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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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間章 曹操の一族(二)

 翌朝……

 宮殿内を歩く曹丕は、いつもの白い簡素な衣服ではなく、正装である赤い朝服に身を包んでいた。

 朝服を見事に着こなしており、曹操の不老年齢がもっと高ければ、今の彼のようになっていただろうと評判だ。

 最も、曹操の外見のことについては半ば禁句となっているため、大きな声で喋る者はいなかったが。

 きっと父は気にしないだろう……と思うが、意外にそうでもないのかもしれない。


 その時……中庭の方から、透き通った歌声が聞こえて来た。




(あいつ、今日もやってるな)


 自然と歩が速くなる。

 門を通り抜け、中庭に到達する。果たして、長い石段の上に歌い手はいた。


 声を張り上げ、抜けるような青空に向けて、ひたすらに歌い続けている。


 まるで、声が輝きを放っているかのようだ。この青空のみならず、宮殿を越えて都全体を包み込むような雄大さを感じる。

 哀切な詩を、万感の思いを込めて歌い上げる。文官や女官、警備に当たる兵士達も、皆が立ち止まり、この歌に聞き惚れている。

 この時、この場所は小さな舞台と化していた。


 い歌だ、と曹丕は思う。自分らしくない素直な感想であるが、真に心に響く歌声は、下らぬ虚飾を剥ぎ落とす。

 歌には嘘がない。聴いた時に沸き上がる感情、それは、隠しようの無いのない真実だ。


 その歌い手もまた、美声に劣らぬ美しい容姿をしている。

 大きく開いた眼、真珠のように滑らかな肌。

 艶やかな黒髪を、緋色の髪留めで鼬の耳のように纏めている。

 その顔や華奢な体つきには、まだまだ幼さが感じられ、美麗と言うより、可憐と形容する方が相応しい。


 曹丕はそれから三十秒ほど、その場に立って歌を聴いていた。

 やがて、一通り歌い終えた歌い手も、曹丕の姿を目に留める。


丕兄ひーにい!」


 “彼”は両の眼を輝かせ、曹丕の下へと駆け寄った。


「邪魔だったかな、子建しけん


 曹丕は、側に寄って来た“弟”の頭を撫でてやる。

 その時の曹丕の表情は、普段の冷淡な彼からは考えられぬ、慈しみに満ちた柔和な笑顔だった。



 彼の名は曹植そうしょく、字は子建。

 曹操の五男で、曹丕の弟だ。

 童女のように愛くるしい顔立ちは、童顔である父と、母の面影がよく出ている。

 小柄で華奢な体つき、愛らしい髪型と合わせて、初対面の人間はまず女性と見間違う。

 父や兄と同じ、琥珀色の瞳を輝かせて、曹植は兄を見上げる。


「そんなことはありません! 何だかお久しぶりですね。丕兄」

「ああ、同じ宮殿に住んでいても、意外と会う機会は少ないもんだ」


 昔はもっと頻繁に会っていたのだが。

 曹丕が政治に携わるようになってから、二人の都合を合わせるのが、段々難しくなっていった。


「ところで、今の歌は初めて聴いたのだが、新曲か?」

「はい。父上が遠征から帰って来た時に聴いて頂きたくて作ったうたです。どうだったでしょうか……」


 後半は、上目使いでおずおずと問い掛ける曹植。

 歌っている時のように、もう少し自信を持てばいいのだが。そう思いつつ、曹丕は率直な感想を述べる。


「佳い歌だった。父上も、きっと喜ばれることだろう」


 自分は批評家ではないので、気の利いたことなど言えない。

 いずれ、宮殿の内外に多数いる、曹植かれの信奉者達が、言葉の限りを尽くして絶賛の嵐を送るのだろう。

 父もまた、その一人だ。


「そうですか! わぁい!」


 曹植は両の指を合わせて喜ぶ。彼にとっては、父や母、兄に素直に喜んでもらえることが、一番嬉しいのだろう。


 天才歌人、曹子建。彼の新曲は、また漢の文壇を大きく騒がせることになるのだろう。



 曹植は神童だ。それも、武や政の世界ではなく、文化の世界における天才。

 幼少期から、詩や歌を愛する大人しい気性の子供だった。当時から大人顔負けの詩を多く作っていたが、その詩の才を曹操に認められたことで、彼は本格的に詩文の世界に羽ばたいていくことになる。  

