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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十三章 孫劉同盟(九)


 彼には友達がいた。

 

 髪の長い、綺麗な子だった。



 物心ついた頃から、彼には両親が亡く、その友達の両親に引き取られて育てられた。

 彼と友達は、家族でもあったのだ。


 貧しい農村の出としては珍しく、彼は“武将”として生まれた。

 村の子供達はおろか、大人達も彼に素手で敵う者はいなかった。


 彼は血気盛んであるが、優しい心根を持っていた。

 だから、必要のない暴力を振るうことはなかったし、餓鬼大将として威張り散らすこともなかった。


 だが、村人から、彼への恐れが消えることはなかった。

 ある意味当然であろう。その気になれば、素手で大人を撲殺できる子供に、普通に接することができる人間がどれだけいるか。

 大半の武将が戦地に赴くのは、何も国の法で定められているからだけではない。

 元より、生まれついての狼に、羊の中での居場所は無いのだ。

 強制されずとも、彼らは自覚して行く。自分の居場所は、争いの場にしかないのだと。

 それが殺し合いの場であれ、政治の闘争であれ、武将として生まれた者は、光に集まる蛾のように、争いに誘われていく。

 そして彼らは存分に戦うのだ。数多の民の代表として。あるいは代理として。

 それは、ともすれば能力的に劣る人間を淘汰しかねない武将達を、一般人から遠ざける自然の摂理やもしれなかった。



 超常の力を授かった彼は、次第に内と外の両面で孤立を深めていった。


 そんな彼に手を差し延べてくれたのは、やはり友達だった。


 ともすれば、外に向かいかねなかった彼の暴力ちからを静め、安らぎを与えてくれた。

 時には励まし、時には慰め、共に野原を駆け回り、いつまでも一緒に遊んでくれた。


 彼は、そんな友達が好きだった。



 乱世の足音は、もう間近まで迫っていた。武将である自分は、遠からず戦場に駆り出されることになるだろう。

 覚悟は既に決まっていた。

 それだけではなく、彼は確かな意志を持って、戦に身を投じようとしていた。


 それは……いつも彼の傍にいて、彼を支え、彼を救ってくれた友達……


 好きな人の笑顔を守るために、天下を平穏にするために、戦おうと決めたのだ。



 だが……


 その希望ゆめは、唐突に打ち砕かれた。

 彼と友達の前に、あの白装束が現れたことで……




“おめでとう、ぼうや”




“きみは祝福された”




 

 その装束には、赤い蛇のような紋様が刻まれていた――









「………………」


 張飛は、憮然とした顔で蛇矛を担ぎ、江夏砦の周囲を見回っていた。

 関羽と趙雲は、要人の警護に赴いている。


 孫呉が開戦を決断したことは、諸葛亮から聞いている。

 特段、感慨はない。自分にとって曹操は、ずっと倒すべき敵であり、この戦もその延長でしかない。

 いや……正確には、曹操に格別の敵意があるわけではない。

 誰と組もうが、誰が相手だろうが、自分のやるべきことは変わらない。

 劉玄徳の天下のために、彼の障害を突き破る。

 曹操はその障害であり、だから戦う。それだけである。


 だから……今自分が個人的な怨恨で戦うとしたら――




(……馬鹿馬鹿しい……)


 張飛は、心の中でかぶりを振る。

 あの日、劉備に命を救われてから、自分の命は彼のために使うと決めている。

 それが自分の総て。それ以外のものなど必要ない。

 怨恨など、ただの不純物でしかない。


 彼のために戦い、彼のために殺し、彼のために……生きるのだ。




「ん?」


 張飛の視界に、黒い影のようなものが映った。

 見れば、黒髪を長く伸ばし、黒い朝服を着た男が、壁の隅でうずくまっていた。


「おい、お前。そこで何をしてやがる!」

 

 怪しい。砦の人間とは全員顔を合わせているが、こんな男は知らない。

 最大限の警戒を払いつつ、蛇矛を手に近づく。すると……



「あ、ひぃぃぃぃっ!!?」


 情けない叫び声をあけ、張飛から遠ざかる男。

 いや、それすら成し得なかった。逃げようとしたところで、自らの脚絆を踏みつけ、派手に転んだからだ。


「あで――っ!!!」


 男は縦に半回転して、鼻から床に激突した。


「………………」


 若干拍子抜けしつつも、警戒は緩めず、歩を進める。


「ま、ま、ま、ま、ま、待ってくださいっす~~!!

