第二十三章 孫劉同盟(十)
「……ふ、くくく、くくく、くげびははははは!! ぎょへへへぶべばばばばばばばばば!!」
張飛の恫喝に対し、諸葛瑾が返したのは、またも醜い哄笑であった。
天使の美貌を持ちながら、その精神は肺臓まで腐敗しきっている。
その腐汁を垂れ流すような笑い声に、張飛は顔をしかめる。
「いやぁ……随分誇らしげに名乗るなぁ、と思ってよー。
“オレが付けてやった名前を”」
「な……!?」
張飛は今度こそ絶句する。その反応を見て、諸葛瑾の顔が愉悦に歪む。
心の隙を逃すまいと、瑾は更に追い討ちをかける。
「その様子だと、まだ思い出せてねぇみてーだな。オメーの本当の名前をよぉ」
「で、出鱈目抜かしてんじゃ……」
そう言う張飛の顔には、明らかな戸惑いの色が表れていた。
「だから、本当のことだっつーの。なぁ張飛よぉ、オメー、少しは疑問に思わねーわけ?
オレんところに来る前、オメーはどこの誰で、一体何をしていたのか……」
「う……」
頭の奥が痛む。これは、諸葛瑾から受けた虐待の記憶ではない。
この痛みは、更に昔のもの。
全てを忘れてしまいたい……そう思うほどの、何かがあったのだ。
“その記憶に触れてはならない”と、脳が全力で拒絶している。
「脳みそをちぃっといじくったことあるし、それが原因かねぇ。げひひひっ!
ま、オレは何があったか知っているわけだが」
「……!」
その時、張飛の顔に現れた変化を、諸葛瑾は見逃さなかった。
「でもま、んなこたぁどぉぉぉでもいいわなぁ!
大事なのは過去じゃなくて現在、だろ? 劉備三兄弟の末弟の張益徳君、よぉ?」
「ぐ……!」
張飛は屈辱に歯噛みする。先程一瞬でも、この男に縋る気持ちになってしまったことに。
「で、何だったか……そうそう、何を企んでるか、だったなぁ。
んな、人を大層な謀略家みてぇに言うんじゃねぇの。
その手の計画だの策略だの練るのは、バッチュの領分だってのに」
バッチュ? また愛称か何かだろうか。
「小難しいことなんざ、何もありゃしねーっての。
今のオメーが劉備の臣下であるのと同様に、今のオレは孫仲謀様の臣下だ。
考えていることなんざ、一つしかねー。
曹操軍をぶっ潰し、我らが御主人様の頭上に勝利の栄冠を輝かせること。
そんだけだよ。つまり、オレとオメーは同じ勝利に向かって進む同志。そう、同志だ!!
御主人様に尻尾振る飼い犬同士、仲良くしようぜ昔みてーによぉ。
げひげははごぎょげろげべばばばばっ!!!」
俄かに信じがたい。この男の語る愛や友情、仲間といった言葉は、いずれも人間の価値観とは正反対の意味を帯びている。
愛とは虐げるもの。友情とは踏みにじるもの。仲間とは裏切るもの。
まるでそれこそが真の絆であると言わんばかりに、この男は喜々として邪悪に手を染める。
そう、あの時も……
白装束に身を包み、白い帽子を目深に被った“彼”は、集められた子供達の前でこう言い放った。
「人間様と狗畜生を分かつものは何だと思う?
ああ、もちろん見た目の問題なんかじゃねぇよ? 二本足と四本足とか考えた奴、後でしばく。
どっちも目があって、口があって、手足がある。んなもんは所詮形が違うだけで結局同じもんなのさ。
知識? 文化? その答えもありっちゃありだが、オレの求めている答えはそれとは違う。
……オレはな、人間の“尊厳”って奴を愛しているんだ。
どんだけ辛い目にあっても! どんだけ悲惨な境遇に陥っても!
その胸に誇りがある限り、人間は前に進むことを諦めない!
それこそが人間! 何て美しく何て勇ましく何て素晴らしい、愛すべき者達よ!!
だから見てみたい!!
光も差さぬ闇底で輝く、魂の灯を!
人類が狗畜生ではなく、正しき誇りと尊厳を持つ人間であることを証明したい!!」
当時は、この男の言っている意味が何一つ分からなかった。
今でも、理解したいとは思わない。
きっと、それが正解だ。
彼について理解を深めようとすれば、その狂気と倒錯に飲み込まれる。
愛しながら壊し、壊しながら愛を語る。この男の愛は、徹底的に歪んでいる。
「で、どーするよ。俺のこと、御主人様に密告ってみるか?ん?」
「ああ?」
「オレを殺すにしたってよー。今のオレは孫呉の人間、いわば賓客だぜ?
