第二十三章 孫劉同盟(十一)
「うっへぇ。全く、酷い目にあったっす~~~。鬼姫様、手加減なしなんだもの」
頭をぽりぽり掻きながら、諸葛瑾は一人ごちる。
(でも……)
例によって、彼は主からのお仕置きを受けていたが、彼は見逃さなかった。
その表情に隠れた、陰を。
彼女が何を思い、何を決意してこの場所に来たのか、彼は知っている。
彼女の覚悟の程、兄に向ける愛情の程も知っている。
「この戦が無事に終わっても、しばらくは会え無さそうっすね……」
ならば、自分に出来ることはただ一つだ。
茶化さず、冷やかさず、彼女の決断を尊重し、敬意を払い、いつも通りの態度を崩さぬまま、ただ見守るのみ。
その方が……きっと、面白いことになる。
「げげ……げべびびび!! げぎょげぼべばぼぼびびびびびびびび!!!」
変わる。実に自然に、僅かな間断もなく、人格が変転する。
“変わった”と意識する間すらもない。人格を切り換えるのではなく、長く赤一色の帯が、ある線から黒になっているような……自然な変貌ぶりだった。
人払いの結界の中、彼一人しかいない世界で、諸葛瑾は笑う。
ああ、やはり、人間は“天然もの”に限る。
下手に手を加えるよりも、あるがままを愛で、味わうのが最も甘美だ。
その点、人間というのは、諸葛瑾にとって実に都合のいい生き物であると言えよう。
こちらが何もしなくても、勝手にいがみ合い、傷つけ合い、殺し合い、苦しみ合い、愛し合うのだから。
最も、存分に手を加えた、粗悪なゲテモノも、彼の好みではあるのだが。
「相も変わらず、下らん趣味に現を抜かしているようだな。この下種めが」
侮蔑に満ちた声が、瑾に投げかけられる。
下卑た笑い声がぴたりと止む。
彼の目の前には、一人の兵士が立っていた。
姿形や装備は、確かに劉備軍の兵士のもの。
だが、今の彼を見て、彼が一介の兵士で過ぎないと、誰が思うだろうか。
それだけ、この男の振り撒く雰囲気は、常人とは別格のものだった。
己こそが至尊たらんという、絶対的な自負。
この世の総てを見下して憚らぬ、圧倒的な傲慢。
それらを、ただ立っているだけで雄弁に語っている。姿を偽るものである兵士の外装も、この男の格の前ではさしたる用を成さなかった。
見下ろし、また見上げる両者は対極の関係にある。
外装を自在に変化させながら、中身は全く変わらぬ者と、姿形は変わらぬが、人格を完璧に変転できる者と……
諸葛瑾は動じない。
人払いの結界内にいる自分を見つけ出したことや、結界に近づくほど起こる忌避感を全く意に介さず、内部に踏み込んできたことにも、驚いた様子はない。
何故なら、それは当然のこと。
“道”の大原則の一つ、二人の術者が同じ術を行使した場合、より上位の術者の前では下位の術者の術は打ち消される。
目の前にいるのは、自分よりも格上の術者で、旧知の人物だった。
「ぎへへへ! おいおい、それを言うならオメーも同じ穴の狢だろうがよ。
さっきまで、オレと張飛の感動超大作な再会を、覗き見してやがったくせによー」
ぎへへと笑う諸葛瑾。彼はあの時、自分達に向けられた視線に気付いていた。
「それに、よぉ……」
諸葛瑾は、どす黒く濁った瞳を、目の前の男に向ける。
「張飛があんな目に遭ったのにゃ、オメーも一枚噛んでんだろーが。つーか、元凶はオメーだろ」
「ああ、その通りだな……」
彼は、あの“代替品”の少年を見て、数十年前のことを思い出す。
あの時は、彼の計画における、最も大きな危機の一つだった。
彼が目論む“歴史の再演”に必要不可欠な部品が、開幕する前から欠損したのだ。
誰が知ろう。親からその名を賜り、本来史実の英雄として活躍する本物の“張益徳”が、黄巾の乱が始まる前に、既に死んでいたなどと……
本物の張飛は、粗暴で酒好き、頭も弱く、些細なことで憤激する、明らかに長くは生きられない類の人種だった。
最も、直接確認したわけではない。彼の知人から聞いた話だ。
彼を発見した時、既に彼は死んでいたのだから。
酔っ払った揚句の喧嘩で、官憲に取り押さえられて、抵抗の末殺されるという、惨めな最期だった。
屑が! くだらない場所でくだらない死に方をしおって!
どうせ死ぬのなら、神の役に立つ形で死ね!
