第二十三章 孫劉同盟(八)
覚悟を決めて、再び孫呉との会見に臨んだ劉備だが……
「はじめまして、玄徳様。私、孫仲謀の弟で、孫尚香と申しますの」
この事態は、予想不可能だった。
赤い旗袍を着、孫家の特徴である輝くような金髪を背中まで伸ばし、双眸には父や兄と同じ碧眼が煌めいている。
しかし、それらの輝きですら、彼女自身の美貌の脇役でしかない。
十人の男とすれ違えば、十人が振り向く美しさだ。
自分は、孫策や孫権とは面識が無い。
しかし、彼女の父、孫堅ならば、反董卓連合の決起集会の際に目にしたことがある。
尚香と同じ金髪碧眼の偉丈夫だった。あの時は大層な美男子だと思ったものだが、なるほど彼女の美貌は父親譲りのようだ。
となると、彼女と自分は、大体親子ぐらいの年齢差になるわけか。
孫権に、武将の妹がいるとは聞いていた。
見た目は大体二十歳前後であるが、自分などと違い、彼女には体のみではない精神的な若さがある。
その溌剌とした若さが、彼女の美貌を更に彩っているのであろう。その孫権の妹が、何故自分に会いに来たのだろう。理由とすれば、一つしか思い浮かばないが。
「兄の名代……というわけではありませんわ。ここに来たのは、ただの私の我が儘。
兄が同盟を結ばれる方が、どのような方か、兄より先に、兄に代わってこの目で見てみたいと思いましたのよ」
尚香はにっこり笑ってそう告げる。隣に座っている魯粛は、苦笑を隠せない。
「堪忍してやぁ、劉備はん。
御殿様の妹君たっての頼み、断れるわけあらへん。わかるやろ?」
「まぁ、魯粛。それでは、嫌がる貴方に無理矢理言うことを聞かせたようではありませんか」
「おおっと、とんでもありまへん。
さっきは名代やない言わはりましたけど、孫権様が一番信頼しておられるんは、姫様や。
まだ仮とはいえ、同盟っちゅー国家の大事を、孫家の方の立ち会いの下でやれるんは、わいにとっても助かります」
殊更冗談でもないだろう。
何せ、彼と周瑜は、主君に無断で同盟を結んだかどであわや斬首されるかも知れなかったのだ。
「劉備様との盟は、既にお兄様も認めております。心配は無用ですわ、魯粛。
劉備様。劉備様は、女が政治や戦に顔を出すのは、お嫌いでしょうか?」
「いいえ、そんなことはありません。
私も、貴女の口から、私が同盟に誠実であると孫権殿に伝えて頂けるならありがたいと思っております」
劉備は、微笑みを浮かべて答える。
彼自身は、女性の社会進出について偏見があるわけではない。
しかし、世の常識に照らせば、彼女がかなり特殊であることは確かであろう。
現在の劉備にとって、孫尚香は、貴重な同盟相手の妹である。美人である。加えて少々変わり者である。
彼女に対して抱いた印象はそれだけで、それ以上の興味が掻き立てられることはなかった。
「うふ、ふふふ……」
尚香は、突然笑い出した。
今の話のどこに、笑う要素があったのだろうか。
見れば、魯粛も、隣にいる諸葛亮も笑みを零している。
「失礼、劉備様。そのような堅苦しい言葉でなくても結構ですわよ。
貴方から見れば、私はまだまだ小娘。こちらが恐縮してしまいますわ」
曹操や魯粛の時と同じことを言われた。
自分に敬語はそんなに似合わないのだろうか。
それは確かに、良い育ちとは言えないが……
「ああ……そんじゃ……」
言われるまま、口調を崩す劉備。
「この孔明の兄さんも一緒に来るって聞いてたが、その人はどうしたんだ?」
その話題が出た途端、尚香はあからさまにため息をつく。
「知りませんわ。どうせどこかで油を売っているのでしょう。
それに、居ても要らぬ茶々を入れるだけ……むしろ居ない方が有意義な会談ができますわ」
尚香の言葉からは、若干の侮蔑と呆れが感じられる。
まだ会ったことはないが、決して誠実な人物では無さそうだ。そこは、孔明の兄貴らしいというべきか……
「あんな漢のことは放っておいて、早く本題に入りませんこと?」
「おお、そうだな」
尚香の登場で、僅かに崩れた調子をすぐに戻し、本題に入る。
彼らは、周瑜はいかにして曹操の大軍に抗うつもりなのか。
この天下分け目の大戦において、劉備軍はどう動くべきなのか。
前置きはもう十分、とばかりに、以降は無駄の省かれた議論が続けられた。
薄々分かっていたことだが、魯粛はやはり切れ者であった。
伝えるべきことは過不足なく伝え、伝えるべきではないことは頑として口を割らない。
同盟における力関係……こちらの弱さを利用して、話を上手く反らせてしまう。
だが、彼らが曹操に勝利することに、絶対の確信を持っていることは察せられた。
それがどうにも腑に落ちない。
周瑜の用意した“秘策”とやらは聞かせてもらったが、それにしたところでかなり運気に左右される作戦だ。