 父、曹操もまた、優れた詩人、文人として有名であるが、その父から見ても曹植の才能は破格であった。


 当初は、親の七光りなどと陰口を叩かれることもあったが、実際にその詩を目にすると、人々は皆圧倒された。

 今までにない斬新な作風、軽妙洒脱な文体、読むだけで情景が鮮明に思い浮かぶ、洗練された表現力。

 そして何より、詩に込められた深い情感。そのどれもが人々を魅了してあまりあるものだった。

 それらの評価は、所詮権力者への媚びへつらいだと揶揄する者達も、曹植の詩に触れた途端、考えを改めた。

 文人としての矜持が、曹植の瑞々しい才能を認めぬことを許さなかったのだ。


 端麗な容姿、歌伎かぎであった母親譲りの美声で歌われるそのうたは、聴いた者を桃源郷へと誘う。

 半年程前、天子を含む漢朝の重鎮が一堂に会し、皆の前で詩や音曲を披露する宴が催された。

 その席で、曹植が詩を吟じたところ、天子は涙を流して感激していた。

 それが嘘偽りではないことは、居並ぶ群臣一同が同様の反応を示したことからも証明できる。

 以降、曹植は齢十六にして、詩界の頂点、“詩聖しせい”として君臨することとなる。


「それで、今は練習をしているというわけか」

「はい。父上にお聞かせする詩歌うたは、最高の状態に仕上げなければなりませんから」


 天真爛漫に笑う曹植。

 その笑顔からは、天才らしく、悩みなど何も無いように思える。


 だが、曹植は真剣そのものだ。

 どれだけ愉しそうにしていようと、彼は常に全身全霊で、詩歌に取り組んでいる。

 それが、武にも政にも才なき自分が、唯一曹操ちちに認めて貰えるものなのだから。



 曹操は、何者も肯定し、いかな才とて平等に価値を見出だす人物だ。

 どのような傑物や聖者であれ、どのような愚物や悪人であれ、彼は常に微笑みを湛えて接する。

 だが、何事も平等に評するということは、身内への依怙贔屓が一切存在しないということだ。

 曹操は人間の中身だけを見る。彼を前にして、血縁や親子といった甘えは通じない。


 かつて荀或が言っていた。

 曹孟徳は、常に人類全体のことを考えて行動していると。

 彼が目指しているものは、曹一族の天下でも、ましてや漢王朝の復興などではない。

 閉塞しつつある中華の文明に新たな風を吹き込み、人類全体の進化を促す。

 乱世を鎮め天下を統一するのも、埋もれた才を発掘するのも、不必要な伝統・因習をことごとく廃棄するのも、人間の可能性の幅を拡げるため。

 荀或を初めとする曹操の臣下達も、その志に賛同して共に戦っているのだ。


 いや、その言い方は少々的確ではない。

 臣下達は、曹操に心からの忠誠を捧げているが、曹操にはその心が存在しない。

 部下や血族、己自身を含む全てのものを、目的のための道具としてしか見なしていないのだ。

 そこには愛や情といった不純物はなく、ただいかに人類の進化に貢献できるか、そのための道具として使えるか。

 それのみを見て人間を評価する。


 曹操政権の中枢にいる者達は、皆主君の本性を知って、彼に仕えている。

 知っていて、彼の為に働くことに至上の喜びを覚えている。

 何故なら、愛も情も無いということは、一切の偏見も無いということだ。

 曹操に認められるということは、嘘偽りの無い、真実の評価を下されたことを意味する。

 利用価値を見出だされた……それはつまり、利用するだけの優れた才があると認められたに等しい。


 それは、未来永劫残る、不変の価値。武人として、知識人として、これ以上の誉れはあるまい。

 曹操という、巨大な才能の惑星。その周囲には、真実の評価を望む衛星が集まるのだ。



 曹操は、全てのものを平等に評価する。

 全てを同一の平面に並べ、その才のみを見て、それぞれの才に見合った見返りを与えるのだ。

