第二十四章 赤壁の戦い(四)
「あは、あはははは……あははははは……あははははははははははっ!!」
赤黒く染まった錨状の刃が、振り子のように揺れる。
むせ返るような血の匂いに、甘興覇は恍惚の笑みを浮かべる。
一分十三秒……甘興覇が、船に押し入ってから、船内の人間を総て殺し尽くすまでに経過した時間である。
殺戮が完了し次第、付近の船に錨刃“黒渦”を放ち、それを伝って跳び移る。
彼の錨刃は、移動手段としても使うことが出来る。残された無人の船は、航行不能に陥り、後方から来る船に追突される。
そのようにして、甘寧はただ一人で、短時間に五隻の船を沈めてみせた。
「な、何だきさ……」
その姿を目にした時には、もう遅い。
頚を切り裂かれ、臓を引き裂かれ、躯を八つ裂かれ、船内を埋める死体の山に加わる。
恍惚の笑みを浮かべ、甘寧は船内を疾駆する。
殺す、殺す、とにかく殺す。向かって来る者は殺す。逃げる者も殺す。目に映る者は総て殺す。目に映らぬ者も総て殺す。
鎖で繋がれた錨の刃の届く範囲の総てが彼の殺戮対象だ。
何年ぶりのことだろうか。何の制約もなく、存分に人を殺戮出来るのは。
今や、自分を繋ぎ止める枷は何もない。殺してよい、殺してよいのだ。
およそ一年ぶりになる、殺意の完全解放に、甘寧は酔いしれていた。
ああ、何度この日を夢見てきたことか!
目の前に、人の形をしたものが通り過ぎる度に、殺したいという欲求が膨れ上がる。今まで自分は、その衝動を抑えつけてきた。
だが、もう我慢する必要はない。殺そう、殺そう、殺して殺して殺し尽くそう。
この、満たされぬ飢えが満ちるまで。潤わぬ渇きが潤うまで。
人肉を貪り、骨髄を砕き、鮮血を浴び続ける。
今や彼は、人間を殺戮するための一個の装置。超高速で駆け抜け、死を振り撒く暴嵐と化している。
「あはっ、あははっ! あはははははっ!!」
人間を一人殺すのに、刹那の時を要さない。
されど、その双眸は、犠牲者の四散する肉片を、噴出する鮮血を、断末魔の表情を、克明に捕らえ記憶する。
真っ赤に咲き誇る屍の華を、愛おしむように……
されど、どれだけ殺戮に耽溺しようと、彼は冷静さを捨ててはいなかった。
理性を消して、殺戮の本能に総てを委ねるのではなく……理性をも殺戮という至上命題に注ぎ込む。
故に彼は、今自分が置かれている状況や、船舶の位置、これまでに殺した敵の数……加えて、孫呉の将兵として、自分に課せられた目的も、見失ってはいない。
この船の殺戮も後僅か。
そろそろ、騒ぎを聞き付けた“応援”が来るはずだ。
甘寧の殺戮によって生まれた、曹操艦隊の綻び。
その隙を逃すまいと、孫呉軍の“本格的”な奇襲が始まった。
前方を行く哨戒船が、甘寧によってその機能を事実上喪失していたこと。
加えて、“運よく”濃霧が発生していたことが、孫呉軍に利した。
長江を挟む断崖、その死角に潜んでいた孫呉軍の奇襲部隊が、一斉に砲撃を開始した。
その情報は、旗艦の司令室に迅速に届けられた。
「伝令! 我が艦隊は、只今砲撃を受けておりますっ! 敵艦隊は、旗を掲げておりませぬが……」
敵が何者かなど、今更詮議する必要はなかった。
「……交渉は決裂、ということになりましたなァ。残念ながら」
最初に発言したのは賈栩だった。口ではそう言いながら、彼の声色からは歓喜しか感じとれない。
「そのようですね」
内心、降伏を期待していたであろう荀攸は、特に動揺した様子を見せない。
無反応に徹することで、心の揺らぎを抑えているように思える。
「ふむ」
曹操は、一言呟いただけで、傍目からは平静そのものだった。大軍を率いる総大将としては、理想的な状態と言える。
実際、彼の内には、開戦を残念に思う気持ちも、歓喜や高揚もなかった。
ただ、“ああ、そうなったか”と事実をあるがままに受け止めていた。
長江の景観は、静謐から一転、鉄火の戦場と化していた。
霧で霞んだ空を、万を越える矢が飛び交い、砲音が断続的に鳴り響く。
