表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国羅将伝  作者: 藍三郎
173/178

第二十四章 赤壁の戦い(一)

 ――よお、オメェ、勝ちたくねぇか?


 

 赤暗い空間で、二人の男が対峙している。

 両者とも、腰まで伸びた長い髪の持ち主で、顔の造型は違うが、いずれも眉目秀麗と言ってよい顔立ちをしていた。

 ただ、雰囲気は正反対で、一方は端正な顔を歪めて喋り散らしているのに対し、一方は口も表情も、沈黙を守り続けていた。



 ――何に、だって?

 おいおい、んなこたぁわかりきってんだろうがよ。平和ボケした他の重臣ならいざ知らず、オメーならよぉ。

 おっとおっと、こりゃ悪ぃ。答えるまでもねぇってことかそりゃそうだわなぁ。


 今のオレを見ても、さして驚いた様子はねぇってことは、もう既にオレの正体に気付いてるみてぇだなぁ。


 げびげれれれ! 重畳、重畳。そいつぁ話が早ぇ。

 ああ、もしかして、オレの方から接触して来るのを待ってた……とか、って、そりゃあさすがに自意識過剰って奴かぁ! げびげらららごげば!!


 ま、同じく孫仲謀に仕える者同士、仲良くやっていこうぜ。オレとオメーが組めば、曹操なんぞ敵じゃあねぇ。

 あのクソガキが泣き喚いて命乞いする様を、二人で見下そうじゃあねぇか。げぐげぎょろろろろろろ!!!


 おおっ、オレぁ今閃いたぜ!

 周瑜、公瑾に、諸葛瑾、子瑜。“瑜”と“瑾”の字が被ってんじゃねぇか!

 ぎへへへ!周瑾公瑜か、諸葛瑜子瑾ならまだよかったんだがよ。

 こりゃあ、オレ達が一蓮托生、一心同体だって証じゃねぇか?

 ぐげぎごがげべばばば!!

 あーあ、いや、この場合は名と字が反対だから、光と影、陰と陽ってとこかぁ?


 んだよ、その心底下らねーって言いたげなつらは。

 へいへい、お高くてお堅い大都督殿は、冗談がお気に召さぬよーで。


 あん? 何だって?


 代償は何なのか、だぁ?


 げへ、げへへ、ま、それも当然だわなぁ。美味い話にゃ裏がある。ただより高いものはない。

 何かを手に入れるにゃ、それ相応の何かと交換しなければならねぇ。所謂、世間の常識って奴だ。


 だぁが、安心しな。今回に限っては、代価はいらねぇ。いや、既に貰っていると言うべきかな?


 胡散臭いか? 信用できねぇか?

 げぎょげれれれれれ!! どぉーでもいいじゃねーかんなこたぁ。

 オレが怪しかろうがそうでなかろうが、どの道オメーにゃ選択肢はねーんだからよぉ。

 オメーはオメーの都合でオレを利用する。オレはオレの都合でオメーを利用する。それで結構じゃねぇか。



 それに、よ……


 オメーはもうすでに、代価を払った後だろうが――



 

 再び、黒髪の男はげらげらと笑う。黒髪の男は沈黙を守る。


 二人の周囲には、生きた人間は誰もいない。

 ただ、赤暗い空間に聳え立つ、巨大な蛇の尾をもつ虎の像だけが、二人の会話を見つめていた。







 篝火かがりびが、夜の長江を照らす。

 柴桑の津に並んだ孫呉の艦隊は、今出航の時を迎えていた。

 旗艦の穂先に立ち、河を見渡す周瑜。湿った夜風が、長い黒髪を静かに揺らす。

 会議で開戦が決まる前から、周瑜は出航の準備を終えていた。

 まるで、孫権が開戦を決めると、確信していたかのように。


 端正な顔に隠された内では、数多の情報と思索が渦巻いている。

 気温、風速、天候、兵の士気、船の仕上がり……

 戦にまつわるありとあらゆる情報を取り込み、必勝を期した軍略に細かな修正を加えていく。

 出航をあえて“遅らせた”のにも、相応の理由がある。

 孫呉の勝利のためには、あの時、あの場所で、曹操軍とぶつからなければならない。これは、そのための時間調整だ。


「うふ、うふふふふ、いよいよだねぇ。もうすぐだねぇ」


 無論……足元で、薄気味悪い笑みを浮かべている兇獣きょうじゅう……彼への監視も怠らない。


「中原の人達の臓物はらわたは、一体どんな色をしているんだろう?