 評価は平等に、見返りは不平等に。それが真の平等であると知っている。

 何か特定のものに対して、偏った評価を下すことはない。それが、己の血を分けた子であろうと変わらない。

 曹丕も曹植も、父の厳正なる審査を潜り抜けたからこそ、今の地位に留まっていられるのだと理解していた。

 だから、今もひたすらに才を磨いている。父に見放されないために。


 親子だからか、二人の兄弟は、父が“そういうもの”であることを早くに理解していた。

 感受性豊かな曹植などは、人の心の本質を捉えるのに人一倍長けている。

 そうでなければ、人の心を打つ詩など作れまい。


 もしも、兄弟二人の才覚が、曹操の求める基準に達しなくとも、父は、子を責めることも、冷遇することもあるまい。

 曹一族の一員として、相応しい扱いはしてくれるだろう。

 だが、それだけだ。父は自分達に、曹操の血を引いているという対外的な効果、唯一それのみを価値と見なし、道具として扱うのだろう。

 それでも、自分達は安穏な生涯を送れるのだろう。

 父は全てを認め、その才に相応しい道を用意する。誰もが満ち足りる、身の丈に合った幸福な生涯を送れるように。


 ならば、自分達は満足できるのか?

 曹操の、乱世の覇者の息子でありながら、その父に矮小な存在であると“認められた”まま、父の庇護下で一生を終えることが。

 曹丕も曹植も、答えは否だった。

 否定されるのならまだいい。

 だが、世に五万といる無能で無力な愚物と同列の存在と見做され、曹操の脳内人名録に、未来永劫記録されるのは、耐え難い恥辱だった。


 そして何より……自分達は、父を尊敬していた。

 荀或や四天王ら、数多の臣下達と同じく、曹操という破格の器に魅せられ、彼に認められることを渇望したのだ。


 曹丕あには政の世界で、曹植おとうとは文化の世界で。

 それぞれ一流となって、父の掲げる改革に協力しようと。

 “曹操の息子”として、相応しい人間になる。それでこそ、父に“有用な道具”として認めて貰える。

 曹操に一切の愛情は無い。己の才を磨く以外に、親子の絆を繋ぎ止める術など存在しなかった。



 


 曹植の頭を撫でながら、曹丕は自然と頬が緩むのを感じていた。我が弟ながら、何と愛らしいことだろう。

 性別も種族も関係無く、こんな可愛らしい生き物を他に知らない。

 頭を撫で、頬擦りし、力一杯抱き締めたい衝動を押さえつけるのにも、限界を感じていた時……


 どこからか、拍手の音が聞こえて来た。


「いやはや、お見事でございます、曹植様」


 そこには、顔を狐のような笑みで歪めた、劉曄が立っていた。


「劉曄様! ありがとうございます!」

「劉曄……」


 いつの間にそこにいたのだろうか。

 もしかすると、最初から聴衆に混じっていたのかもしれない。曹植の詩に聞き惚れるあまり、周囲に目が行かなかった。

 この分だと、曹植の前でだらしなく頬を緩めた姿も、見られていたに違いない。

 途端に気恥ずかしくなる。他はともかく、この男は自分の“裏の顔”を知っているのだから。

 劉曄のあの笑みは、曹植ではなく、自分に向けられたものだろう。

 爬虫類のような両の瞳が、皮肉な色に輝いている。


「曹植殿下の新曲を、誰よりも早く聞くことができる。

 この宮殿に務めていて、これほどよかったと思えることはありませんよ。これはまた、詩文界に大旋風を巻き起こしそうですね」

「またお上手な」

「いえいえ、殿下は御自身の人気をもっと自覚されるべきです。

 毎日宮殿に届けられる手紙や贈り物は星の数ほど。

 中身は厳重に改めておりますが、どれも曹植様を賛美するものばかり。

 中には少々“行き過ぎた”内容のものもありますが、そうしたものは全て弾いておりますのでご安心くださいませ」

 

