ不発に終わる。
李通は、凌統と一定の距離を保ちながら、相手が居合の動作を取るや否や、刀に狙いを定め、高速の突きを放ち、柄の尖端を抑え、居合を封じ込める。
一連の動作、刺突を繰り出す時間、間合いの取り方、全てが完璧で無駄がない。
もしも失敗じれば、その時は胴を両断され、あえなく敗死するだろう。
それを承知の上で、李通は凌統の得意な間合いを維持しつつ、凌統の居合を完封する気でいる。
失敗を恐れぬのは、己の武に絶対の自信を持つがゆえ。
その自信を支えているのは、主君への忠誠心。
あの方の臣下として、不様な戦は許されない。
その一念が、李通の心を鋼に変える。戦闘体制に入った李通は、心身全てが武と威の塊。
例え億万回繰り返そうと、凌統の居合を防ぎ切るだろう。その前に、凌統の体力が尽きるであろうが。
凌統も、それを理解している。彼は、己の実力を過信しない。
眼前の男は、自分よりも格上の武人だ。
互角に戦っているようでは、いずれこちらが負ける。
ならば……
凌統は、後方へと跳びはね、敵手と距離を取る。
最短距離での抜刀が叶わぬのならば、間合いを開け、相手の棍が届く前に抜刀する。
本来の神速は望めまいが、棍の一撃を掻い潜り、必殺の零距離まで潜り込めば……
凌統は、自らの体を弾丸に見立て、疾走しながら抜剣する。
迫り来るは豪速の棍。
直撃すれば、頭蓋骨を易々と穿つ一閃。だがそれは、凌統の頬が擦過するに留めた。
避けた。棍は既に伸び切っている。今からでは、いかな防御も間に合わない。
この時、凌統の胸に去来したのは、勝利への確信……ではなく、苦い敗戦の記憶だった。
あまりにも、上手く行き過ぎる。
この鋼鉄が、それほど柔であるはずがない。
結果としてそれが、凌統の命を拾うことになる。
刃が李通に届く寸前……これ以上、何の変化も見せぬはずの棍が、勢いよく“しなった”。
それは、蛇のように屈曲し、凌統の右肩を打ち据える。
「ぐっ!!」
一撃で、肩甲骨が砕けたのを感じる。
「!!」
李通もまた、表情が僅かに歪む。
本来は、今の一撃で凌統の顔面を貫き、勝敗を決していたはずだった。
しかし、寸前で凌統が身を引いたことで、肩を砕く程度に留まった。
凌統は、肩の激痛を表には出さず、正体を現した李通の武器を注視する。
李通の八角棍は、七つの節目で分かたれ、八つの鉄棒を鎖で繋ぎ合わされていた。
八角七節棍。
棍の強度と、鞭のしなやかさを併せ持つ、剛柔一体を現す武具だ。
これで、今の李通からは一部の隙も無くなった。
自在に屈曲する七節棍は、あらゆる方向の攻撃を払い、手痛い反撃を喰らわせるだろう。
李通の八角七節棍が、大蛇の如く宙を舞い、凌統に牙を剥く。
その変幻自在の動きと速さに、凌統は避けるので精一杯。肩の負傷もあるが、それだけではない。
戦いの序盤、李通が棍を曲げずに、単なる八角棍のまま使っていたのには、凌統を、直線の動きに慣れさせる意図があった。
長い間、直線の攻撃に対処し続けていれば、それが突如曲線に変じた時、すぐには対応し切れなくなる。
今凌統は、李通の狙い通りの状況に陥っていた。
李通には、派手さや突出した技能があるわけではない。堅実に、全ての能力を満遍なく鍛え上げている。
ゆえに、彼には死角が存在せず、小細工や一か八かの賭けは、この男には通じない。
李文達を討ち倒すには、純粋に実力で上回る他にない。
「…………」
出来るのか、自分に……
この戦いの間に成長し、李通の実力を上回ることが……
肩に傷を負った、今の体で。
視線の片隅に、甘寧の姿が映る。彼はまだ、張遼と次元の違う戦いを繰り広げている。
それを見る度、思い知らされる。仇は未だ、遥かな高みにいる。
心に冷たい炎が点る。それは魂を凍てつかせる、復讐の劫火。己が本性が叫ぶ、真実の渇望。
自分には成すべき使命、果たすべき復讐がある。
こんな程度の限界で、足踏みしている余裕などはない。
殺意を絞れ、苦痛を忘却せよ。限界を越えて、更に速く疾く迅く――
あの甘寧に届くほど、速く――
変わった……
凌統から放たれた殺気を感じて、彼が先程までの彼ではないことを実感する。
なるほど、彼は天才だ。
強者と戦う度に、己の殻を破り、更なる高みへ駆け上がっていく若さと意志を持ち合わせている。
現在の実力は、自分の方が上だ。だが、武将としての伸び代は、あの青年が上だろう。
その事実を正しく理解してなお、李通の精神は些かも揺るがなかった。
現実を、あるがままに受け入れる。誰よりも尊敬する主君の思想は、李通の心魂に刻まれている。
敵が誰であろうと、自分は自分の全力を尽くすのみ。
戦は生き物、格や実力などという曖昧な要素は、決着がついて後初めて語れることだ。
下腹部が熱い。痛みが、腰から背中へはい上がって来る。鎧の腰部分から血が流れている。
刃の直撃は受けていない。超高速の抜刀が生み出す真空波が、鎧の隙間に入り込み、李通の肉を裂いたのだ。
受けた負傷の度合いでは、あちらの方が上だ。
だが、あの居合抜きは、鎧ごと自分の胴を両断する威力を持つ。
条件さえ整えば、一撃で相手を殺し得る、二の太刀要らずの秘剣……それが居合抜きの恐ろしさだ。
李通がその実力で押し切るか。凌統の居合いが、その差を覆すか。
勝敗の天秤は、未だ危うく揺れていた。
「フ~~~ンフンフンフン、フンフフ~~ン、フ~~~ンフンフンフンフン、フンフフフ~~ン」
やや音程の外れた鼻唄を歌いながら、周泰は敵艦内を闊歩する。
彼の後ろには、轍のように、叩き潰され、引き潰され、砕き潰された兵士達の血肉が、床や壁面にへばり付いていた。
「ン~~いっぱいいっぱい殺しましたね~~。可是、この程度の生贄でーは、カミサマは満足されまセン。
もっと! もっと! もっともっともっともっともっともっと!