砲弾が船体にめり込み、爆音と共に炎に染める。沈んで行く船は、その殆どが荊州軍のものだった。
荊州水軍の練度は、決して低くはなかった。
少なくともここ数年、何度も孫呉軍と小競り合いを繰り返して来たが、互角……とまでは行かずとも、殲滅されずに済む程度には渡り合えた。
元より、彼らは水賊。戦をするのは、敵から逃げるためであり、敵を倒すためではない。
賊の流儀に則るならば、彼らはずっと、孫呉に勝ち続けて来た。
その事実は、彼らの心に自信を生んだ。自分達は、孫呉軍のことを知り尽くしている。
兵数と装備で上回るならば、自分達が負けるはずがない。
ただの思い上がりではない。冷静に、今までの戦を分析し、導き出した結果である。
蔡瑁は、賊の狡猾さと共に、並の軍師に引けを取らぬ明晰さを持ち合わせていた。
だが、現実は。
荊州兵が大半を占める第一艦隊は、孫呉軍の奇襲に一方的な打撃を被っていた。
奇襲は、想定されなかったわけではない。むしろ、仕掛けて来るならこの地点だろうという、程旻の予想通りだ。
にも関わらず、荊州軍の艦は、満足に反撃も出来ぬまま、孫呉艦の砲撃を浴びて沈められている。
理由は、主に二つ。
一つは、甘寧の存在だ。
彼は、黄祖から孫呉に降ってから、一度も戦場に出てはいない。
孫呉の部将としては、この戦が初陣となる。
故に、荊州軍にも、曹操軍にも、甘寧に対する情報や対応策が存在しなかったのだ。
いや、仮に対策を立てていたとしても、意志を持った暴嵐である彼を、止めることなど出来たかどうか。
船から船に移動し、乗組員を皆殺しにしていく悪魔の存在に、荊州軍は大混乱に陥っていた。
加えてもう一つ。
孫呉軍の船舶の動きは、荊州軍が想定しているよりも巧みで、かつ速かった。
完璧に対策を立てていたにも関わらず、なおも翻弄されている事実に、荊州軍は困惑していた。
困惑の中で、長江の底に沈んでいく。
しかし、これもまた自明の理だ。
荊州側が、孫軍を研究、分析したように、孫軍も同じことをしていたのだ。
まして敵の総司令官は天才、周瑜。
幾度も矛を交えた荊州兵の戦術や操舵技術、細かな心の乱れも総て、掌の内にあった。
「そこまでだ! 小僧!」
「んゆ?」
甘寧の前に、鉄の塊が立ちはだかる。話には聞いていた。
曹操軍で開発された、無双甲冑“悪来”という奴だ。
手には、刺で覆われた鉄球棍を携えている。
その堅牢な甲冑には刀剣矛槍矢弾をことごとく弾くと言う。
「うぅん、弱ったなぁ」
「今頃後悔しても遅いわ!調子の乗るのもここまでだ。覚悟せ……」
甲冑が臨戦体制に入った直後。
胴体に、鋭い痛みが走る。
気付いた時には、その武将は、無双甲冑ごと上下に両断されていた。
「な!?」
「駄目だなぁ、全然駄目だよ、そんな甲冑を着てちゃあ」
胴体を両断され、死に行く己を自覚しながら、男は甘寧の笑みを垣間見る。
「それじゃあ、君がどんな顔で死んで行くのか見れないじゃないか! ああ、全くぅ! もうちょっと空気読んでよね!」
ああ……
今の言葉を聞いて男は思う。
こいつは俺達とは違う。彼にとって、敵とは戦う相手ではなく殺すべき相手。
戦闘は殺人までの過程に過ぎず、口に含んだ料理を、咀嚼し味わい飲み込むのと同じことなのだ。
人間とは、等しく遍く甘美な獲物。故にこそ、殺人鬼。
最初から、自分達人間とは、立っている位階が違う。
無双甲冑を仕留めた甘寧の胸に去来するのは、歓喜でも寂しさでもなかった。
来る――
それは、予感。これまでとは次元の違う存在が、間もなくここにやって来る。
一日でも長く、一人でも多く人を殺したいと願う彼の生存本能が、警報を鳴らしている。
理解せよ、認識せよ、覚悟せよ。
一方的な遊興はもう終わりだ。ここからは、自分も狩られる側となる。
今から来るのは、甘寧を殺しうる存在だ。
内なる警告に従い、甘寧がその場を飛びのいた直後……
黒き雷霆が、船上に墜ちた。
爆音と轟音。噴煙と、砕け散った板が宙に舞う。