 後半は意味がよく分からず、曹植は首を傾げた。


「また、宮殿の外には、曹植殿下を一目見たい、会いたい、触りたいと願う方々が詰めかけており、衛兵達も追い払うのに難儀しております」

「ど、どうしよう。皆の前で一曲ぐらい歌った方がいいのかな?」

「やめとけ……」


 純粋に詩を愛しているのならともかく、中にはよこしまな感情を持つ輩も大勢いるだろう。

 弟を、そんな汚らわしい視線に晒させるわけにはいかない。


「ええ、お兄さまの心労を増やしてはなりませんよ。いえ、嫉妬というべきでしょうか?」

「黙れ……」


 曹丕の心中を見抜いた上で、軽口を叩く劉曄だが、曹丕に睨まれ肩を竦めた。

 そして、やや真面目な調子に戻って続ける。


「……とまぁ、冗談で済めばよいのですが、実際、良からぬ輩が混じっておらぬとも限りません。

 どうか、みだりに宮殿を出たり、軽々に見知らぬ者と会われませぬようお願いいたします」


 今は乱世である。群衆に紛れて、曹操の嫡子を狙う輩がいてもおかしくないのだ。

 それを防ぐため、曹一族の住まう宮殿では、戦時さながらの厳戒態勢が敷かれていた。

 今、三人が会話しているこの中庭にも、曹操軍の精鋭が数名、護衛の任についている。


「わーってんよ、んなこたぁ」


 別に宮殿の外に出る必要はない。出たいわけでもない。

 唯一つを除けば、曹子桓に趣味らしい趣味などないのだから。


「はい! 僕たちが危険な目に遭えば、父様とうさまに迷惑がかかりますからね! 父様を困らせるわけにはいきません」


 “悲しむ、とは言わない辺り、弟は父の本質を的確に捕らえているようだ。


「ええ、両殿下に万が一のことがあれば、私も首と胴が繋がらなくなるでしょう。お二方、御自愛くださいますようお願いします」


 首の辺りを摩りながら、冗談混じりに言う劉曄。


「ところで、曹丕様……」


 劉曄は、曹丕の方に向き直ると、意地の悪い顔で告げる。


「そろそろ予定の時間でございますが、今日はいかがいたしますか?」


 曹丕は不快感を露にする。何も、曹植のいる前で言わずとも良かろうに。


「丕兄、お仕事があるのですか?」

「……まぁ、そんなところか」


 嘘ではない。嘘ではないが、弟を偽っている罪悪感が、ちくりと胸を刺す。


「くだらねー雑用だがな……」

「駄目ですよ、どんな些細な仕事も疎かにしては。さぁ、僕に構わず行って下さい」

「あ、ああ……」


 邪気の無い瞳が胸に痛い。そこから目を逸らすように、恨みがましい視線を再度劉曄に送った。

 劉曄は、癇に障る笑顔でそれを受け流す。



「では、参りましょうか。曹丕様」








「あぎゃっ! ぎゃっ! ぃぎゃあああああ!!?」


 城の地下にある刑場にて。

 曹丕は首と四肢を拘束された死罪人の前に立ち、額に剣を突き立てていた。


 ずぶずぶ、ずぶずぶと。

 額の皮を裂き、肉をえぐり、頭蓋骨を穿ち、脳に達するまで、少しずつ刃先を押し込んでいく。

 肉の感触を実感しながら、曹丕は無表情のままで静かに呟く。


「痛いか? 痛いんだろうなぁ。

 俺はこんな痛み味わったことないから、正確なところはよく分からないんだが、あんたがそこまで苦しそうにしてるってことは、きっと物凄く痛いんだろうな」


 今拷問を受けているのは、漢王朝の名門貴族だった男だ。刃を体に刺し込まれることすら、初めての経験だろう。