未来歴史書【三国志】の完遂に、張飛の存在は無くてはならない。
彼の計画は、始まる前から頓挫したかに思えた。
だが、それでも天運は彼に見放さなかった。加えて、彼は絶望もしていなかった。
何が起ころうと、最終的に天は己に味方するのだと、確信していたのだから。
この時点では、張飛は劉備や関羽と知り合っていない、全く無名のただのチンピラだった。
何処で野垂れ死のうと、誰も気に止めない……そんな境遇にあった。
司馬懿の内で、瞬時に計画が修正される。
本来、その役を演じる役者が出場できぬならば、“代役”を立てればよい。
これが、張飛という男が、広く名を知られた段階ならば、代役などは認められなかっただろう。
だが、まだ無名の今ならば……代役と入れ替えようと、何の問題もない。
方針は決まった。続く問題は、代役を誰にするのかという点だ。
張益徳は、【三国志】の物語において、中核を成す働きをする英雄だ。
さらに、弱小の劉備を勝ち残らせるためにも、卓抜した力を持つ武将で無ければならない。
生半可な人材では、本物と同様、本来死ぬべきでない場所で死ぬのが落ち……
しかし、代役を捜そうにも、この時点で相応に突出した人材は、皆、後の歴史において重要な役割を果たす者ばかり。
既に役を与えられている者を、代役に起用することはできない。
やむなく彼は、旧知の人物を頼ることにした。
愚劣にして唾棄すべき、下衆の中の下種であるが……こと、“人間”に関して、彼の右に出る者はいない。
話を聞いた後、彼は次の案を出した。
代役に相応しい役者がいないのならば……“創ればよい”。
こうして、新たな“張飛”を生み出すための計画が始まった。
諸葛瑾の情報網を駆使し、各地から無名の、かつ優秀な武将の子供達を集める。
彼らを一箇所に集め、“英雄”として相応しい力をつけるまで鍛え上げる。
そこは、無数の毒虫を食い合わせ、最強の劇薬を作り出す、蠱毒の壷。
“英雄の模造品”を生み出すための儀式だ。
その過程で、大半の子供達が“脱落”していったが、元より、“張飛”の名を冠せるのは一人だけ。
そして、地獄のような試練の果て、生き残った一人の少年が、神の栄誉を賜る資格を得た。
そう……英雄の代役として、神の生み出す新世界の礎となる栄誉を……
少年は、記憶を消去され、赤蛇紋を刻まれ、張益徳の名を与えられた。
そして、こちらが意図的に流した情報を聞いて、助けに来た劉備に拾われる。
地獄の日々を潜り抜けて来た少年は、自分を救ってくれた劉備を親と、兄と見做し、以後絶対の忠誠を捧げていくことになる。
総て、諸葛瑾の目論見通りに。
「お、俺っちは、本当はやりたくなかったんすよ? けど、やらなきゃ殺すって脅すもんだから……
あの子達には、本当に悪いことをしたと思っていますわ……」
一部、人格が“混線”しているようだ。
それこそが、この男の素なのであるが。
諸葛瑾の、愚にもつかぬ言い訳を“黒幕”は鼻で笑い飛ばす。
こいつはいつだってそうだ。自分の意志で何かを決し、行動することが殆ど無い。
常に誰かの影に隠れ、誰かの意志に依り、誰かの手足となって行動する。
そして、他者に責任を転嫁する“逃げ道”を用意し、自分は悪くないと嘯くのだ。
実に幼稚で低劣な、汚泥に塗れた思考回路。
彼はどこまでも卑屈で、どこまでも弱者だった。自分の罪を、悪を受け入れる強さすら、持ち合わせていないのだ。
されどそれは、人類普遍の感情でもある。
誰もが自分を正しいと思っている。自分は悪くないと叫び続ける。
その時彼らが縋るのが、転嫁の論理だ。
事の因果を遡り、過ちの原因となった他人に、物に、社会に、罪や責任を押し付ける。
こうして、彼らは罪悪感を薄めるのだ。やがてそれは、新たな罪の温床となる。
無論、世の中には自分の責任を他者にお仕着せず、自分で背負おうとする“強い人間”も、確かにいる。
だが、人類の大半を占めるのは、罪を受け止められない弱い人間ばかりだ。
彼らは連帯することで、自らの罪を分散した気になる。
他者のため、家族のため、国家のため……動機は転嫁とも言い換えられる。
罪悪感が薄まれば、人は殺人という禁忌をたやすく踏み越える。
人類間の戦争や殺戮は、転嫁により罪悪感を打ち消した、弱い人間が生み出すものなのだ。
諸葛子瑜は、そんな人間の暗黒面の集合体だ。
他者を貶め悦に入り、他者の手足となることで責任を転嫁する。
彼は個にして群。人の形をした群衆だ。
最悪には程遠い、劣悪。
最強とは対極の、最弱。
されど、彼の悪は弱さから生み出されるもの。
最弱ゆえに、その悪意に限りはなく、同時に劣悪であるがゆえに、総ての人類を敵に回す愚を犯さない。
結果として、最弱劣悪は最強より最悪より長い生き続け、人類社会を蝕む毒を、振り撒き続けていた。
彼は、そんな諸葛瑾を心の底から侮蔑し、見下していた。
だが一方で、彼は認めてもいた。諸葛瑾が、人間の代表であることを。
彼の惰弱にして邪悪なる思想こそが、人類の本性であると認めていた。
そして、神にとって人間とは遍く総て、利用し操り服従させる対象である。
だから、彼は己が邪悪に染まっているという自覚は微塵もない。
神に奉仕するのが人間の義務ならば、人間を使役するのは神の“意義”。
いかな邪悪とて、神のために尽くすのならば、それは善なる行いとなる。彼はそれを、救済であるとさえ考えていた。
……そんな彼の心情を見抜いた上で、諸葛瑾は彼に寄り掛かる。
己の悪心を満たすために。己の罪悪を転嫁するために。“神”を利用しているという悦楽に浸るために。
決定的に反目しながらも、相互の利害は完全に一致している。
彼らはこれまで何度も一時的に手を組み、歴史の影で暗躍してきた。
最終的には、いずれかが裏切り見捨てる形で、その仲は決裂している。
そして今また、神と悪魔が手を結び、中華の歴史を揺り動かす……
「じゃ、そろそろ行くか」
諸葛瑾は、もたれていた壁から背中を離す。
「俺ら三人、ちょっとした“同窓会”と洒落込もうじゃねぇか。げぎびびびびっ!!」