ここで殺っちまったら、御主人様にとんでもねぇ迷惑がかかんじゃねぇの?」
確かにその通りだ。この男が、孫呉でどれだけの地位を築いているか知らないが、劉備側の自分が彼を殺してしまえば、孫劉同盟に亀裂が走るのは避けられない。
それは将来、劉備の覇業に悪影響を及ぼす結果に成り兼ねない。
諸葛瑾が指摘した通り、張飛はどれだけ激していても、冷静に物事を判断できる人間であり、何事においても、劉備を最優先にするように出来ていた。
だから……これが諸葛瑾の言葉の罠だと分かっていても、張飛は抜け出すことが出来なかった。
「なぁ張飛。オレのことをチクったとして、劉備はどうすると思う?
可愛い弟の落とし前、つけてくれると思うかぁ?
ぐひひ、賭けてもいいがよ。劉備は、それでもオレと手を組むことを選ぶだろうぜ」
「何ぃ?」
「あいつには、孔明が説明すると思うが……オレがいなきゃこの戦勝てねーんだからよお。
奴の経歴を見て思ったぜ……こいつは、自分が生き延びるためには手段を選ばない。
目的のためなら、何だって利用して、要らなくなったら切り捨てる……ぐぶひひひ……
くせぇーっ! こいつはくせぇーぜぇーっ!
奴からは、俺と同じ下種の臭いがぷんぷんしやがるぜっ!
目的のためなら、何だって利用する。誰とでも手を組む。
そんな野郎が、英雄だの救世主だのと持て囃されているなんざ、民草ってのは何年経っても相も変わらず愚鈍だなオイ。
だが、そいつらを食い物にして、自分の野望を叶えようとしているのが、オメーの愛しいお兄ちゃんだ。
わぁぁぁぁぁぁってんだろぉ?」
否定は……しきれない。
張飛とて、ただの盲ではない。
劉備が生き延びるために、多くの人間を踏み台にして来たことぐらい、理解出来ている。
だが……本来“生きる”とは、そういうことではないのか?
張飛も多くの敵を殺して、その屍で出来た道を歩いて、今日まで生きて来た。
彼は利口な人間であり、ゆえに理解していた。
瑾の言う通り……長兄の性格を考えれば、例え自分の過去と諸葛瑾の本性を知って尚、勝つために、この男と手を組むことを躊躇わないだろうと。
だが……
「それが……それがどうしたよ」
「ぐひ?」
彼は正しく理解していた。長兄が語る徳や正義……それらが全て、他者を欺くための偽りでしかないことを。
その点において、諸葛瑾の言っていることに間違いはない。
だが……こいつは知らない。
血の覇業を行く劉玄徳。その根底にあるのは、総ての者を救いたいと願う優しさだ。
あの地獄の底にいた自分に、差し延べてくれた手の温もりは、今でも覚えている。
それに……張益徳は最初から、正義の為に戦ってきたつもりなどない。
今も昔も、自分の蛇矛と身命は、劉備ら義兄弟達の為にある。
それを思考の放棄、絶対の依存と呼びたければ、好きにすればいい。
だがこれは、張飛なりに考えて出した結論だ。
貧困と戦乱の時代に生まれた張飛が目にしてきたものは、飢えた獣の本性を剥き出しにした人間の姿。
倫理や規範など何処にもなく、あるのはただ殺すか殺されるか、弱肉強食の法しかない。
生きるとは、他者から奪うということ。
この世に明確な善悪など無く、あるとすれば、ただ悪があるのみだ。張飛は、少年時代に早くもそれを悟っていた。
だから、世の英傑や権力者達の語る大義などには、何の価値も見出だせなかった。
この世に絶対の正義などはない。
故に、己の進むべき道は、己で決めるしかない。
そこまで考えを詰めれば、答えは明白だ。
何もかもが信じられないこの世界で、唯一信じられるもの。自分を救ってくれた二人の義兄のために戦おう。
劉備が善であろうが悪であろうが、彼がいなければ、自分は生きていられなかった。
張益徳は、言葉で語る理想や正義などは、総てまやかしだと思っている。
聞こえのいい綺麗事や、理路整然とした講釈は、確かに大多数の人間の心を掴むかもしれない。
しかし、現実は机上の空論とは違う。
言葉にすればするほど、理想は現実から遠ざかっていくように思える。