龍の装飾が施された、円環型の刃を先端に備えた槍……黒龍円月刀を引き上げる。
風に揺られ、波打つ黄土色の長髪。
彫像のような見事な体躯を包む、漆黒の甲冑。
牙の生えた黒い幻獣馬に跨がり、黒龍円月刀を肩に背負う。
先程放った一撃は、船体に深い亀裂を刻んでいた。
直撃すれば、無双甲冑であろうと両断してみせただろう。
彫りの深い顔から覗く双眸が、物理的な圧迫感を伴う眼光をたたき付ける。
甘寧は、思わず息を飲む。こいつは、本物だ。
甘寧の観察眼は、一目見るだけで、相手の本質を暴き出す。
この男を形成するものは“強さ”。
髪の先端から爪先に至るまで、全身隈なく“強さ”が敷き詰められているような男だ。
眼の色、吐息、そのたたずまいの全てから隙のない“強さ”が感じられる。
この男は、強くなることだけを考え、弛まぬ研鑽を続けてきたのだろう。
妥協も諦観も慢心もなく、寝てる間も起きてる間も、ただひたすらに強くなることだけに打ち込んで来た。
掛け値なしに、強い。戦えば、負ける可能性は高いだろう。怖い、恐ろしい。
ならば、どうするか……
決まっている。
「あは、あはははははは……」
引き攣った笑顔から、自然と笑みが零れる。
口の中が唾液で溢れ、身体の芯が火鉢のように熱くなる。
そう、答えなど最初から決まっている。
殺す。殺して殺して殺し尽くす。
自分と彼は敵同士、彼は自分を殺しに来るだろうし、自分も彼を殺して構わない。
ならば、殺すしかないだろう。選択肢など、最初から一つしかない。
それに……
これほど純粋な強さで満ちた命……
叩き割ればどんな色を見せてくれるのか……
沸き上がる殺意を抑えられない!
「あはっ、あはははは!! いいよ、いいよぉオジサン!
名前を教えてくれないかい? 君の全てを記憶しておきたいんだ」
全て……そう、血の色、骨の固さ、内臓の臭いに至るまで何もかも全て。
男は大輪刀を構え、名乗りを上げた。
「我が名は張遼! 字は文遠! いざ参られい、孫呉の将よ」
「僕は甘寧、字は興覇!
さぁさぁ踊り狂おう殺し狂おう、君の血と臓物で、この大河を紅く染め上げよう!」
漆黒の錨が宙を舞い、白銀の円環が空を薙ぐ。
これが、後に“魏に張遼あり、呉に甘寧あり”と並び称される、両陣営の最強戦力の初戦闘であった。
漆黒の稲妻と銀色の兇風が、船上を駆け抜ける。
幻獣馬、黒捷。曹操軍の北方遠征の折、張遼が手に入れた彼の新たな乗騎。
その狂暴と言ってよい気性の荒さと、馬の領域を遥かに逸脱した身体能力ゆえに、荒くれ者揃いの烏丸族であっても、誰も手なずけることが出来ず、制することも叶わず、兇獣として人々に恐れられて来た。
半端な乗り手ならば、振り落とし、蹄で蹂躙し、鰐のごとき牙でその屍肉を喰らう。
その狂暴さは、かつての呂布の乗騎、赤兎馬を思わせる。
張遼は、この兇馬に単身挑み、己が力量を見せることで、黒捷を屈服させた。
彼は呂布軍にいた頃、赤兎馬を乗って戦場に出たことがある。
あの赤兎馬を、曲がりなりにも操れた力量があれば、黒捷を乗りこなすなど造作もない。
並の武将ならば、とうに振り下ろされている黒捷の暴速。張遼は、それを完全に押さえ付け、機敏に、精妙に、自由自在に操りながら、大輪刀を振るってみせる。
武将として、最高峰の膂力、脚力、馬術があって初めて可能となる神業だった。その姿は、天馬を駆る軍神の如し。
今の張文遠は、紛れも無く曹操軍最強の将だった。
にも、関わらず。
「あははははははは!! あはははははははははははっ!!」
銀髪の少年は、張遼と五分に渡り合っていた。速度でこそ、黒捷を駆る張遼に一歩譲るものの、軽量ゆえの機敏な足捌きにおいては勝っていた。
力においても……
錨刃が大輪刀と激突し、重くも甲高い金属音を奏でる。張遼の腕に、震えと痺れが伝わって来る。
決して恵まれているとは言い難い、甘寧の体格。張遼と比べると、まさに大人と子供だ。
だが、その攻撃力において、両者は完全に互している。
