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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十四章 赤壁の戦い(三)


 翌朝……


 江陵を出立した曹操軍の大艦隊は、川面に巨大な波紋を立てながら、真っ直ぐ柴桑目指し行軍する。



「ほほう、見事なものよのう」

「んあ~~ここで思う存分泳いだら、気持ち良さそうだ~~」


 曹操は、甲板に出て、生まれて初めて目の当たりにする、長江の景観を楽しんでいる。

 些か無用心ではあるが、彼の傍には夏侯淵、許楮が控えており、護りは万全だった。


「もう敵地だっつーのに、また気楽なもんだなおい」


 嘆息する夏侯惇。しかし、彼は分かっていた。

 景色を楽しんでいるようで、その実周囲に抜け目無く注意を払っていることを。


(……だよな?)


 この年になっても、見かけ通り子供のようにはしゃぐ曹操を見ていると、今でも若干不安になる。




「のう、程旻よ」


 景色にも満足したのか、曹操は一軍の指揮官の眼で、傍らの程旻に話し掛ける。


「余が届けさせた書状……孫権は、あれにどう答えると思う?」

「わかりません。ですが、一つ言えることがあります」

「それは?」

「相手がどちらを宣言しようと、我々は警戒を怠ってはならないと言うことです。

 降伏と見せ掛けて、こちらを罠に嵌める可能性も十分ありえます」


 何せ相手は兵力において大きく劣っている。勝つためには、手段など選ばないだろう。

 曹操の眼は、戦に臨む戦略家のそれに変わっていた。

 いや、風雅な景色を愉しんでいる間も、ずっと彼の瞳は臨戦態勢に入っていたのだ。


「だとすれば、あやつらは火計を講じて来るであろうな」

「恐らく」


 彼我の戦力差を覆す唯一の手段。それが火計であることを、二人はとうの昔に見抜いていた。


「ドーックックックックックッ!! もしそうだとしたら、ちゃんちゃら可笑しいですねぇ!!」


 話に割って入り、笑い出す蔡瑁さいぼう

 君主に対して不敬ではあるが、曹操は彼の振る舞いを全て許していた。

 江陵に到着した日の歓迎の宴では、二人は酒を酌み交わし、意気投合していた。


「御覧下さい! この船を! 船体を鉄のよろいで覆い、火だろうが矢だろうが受け付けやしませんぜ!」


 彼らが今乗っている船……旗艦“瑞鳳ずいほう”は、船体に鉄板を張り付けた甲鉄艦である。


 曹操軍の最新技術と、潤沢な資金と資材、そして荊州の優れた造船技術が合わさり生み出された、無双の艦隊。

 防御面のみならず、火砲など攻撃においても充実している。

 これほどの重量、本来なら沈んでしまうはずであるが、動力源を一新することで、その問題を解決した。

 太極磁石たいきょくじせき……無双甲冑の動力に使っている神秘の石を、船を浮かすのに使っているのだ。

 曹操軍の手によって、中華の戦の常識は大きく変わりつつあった。



 千を越す鉄のふねが長江を下る様は、さながら怪魚の行軍のようであった。

 その威容に、沿岸から長江を見下ろしていた地元民は仰天し……掲げられた『曹』の旗を見て、皆一様に震え上がる。

 

 あれは曹操軍の船だ…… 孫呉の御殿様の所に向かっているのか……

 無理だ。勝てるわけがない。

 孫呉の水軍がいかに強くとも、あの鉄のバケモノどもに勝てるわけないじゃないか……

 きっとあの中には、略奪と殺戮を欲しいままにする悪鬼が詰まっている。

 終わりだ……揚州は、魔王、曹操に滅ぼされる!