故に張飛は、現実以外を信じない。
劉備と関羽は、幼き日の自分の命を救った。その事実のみが、信じるに値する真実だ。
しかし、劉備という男は、言葉を縦横に操り、人をたぶらかす詐欺師である。
それは、張飛の信条に反するのではないかと思われるが、そうではない。
劉備もまた、言葉の真実を知っている。
だからこそ、人を騙すための道具として利用できるのだ。
詐欺師にとって、言葉は武器。己の武器に振り回されるようでは、話にならない。
自分が武器を取って戦うように、劉備もまた、言葉を操って戦っている。言葉とは魔物。
人を呪わば穴二つというように、誰かを騙そうとすれば、それが発覚した時、即座に身の破滅に繋がる危険を伴っている。
劉備もまた、命懸けなのだ。どうしてそれを、卑怯、姑息と責め立てることができよう。
活力が沸いて来る。所詮、この男の劉備への理解はその程度か。
ならば、勝つのは長兄だ。
「やってみろよ」
「んんー?」
「てめぇの好きにするがいいぜ。
てめぇが何を企もうが、兄貴はその上を行く。雲長兄貴だって、てめぇの策略なんざ、力で捩伏せるだろうさ。
せいぜい、良い様に利用されるがいいぜ」
張飛の声には、元のふてぶてしい悪童らしさが戻っていた。
「それによ。俺ぁ、兄貴が善だろうが悪だろうが、正直どっちでもいいんだわ」
「げひ?」
「てめぇのせいで、俺ぁ戦い以外じゃ何の役にも立たねー体になっちまった。
俺にとって一番大切なのは未来じゃねー……兄貴達といる現在なんだよ」
地獄の苦痛を味わい、幾多の戦場を駆け抜けて来た張飛は、その手はおろか、全身が血で染まっている。
乱世こそが己の居場所。もはや、平穏な日常には戻れない。
荊州での七年間、赤蛇紋を使いこなす修行に明け暮れたのも、長い平和に浸り、脾肉がだぶつくのが耐え難かったからだ。
ならば、張飛にとって、目指すべき天下は何処なのか。
それは“ここ”だ。劉備や関羽と共に駆け抜ける乱世こそ、自分の理想郷だ。
兄達を守り、共に戦う瞬間……自分の心は、この上無く満たされる。それこそが、自分にとっての魂の真実だ。
自分は、劉備や関羽、曹操のように、未来に望みを託しているのではない。
どの道、自分に残された時間はそう長くない。
運よく戦で生き延びても、劉備が天下を統一するころには、余命など残ってはいまい。
だから……この先に何が待ち受けていようと、兄弟と共にある乱世を駆け抜ける……
それが、張益徳の定めた戦いの意義だった。
諸葛瑾を見据えるその眼には、恐れも迷いも微塵もなかった。
もう、こいつに何を言われようが惑うことはない。
兄弟を、そして、己の選んだ道を信じて突き進むのみだ。
そんな張飛を見て、諸葛瑾は……
「げひ、げひひひごげおろろろろろろろ!!」
またも、不快な声で笑い出す。
「いやぁ見事なもんだ。オメー、自分がどれだけ壊れてるか分かってる?
平和より乱世の方がいいだなんて、今のオメーは、戦闘狂一歩手前だぜ?
いやはや、あのぼうやが、よくぞここまで成りおおせたもんだ!
おとーさんとしちゃ鼻が高いですよ。げひっ、げびへげげらげらら!!!」
ああ、言われるまでもなく理解しているさ。
自分が、身体的要素のみならず、精神的にも、人間から外れつつあることぐらい……
だが、それで構わない。劉備の敵を討つ、ただ一振りの矛であれば、それでいい。
「へっ、負け惜しみにしか聞こえな……」
「だぁが……」
次の瞬間……世界が暗転する。
「駄ぁ目駄目駄目駄目駄ぁ目駄目駄目駄ぁ目ッだぁぜぇぇぇえぇえぇえぇっ!!!」
一体……何が起こったのだ?
気付けば、自分は床に突っ伏していた。
その自分の頭は、諸葛瑾の足が置かれている。
急に体中の力が抜け、そのまま崩れ落ちてしまったのだ。
全身の筋肉が、麻痺したように動かない。
これは、一体……
「おいおいオメー馬鹿かぁ!?
オレが、ただオメーを強くするためだけに、赤蛇紋を刻んでやったと思ってんのかよ!