「だけどな、あんたの部下が味わった苦しみは、こんなもんじゃなかった。

 鞭で打たれ指を焼き潰され酸で肌を焼かれても、あいつはあんたのことをばらしはしなかった」


 この男は、暗殺の嫌疑で昨日まで拷問を受けていた男の、雇い主に当たる人物だった。

 かつては漢朝の貴族で、それなりの権勢を誇っていたが、曹操の行った能力重視の人事改革により、今の地位を失った。

 漢朝の貴族は、今も昔も矜持だけは山のように高い。曹一族を怨む動機は十分だ。


 最も、彼と似たような境遇の人間は他にも大勢いる。そのため、割り出しに時間が掛かったのだ。


「う、嘘だ! 奴が喋ったに違いない!! おのれぇ……育ててやった恩を忘れおって!!」

「おいおい、何で俺が嘘をつく必要があるんだよ。

 しかし、あんたも大概小悪党だな。あんたが今みたいな目にあっているのは、あんたが俺たち曹一族に逆らおうとしたからだろ。

 そんなの、上手く行くわけねーってのに。何で馬鹿やっちゃうかな……ったく」

 

 聞き分けの無い子供の悪戯に呆れるような口調で呟く曹丕。


「ち、違います。違うのです、曹丕様」

「違うって、何が違うんだ?」

「全てはあやつめが独断でやったこと! 私は何も知りません!

 私の、貴方様や丞相閣下への忠誠は、些かも揺らいでおりませぬ!!」


 男は、必死の形相で弁明する。漢朝の名門であるという、彼の唯一の誇りは、死の危機を前に脆くも崩れ落ちていた。


「ははは、まるで蜥蜴の尻尾切りだな。あんた、本当に何も知らないのか?」


 額に剣を刺したまま、ぐりぐりと回して傷口を広げる。

 男は苦痛に顔を歪めながら、懇願の叫びを上げる。


「そうでございます! そうでございます! 私は! 何も! 何一つ! これっぽっちも気付いておりませんでした!!」

「ほぉ、部下の動向を何一つ把握していなかったってか。それはそれで、あんたの監督不行き届きだ。

全く責任が無いとは言い切れないぜ?」

「そ、そんな……」


 男の顔に、絶望の影が差す。それを見た曹丕は、助け舟を出すようにこう話す。


「まぁ、聞けよ。俺は別に、あんたに怒っているわけじゃない。

 俺の親父も、今の地位につくために、大勢の部下を捨て石にしてきた。

 その親父の功績の上に、胡坐あぐらをかいて座っている俺も同罪だろうよ。所詮、俺もあんたと同じ穴のむじなさ。

 “曹操の息子”という地位が無ければ、何の力も無いただの餓鬼なんだからな」

 

 自嘲するように語る曹丕。

 

まつりごとはかりごとの世界に、善や悪だなんてものはない。

 人間の勝敗と生死を分かつのは、賢いか、愚かかの違いだけさ。

 強いことと賢いこと、弱いことと愚かなことは必ずしも一致しない。

 権力ちからが弱いなら弱いなりに、自分の分を弁えて、大人しくしていれば……少なくとも死なずにいられる。

 だというのに、あんたはその境界線を突破しちまった。

 過ぎた野心は身を滅ぼす。あんたの思想が間違っているかどうか、そんなことは関係ない。

 あんたはただ、愚かだったから死ぬ。それだけのことなのさ」


 男を冷たい目で見下ろす曹丕。男の顔は青褪め、絶望で塗り潰されている。


「おのれ……おのれ! 驕り昂ぶった曹家めが……!!

 漢朝の伝統と格式を踏みにじる、成り上がりの奸賊めが!

