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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十三章 孫劉同盟(十二)


「周瑜殿は今夜、十万の兵と共に出立されます。

 我が軍総勢二十万の内、周瑜殿率いる十万を長江に。残り十万を柴桑の防備、および後詰に割くとのこと。

 孫権様は、柴桑に留まり、吉報をお待ちくださいませ。状況によっては、出陣を要請するとのことです」

 

 柴桑、孫権の居城にて……張昭は、淡々と報告を済ませた。


 柴桑は、陸からは攻め辛い地形にあり、もしも曹操が、長江の艦隊だけでなく、陸からの侵攻に兵を割いても、十万の兵がいれば凌ぐことができるだろう。

 理由は地形だけではない。この圧倒的不利な戦において、曹操軍の泣き所は、兵糧だ。

 大軍を維持するのには、同じく大量の兵站へいたんが必要となる。

 それが尽きれば、いかな軍とて、ただの飢民の群れと化す。

 軍の規模が大きければ大きいほど、兵糧の消費は激しくなる。持久戦となれば尚の事。

 更に、柴桑一帯は孫呉の庭も同然。容易に敵の補給線を断つことができよう。

 そうなれば、官渡決戦における袁紹軍と同じ末路を辿ることになる。

 仮に曹操が、こちらの予想の裏をかき、五十万の兵総てを陸路からの侵攻に割いたとしても、それはそれで、こちらの思惑通りの結果と言える。


 故に、柴桑を確実に攻め落とすには……長江を下り、“入り口”である水路から攻めねばならない。

 そもそも、陸路が不便であるからこそ、江南では水路を用いた交易が発展したのだ。

 しかし、通行に便利だということは、同時に攻め込まれやすいことも意味する。数年前は、黄祖や蔡瑁ら、水賊の被害が耐えなかった。



 曹操軍もここまでのことは重々承知していよう。

 だからこそ、不慣れな水戦を覚悟の上で、長江を下っての侵攻という手段を取ったのだ。

 いや、普通に考えれば、これは不利と呼ぶには当たらない。

 短期決戦となれば、数の暴力はその真価を遺憾無く発揮するだろう。それだけ、絶望的な差が開いている。


 孫呉が勝利を収めるには最大五十万からなる大軍を、劉備軍を加えた二十万余で撃退せねばならないのだ。

 やはりどう考えても、不可能事としか思えない。



 しかし……


 孫権は、長江における勝利を半ば確信していた。

 周瑜は、必ず勝てると明言した。その瞳には、虚勢や過信の色は感じられなかった。

 それなりに長い付き合いだ。政の師として、ともすれば孫策あによりも身近にいた。


 だから分かる。あれは、単なる運否天賦うんひてんぷに勝敗を委ねたり、苦闘の果ての玉砕を誉れとするような男ではない。


 彼にあるのは、必ず目的を貫徹せんとする強き意志、それを可能とする至高の才覚。

 そして、孫呉への鉄の忠誠……いや、あれは執着というべきか。

 あの男が勝つと断言したからには、勝てるのだろう。

 問題は、むしろその後……張昭が指摘した通り、曹操の報復を……

 否、“曹操の天下へと進む歴史の激流”を、いかにして切り抜けるか。



「張昭」


 黙って耳を傾けていた孫権が、初めて声を発した。


「はい」


「何故、とは言わぬのか」


 それだけで、十分意味は伝わった。

 張昭は、ずっと降伏を推し進めてきた。それこそ命懸けで。

 それが、孫権が開戦を決めた直後、降伏のことは一切口にせず、柴桑の防備、戦時下の内政に心を砕いている。

 確かに、張昭と周瑜は議場で、どんな結果になっても異を唱えぬと宣誓した。

 規律を何より重んじる張昭の性格を考えれば、この切り替えの早さも頷けるのだが……



「………………」


 孫権の問に、張昭は珍しく、やや時間を置いて答えた。

 既に決は下り、周瑜率いる艦隊は出陣を間近に控えている。

 今さら自分が降伏を主張したところで、軍部の足並みを乱すだけ……時間と能力の無駄であるばかりか、国益を損なう結果に成り兼ねない。

 臣下にとって、主君の意は絶対。自分は、合理的な判断と、君臣の道理に従っているに過ぎない。


 だが、張昭は聡い男だった。

 孫権が、そんな“模範解答”を求めていないことぐらい分かっていた。



「何故……ええ、今でも思っております。降伏こそが最善の道。私の考えは今持って、全く変わっておりません。

 そして、孫権様。貴方と私の考えは、同じだと信じておりました」


「そうか……」


 驚きは無く、怒りも無い。むしろ、安心したというのが正直なところだ。

 未練や迷いを、完全に打ち消せる人間など、いるはずがない。