甘寧は許楮や張飛のような、武将として規格外の膂力を有しているわけではない。
これは、武器の特性によるものだ。
甘寧の扱う錨刃は、武将の捕縛用に使われる頑丈な鎖に、超重量の錨を繋げた武器だ。
その形状から、当然、振り回して切り裂くことが主体となる。
振り回す……即ち、遠心力。
力を要するのは、錨を持ち上げ、振り回すまででよい。
後は旋回する刃に加わる遠心力が、その威力を数倍に引き上げる。
一度回転状態に入れば、使い手の甘寧は、ただの移動する支点となる。
力を加えずとも、力が無くとも、錨刃が生み出す遠心力は、彼に不足を補って余りある力を与える。
旋回する錨と、唸り狂う鎖が織り成すは、近づくもの総て切り裂き薙ぎ払い断裁する、漆黒の暴嵐だ。
近づくもの、総て。例えそれが、味方であろうとも。
そう、彼の戦い方は、友軍の被害を一切考えていない。
もし、両軍が衝突する密集地帯に甘寧を放り込んだならば、敵味方双方に甚大な被害をもたらすことだろう。
そもそも彼は殺人鬼であり、自分以外の他者は総て餌であり、標的だ。
ただ、彼が狂戦士と違うのは、彼は敵味方の区別を付けることはできるし、必要に応じて、味方を巻き込まないよう手心を加えることも出来る。
江夏での戦いで、凌統を殺さず戦闘不能にしたように。
だが、それは所詮制限された力に過ぎない。
周囲のことなど一切省みず、本能の欲求に身を任せ、ただ傍に在る生物を殺し尽くす兇嵐と化すことこそ、殺人鬼・甘興覇の本気だった。
それは、中華史上初であろう、人間による“空中戦”だった。
甘寧も、黒捷に跨がった張遼も、船から船へ、空を翔けるように移動している。着地の時間は刹那に満たない。
脚に触れた地面が爆ぜ、爆発的な瞬発力を生み、四肢を宙に浮かし、五体を矢に変えて飛ばす。
風圧が肌を切り、周囲の風景が流れるように通り過ぎていく。
船から船へ、跳躍しながら戦う両者は、人越魔境の速度域に達していた。
「あははははっ! ねぇねぇ何処から斬って欲しい?
首? 胸? 腹? 手足ぃ? それとも脳天真っ二つが好みかなぁ!?
君程の使い手を長江の雑魚の餌にするのは欲しい!
君はバラバラに刻んだ後、釘か何かで縫い止めて、標本として飾ってあげるよ!
それを見て、君を殺した時の思い出に浸りたいんだ!
ああ! 楽しみだ楽しみだ! 君の命はどんな死を咲かせてくれるんだろう?
ああああああああ殺したい殺したい殺したい殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!」
「これはまた……貴殿は黒捷以上のじゃじゃ馬よな!」
しかし、張遼が驚いたのはその狂気ではなかった。
狂気に酔っている台詞を吐きながらも、甘寧は一切の隙を見せない。
狂乱の絶頂にありながら、徹頭徹尾怜悧冷徹。両の眼は絶えず張遼、黒捷の動きを観察し、隙を探る。
大輪刀の間合いを的確に把握し、刃の届かぬ位置を維持する。
強者も弱者も関係なく、数え切れぬ人間を殺し、頭で記憶するのではなく、身体に刻み込んだ殺人の業は、どれだけ狂乱しようとも、綻びなく機能する。
今の甘寧は、張遼を相手に、互角に渡り合っていた。
互角……それは即ち、僅かな重みが加わるだけで、たやすく傾いてしまう危うい天秤だということだ。
むろん、雑兵や並の武将程度では、彼らの戦に割って入るなど不可能。
今や彼らは、荒れ狂う双極の戦嵐。触れた瞬間、木っ端微塵となって消し飛ぶだろう。
だが、並以上ならば……
鉄拳が呉兵の頭蓋を砕き、棍棒が心臓を貫通する。
「行くぜ、李通!!」
「応!」
二人を追い掛けて、進入した呉の兵を排除しつつ、甲板を駆ける楽進と李通。
これは一対一の決闘ではない、戦争だ。
曹操軍の将として、そんな“甘ったるい”騎士道精神などは捨てている。
個の武勲など無意味、目指すは勝利、ただ勝利のみ。自分達二人が加勢すれば、勝敗の天秤は一気に張遼に傾く!