 貴様らの横暴、天は決して許しはせんぞ!!」


 もう自分は助からない。そう確信した男は、先程までの演技を投げ捨てて絶叫する。

 内にある、憎しみ、妬み、怒り……混ざり合い、ドロドロになるまで煮詰まった負の感情を、残らずぶちまける。

 曹丕は、表情を変えぬまま、男の声に耳を傾けていたが……


「ふ、ふふふ……ふふふ……」


 曹丕の顔に浮かんだのは、怒りではなく笑みだった。


「ああ、いいね。そいつぁいい。実に愚かで無意味な、非合理的な行為だ」

「何とでも言え……どうせ貴様は俺を殺すのだろう?」

「くくく、まぁ聞けよ。俺にとって、あんたの愚かさは貴重なんだよ。

 何せ、俺の周りにいる奴らは、どいつもこいつもやたらと賢い連中ばかりでよ。正直、居心地が悪いんだ」


 男は死の恐怖を一瞬忘れ、困惑する。


「親父は優れた才を愛する、使える道具を愛する。

 だがね、俺はその逆……優等よりも劣等、賢さよりも愚かさを好ましいと思えるのさ。

 だって、そっちの方が希少価値が高いもんな。数が少ないってことは、即ち尊いってことだろう?」


 まぁ、曹植は例外だけどな……曹丕は小声で付け足した。



 あの男の言うように、曹操は成り上がり……無数の愚者を蹴落とし、這い上がり、栄光を掴んだ人間だ。

 だが、曹丕じぶんは違う。自分は最初から、全てを与えられた立場にいた。

 望めば何であれ手に入る。餓えることも無く、渇くことも無く。

 飢餓を知らぬ故に、度を越えた渇望や欲求が生まれることも無く、永遠に発芽することもない、ささやかな悪の種のみが残った。


「俺は絶対に悪にはなれない。どれだけそれに焦がれても、親父の幻影が、俺の悪を押さえ付ける。

 後継者だの言われたって、所詮俺は臆病で小賢しい、親父の奴隷に過ぎないんだよ。

 だから、俺はあんた達がうらやましいのさ。

 そうやって、間違った選択をして、平然と境界線を踏み越えられるあんた達がな」

「な、何が言いたい……」

「ああ、悪いな。物事を回りくどく言ってしまうのは、俺の悪い癖だ。いや、これは親父の癖が感染うつったんだろうな。まっ、要するにだ」


 次に放った一言は、彼にとっておよそ信じがたいものだ。


「俺はあんたを許すことにした。俺はあんたを殺さないし、部下にも傷つけさせない。いいな、劉曄」

「畏まりました、曹丕様」


 曹丕の背後に控える、劉曄と護衛達は、揃って頷いて見せた。


 男の頭の中では、疑念と希望が渦を巻いていた。

 助かるかもしれない、という期待と、そんなはずはないという不審の念。

 二つの色が混ざり合い、渦を成している。


「信じられねぇか? だがな、俺は曹子桓だぜ?