 ああ、愉しみだなぁ。ぞくぞくするよ。

 早くみんなの腹を裂いて、血と臓物の雨を体中に浴びたいよ……!」


 うっとりした表情で、これから始まる戦いに思いを馳せる甘寧かんねい

 黄祖を討ち取り、周瑜に降ってからずっと、彼は獄舎に繋がれていた。

 甘興覇は、血に飢え殺戮に溺れる、真性の殺人鬼。人を殺すことなくして生きていけない怪物だ。

 それが、何十日も殺人を抑制されればどうなるか……彼の殺戮衝動は、極限まで高まっていた。


 口調だけは穏やかなままだが、その瞳は殺人への欲求で暗く濁っている。

 導火線に火のついた、爆発寸前の炸裂弾だ。

 元より敵味方の概念などなく、自分以外の総ては殺戮の対象でしかない。

 今の彼は、目に映る生き物総てが、舌を濡らす血袋に見えている。


 勿論、隣にいる周瑜も例外ではない。命を救って貰った恩義や忠誠など、彼には欠片かけらも存在しない。

 だからこそ、周瑜は彼の傍から離れないのだ。


 今の甘寧を鎮めているのは、単純な力関係。周公瑾、この男は殺せない。

 殺そうと思えば、相討ちを覚悟せねばならないだろう。


 彼への忠誠の念などは一切無いが、それゆえに純粋に、一個の生物として、彼を見ることができる。

 だから、分かる。この男は、自分以上のバケモノだ。


 これだけ“外れて”いながら、何故人間社会に適合できているのか不思議でならない。

 恐らく、相応の何かを捨てているのだろう。

 彼のなかみは、烈しく燃え盛りながらも底無しに冷たく暗い。

 その気味悪いどころではない在り方は、甘寧をして寒気を覚えるほどだ。



 彼の実力は、一度肌で味わっている。その瞬間、彼には屈服せざるを得ないと感じた。

 殺意が消えたわけではない。彼の殺人の狂気おきてに例外はない。

 だが、彼を殺そうと思えば、返り討ちに遭うか、よくて相討ちを覚悟せねばならないだろう。


 それでは、駄目だ。


 甘寧の望みは、少しでも長く生き続け、ずっと人を殺し続けること。

 故に彼は、己の保身を第一に考える。

 彼は殺人に関して異常に優れた技能を持っているが、それを誇ったり、過信したことは一度もない。 自分は無敵の超人ではなく、彼が標的とする獲物と同じ、人間でしかないことを、正確に認識している。