 ……自分もそうなのだから。



 孫権は、優れた王であるが野心家ではない。

 彼が領主であり続けているのは、総て民のためであり、支配欲などは微塵もない……そう、信じていた。


 孫権は、王という地位を、国家を動かすための歯車と見做している。

 確かに、無くてはならぬ重要な機関ではあるが……それが部品である以上、代替が利くものであることも意味する。

 呉という巨大な機構を維持するために必要ならば……彼は、進んで王の座から退くだろう。

 孫仲謀は、そんな無欲な人間だ。いや、我が身の幸福より臣民に尽くすことこそが、彼の欲求なのだ。


 彼は、自分を道具としてしか見ていない。

 道具は何も望まず、何も欲さず、ただ機能を十全に果たすことを総てとする。

 孫権にとって天下とは、曹操や周瑜のように奪い勝ち取るものではなく、守り育んでいくものなのだ。

 孫仲謀に、権力への執着はない。それもまた、彼にとっては人民を幸福に導くための手段に過ぎないのだ。

 そんな、張昭の知る孫権像に、開戦という決断は、どうしても当て嵌まらない。


「貴方は、常に最善の道を選んでこられた。そのどれもが、大局に立ち、完璧に近い判断ばかりでした。

 ですから、これは初めてのことなのです。貴方の決断に疑問を持ったのは。

 率直に申し上げて……愚挙と考えております」


 これほど辛辣な言葉を投げ掛けられたのは、初めてのことだ。

 元より彼は、従順な臣下からは程遠い、納得のいかぬことがあらば、例え主君であろうと噛み付く気性の持ち主だ。

 孫策の時代は、主君との口論は殆ど日常の光景と化していた。


 しかし、孫権の代になってから、張昭は主君を諌めることがなくなった。

 それは、孫権の下す判断が、張昭の追求する最善に限りなく合致していたからだ。

 孫権、周瑜、張昭。孫呉の中核であるこの三人の道は、僅かなずれもなく交わり、領土の栄光に向かい進んでいた。


 だが……曹操軍の侵攻に際し、周瑜と張昭、二人の道は分かたれた。

 こうなった以上、昔のようにはいられない。

 そして、孫権は周瑜の道を選んだ。権力に執着のないはずの、彼が。



 曹操の支配を受け入れるということは、孫家の血脈を江南から排除することを意味する。

 いかに楽観的な見方をしようと、それは否定できない。

 だから、降伏に反対する周瑜や武官達の気持ちは、張昭にも理解できる。


 無血での降伏を許された、荊州の劉家という前例もある。

 しかし、それは劉一族が、荊州でさほどの求心力を持っていなかったからだ。

 長年荊州を支配してきた、劉表が死んだばかりというのもある。生かしておいても問題ないと見做されたのだ。


 だが、孫家は違う。家臣や民衆からの支持は、劉表などとは比べ物にならない。

 もし、降伏させたとしても、そこには報復と内紛の火種が燻り続けている。江南の民にとって、孫家の血はそれほどに重い。

 例え降伏した直後は、曹操に従属していたとしても、孫家が江南にある限り、独立の気運は高まることだろう。

 あの曹操が、その事実を見過ごすはずがない……


 降伏とは即ち、孫家を江南、引いては中華から放逐するのと同義だ。

 理不尽だ、と思う。江南の民のため、粉骨砕身、政に取り組んできた孫権が、その声望ゆえに危険視されることになろうとは。


 自分も人の子だ。この現実に、怒りを覚えないでもない。

 しかし、それでも……それでも自分は、戦争いくさをすべきではない、そう強く思う。



「私一人が孫呉から去れば、戦は起こらず、民も曹操の支配を受け入れよう。お前はそれが、最善の道だと言うのだな?」

「はい」


 不忠をなじられることなど一切恐れず、張昭は即答した。

 戦を回避するために、孫家という象徴を呉から取り除く。それが最善であると、よどみなく答える。


 余人には計り知れぬであろうが、それこそが張昭の忠誠なのだ。

 孫権は、徹底して民のための道具であろうとしている。

 ならば、その望みを肯定し、彼に王としての機能を果たさせることこそが、正しき臣の在り方である。

 孫権は、何より民を重んじよと言った。

 例え、自分が切り捨てられることになろうとも、一人でも多くの民が死なぬ道を選ぶべきだと……

 その言葉に従い、自分は降伏論を唱え続けてきた。だが……



 孫権は、一切の感情を込めずに問うた。


「私に、失望したか?」


 結局は、自分もまた権力に固執する、凡百の支配者なのではないか、と……


「いいえ」


 今度は、一瞬の間も置かずに答えた。


「何故だ? それは、先程までの発言と矛盾する」

 