 恐怖は感染し、瞬く間に伝播していく。開戦前から、曹操の恐怖はこの地を浸食していた。




「まぁ、全部が全部甲鉄艦っわけじゃありやせんけどね」


 中には……いや、甲鉄艦は全体の三割、前衛の一割と、曹操の乗る旗艦を取り囲む後衛の二割ほどで、後は従来の木造船であった。


「相手が火を使って来ると分かっていれば、陣形次第でどうとでもできまさぁ。

 火がついたら、急いでその船から離れればいいんすよ」


 その陣形については、揚州に来る前から、程旻を通じて聞かされている。

 蔡瑁は、身振り手振りを交え、改めて説明してみせる。


「いつぞや部下が、船同士を板で繋げば行き来が楽になるんじゃないかと言ったことがありやしたが、もうね、阿呆かと馬鹿かと。

 そんなことしたら、いざ火をつけられた時にあっという間に他の船に燃え移っちまいまさぁ。

 火は水を掛ければ消えやすが、水の戦で最も恐ろしいのは火でやす。

 何せ陸地と違って逃げ場がない。船を燃やされたら川に飛び込むしかありやせん。

 “だからこそ”、我々は火攻めへの対処法を考え尽くしてまさぁ」

「水の戦に長ける者は、同時に火の戦にも長けるということか」


 弱点であるがゆえに、それを補強して、長所に転ずる。全ては生き延びるために。

 彼ら賊党の執着が生み出す力と創意工夫には学ぶべきものがある。


 無法こそが乱世の法。それに則り、彼らは奪われるのではなく奪う側に回った。

 そして、その悪行三昧に天罰が下ることもなく、今日まで抜目なく、強かに生き抜いて来た。

 その事実だけで、彼らは種として優秀なのではなかろうか、曹操は思う。

 楽進や李通は、絶対に認めようとしないだろうが。


「その通りでさ。周瑜の色男がどんな小細工を弄してこようと、あっさり解体バラして魚の餌にしてやりやすよ。

 後は、風ですかね? 火計で要となるのは風……もし戦の日、いきなりこっち側に大風が吹いて来たら、まずいことになりやすねぇ。

 けども心配御無用! 空を読み、風を読むのは俺ら船乗りの十八番おはこ

 当日の雲を見れば、その日の風の流れを読むぐらい朝飯前の奴らが、うちにゃごろごろいまさぁ。

 向かい風が吹く時が奴らの攻め時。分かっていれば幾らでも対処できまさぁ」


 曹操を前にしても物怖じせず、饒舌に語る蔡瑁。

 彼なりに、曹操に認めて貰おうと力を尽くしているのだろう。曹操も楽しそうに聞いている。

 しかし、程旻の瞳に映る曹操は、既に戦に臨む顔をしている。


 蔡瑁が話したことは、今更言われるまでもなく、既に頭に入っていることだ。

 荊州占領後、ほとんど間の空かない強行軍、結束力において不安の残る荊州の兵、慣れない土地、慣れない水戦……不確定要素は山のようにある。

 まさかそれは無いだろう……そんな気の緩みが、孫軍に付け入る隙を与え、最悪の場合致命傷に達する。

 先の読めない状況だからこそ、あらゆる事態を想定し、手を打っておく必要があった。




 河面から、白い霧が立ち上る。霧は、曹操軍の艦隊を瞬く間に飲み込み、辺り一面を白に染める。

 周囲を航行していた船が、朧げな影にしか見えない。


「ほほう、これほど濃い霧を見るのは初めてのことぞ」


 この濃霧もまた、長江の景観の一部だ。


「あたしら船乗りにとっちゃあ、厄介者以外の何物でもありやせんがね」

「航行に支障は無いのか?」


 程旻は問う。これだけ濃い霧では、両面の崖にぶつかる危険もあるのではないか。


「へっへー。前にも言ったでしょ。このかわは、あたしらにとっちゃ庭みたいなもの。

 目をつむっていても動かせまさぁ……と言いたいところですが、今は丞相閣下がおられる。

 万に一つ、いや億に一つのこともあっちゃなんねぇ。おい!おめぇ!」


 蔡瑁は、傍らに控えている数名の部下に指示を出す。


「総ての船に伝達! 碇を下ろして船を止めろ!」

「へい!」


 蔡瑁の配下は、それぞれの船に散っていく。


「閣下、景色をお楽しみのところ申し訳ありませんが、船室にお戻りくださいませ」

「私もそう思います。今の状況は――危険です」


 護衛を勤める夏侯淵も、追従する。


 誰も口には出さないが、分かっていた。

 この、ほぼ視界の閉ざされた状況で恐れるべきは、事故よりも“敵襲”であると。

 既に、自分達は孫呉の勢力圏に入っている。

 いつ奇襲があってもおかしくない……いや、孫呉の立場であれば、この好機を逃す方がおかしい。

 曹操の護衛を務める夏侯惇、夏侯淵、許楮は既に臨戦体勢に入っていた。勿論、曹操も。


 そして……

 