 どんな人間も、必ず死ぬ。自ら実践して掴んだ真理を、自身に当て嵌めぬという法はない。

 ここで周瑜に逆らって、孫呉かれらを敵に回しても、待っているのは粛清のみ。

 それでは、これから始まる至高の大戦うたげを堪能できない。


 己は孤高の王者ではなく、ただの卑しくか弱い殺人鬼でしかない。

 この乱世で、末永く殺人を愉しむには、強大な軍の傘が必要なのだ。

 甘寧は、己の身に余る巨大な殺人衝動を、冷徹な理性で押さえ込むことのできる男だった。

 人間から外れた殺人鬼としての本性と、人間らしい理性が両立している。

 狂人と賢者、陽陰いんようを併せ持つ双頭の獣、甘興覇とはそういう男だ。



 周瑜も、その本質を正しく理解している。

 だからこそ、この兇獣きょうじゅうに首輪を嵌め、兇刃きょうじんに仕立てあげることができるのだ。





「………………」


 凌統は、そんな甘寧に冷たい視線を送っている。

 その表情は、能面のように変わらぬ形を保ち続けている。


「凌統……」


 隣にいる太史慈は、今の彼に、危うさを感じずにはいられなかった。


「……太史慈様。私のことが不安ですか?」


 そんな太史慈の心境を見通して、凌統は先んじて言葉を発した。


「私がまだ、甘寧への憎しみを捨て切れていないのではないか、と……」

「あ、ああ……」


 甘寧は父の仇であり、かつての対決では、惨敗を喫している。更に、甘寧が孫呉に降ったことで、雪辱を晴らす機会は永遠に失われてしまった。

 甘寧への憎しみは、自分の想像を絶するものであるはずだ。

 凌統の仮面が、静かに崩れる。だがそれは、仇敵への憤怒の相ではなく、妖気を孕んだ微笑だった。


「……ええ、否定はしませんよ。私はあの男が憎い。あの男の在り方は、絶対に認められない。

 いつか、決着をつけねばならないでしょう」

「お前……」

「かつての私には迷いがありました。公の大義と個の復讐……どちらを優先すべきか。そんなものは考えるまでもありません。

 国家の大義に比せば、個人の感情など泡沫ほうまつに等しい。

 一顧だにする価値も無いでしょう。

 ですが、かつての私はそれを認められなかった。

 頭では、そうあらねばならぬと理解してても…復讐に逸る心を、捨て去ることができませんでした。

 だから、負けた……などと、自惚れるつもりはありません。

 私とあの男との間には、途方も無い差が開いている。それは事実です。

 ですが、私があの時、大義と私情の狭間で揺れていたのもまた、事実。

 甘寧は言いましたよ。お前は復讐を愉しんでいる、と。

 ええ、今ならば認められますよ。

 亡き父の無念を晴らすため、と言ったところで、所詮は己の内なる憎しみを発散し、悦楽を得るための浅ましい行為。

 正義でも、鎮魂のためでもない。あの時の私は、ただ甘寧を殺したくてたまらなかった。そのためだけに、剣を振るっていたのですよ……!」


 自嘲するように語る凌統。


「なら、もう復讐は……」

「いいえ。逆です。逆ですよ太史慈様。

 何が私を強くしたのか……それは、あの男への復讐の一念です。

 彼への憎しみが無ければ、私は今の領域まで上がれなかったでしょう。それもまた、事実です」


 どれだけ言葉を繕ったところで、所詮戦いとは殺人行為。

 そこに優劣が生じるとすれば、基本的な身体能力に加え、いかに人体の破壊に情熱を注げるか、に尽きるだろう。

 その理屈に則るならば、甘寧は戦いにおいて極めて理想的な資質を有していると言える。

 彼の頭の中には殺人しかない。言い換えれば、思考の総てを殺人行為に注ぎ込めるということだ。


 憂いもなく、迷いもなく、心は暴狂の域に在りながらも、精神は氷のように冷徹そのもの。

 冷静に敵手を観察し、弱点を見逃さず、完全破壊への最短経路を導き出す。

 それこそが、甘興覇の強さの根源にあるもの。

 凌統が、甘寧への憎悪ゆえ強くなったように、甘寧は、この世の総てに殺意を抱き、それを糧に人越魔境じんえつまきょうの暴威を手にした。

 しかも、物心ついた時には既に己の本性を正しく理解し、肯定し、殺人行為への探究を初めていた。

 殺人の経験において、二人には埋め難い程の差が開いている。



「ですが、私はあの時、自分の浅ましさを認められませんでした。

 甘寧の言葉に揺れたのが、何よりの証拠です。

 私は、復讐という愚劣なる行いを己の根幹に据えながらも、土壇場でそれに目を背けた。自分の復讐は正しいのだと、思い込もうとした。

 ……これでは、勝てるはずもありませんね。

 復讐を志ながらも、一方では、その復讐から遠ざかっていた。

 半端な気持ちに身を置いたままでは、復讐も、大義も、何も成すことはできない……」


 凌統は、一息つき、こう続けた。



「私は、甘寧を殺します」


 簡潔に、かつ絶対の意志を込めて、誓いを口にした。


「ああ、心配しないで下さい。何も戦いの最中、隙を突いて殺そう、などとは思っていませんよ。

 私の望みは、父上がそうしたように、正面からあの男と立ち会い、討ち果たすこと。

 他者の力を借りて、勝利を盗んだところで、何の意味がありましょう。