 自分は、張昭の信を裏切ったのだ。彼が望む、最善かつ完璧な君主には、なれなかったというに。



「私の中で、貴方への信頼は微塵も揺らいでおりませぬ。そして私は、心から信の置ける主君以外には仕えません」


 かつての孫策がそうであったように。

 どれだけ苦言を呈そうと、見捨てず留まっているという事実そのものが、張子布の忠誠の証なのだ。


「貴方は、いかなる時も民にとって最善の道を選ばれる。その判断に誤りはない。

 ですが……現に私と貴方様の考える“最善”は食い違っている。

 どちらかが間違っている、と決め付けるのは簡単なこと。されど、貴方を信じることを前提にすれば、これは通らない。

 ですから、私はこう考えます。

 最善を判断するための“現状認識”が、貴方と私とで異なっている。

 貴方は、私の知り得ぬ“何か”を知っており、それは孫呉の存亡に関わる重大事。

 そして、貴方はそれを私に打ち明けることができない。あるいは、明かしたとしても、どうすることもできない。

 貴方が開戦を決断したのは、戦争による被害と天秤にかけてなお重い“何か”のためではないか……

 私は、そう推測しております」

「………………」


 孫権は答えない。

 だが、その沈黙は、半ば肯定を意味していた。


「そして……」


 張昭は、更に深く推理する。


「過去にも一度、貴方が全く合理的では無い判断を下されたことがありました。

 “あの時の人事”と今回の開戦は、もしかすると……」


 かつて孫権は家臣達の反対を押し切り、領主の権利を行使して、“ある男”を家臣団に加えた。

 彼が、私情で権力を用いたのは、後にも先にもこれだけだ。故に、誰も深く気に留めなかった。


 あの男の存在を。

 影のように目立たず、何もせず、長きに渡り孫権の傍にあり続けた道化師。

 だがその正体は、孫呉を包み込む巨大な暗闇の権化だったのだ。


「加えて……曹操軍五十万を敵に回しても、全く揺るがぬ周瑜殿の自信。

 その根拠も、あの男に関わっているのでは――」

「そこまでだ、張昭」


 これ以上喋らせまいとばかりに、孫権は口を挟む。


「何の証拠もない、ただの憶測でそこまで語るとは、お前らしくもない」

「お恥ずかしい限りでございます」


 張昭は即座に頭を下げる。


「曹操との戦は私の意志であり、断じて他者の思惑に動かされたのではない。

 これ以上、邪推で我が臣の名誉を傷つけることは許さぬぞ」

「申し訳ありません」

「もうよい、下がれ。新たな情報が入り次第伝えよ」


 畏まりました、とだけ告げ、張昭はその場から立ち去った。






「………………」


 我ながら、見え透いた芝居だ。もちろん、張昭はこんな嘘など見抜いているに違いない。

 それにしても、彼の洞察力には驚かされる。

 自分は何も言っていない。それでも、今在る事実だけを基にして、自分の真意と、黒幕の正体を突き止めてしまうとは。

 明晰な頭脳はもちろんだが……孫権への深い理解と信頼無くしては、成り立たぬ推理だ。

 彼の信と忠に、胸が熱くなる。同時に、そんな彼を偽らねばならぬ己を激しく嫌悪する。



 違う……違うのだ、張昭……


 私は、お前が考えているような、聖人でも君子でもない。

 此度の戦は、私の弱さが招いたこと。私が犯した罪が、今日の災禍に繋がっているのだ。


 理想的な君主?