 罪人の一人や二人、生かすも殺すも自由。そうは思わねぇか?」


 確かにそうだ。今、この漢朝で曹一族に逆らえる者などいるものか。


「俺の親父も、よく敵だった奴を許して仲間に加えていたみたいだしな」


 その一言が決定的だった。


「あ、ありがとうございます! ありがとうございます! 曹丕様!! この御恩は一生忘れませぬ!!」


 自ら地に頭を擦りつけ、感謝の言葉を叫ぶ。

 曹丕は、その姿を見て、満足そうに笑うと……



「残念だな」



 剣を振るい、男の喉をかっ切っていた。





「あ……か……」


 血の沼地が床に広がっていく。男は朦朧とした目で、曹丕を見上げる。

 曹丕は、その双眸に哀れみを湛えて話し出す。


「惜しいなぁ。本当に惜しい。

 聞いてなかったのか? 俺はな、愚かな人間が好きなんだよ。

 だったら、今ここであんたの取るべき行動はそうじゃない。 

 この状況で、俺に心臓を鷲掴みにされた絶体絶命の状況で、

 自分の命より誇りを優先して、俺の申し出を頑として跳ね退ける愚かしさを見せて欲しかったね」


 自分は、選択を誤ったのか。だが、続けて曹丕が放った言葉に、男は愕然となる。


「まぁでも、結局あんたがどうしようが、結果は変わらなかっただろうがな。

 あんたを死罪にするのは、親父が定めた法で決められたことだ。

 それを破って、あんたを助けたりしたら、俺が親父に殺されちまわぁ。

 これも言ったろ? 俺は、臆病で小賢しい人間だ。だから、親父にも親父の法にも逆らわない。逆らえない。今やれる範囲で、満足するだけさ」


 曹丕は初めて、その顔に獲物をなぶる嗜虐的な笑みを浮かべてみせた。


「中々見物だったぜ、さっきまでのあんたの足掻きっぷりはよ」

 

 絶望から絶望は生まれない。希望があるからこそ、それが失われた時の絶望はより深く呪わしいものとなる。

 それを観賞するのが、曹丕のささやかな愉しみの一つだった。



「あ……くま……め……」


 精一杯の呪詛を搾り出して、男は息絶えた。




「褒め言葉として受け取っておくぜ。いや、逆だな」


 悪魔のような連中ならば、自分の周囲に何人もいる。

 彼らに比べれば、自分など矮小な蚤蟲のみむしでしかない。




 劉曄は何も言わずにやにや笑っている。

 彼は、最初から曹丕がこうすることを全て見透かしていたのだろう。


 そしてそれは当たっている。

 口ではどう言おうと、間に遊戯あそびを挟もうと、最終的には、曹子桓は曹孟徳に服従する。

 そうなるように出来ている。

 それはもはや、悪と呼ぶのもおこがましい、傀儡の人生だ。

 曹植おとうとのように、自分からは何も生み出せず、曹操ちちの呪縛に抗うことすら出来ない賢しき己を、曹丕は嫌悪していた。



 劉子揚は、曹孟徳ちちの忠実なる臣下だ。曹操の治世の障害となるものは、何であろうと排除する。

 裏を返せば、その障害に値せぬ者は、放置しておくということだ。

 劉曄が、曹丕のささやかな悪趣味に対して、何ら苦言を呈さないのは、彼の本質を正しく理解しているからだろう。


 曹丕が、決して父に抗うことがないことを。

 独りよがりの感情に任せて、時代の流れに逆らったり、与えられた役割から逃げ出す愚か者ではないと、高く評価している。

 劉曄の曹丕を見る目は、飯事ままごと遊びに興じる子供に向ける母親のそれと同じ、包み込むような穏やかさを湛えていた。

 最もそれは、曹操の後を継ぐという機能を有した道具に対するものであったが。


 もしも曹丕が、曹操の品位を貶め、後継者として相応しくない程に放埒で怠惰な愚者であれば……彼は、処断を下すことを躊躇わないだろう。

 劉曄の、粘つくような笑みに隠された冷酷さと、更に奥にある曹操への鉄の忠誠を、曹丕はよく知っていた。

 劉曄を曹丕の側近として選んだのは曹操だ。あの親父が、それしきのことも出来ない人材を選び出すものか。

 立場や表面上の態度は違えども、曹操への絶対服従という点において、自分と彼は似た者同士と言えた。

 