 そして、今の私では、あの男には勝てない。例え不意を打ったとしても、ね……」


 あの敗戦から学んだことだ。甘寧は、自らに向けられる殺意に対して、異常なまでの反射速度を誇る。

 彼は狂っていながら、恐ろしく狡猾で、賢明だ。


 故に、殺した者は殺されるという、人間世界の掟を知っている。

 自分が他者に殺意を抱くのと同様に、他者も自分に殺意を抱いて当然と考えている。

 彼は、本質的には誰も信用しておらず、故に気を許すことも、油断することもない。

 常日頃から、他者に最大の殺意を向け、他者の殺意に対し、感覚の網を張り巡らせている。


 甘寧にとって、殺人とは、脳髄を蕩かす甘い蜜。他者の殺意もまた、彼にとってはかぐわしき蜜の香りなのだ。


「私は、必ず殺します。ですから、負ける可能性がある内は、あの男とは戦いません。

 臆病と思って下さって結構。ですが、私は必勝を誓っています。そのためならば、いかな恥辱にも耐えましょう」


 誓いとは、何を置いてもそれだけは完遂する、絶対の意志の表明。

 己の人生の総てをかけて、果たすべき目標。ならば、最も優先すべきは、過程ではなく結果。

 求めるべきは、唯一勝利のみ。よくやった、頑張った、そんな慰めは要らない。それは所詮、敗北者の末路だ。


 今の自分は、あの男の足元にも及ばない。戦ったところで、敗北は必至。

 ならば、奴と立ち会うに相応しい力をつけるまで、ひたすら自己を研鑽し、待ち続ける。


 自分は、復讐を諦めない。

 死なない限りは、負けではないのだから。



「私の憎しみも、怒りも、総てあの男に注ぎます。そして、それ以外の総ては、孫呉の為に。

 復讐わたし大義おおやけ、どちらを取るかなどと考えるから、どちらも半端になる。

 迷いが生まれ、弱くなる。

 ああ、私はどちらも果たしてみせる。

 曹操を討ち、乱世を静めた後……甘寧は必ずや、孫呉に害なす存在となる。

 誰かが奴に引導を渡さなければならないのです。

 私は、その為の力を手に入れる。私の復讐おんねんを糧として」


 それは、復讐と大義の融合。復讐のために大義を利用し、大義のために復讐を利用する。本来矛盾する二つが、奇跡的に噛み合っている。


「そのためには、あの男には生きていて貰わなくては困ります。

 今回の作戦を成功させるのに、あの男の力は必要不可欠。そして、私が復讐のぞみを果たすためにも……

 もちろん、私自身も、死ぬわけにはいかない。私は彼と共に、孫呉のために戦い続けましょう。肩を並べて戦っていれば、見えてくるものもあるはず」



「………………」


 太史慈はしばし言葉を失っていた。

 凌統が語ってみせた復讐の論理。それは、彼自身が語ってみせた、“迷い”という弱点を完璧に補強するものだった。


 国家のために私情を捨てる。口で言うのは易いが、完全に私情を捨て去れる人間などいはしない。

 特に、怒りや憎しみといった負の感情は……

 捨てたつもりでいても、そこには必ず迷いが生じ、いずれは本人も知らぬ足枷となる。


 凌統の場合は、最も殺したい相手が味方の側にいるという矛盾。

 それを解消するため、憎しみを捨てるのではなく、その逆……復讐心を、細く、長く、絞り込む道を選んだ。

 己が復讐を肯定し、暴走させるのではなく、手綱を付け、制御する。

 憎しみにより得た力を、孫呉のための戦に還元するのだ。

 だがそれは、残りの人生総て、復讐の鬼として生きることであり……


(これもてめぇの仕込みかよ、周瑜……!)


 彼が予想したように、凌統の変貌は、周瑜が誘導したものだった。

 凌統の迷いを取り去り、より強力な戦士に仕立て上げる。

 今の凌統は、周瑜の狙い通り、理性で動く復讐鬼と化していた。


 太史慈は、何か言おうとして、言葉を飲み込む。

 今、凌統は笑っている。

 凌操りょうそうが死んでから、彼から笑顔は失われた。

 復讐を果たすため、己の甘さを捨て、一振りの冷たい刃になろうとした。

 だから、凌統の笑顔を見るのは久しぶりのことになる。


 だがそれは、復讐への愉悦から生まれる笑い。沸き上がる本性の情動に、恍惚している。


 彼は気付いているのだろうか?

 今の己の在り方が、殺戮に溺れる甘寧と同じだということに……



 それを口に出そうとして……太史慈は唇を噛み締めるに留めた。

 いかに凌統が人間らしさを捨て、鬼に成り果てようとも、その結果彼が強くなれば、それは孫呉の益となる。


 それに……戦場は、殺人を是とする狂気の世界。

 より強き者だけが生存を許される、蠱毒こどくの壷。

 太史慈の経験上……そうした場所で生き残るのは、何かに強い執着を持つ者だ。

 そのためならば、何であろうと犠牲にできる、強い執着。それが、他者を殺す覚悟を生み、生き延びる活力を生み出すのだ。


 極論を言えば、戦争に人間らしさなど必要ないのだ。


 凌統に根付いた復讐という目標。

 それは、これから始まる弩級の戦場を生き抜く支えとなるだろう。


 自分は、凌統に生き残って欲しい。

 凌操ともに続き、その息子まで失いたくはない。

 そのためには、周瑜のやり方を受け入れるしかない……


(俺がそう考えることも、計算ずくか?)