 俺っちは怪しいもんじゃねぇっすよ!!」


 どの口がほざくか、と言いたい。

 黒ずくめの服装、目を覆い隠すほどの前髪、不自然な挙動、怯えきった態度……この男の何もかも総てが疑わしい。 

 黙って蛇矛を目の前に突きつける。


「お願いします! こ、殺さないでぇ~~~!!」

「てめぇ、一体何者だ?」

「お、俺っちは諸葛瑾! 孫呉の臣で、孫尚香様のお付きっす!!」

 

 男は名乗りを上げる。

 この段階では、張飛はそれをただの戯言たわごととしか受け取っていなかった。

 張飛は、心中でため息をつく。苦し紛れにしても、もう少しましな嘘をつけと言いたい。

 自分も頭の良いほうではないが、こんな馬鹿に官職を与えるほど孫呉が愚かでない事ぐらいは分かる。


「ほう、そのお付きが、何だってこんなところをうろちょろしてやがんだ?」 

「そ、それは……」


 諸葛瑾は、バツの悪そうな表情で言いよどむが、蛇矛の切っ先が少し近づくのを見て、全身を震わせて口を割る。


「うへぇぇぇぇぇぇ!! 言います!! 言いまっす!! だからそれでどけてくださいっす!! お願いします!!」

「……ふん」

 

 この男から、武の気配は微塵も感じられない。

 それで気を抜くほど張飛は楽天的ではないが、口を割らせる為にも蛇矛を再度肩に担ぐ。

 このままではこの男、あまりの恐怖に気死しかねない。


「あ、ありがとうございまっす……」

「いいからさっさと喋りやがれ!!」

「じ、実は……え、えへへ……姫様達と砦に入ったところで、美人のおねーちゃんを見かけて、是非お近づきになろうと、ついふらふら~っと……

 それで、気付いたら姫様とはぐれちゃって、おねーちゃんも見失って、ここがどこかも分からず途方に暮れてたんすよ……」


 張飛は呆れ返った顔で諸葛瑾を見る。作り話なら下手糞にも程があるし、真実ならとんでもない大馬鹿野郎である。

 

「なら、その姫様とやらにてめぇの面を見せれば、嘘か真かはっきりするな?」


 元よりそんな面倒な事をする気は無いが……半ば冗談で言ってみる。

 だが、その直後、諸葛瑾はさらに怯え出した。その怯えようは、先ほど張飛に蛇矛を突きつけられた時以上だった。


「ああああああ!! そ、そ、それだけは御勘弁をぉ!!

 も、もしこのことがあの鬼姫様にばれたら、俺っちはしこたまボコられた挙句、ボロ雑巾みたいにズタズタにされてしまうっす~~!!

 でも姫様にとってはそんなものはただの前座。

 その後には、身の毛もよだつ地獄の御仕置きが……ひ、ひぃえええぇえぇぇえぇぇぇぇ!」

 

 この男がそこまで怯える姫様とやら……一体どんな女なのだろうか。

 何となく、呂布の女版みたいなのが思い浮かんだ。


「……もし、仮にてめぇが本当に孫呉の臣だってんなら、どうせいつかは顔合わすことになるんじゃねぇか?」

「うぐ! そ、そうなんすよねぇ~~。実は、道に迷ったってのは嘘っす。

 今はただ、とにかく姫様から逃げたくて……

 けれども、このまま雲隠れを続けていたら、更に姫様の怒りを煽る結果になりそうで…… 

 あああ!! 俺っち、どうしたらいいんでしょ!!」

「知るかボケ」


 一言で切って捨てる張飛。てめぇがボコられようがどうなろうが知ったことではない、自業自得だ。


 それに、どうしたらいいか困っているのは自分の方だ。

 この男の戯言を鵜呑みにするわけにはいかないし、さりとて何もせず砦から放り出すわけにもいかない。

 万が一……そう、万に一つにも、敵方の刺客だとしたら、劉備達の前に連れて行くのも躊躇われる。

 一体どうしたものか……


「そんなぁ~~……冷たいこと言わないでくださいっすよ……」




 