 ああ、自分に出来るのは、その程度のことだけだ。

 周瑜を止めることも、この戦争を止めることも……出来はしない。


 脳裏に、あの黒影かげが浮かぶ。

 遠き昔、わらう影と結んだ約定。それが、孫権の意志と、孫呉の未来を縛り付けている。


「我が友……か」


 張昭に向けて放った言葉に、孫権は苦笑する。

 そう、確かに彼は友だった。あの頃の自分は、そう信じていたし、彼もそうだったのだろう。

 過ちがあるとすれば……自分の人を見る目の無さと、彼と自分が抱く“友情”の定義が、致命的に食い違っていたことだろう。





 もう、何年も前のことになるだろうか……当時、兄、孫策は袁術の下で武功を上げるべく、揚州全土を駆け回っていた。

 当然、孫権に構っている時間などあろうはずもない。

 孫権も、それが当たり前のことと受け入れていた。

 男が、それも武人の血を引く人間が、寂しい、悲しいなどと甘ったれた泣き言をさえずるのは、許されない。

 それに、自分には妹もいた。孫仲謀は、嫌が応にも“兄”たらねばならなかった。

 

 いずれは、袁術に奪われた兵を取り戻し、天下に打って出るであろう長兄。

 そんな長男あにを、隣で支えるに相応しい次男おとうとになろうと、ひたすら勉学に励んでいた。


 孫仲謀の人生は、抑圧に満ちていた。

 出自ゆえに、時代ゆえに、環境ゆえにそうしなければならなかったから。

 だが何より大きかったのは、それが真実孫権自身の願望であったことだ。

 他人ではなく、自分で自分に強制した抑圧かせ

 だから、緩めることも、まして振りほどくことなど出来はしない。誰も、自分自身を裏切れない。

 