次の瞬間……彼らは脚を止め、後ろへ飛びのいた。
彼らのいた空間を、黒い影が薙ぎ払う。
甘寧? いや、違う……
「おっと、お前らの相手は俺達だ」
軽い口調で話し掛ける男。鳶色の長髪に、白い上着を着た長身の男だ。
しかし、目を引くのは彼の両脚を覆うように装着された、黒光りする鉄の鎧だ。その隙間からは、鮫の鰭のような白刃が剥き出しになっている。
先程彼らの眼前を薙ぎ払ったのは、この男の放った蹴撃だ。楽進も李通も、初めて目にする戦い方だ。
そして、彼の傍らにもう一人。
長い黒髪を後ろで縛り、青い着物を着た、童顔の優男がいる。
腰には刀をさしており、戦場のただ中にありながら、未だ抜き放っていないのが気にかかった。
「ほう、てめぇらが相手をしてくれんのか」
拳の鉄甲を鳴らし、戦意を露にする楽進。
既にその全身は、野獣のごとき殺意で漲っている。傍らの李通も、自らの武器である八角棍を構え、臨戦体制に入る。
「――――!」
凌統は、不覚にも一瞬それに飲まれてしまった。
これが、曹操軍の第一線で活躍してきた将の放つ気か。まるで野獣と相対しているかのよう。
表面上は平静さを保っていたが、彼らとの実力差を感じずにはいられなかった。
一方太史慈は、特に動揺した様子はない。いつも通りの軽い口調で、武将二人に語りかける。
「そういうこった。歓迎してやるぜ、侵略者ども。せっかくだ。長江の水の冷たさを、骨身に染みて味わっていきな」
「ああ、それなら、江陵いる時にたっぷり水泳を楽しんだからよ。遠慮させてもらうぜ。で、今更だが」
拳を固く握り締め、野獣のごとき形相で睨みつける楽進。
一方で、抑え切れぬ喜悦が、体から溢れ出ている。
武人として、強者と相対した時の、純粋な闘争心の発露だ。
「あそこで暴れているアレは、孫権の返答ってことでいいんだよな?」
「アレと我が孫軍を同類扱いされては心外だが、まぁ、売られた喧嘩は買わせて貰う……それが我が主君の意向だ」
一歩前に踏み出す太史慈。鋼に覆われた両脚が、金属音を奏でる。
凌統もそれに続く。
「貴方達に、彼を殺させるわけにはいきません」
冷たい声色で呟く凌統。
言葉だけなら、大事な仲間を護ろうとしているように聞こえるだろう。
事実、凌統は全霊を尽くして甘寧を護る気でいる。
そう、あの男には、こんなところで死んで貰っては困る。
孫呉の勝利のために。そして、復讐のために。
凌統に秘められた暗い情念の意味を知っているのは、傍らの太史慈だけだった。
最も、それで凌統を気遣ったりはしない。そんな余裕はとうにない。
目の前の二人は正しく怪物、己の戦いにのみ全力を尽くさねば、死が待つだけだ。
「いいぜぇ、名乗りな! 俺の名は楽進! 字は文謙!!」
「俺の名は太史慈、字は子義だ」
「同じく李通、字は文達」
「凌統、字は公績」
名乗りを上げた直後、四者が同時に飛び出す。
殺意は刃金の如く研ぎ澄まされた殺意が交錯し、拳と脚が、棍と刀が、火花を散らしてぶつかり合う。
甘寧と張遼、太史慈と楽進、凌統と李通、船上にて、三極の死闘が幕を開けた。