  

“ねぇ、ぼうや――”






 その声を聞いた瞬間……視界が、歪んだ。


「――――ッ!!!」


 脳に杭を打ち込まれたような衝撃が走る。それでいて、感情の揺れは酷く緩慢としている。

 頭が痛い。眩暈めまいがする。

 心臓の動悸が激しくなり、息をするのも辛くなる。


 ずっと……ずっと頭の中のはこに押し込めていた記憶が、一気に溢れ出す。

 吐き気のする、腐食毒のような記憶が、脳の内でのたうちまわる。


 どうして……


 どうしてこいつが、ここにいる!?





「どぉーしたぁ? 気分悪そうじゃねぇか。“嫌なこと”でも思い出したかぁ? あぁ~ん?」


 いつしか、男は立ち上がっていた。

 口調も、今までのような“演技”ではない……彼本来のものに変わっている。


 背筋を伸ばし、直立してみれば、小柄な張飛よりも頭一つは背が高い。

 その高さから、彼は張飛を見下ろしている。あの時と同じように……

 いや、頭一つ分……ではない。


「あ……あ、あ……」


 何故なら、張飛はその場に膝を突いていたからだ。

 瞳孔をあらん限りに開き、充血した眼で目の前の男を見上げていた。

 込み上げる嘔吐感を堪えるべく、口に手を与えている。

 全身の震えは、先程の諸葛瑾に輪をかけて酷くなっている。


 立つ者と膝をつく者。怯える者と見下す者。

 ただの一言で、張飛と諸葛瑾の立場は逆転していた。


 恐怖。目の前にいる影絵のような男は、張飛にとって、魂に根付いた絶対の恐怖だった。



「おうおう随分久しぶりぃ。何年ぶりだぁっけぇ?

 オメーは昔と同じ、愛くるしい坊やのまんまだぁなぁ。いや、ちっとは背ぇ伸びたか? ん?」


 先程と違い、昔馴染みの後輩に対するように語りかける諸葛瑾。

 しかし、張飛はその言葉の一つ一つに、濃縮されたどす黒い悪意を感じずにはいられなかった。


「………………」


 張飛は、視線を合わすのも恐ろしいのか、下を向き、ずっと震え続けている。



 余人が見れば、信じられぬ光景に映るだろう。

 あの呂布や、曹操の精鋭騎馬隊にも恐れず立ち向かった張飛が、寒空に捨てられた仔犬のように、何もできずに震えている。


 だが、この男は別格だった。

 何故なら彼こそは、幼い張飛を地獄に引きずり込み、原初の恐怖を与えた男なのだから。



「おーいよーいおーい、何とか言ってくんねぇかなぁ。

 劇的な再会でオメーを糞ひりだす程驚かせるっつーオレのお茶目な悪戯イタズラはまぁ成功したから良いものの、ここまでドッキリされるたぁオレがドッキリだぞオイ。

 あれか? やっぱ昔、ちと“虐め過ぎちまった”かなぁ?」



「…………!!」


 その一言で、張飛の震えは更に激しくなる。




 



 