その刻印にはな!いざという時の安全装置が仕掛けられてんだよ!
オレがその気になれば、オメーはオレの操り人形さ。げひっ! げへっ! げらららげげばばば!!」
「!」
それは、張飛にとって絶望的な事実だった。
逃げ出したと思った。身に刻まれた呪痕も、克服したと思った。
だが、それは総て自分の思い込みに過ぎず、自分は未だ、この男の掌で踊る傀儡だったのだ。
張飛の体の赤蛇紋は、諸葛瑾が“道”を用いて刻み付けたもの。
ゆえに、その内には肉体強化の術式のみならず、いざと言う時に、対象の体を術者の意のままに操ることのできる術式も組み込まれていた。
下丕城での戦いを思い出す。
狂科学者、陳宮に体を改造され、戦奴にされていた二人の武将。
自分もまた、彼らと同じ……どれだけ足掻いたところで、悪魔の掌からは抜け出せない。
「いやぁ全くオメーの反応は期待通りだぁぜ。いやぁ、オレも調教してやった甲斐があったってもんだ。あぁ褒めてやるよよく頑張ったえらいえらいえらいえらい……
だぁがぁめぇぇだ!! それじゃあだぁぁめなんだよぉ!!
何故だか分かるか? 分かるな? 分かれよぉぉおぉぉおぉぉ!!!」
分からない。彼の言っていることは全く理不尽であり、筋が通っていない。
「“オレの思い通りになぁったんじゃ駄目だぁろがぁ”!?
オレはよぉオメーに期待してたんだぜぇ?
オメーなら、オレの想像を超えた成長を見せてくれるんじゃねぇかってなぁ!
そう! まさに物語の主人公のようによぉ!!
馬鹿な! くそっ! 何てぇこった! そんな気分に浸りたかったのにぃ!!
どぉぉおおぉぉしてくれんだよ、何年もかけて丁寧に仕込みをした、オレの苦労が水の泡だってのぉおおぉぉぉ!
あー傷ついた、傷ついた傷ついた!! 償ってもらいてぇなぁ、誠心誠意よぉ!」
口では怒っているようで、瑾の顔は、下卑た笑みで歪んでいる。
「こいつぁ、お仕置きが必要だぁなぁ? ぎひひひっ、昔みてーに、よぉ?」
その言葉を聞き、張飛の体に震えが走る。
命令によるものとは別に、体が冷たく強張るのを感じる。
これは肉体の反射。既に、この男への恐怖心は克服している。
だが、それはあくまで精神の話。この体には、諸葛瑾らに受けた虐待の記憶が今も染み付いている。 だから、あの頃と全く同じ諸葛瑾の声に、身体が反応してしまったのだ。
「しかしどーしたもんか。今更、肉を削ぐ爪を剥ぐ程度のことじゃあオメーは堪えないだろうしなぁ」
実際、その通り……赤蛇紋の激痛にすら耐えた張飛にとって、肉体的な痛みなど殆ど意味を成さない。
「思い付く限りのお仕置きは、もう全部やっちまったしなぁ。同じことを二度も三度もってなぁオレの美学に反する。
だから、よぉ……」
肉体的にも、精神的にも、ありとあらゆる虐待を行使してきた。
ゆえに、ここで新しい型を生み出すならば、過去に存在しなかったものを利用しようとするのは当然の帰結だった。
「オメーさ。劉備を……殺せ」
心臓が、一際強く拍動する。
今……今こいつは、何と言った?
「ぎひ、ぎげひひひひひひ! いいね! いいねぇその顔!!
“やめてそれだけは”ってぇ面!!
そうだよなぁ、どんな痛みも屈辱も、死すらも恐れないオメーにとって、唯一残った恐怖が劉備だからなぁ!
げげろおげげげげげげべべべばばば!!」
絶望と恐怖は、実は対極にある概念だ。この二つは反比例の関係にあり、絶望が深まるほど、恐怖の感情は薄れていく。
恐怖とは、希望が残っているからこそ発生する概念。完全なる絶望とは、恐怖すらも存在しない状態をさす。
ゆえに、心が死んだ人間を恐怖させるには、まず希望を吹き込まねばならない。
「“だから”、あの時オメーを手放したんだぜぇ?