いけにえの食べ過ぎでゲップが出るまで捧げますのーネ」
哄笑する周泰。彼の両手両足は、血を吸って赤黒く変色していた。
戦場のただ中にあっても、彼の顔には、菩薩のような笑みが張り付いていた。
「んん!?」
何か違和感を覚え、周泰は立ち止まる。だが、その時にはもう遅かった。
回廊の四方八方から槍が伸びる。その数は十以上、鋭利な鉄の穂先が、残らず周泰の躯を貫いた。
「どうだ!」
「くたばれ、この化け物!」
回廊のあちこちから、隠れ潜んでいた将兵が姿を見せる。
彼らは荊州兵ではなく、曹操軍所属の精兵達だ。
彼らは、艦に侵入したこの敵が、尋常ならざる怪物であることを知ると、正面からの打倒を諦め、狭い艦内という地形を生かした不意打ちに切り替えた。
その判断力と、即座に隠れて罠を仕掛ける技量は、さすが歴戦の猛者達と呼べるだろう。
彼らは、“詰み”に入っても油断することなく、槍に更なる力を加えていく。
鋼の槍は、ずぶずぶと周泰の躯へとめり込んでいく。彼らは、自分達の槍が敵の肉をえぐっているのを確かに感じていた。
だが……
男は笑っていた。全身を串刺しにされながらも、その顔面は、仏の笑顔で固まったままだ。
「多么凝固了! 痛い! 痛い! 痛いですネー!」
と、笑顔のままで喚き散らす。まるで、その顔以外の表情を知らないようだ。
兵士達は、そんな男の反応に不気味さを覚えつつも、更に深く槍を突き込む。
創傷から溢れた血が、体中を走る傷痕を伝い……傷痕を、赤く染め上げる。
巌のような筋肉が、不規則に蠕動する。死に際の痙攣か……否。
「な!?」
兵士達は、一斉に驚愕する。深く突き刺さった槍が、筋肉が収縮するたび、押し出されていくではないか。
やがて、全ての槍の穂先は、肉からすっぽりと抜けてしまった。それだけではない。
槍で穿たれた、十数の貫通孔も、見る見るうちに塞がっていく。
「無駄、無駄、無駄無駄無駄ァ――ヨ!」
「ば、化け物……!」
一般に、武将の自然治癒力は、人間を遥かに上回る。
普通の人間ならば、一週間は寝たきりになる大怪我でも、武将なら一晩安静にしているだけで回復してしまう。
むろん、人によって個人差はある。だが、今の周泰のように、受けた傷をその場で修復してしまう武将など、前代未聞だ。
これはもはや、人並み外れた治癒力などという領域を遥かに越えている。まるで粘土のような肉体だ。
指を突っ込んだ水面が、すぐに平面に戻るように、槍傷は跡形も無くなった。傷が治るまでの過程を、高速早送りしたかのようだ。
全く未知の存在を前に、兵士達は混乱の極みに陥る。
「無駄、無駄無駄無駄でぇス!
你達に、我を傷つけることできまセーン。
说到原因、我に傷を付けられるのは、“カミサマ”だけだからデース」
変わらぬ笑顔のままで、周泰は誇らしく語る。
傷口は塞がったが、流れた血は元々あった十二の轍に溜まって全身を赤く染めている。
いや、傷そのものが、赤く輝いているようにも見える。
いずれにせよ、混乱した彼らにそこまで気にする余裕は無かった。
「さぁ、もっと楽シク、傷ツケ愛まショー。
アーメン、インシャラー、ナンマイダー」
十字を切って両手を合わせ、軽く一礼する。
血に濡れたその笑顔は、凶猛なものへと変わっていた。
この数分後、兵士達は、二つに割られた船もろとも、長江の底に沈むことになった。