 この男と、彼に付き従う白衣の集団が“神の試練”と称して行って来た所業の数々は、張飛の身体に、心に、深く刻み込まれている。



 蛇の尾の生えた獣を祀る、狂信者たちの祭壇。

 そこには、自分と同じように、各地から攫われてきた子供達が集まっていた。

 彼らに共通している点は、皆“武将”として生まれたこと。

 加えて、皆が貧しい境遇であり、失踪してもさほど奇異に思われなかった。



 白衣の男達は、子供達を“神の子”の候補と呼んだ。


 子供達は日毎に一人ずつ選ばれ、“試練”を課せられる。


 あの闇底において、人生の選択肢は二つしかない。


 生きて地獄を繰り返すか、死んで涅槃に旅立つか。



 ――嫌だやめて近づかないで。



 その時の記憶は、今も悪夢となって彼を呪縛していた。



「ふーむ、こうして襲われる寸前の生娘のように怯える姿も中々そそる光景なんだがよ。

 オレはもっとチミとお喋りしたいわけですよ益徳君えきとっくん

 大体、オメー気にならないわけ? 例えば、どうしてオレがここにいるのかとかさぁ」


「……!」


 その時……張飛の心に、正気の光がさす。



 そうだ……俺は何をビビってやがる。

 こいつは“最悪”なんだ。他者に害を及ぼすことしかできない存在だ。

 そんな男を、この砦に入れてはならない。まして、長兄に近づけるわけには……



 劉備あにの存在が、張飛の勇気を奮い起こす。


 自分は、暗い部屋で泣いていた、かつての無力な少年ではない。

 劉備と関羽に助けられ、彼らの兄弟になり、幾多の戦場を潜り抜けてきた。

 極限の恐怖も、生と死の刹那も、数え切れぬほど味わってきた。

 次兄かんうからは戦う術を学び、長兄りゅうびからは生き延びることの大切さを学んだ。


 それに比べれば、目の前の男が何だというのだ。

 奴はただの虐待魔、子供をいたぶるしか能の無い下種げすではないか。

 これまで何人も殺してきた、山賊や盗賊共と何が違う――


 ゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐに諸葛瑾を睨み付ける。

 最も心が柔らかかった時代に受けた傷は、そう容易く癒えるものではない。

 それは、心に負った傷に、塩を塗り込むような蛮勇。

 傷口が開き、血が流れるのを感じながら、張飛は過去の悪夢と相対する。


「てめぇ……っ」

「おおっ! 怖ぇ怖ぇ、視線だけで、焼け死んじまいそうだぜぇ」

「今すぐ消えろ……ここは、てめぇなんぞの居ていい場所じゃねぇんだよ」


 しかし、諸葛瑾は全く動じない。影絵のように、ゆらめくばかりだ。

 あらん限りの怒りと憎しみを込めた視線を、戦場さながらの殺気を込めた声をぶつける。


「そう連れねぇこと言うんじゃねぇよ。言ったろ? オレは今、孫呉に居るってよ。

 いわばオメーらの同盟相手、客人だぜ。もちっと手厚くもてなして貰いてーもんだねぇ」

「ああ?」

「んだよ、孔明メイから何も聞いてねぇのかよ。つーか、オレの苗字聞いて気づかねぇのか?」


 男は……視線を覆い隠す前髪に手を当て……それを勢いよくめくり上げた。

 

 思えば……彼が“身内”を除いた他者の前で、己の素顔を晒すのは……これが初ではなかろうか。

 幼い頃の張飛も、孫呉の重臣達も、孫尚香も……未だ、彼の素顔を見たことは無かった。

 誰も、そのことを全く疑問に感じていなかったのだ。




「じゃっじゃじゃーん。これがオレの本体の美形ハンサム顔だ、ってな!」




「――!」



 張飛は思わず息を飲む。前髪を払った後に垣間見えたのは、美しい女の顔だった。

 いや、男女の性差など瑣末なことに思えるほど、それは完璧な美貌であった。


 これとよく似た顔を、自分は知っている。


「孔……明?」



 そう……諸葛瑾の顔は、諸葛亮と瓜二つであった。


 違う点といえば、孔明の紫色の瞳に対し、彼の眼は、一切の光の差さぬ漆黒であること。

 まるで、彼の内で渦巻く果てしない闇を象徴するように……


「いいねぇその反応。久々に、劣等感を掻き立ててくれる……」


 言葉とは裏腹に、男は自らの肩を抱いて恍惚する。


「オレの名は諸葛瑾。字は子瑜。

 諸葛孔明の兄で……諸葛孔明になれなかった“できそこない”だ」


 誇るように、嘲るように。男は自らの存在を名乗った。





 千人が見れば、千人が美しいと言うであろう容姿。

 だが、そこには人間らしさや、生命の息吹といったものが微塵も感じられない。

 まるで絵画の中の登場人物だ。色のついた闇が、人の形を象っているだけ。

 なまじ素顔を晒したがゆえに、彼の得体の知れなさはより深度を増した。


 競り上がって来る悪寒を、張飛は必死で抑える。


 