義勇軍だの正義の味方だのと気取っている連中に密告ってよぉ。
オメーが今日まで生き残るかどうかは一つの賭けだったが……まぁ、どっちだろーとよかったんだけどなぁ所詮は遊びなんだしよぉーっ! げはげひふげげげげぐげばげばばばば!!」
新たに判明した事実も、今の張飛にとっては瑣末なことでしかない。
重要なのは、諸葛瑾の刻んだ呪いとやらに、どれだけの強制力があるのかということ……
「まぁどんだけ嫌がってもぉ、俺が頭の中で念じればオメーは劉備を殺しちまうんだけどよぉ。ぎへへ……」
「やめろ……」
精一杯の敵意と殺意をこめて、声を搾り出す。
「ああああん!?」
それに対し、諸葛瑾は声をあらげる。
「おいおいおいおい、オメーは物の頼み方も知らねーのかよ!!
かっ、やだねー。これだからろくに教育も受けてない狗畜生は。
なぁなぁ益徳君。オレだって鬼じゃあねー。頼み方次第じゃあ、許す気になるかもしれねーぜぇ?」
「!!」
それは、悪魔の囁きだった。
現時点で、自分はこの男の命令に抗うことはできない。
このままでは、本当に自分が劉備を殺す羽目になってしまう。
それだけは……それだけは許されない。
例え、この悪魔に頭を下げる恥辱と引き換えにしてでも……
「さぁどうするようオメーの手で兄ちゃんの腹かっさばいてぷりぷりした内臓ぶちまけてやりてぇってんならぶぇぇぇぇぇつにいいんだけどよぉ!」
「…………さい」
「あぁん!?」
「やめて……ください……お願い……します……」
か細い声を聞いた瞬間、諸葛瑾の顔が、かつてない喜悦に歪む。
「ぎべ、ぎげげげげ! げーへへへへへへぎちょげぶげべべべべべべべ!!!
おげ、おげろげぇぇはははばばばああああぁぁああぁばばばぎょばばばばばげばばばばば!!!」
不愉快な哄笑が響き渡る。
「ああ、いいっ! いいぜぇっ! それだ、その台詞が聞きたかったんだよぉぉおおおぉぉぉおおぉん!!
ああやべえやべえやべえやべえマジやべえ、今、軽く絶頂そうになっちまったあああぁああぁぁぁああ!!!」
心身共に優れ、まさに英雄と呼ぶに相応しい人間……そんな人物が、誇りも意地もかなぐり捨てて哀願する姿。
それを見る度、諸葛瑾の下種な欲望は満たされる。
ああ、眩しいもの、輝けるものを地べたに引きずり下ろして見下す快感は、何千年経とうと飽きることはない!
「ああ、ああいいぜ、やめてやるよ。オレの仏心に感謝しな。ぐぎげはばばばば!!」
「はい……ありがとう……ございます……」
「だが、忘れんな。今後オレに舐めた態度取った日にゃ、オメーはオメーの手で、愛する兄貴を殺すことになるぜ」
諸葛瑾は、張飛の頭から足を退ける。金縛りも、既に解かれていた。
だが、もうそんなものは必要ないだろう。張飛には、肉体、精神の両面に、あまりに強固な枷が嵌められたのだから。
「ま、オレとしても今はまだ、劉備に死なれちゃ困るからな。
オメーがオレの機嫌を損ねない限りは、奴の身は安全だぜ」
「はい……お願いします……」
「はぁ……さっきから似たようなことばっか言いやがって。九官鳥かオメーは!!」
諸葛瑾は、張飛の顔に蹴りを入れる。
「はい、ごめんなさい……」
「だぁくぁるぁ! そぉれが気にいぃぃぃぃぃらねぇってんだよぉ!