 もし孫策あいつが生きていたら――



 またも益体の無い仮定を思いついたところで、太史慈は気付く。


(チッ、人のこと気にしてる場合かよ)


 今、自分は迷っている。周瑜のやり方が、本当に正しいのか。

 理屈で自分を納得させても、心の底では、認められない自分がいる。


 凌統も言っていたではないか。迷いは死を招く、と。

 これから、絶対に負けられぬ戦が始まる。

 だというのに、こんな危うい精神状態では、討ち死にしに行くようなものだ。


 太史慈は、燃え尽きた煙草を、かわへと放った。


 彼は、凌統よりも遥かに場数を踏み、戦争の何たるかを知っている。

 凌統のように、自分に都合のいい理屈を考えずとも、頭を戦に相応しい状態に持っていける。

 今の一瞬で、戦に不要な迷いを総て封じ込めてしまった。

 鳶色とびいろの瞳には、戦意の火が点っている。


「……総ては、この戦に勝ってからだ。勝つぜ、凌統」


「はい!! 総ては、我ら孫呉のために!」


 そして……復讐たいぎのために。







「周瑜様……そろそろ……」

「ああ……」


 呂蒙に言われ、周瑜は一歩前に踏み出す。

 周囲の船に乗る武将達の視線が、その身に注がれる。


 周瑜は彼らに対し、緩やかに、されど、厳かに語りだす。


「八年……我が君主であり、我が盟友ともであった、先代・孫伯符が非業の死を遂げて八年だ。

 孫呉が今日の発展を遂げたのは、偏に英明なる我らが君主、孫権様と、諸君ら忠臣の尽力の賜物である。

 先代の死で曇りかけた孫呉の光を、絶やすどころか更に燦然と輝かせた諸君の不断の努力に、私は畏敬の念を禁じ得ない」


 彼の言葉を聞く将達は、誰もが同じことを考えているだろう。

 それは貴方のことだと。

 親友の死を乗り越え、破格の才とそれに驕らぬ努力で、孫呉を牽引してきたのは、あの男だ。

 彼は、明日の見えぬ孫呉に希望の光を点し、先頭に立って駆け抜けてきた。

 自分達は、それに導かれて、付いて行ったに過ぎない。



「長い苦闘の日々を経て、私は確信した。

 孫呉の民を結ぶ熱き絆。それこそが、我らの誇るべき宝である、と。

 その絆で打ち立てた孫呉の地は、何者にも侵すベからざる尊きものなのだ。

 だが今、驕り高ぶった逆徒ぎゃくとが、我らが築き上げた孫呉このくにを、横から掠め取ろうとしている。

 諸君、それが許せるか」



 答えは、聞くまでも無かった。


 声は上がらずとも、大気を震わすような怒気が、肌に伝わって来る。

 この地を治めるに相応しいのは、孫家の血統。

 自分達が信じ、忠誠を捧げるに値する、唯一無二の我らが君主。

 既にこの地は分かたれた一つの天下。例え覇王であろうと、漢王朝であろうと、その天下を奪うことは許されない。


 曹操、許すまじ。曹操、討つべし。


 皆の闘志を肌で感じ、周瑜は深く頷く。


「曹操が許せぬか。ならば剣を取れ。我らが君主も、曹操に牙を突き立てる覚悟を決められた。

 孫権様が、苦渋の果てに下された決断を、過ちにしてはならぬ。

 そのためには、勝利あるのみだ。

 全身全霊にて侵略者を討ち、我らが天下を勝ち取るのだ!


 命を燃やせ、死力を尽くせ。

 さすればこの周瑜、確実なる勝利を、諸君に約束しよう」


 周瑜は、孫呉の将兵総ての期待と信頼を背負ってここに立っている。

 その点においては、今までと何も変わらない。

 彼らは皆、周瑜の孫呉への忠誠を、その破格の才能を信じている。

 周瑜の立てた完璧な軍略に乗り、各々の役割を全力で果たす。そうすることで自分達は勝利を得られる。


 彼らを支えているのは、誇りや絆だけでなく、周瑜という男への絶対的な信頼だった。

 船上の闘気が、更に高まる。やはり、答えは必要無かった。

 決断も信任も、既に通り過ぎた場所。後はただ、迫る弩級どきゅうの戦場に、持てる総てをぶつけるのみ。


 周瑜は剣を抜き、進むべき航路を指し示す。


「ならばいざ行かん! 我らが戦場へ! 我らが勝利へ! 我らが天下へ!! 全艦、出撃せよ!!」



 周瑜の号令と共に錨が引き揚げられ、十万の兵を乗せた孫呉の艦隊が、ついに発進する。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