 かつて、諸葛亮と交わした会話を思い出す。

 絶対に関わり合いになりたくない相手。

 張飛の仇である教団について彼女に聞いた時、そんな返答が返って来たのを思い出す。

 ああ、正体が分かってみれば、彼女の気持ちがよく理解できる。

 いかな形であろうと、関わりたくない存在、人生に悪影響しか及ぼさない存在。

 目の前に居るのは、そういう存在モノだ。




 だが……


「今考えていること、当ててやろうかぁ? 張飛チョッピー


 そんな張飛の様子を、漆黒の眼で見下ろす諸葛瑾。


「おめーさ、オレと孔明メイが……ああ、メイってはいもうとのことな。

 兄弟でつるんで、オメーの大事な劉備を陥れようしてんじゃねーかとか考えてんだろ? 考えてんだろ?」


 張飛は沈黙を守っている。確かに先程そんな疑いが脳裏を過ぎった。


「げはっ! 分かるぜぇ? オメーのことは何だってよぉ。

 何せ、“全部”見たからな。

 殴って蹴って斬って刺して裂いて削って焼いてあぶって、そんで時には優しく撫でてやって、おめーの苦悩くるしみ悲哀かなしみ歓喜よろこび快楽たのしみも全ぇぇぇぇン部見せてもらったからよぉ。

 げへへへ……ごげろげべばばば! ぐぎょげばばばばばばごべばばばばばばばばばばば!!」


 両の眼と口をを三日月型に歪めて笑う諸葛瑾。それは、自身の美しい顔への冒涜のようであった。

 蝿の羽音と嘔吐する音を混ぜ合わせたような、下劣極まる笑い声。

 名前よりも、容姿よりも、言葉よりも、この哄笑こそが諸葛子瑜という男の本質を、如実に現していた。

 独りよがりで、他者を虐げることにのみ愉悦を覚え、不快感しかもたらさない人種……

 諸葛瑾は、即ちただの下種げす野郎であった。



「げーへへ! まぁそのことについちゃ安心しな。孔明メイとはずっと音信不通でよ。顔を合わせたのもついこの間、あいつが孫呉に行った時のことだ。

 とにかくだ。オレも孔明メイも、今は劉備に危害を加える気は毛頭ねーよ」

「……てめぇの言うことなんざ、信じられるか」

「信じろよ。まず一つ。劉備アレ孔明メイ玩具おもちゃだ。

 おとうとの玩具を横取りなんて、んな兄貴にあるまじきこと出来るかよ」


 けたけたと笑う諸葛瑾。

 

「もう一つ。劉備はオレの趣味じゃねぇ。そそらねぇんだよ。

 孔明メイの奴も物好きとしか言いようがねぇな。あんな老いさらばえた枯木みたいな野郎なんぞのどこがいいんだか。

 やっぱ愛でるなら、若くてみずみずしい、男と手を握ったことのない生娘に限るってぇな! げひひひひひ!」


 張飛に向け、意味深な視線を送る諸葛瑾。

 彼の言う、老いや若さは、実年齢のことではない。精神的なことを話しているのだろう。

 娘というのもただの比喩だ。

 男女の性差も、年齢も、容姿も……そう言った外的な要因は、彼にとって総て瑣末なことでしかない。

 彼は既に、人間の枠から遠く外れている。

 人間と彼とが絶対に理解し合えないのと同様に、彼もまた、人間を弄ぶ為の玩具と見なしている。

 下から見上げてへりくだろうが、上から見下して嘲ろうが、総て外装に過ぎない。

 彼のヒトを見る目は、人間達が愛玩動物を見るソレと同じだ。


 彼にとって玩具にんげんを評価する基準はただ一つ。

 遊んで面白いかどうか。嗜虐心を掻き立てられるかどうか。ただそれだけだ。



「それが、てめぇをここで生かしとく理由にはならねぇ……」

 