とぉぉりあえず謝っとけばそれでいいや的な浅知恵がぁ! 透ぅけて見ぃえんだよ愚図ぎゃぁげぼべらばっ!!」
怒鳴りつける諸葛瑾の顔は、やはり笑っている。怒っていることが愉しいと言わんばかりに。
では、どうすればいいのか。
恐らく、何をしても、何もしなくても、彼は怒り笑いながら罵るのだろう。
理不尽、不条理、支離滅裂。筋の通ったことなどありはしない。
なればこそ、諸葛子瑜は下種なのだ。
彼にあるのは、ただ他者を見下し、嘲り笑いたいという欲求のみ。そこに至る動機などは、実のところ何でも構わないのだ。
克己と向上で他者の上を行くのではなく、その足を掴み、引きずり堕とす。
自分は楽をして、他者を貶めたい。代償を伴わずに、優越感のみを得たい。
およそ低俗の窮みながら、人類に普遍的に存在する欲求。
彼は人類の影。暗黒面の具象化。最も理想的な姿と、最も醜い心を併せ持つ、半陰陽の亡霊だ。
「さぁ~てっと。大分溜飲も下がったことだし、今日はこの辺で勘弁してやるぜ。ま、これから先、せいぜい仲良くしよーぜっ! げひっ!」
諸葛瑾は、張飛に背を向け、この場を立ち去ろうとする。その際、指をパチン、と鳴らすと……
「どうなさいました? 張飛様?」
「!!」
張飛は瞠目する。
いつの間にか、回廊には何人もの兵士達がいた。
まるで、彼らが現れるまでの時間が切り飛ばされたような……
思えば、最初からおかしかった。
砦の中は絶えず兵士達が巡回しているはずなのに、あれだけ大きな声を出して、誰もこの場に現れなかった。
この、不可思議な現象には心当たりがある。恐らく、弟の諸葛亮も使っていた、人払いの結界だろう。
「ああ……何でもねぇよ」
そう言って、起き上がった直後……
「プギャス!!」
豚のような悲鳴をあげて、大の字になって倒れる諸葛瑾の姿が見えた。
そして、その前には、赤い服を着た金髪の女と、魯粛の姿が見えた。
「き~~~ん。さっきから、どこをほっつき歩いていたのかしら?」
瑾の顔面に蹴りを入れた尚香は、腰に手を当て、こめかみに青筋を立てて微笑みかけている。
「うひー! ひ、姫様ぁ……!」
「どうせまた、人様の前で赤恥を晒していたのでしょう。まぁ、事情は今からじっくり聞かせてもらいますわ」
「痛い! 痛い痛い痛い痛い! やめて、髪! 髪を引っ張っちゃ駄目っす~~~! あ痛たたたたたたた!!」
笑いながら怒る阿修羅姫に髪を掴まれ、諸葛瑾は泣き喚きながら連れて行かれた。
張飛は考える……今起こったことを、兄達に言うべきか否か……
本来ならば、考えるまでもない。しかし、今の自分は諸葛瑾の操り人形だ。
もし、それで奴の機嫌を損ねてしまえば……
体に震えが走る。興奮ではない、恐怖で体が震えたのは、何十年ぶりのことだろうか……
だがその恐怖は、兄を殺めてしまうかもしれないことだけが原因ではない。
今の自分は、遠隔操作で爆発する爆弾のようなものだ。
起爆装置は、諸葛瑾の手中にあり、その気になればいつでも劉備の命を奪うことができる。
もし、その事実を長兄に知られてしまえばどうなるか……
実のところ、自分が最も恐れるのは、それが原因で劉備に捨てられることだった。
嫌だ……
それだけは、それだけは断じて許容できない。
平和はいらない。一生戦い続けるだけの人生で構わない。
劉玄徳の天下にいることが、張益徳にとってただ一つの切なる望みだ。
戦いの果てに死ぬ覚悟はできている。
それに、例え捨て駒にされて切り捨てられようとも、怨みはしない。
それは、自分が必要とされている証になるのだから。
だが……
“不要”と見なされるのは我慢ならない。
死などより、遥かに恐ろしい。
必要とされる存在でいたい。義兄弟として、ずっと彼らの隣にいたい。
自分は、劉備が目的を果たすまで、決して立ち止まらぬ男であることを知っている。
そして目的のためなら、どこまでも冷徹になれることも……
張飛の体に隠された秘密を知った時……自分を殺しかねない危険人物を、いつまでも傍に置いておくだろうか?
自分は、長兄のことを深く理解している。
口では理想を説きながらも、本質は非情な現実主義者である彼が、どんな決断を下すのか……確かめずとも分かってしまう。
(俺は……最低だ……!)
罪悪感が胸を押し潰す。
(結局、俺が考えているのは、俺のことだけじゃねぇか……)
兄弟のことを命懸けで守ると誓った。
しかし、彼らの元を離れる選択だけは、どうしても選べない。
例え、彼らの身を危険に晒すことになろうとも……
忠誠と言う名の依存、奉仕と言う名の独占欲。自分にあるのは、それだけだ。
自分の浅ましい本性を自覚し、張飛は……
「う、う、うう……」
両目から、熱い水が零れ落ちる。
兵士達の前にも関わらず……張飛は静かに泣いた。
手を握って欲しい。昔のように、初めて出会った頃のように。
それもまた、あの男の謀の一部だと分かっていても……今はただ、あの温もりをまた感じていたかった。