 しかし……今思えば、やはり、寂しかったのだろう。その想いが、知らぬ内に心に付け入る隙を作ってしまったのだ。




 自分が諸葛子瑜と出会ったのは、その頃のことだった。


 当時、孫権は趣味と鍛錬を兼ねて、近くの山で猪狩りをしていた。

 草叢くさむらに逃げ込んだ猪に向けて矢を射る。

 だが、聞こえてきたのは猪の鳴き声ではなく……


「あぎゃっぴ――!!」


 随分と間の抜けた、人間の声だった。


 もしや、誤って人を撃ってしまったのでは……

 戦慄に駆られ、草叢を抜けてみると、そこには……


「あひっ、ひっ、ひぃ……」


 黒髪を長く伸ばした黒ずくめの男が、射られた猪の下敷きになっていた。


「むにゅ~~お、重いっす~~」


 孫権とその従者は、慌てて猪を退かし、男を助け出す。

 まかり間違えれば、矢に射抜かれたのは男の方だったかもしれない。

 最悪の事態を免れたことへの安堵、彼の存在に気付かなかったことへの悔恨を込めて、孫権は深く謝罪した。

 幸いにも、男は武将であり、骨折などの大怪我はしていないようだった。

 当人も、特に怒った様子はない。不慮の事故である、とあっさり水に流してくれた。

 しかし、危うく命を奪いかけた孫権の罪悪感が、それしきで消えるはずもない。

 せめてもの償いとして、屋敷に招き、歓待することとなった。

 それを聞いた男は、飛び上がって喜んだ。


「ヒャッホゥ! これで、御馳走にありつけるっす~~! タダ飯最高ぉ――っ!!」


 それと同時に、彼の腹の虫が鳴いた。

 どうやら、余り豊かな食生活を送ってきたわけではなさそうだ。

 男は喜色満面で、自らの名を名乗った。


「俺っちは、姓は諸葛、名は瑾、字は子瑜と言うっす。

 瑾ちゃんでも子瑜っちでも、お好きに呼んでくれて結構っすよ~~」




 ……思えば、この時気付いておくべきだった。


 気配は、無かったのだ。

 孫権は、単に自分が未熟だったので、気付けなかったのだと思ったが、あの時は、それを異常と見做すべきだった。

 彼は、孫権やその従者にすら気付かれぬよう気配を殺し、草叢に潜んでいた。

 孫権に、負い目が残るような出会い方をするために。


 当時の自分に、そこまで思い至る余裕はなく、ただ己の未熟だと判断し、深く反省した。

 しかし、反省すべき点はそこではない。


 自分はもっと、多くの人と接しておくべきだった。

 そうすれば、他者の悪意をより鋭敏に感じ取り、この偶然の出会いの裏にある、邪悪な意図に気付けたかもしれない……

 人生経験の不足、それが当時の孫権の隙だった。



 やがて、孫権は諸葛瑾と友誼を結んだ。

 勤勉な孫権と、自堕落な諸葛瑾、正反対の性格だが、二人の気は不思議と合った。

 孫権は、自分には厳しいが、他者には甘い……いや、他者の分まで、苦労を背負い込もうとする性格だった。

 そのぐらいできなければ、兄を支えることなどできぬと考えていた。


 諸葛瑾の冗談やおどけた態度は、ともすれば張り詰め過ぎる孫権を、いい塩梅で緩めてくれた。

 また彼は、あらゆる点において無益、無害、無為であり、ゆえに、自分は長きに渡り、彼を傍に置き続けた。

 命を奪いかけた負い目は消えることはないが、次第に彼への友情が占める要素が大きくなっていった。



 今思い返しても、愚かの極みだ。

 怠惰で人畜無害な外装に欺かれ、その裏にある本性に気付かなかったとは。

 そして、何より愚かしかったのは……

 自分が彼に対して抱いた思いは、友情などではなく、暗い優越感であったことだろう。

 明らかに劣等で愚鈍な存在を傍に置くことで、見下す愉悦に浸っていたのだ。

 それこそが、自分の眼を曇らせた、最大の原因だ。



 蜜月は長く続いた。その間、諸葛瑾は孫権に、何も求めず、何も与えず、何も期待しなかった。

 ただ、日がな一日中屋敷でくつろぎ、時に軽口で茶化し、時に妹の遊び相手となっただけ。

 それこそ、何か意味のあること、価値のあること、そして、重みのあることなど、何も無かった。

 友としての連帯感も、兄としての責務も、弟としての重圧も、何も……


 彼は居てもいなくても変わらない、無色透明な空気。 

 何もせず、普段は意識することがなくとも、常につかず離れず在るもの。

 諸葛子瑜は、孫仲謀の影であった。



 だが……だがしかし。

 人間が生きていく上で、真に必要なものとは……

 親友や家族、恋人といった“掛け替えのないもの”ではなく、空気や水、食糧といった“幾らでも替えの効くもの”ではないか?

 無くても困らないが、無くてはならない。諸葛瑾は、そんな雰囲気を振り撒いていた。


 ともあれ、兄として、弟として、両面の呪縛に無意識下で悲鳴を上げていた孫権が、当時の諸葛瑾の無為に救われていたのは、間違いない。

 諸葛瑾も、孫権が内心期待する態度を取り続けた。


 まるで……

 まるでそう振る舞うことが、当時の孫権に付け入るのに最も効果的であると、知っていたかのように。



 警戒を解いたことはない。油断したつもりもない。

 心を許し、自身の本音を吐露したことなど一度もない。

 幼少期から、ずっと他者との間に壁を作り、一歩引いた場所で見ていた。諸葛瑾もまた、その例外ではない。

 間諜の可能性について考えぬことは無かったし、その出自については、些か過剰なほど調べ上げた。

 無論、機密情報を漏らすこともなく、むしろ国政については遠ざけていた。


 だから……瑾に対して、深く踏み込もうとしたこともまた、無かった。


 もしも諸葛瑾が、孫権の心を強く引き付けるほどに魅力的な人物だったならば、彼に疑念を持ったことだろう。

 愛憎と信疑は、常に表裏一体である。

 だが、諸葛瑾はややお調子者なだけで、市井しせいの人間と何も変わることが無かった。

 特別すぎることもなく、普通すぎることもない。


 今にして思えば……不自然なほどに、不自然さのない男だった。

 誰が想像し得るだろうか。人格や感情を、自在に作り出せる男がいるなどと……


 こうして……彼は、数年間孫権の傍に潜み続けた。


 だが、その間に、彼の流した毒は、孫呉の全体に回っていた。孫権の体にも――




 そして……

 

 一年程前、自分は彼の正体を知ることになる。


 その時には、総てが手送れだった。

 いや、自分は最初からずっと、あの男の掌の上で踊らされていた。本当の道化は彼ではなく、自分だったのだ。

 そして道化たる自分は、彼を愉しませなければならない。



 彼がもし、自分を“見限った”ならば……孫呉には破滅をもたらされるだろう。

 

 そう……徹底的な、抗いようの無い、老若男女お構い無し、阿鼻叫喚という言葉も生温い、一切合財何も残らぬ、完全なる破滅が――



 それを止める術は無い。彼には、それだけの“力”がある。

 破滅の鉄鎚を、躊躇い無く振り下ろすだけの狂気がある。




 そしてもう一つ……

 張昭の推測は当っていた。



 かれが手を組んでいるのは……己が臣であり、師であり――



 “絶対に敵わないこと”を、魂に刻みつけられている相手だった。


 

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