 彼らの予感は現実のものとなる。






 曹操軍の大艦隊は、大きく分けて二つの区画に分かれている。これを、便宜上、前から第一、第二艦隊と呼ぶ。

 まず、前方の第一艦隊は、蔡瑁の配下である荊州水軍と曹操軍の混合軍であり、降ったばかりの荊州軍を前線に立て、曹操への忠誠を確かめる目的がある。

 加えて、万が一“裏切り”が起こっても、すぐに切り離し、後方から撃てる位置にある。


 そして、後方の第二艦隊。

 この艦隊は全体を統率する要であり、中央の旗艦には、総大将である曹操が乗艦している。賈栩、荀攸、程旻ら側近もここにいる。

 甲鉄艦を始めとする最新鋭の設備を備えており、兵士達も曹操正規軍の者が大半を占める。

 直接的な攻撃のみならず、艦に侵入しての要人の暗殺にも対応できるよう、検問が十重二十重に設置されている。


 中央に陣取るのは曹操軍の旗艦“瑞鳳ずいほう”。

 曹操を初めとする要人が乗り込むこの艦は、船体を隈なく甲鉄で覆い、複数の太極磁石を動力源として動いていた。

 内部には、夏侯惇、夏侯淵、許楮ら、全員が武将で構成された、曹操軍の近衛が常時厳戒体制についている。

 その威容は、水上を行く移動要塞と呼ぶに相応しかった。

 曹孟徳に悪意持つ者は、蟻一匹、稚魚一匹侵入することは許されないだろう。


 張遼、曹仁、曹洪、張合、徐晃、楽進、李通。彼らの任は遊撃だ。

 不測の事態あらば、自由に船と船の間を動いて敵を迎撃することを許されている。

 また、それぞれの艦を預かるのは、かつて袁紹軍で将を務めていた歴戦の猛者ばかり。

 水上での戦の経験は少ないが、黄河における調練と長江での実地訓練で、水戦の要諦を完全にものにしている。今や、荊州水軍の者達にも引けを取らない。

 経験豊富な軍人は、戦う場所を選ばぬもの。

 曹操軍は水上戦に不慣れ……などという弱点は、既に過去のものだ。


 怠けず、驕らず、妥協せず。

 常に新たな段階を追い求め、日々進化を続ける……それこそが、曹操軍が中華最強の軍団たる最大の理由だった。






「もうすぐ烏林うりんに差し掛かるな」


 李通は、甲板から長江を見渡し、そう呟いた。


「へぇ……いよいよってか」


 彼の隣には楽進がいる。高ぶる心を発散しようと、両の拳を打ち付ける。

 曹操軍の中でも、特に曹操への忠誠心篤き二人の将は、江陵での酒宴で意気投合し、友誼を結んでいた。

 酒の席では、二人とも酒を煽りながら、延々と曹操の偉大さ、素晴らしさを語り明かしていた。



「楽進、お前は、孫呉が開戦すると踏んでいるのか?」


 戦意を露にする楽進を見て、李通はそう当たりをつける。


「ああ、どっちでもいいぜ。殿が戦えと言えば戦う。殿に向かって来る敵がいるならぶっ飛ばす。

それだけだ」


 自分が望むは、唯一それのみ。

 政治だの駆け引きだの、ややこしい話は他の信頼できる同志なかまに任せておけばよい。

 自分はただ、あの方の命に従い、あの方の敵を討ち果たすだけの武器つるぎでありたい。

 自分の内では、あの方に捧げる忠誠ほのおが、絶え間無く猛り狂っている。立ち止まってなどいられない。


 楽文謙の辞書に、停止や後退の文字はなく、ただ前に進むことだけが、己の生き様であり、総てだった。

 思えば……自分が曹操に忠を捧げるのは、単に一介の兵士であった自分を推挙してくれた恩義だけではなく、いかなる場合も前に進み続けるという、曹操の姿勢に共感したというのも大きい。



 ――曹操様! 貴方様は何処までも、前へ、上へと駆け上がり下さいませ!

 その障害となるもの総て、我が鉄拳こぶしで打ち砕いてみせましょう!



 ここで、楽進の脳裏に、長坂での敗戦が過ぎる。

 二度と、あのような不様は晒せない。

 例え相手が、鬼であろうと魔であろうと、自分はもう、絶対に負けるわけにはいかない。

 必勝を、己が双拳に誓う。


 故に……李通の問いに正確に答えるならば……一刻も早く汚名をすすぐためにも、楽進は孫呉との戦を望んでいた。




 一方、李通はやや複雑な心境だった。

 彼も楽進と同じく武人。出来れば、戦って決着を付けたいという思いがある。

 しかし、彼は曹操の臣下であると同時に、程旻の腹心の配下でもある。

 彼の上官が、孫呉を戦わずして降伏させるため、どれだけ心を砕いて来たか知っている。

 故に、彼の思惑通りになって欲しいとも願っている。


 また、孫呉が降伏を選ぶのなら、それは孫呉かれらが曹丞相の偉大さを理解し、その威光に平伏した証となる。

 そちらこそ、完全なる勝利と呼べるのではないか……そんな気もする。



 いずれにせよ、確かなことは二つ……

 自分達は、既に敵の勢力圏内に入っているということ。

 そしていざ戦いになれば、自分達は命を賭けて曹操を護り、その敵を討ち果たすことだけだった。




「ん?」


 そんな中……李通は異変に気付く。

 正しく隊列を成して航行する曹操軍の艦隊。その中の一隻が、不可解な行動を見せる。

 おかしい……そう感じた時には、既に遅かった。

 轟音が、霧に満ちた大気を震わせる。大きく航路をずれた一隻が、前を進む一隻に、後ろから追突したのだ。



 その光景を目の当たりにした瞬間……李通は瞠目し、楽進は絶句する。

 だが、それも一瞬のこと。二人は全く同時に声を張り上げる。


「敵襲――っ!! 敵襲―――っ!!」


 その直後、今度は南東にある船が、やはり前方の戦艦に追突する。

 追突された艦が、また別の艦へ……煙を吹いて、最前線の艦艇が、次々に沈んでいく。

 一隻二隻ならばともかく、ここまで断続的に起こった以上、もはや事故ではありえない。

 何者かの意図によるもの……直截ちょくさいに言えば、攻撃を受けている。

 数分と経たぬ内に、最前線を固める数隻の船は、総て航行不能に陥る。



 その時、楽進と李通は目にした。

 船から船へと跳び移る、小柄な銀髪の子供の姿を……


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