 曹丕には、それが腹立たしくてならない。自分は所詮、劉曄の理解から一歩も外に出れていない。

 劉曄にしてみれば、児戯にいちいち反応するのも馬鹿馬鹿しいのだろう。

 さらに言えば、その劉曄も含めた漢朝の全てが、曹操の掌の上で踊らされている。




 乱世の覇王、曹孟徳。

 何処までも自分のために、我欲のままに生きながらも、その行動は徹頭徹尾、水も漏らさぬ合理性に裏打ちされている。

 我によって行動しながらも、常に世界全てに影響を与えていく。

 その生き方は数多の他者を惹き付け、幾多の敵を撃ち滅ぼし、ついには天下の頂へと登り詰めた。


 その、あまりに巨大で完璧な“悪”の姿に、曹丕の自我は再起不能寸前まで打ちのめされてしまった。

 父親あれを前にすれば、この世のあらゆる悪が、矮小で下らぬものに思えてしまう。

 そしてその中には、自分自身も含まれているのだ。


 己の卑小な悪は、父のより大きな悪によって押し潰され、揉み消されてしまった。

 今の自分に残ったのは、ただの悪趣味だけだ。


 かつて放たれた劉曄の問い。それに正直に答えるならば……曹丕じぶんは父を愛し、また尊敬している。

 それは紛れも無く、真実の感情だ。

 だが一方で、自分の悪性を奪い去り、平凡な人間に貶めたことに対する理不尽な憎悪も、消えることなく持ち続けている。


 愛情と憎悪、尊敬と恐怖は表裏一体。その矛盾する二つは、どちらかを打ち消すことなく、曹丕の内で混在している。

 絡み合った感情の鎖は、曹丕という男の本性を縛り上げて離さない。





「曹丕様……」

 

 背後でずっと成り行きを見つめていた劉曄。

 彼は、穏やかな笑みを張り付かせたまま、とんでもないことを言い放った。


「この男は、実は全くの無実だった……と申したら、いかが致しますか?」

「――――!」


 体中に電撃が走る。目を見開き、劉曄の方を振り向く曹丕。何か叫ぼうとしたところで、劉曄の意図に気付き、すんでの所で唇を噛み締める。


「失礼。もちろん、嘘でございますよ? 私どもの調査は完璧でございますとも」


 深々と頭を下げる劉曄を前に、猛烈な怒りと自己嫌悪が湧き上がる。

 劉曄の言葉に罪悪感を覚えてしてしまったこと、その動揺を劉曄に見られてしまったこと。

 加えて……劉曄の言葉が嘘であったことに、安堵してしまった自分が、何よりも不愉快だった。

 


 劉曄は、曹丕のその反応も全て読んでいた様な顔つきをしている。

 曹丕を試す、といった意図ではなく、これはただの嫌がらせだろう。


 そう、自分は所詮そんなものだ。

 誰かに許されている内は、幾らでも“悪”らしく振舞うことが出来る。

 だが、少しでもその枠を逸脱しようとすれば、良心の呵責が抗いがたい恐怖となって襲い掛かるのだ。

 悪である事を求めながらも、己が真の悪に堕ちてしまうことを恐れてしまう。

 矛盾に塗れた、実に弱くて卑小でありきたりな、人間の姿だ。




 だから……時折愚想することがある。

 もしも、完全無欠であるはずの父が、挫折し、地べたに這いつくばり、卑小で脆弱な人間としての本性を曝け出したなら……


 父が怪物ではないと証明されたなら。

 束縛された己の心は解き放たれ、悪として飛翔することが出来るかもしれない。


 自分は決して、悪にはなれない。悪をなせない。

 悪とは、口に出して、行動に移して、初めて表出するもの。

 どれだけ悪辣で残酷なことであろうと頭の中で考えている内はただの空想、他者に罪と認識されることはない。

 どれだけ悪辣で悪質で悪逆で悪徳で悪性で悪態で悪趣味であろうとも、実現せぬ限り、空想それは“悪”にはなりえない。

 悪のほんの半歩手前であり、同時に、悪からは限りなく程遠い。

 自分は所詮、“そこ”止まりだ。悪の想像に耽って、自分を慰めることしかできない。


 ならば……最悪になれぬのなら、せめて最高の悪趣味を目指そうではないか。

 子が父の破滅を願う……これ以上の悪趣味はあるまい。

 父が南に発ってからずっと、彼は父の敗北を空想し続けてきた。

 子として、曹操の臣として、決して願ってはならない禁忌。


 もちろん、この空想にも、様々な良心の縛りが加えられる。

 純粋な父への愛情、次期後継者としての展望、そして、自らの保身……

 様々な良心や常識が、曹丕の悪心を押さえ付ける。

 それでもかれは叫ぶのだ。父への呪いを。禁忌の空想を。



 それが、幼少期、父に根こそぎ奪われた、悪の残りかすの怨嗟の言葉であるように……



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