 先ほど言った通りだ。この男の言うことなど信じられない。

 下種であるこの男にとって、人倫や道義など、紙屑以下の価値も無い。

 今言った台詞が、明日も通用するなどと言った保障は何処にも無いのだ。


 殺意を練り出し、蛇矛の切っ先を諸葛瑾に向ける張飛。


「あ、オレを殺すってか? へへへ、いいねぇ、懐かしいねぇ。

 そーいや、昔もオメーはずっとオレを殺そうとしてたっけなぁ」


 殺意を向けられても、瑾は全く動じない。

 天井を見上げ、昔の思い出に浸るように目を細める。


「他の、すぐ壊れちまう“不良品”と違って、オメーは別格だった」


 体を壊した。心も壊した。本来ならば、ここで資格無しと見なされ、廃棄処分されるはずだった。

 しかし、どれだけ痛めつけようとも、殺意だけは消えなかった。

 時に希望をちらつかせ、それが叶う寸前で打ち砕き、結局彼の掌からは一歩も出られないのだということを思い知らせる。

 そんな絶望を何度味わわせても、彼が自分に向けた、か細い殺意の糸は切れはしなかった。


 故にこそ、目の前の少年は、“神の恩寵”を賜る資格を得たのである。



 諸葛瑾の顔から、笑みは絶えない。その殺意さえも愛おしいと言わんばかりに。


「さてどうしたものか。ここで人生の幕引きってのも悪かねぇが、それじゃあ“あいつ”との約束に反するしな。

 言っとくがよ。オレをここで殺しちまったら……劉備、負けるぜ」

「何……?」


 こいつ……いきなり何を言い出すのか……


「次の戦争……孫呉とおめーらが曹操に勝てるかどうかは、オレにかかっていると言っても過言じゃねぇのさ。

 オレはこの大戦の、鍵を握る男だ。オレの生死が即ち、劉備や周瑜の勝敗に関わって来る。

 せいぜい大事に扱ってくんな。今の御主人様を、勝たせたいと思うならよ」

「………………」


 張飛の蛇矛は、諸葛瑾の心臓に過たず狙いを定めている。

 これを前に突き出すだけで、この男を殺せる。

 自分の人生を狂わせ、この身に消えぬ呪縛を刻み付けたこの男を……

 

 だが……


「お、考えているねぇ。果たしてこいつを、ここで殺してしまっていいものか、とね」


 諸葛瑾は、その場から一歩も動かない。

 もしも不審な動きを見せれば、その時こそ張飛は、躊躇いなく諸葛瑾を突き殺すだろう。

 思考ではなく、身に刻まれた防衛本能、武人としての反射神経がそうさせる。

 瑾も、それが分かっているからこそ動かない。

 それにより、張飛に思考する余地を与えている。

 何もしないことで、結果的に瑾が張飛の動きを封じている形になっていた。


「そぉぉぉぉぉだよなぁ益徳君えきとっくん

 さも直情径行、猪突猛進であるかのように振る舞ってんのは、弱い自分を鼓舞するための演技みせかけ

 本当のオメーは、臆病で弱虫で……だからこそ、冷静で、思慮深い。

 げひひ! オレの言ってること、否定しきれねーんだろ?

 今のオメーは、御主人様に尽くすのが全ての愛らしい飼い犬だからなぁ。

 万に一つにも、主人の機嫌を損ねたら、捨てられたちまうんじゃないかと戦々恐々としているんだろ?

 嗚呼! 可哀相な可哀相な益徳ちゃん。

 初めて優しくして貰ったんだろ? あの地獄から救い上げて貰った、命の恩人なんだろ?

 幸薄いオメーは、愛情の尊さを知っている。だからこそ、一度掴んだ宝物あいを、決して手放すまいとする。

 だから、オメーは劉備に逆らえない。愛を失うことに怯え、服従することしかできない奴隷。

 ぐひひっ、何とも上手いやり方じゃねぇか脱帽すんぜ。劉備って野郎、オレ様以上の調教師じゃねーの? げひげばばばばっ!」

「黙れよ……」


 深い怒りを込めて、張飛は声を搾り出す。

 その下種な物言いで、自分達兄弟の絆を穢すことは許せない。


「てめぇが……てめぇが俺達のことを語るんじゃねぇ!」


 そうだ。自分はあの時、生まれ変わったのだ。

 劉備、関羽と結んだ義兄弟の絆は、忌まわしい過去などに穢されない。


「俺は劉備三兄弟が末弟、張飛! 字は益徳!」

 

 訣別の意志を込めて、張飛は叫ぶ。



「諸葛瑾! てめぇが何を企んでやがるか、洗いざらい吐きやがれ!

 返答次第じゃ、この場でぶっ殺す!!」



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