まして相手は曹操……側近の名軍師と共に、権謀術策の渦を乗り越えてきた希代の戦巧者。
その曹操に、策に頼みを置いた作戦がどれだけ通用するか……かと言って正面突破はさらに論外なのだが。
未だ自分は面識がないが、孫呉の者達はそれだけ周瑜を信頼しているのだろうか。
不可能としか思えないことでも成し遂げてしまう、他者にそう確信してしまうほどの器。
そこまで考えて、あの琥珀色の瞳が脳裏に浮かぶ。
存在自体が一つの奇跡、絶対の体現者。周公瑾とは、曹孟徳に互する才の持ち主だとでも言うのか。
だとすれば、頼もしい限りである。いや、いずれ敵に回る可能性を考えると、恐ろしいと言うべきだろうか。
……本音を言えば、およそ信じられない。
曹孟徳は本物の怪物だ。
一軍の将帥として、一国の君主として、あの男に匹敵する人間が同じ時代にいるなどと、信じたくない。
曹操と自分の因縁は、あまりに長く、深い。かつては共に手を取り合い戦った同志であり、今は天下の覇を競う最大の宿敵である。
だからこそ、自分は彼の凄まじさを、骨身に染みて理解できている。
その破格の器を認めることにやぶさかではない。
立ちはだかる壁の高さを正しく理解せずして、どうして越えることができようか。
贔屓目……と言われると否定できない。
しかし、あんな人間の突然変異のようなモノがそう何人も生まれるはずはない。
もし、本当に周瑜が曹操に匹敵する怪物ならば……
それは、何か重い代償を支払って得た力だ。人間にとって必要な何かを……
全て、ただの直感である。何の根拠もありはしない。
自分でもそれほど勘のいい人間だとは思っていない。
しかし……曹操に関することだけは、この直感は絶対に近い確信を持てた。
戦については、今更自分が口出しできることはないと思っている。
周瑜の手腕と、諸葛亮の裏技に期待するしかあるまい。
必要とあらば、関羽、張飛、趙雲を彼の望み通りに動かそう。
自分に戦争に勝つ才能がないのははっきりしている。
ましてや相手は曹操。例え現状の兵力が逆転していたとしても、自分では彼には敵うまい。
だから、もっと戦の上手い人間に、全てを委ねて戦ってもらう方が、遥かに可能性がある。
もし負けたとしても……いや、負けた時のことは考えない。そう決めたのだ。
今自分は、奈落の一歩手前まで追い詰められている。命綱をつけても、敵に切り落とされれば意味がない。
助かるには、眼前の敵を倒すしかなく、そして非力な自分ではその敵を打ち倒せない。
ならば、予め頼んでおいた助っ人が敵を倒してくれるのを期待するしかないではないか。
不服であろうが無かろうが、選択肢が一つならそれに頼る他ないのだ。
武将としては並以下、戦の才も皆無の凡愚。ならばこの大戦において、劉玄徳の果たせる役割とは何か。
それは、掠め取ること。
戦争には極力加担しないで兵力を押さえ、両軍の激突で舞い上がった成果を奪い取る。
それは盗っ人のやり口、屍肉を啄む鴉のごとき生き方だ。
だが、自分がそういう賎しい駆け引きに長けているのは確かなことだ。
ならば、曹操の持論のように、己の才を十全に活かせる戦いをすべきだろう。
英雄の称号とは、辛苦の果てに勝ち取るものではない。横から掠め取るものだ。
ここが、自分の戦場だ。ゆえに劉備は、並々ならぬ覚悟を抱いてこの会談に臨んでいた。
これは、孫呉とのいわば前哨戦だ。
孫尚香は、予想以上に聡明な女性だった。
劉備と魯粛の話の流れを断ち切らず、それでいて気にかかったことは直ぐさま口にする。
教養も深く、政治にも通じており、中にはこちらの目の覚めるような意見や発言も多かった。
流石は孫家の血を引く人間というべきか。才気煥発な女性である。
彼女の夫になる人間は大変だろう……と、要らぬ気遣いをしてみる。
ああ、全く持って、自分にはどうでもいいことだ。
彼女は今も、意味ありげな視線を送って来る。
時にはこちらの油断を誘うため、その視線を切りつつ、それでいて本性が垣間見える瞬間を見逃すまいとしている。
彼女は孫権の眼だ。この劉玄徳という男の実像を、兄に代わって見定めようとしているのだろう。
別に……どう思われても構わない。向こうも、こちらを世間で謳われているような清廉潔白な人物であると信じているわけではあるまい。
今は、ただ利用価値があると思わせておくといい。あまり愚鈍に振る舞えば、その価値を落としてしまう。
適度に狡猾に。適度に公正に。
本性を覆い隠すのに最も有効な手段は、本音を余すことなく垂れ流すことだ。
人間は、他者を一つの記号で定めようとする性質がある。
誰かを好きで、誰かを嫌い。
その二つは両立しえず、よってどちらかは嘘である、と決めつける。
だが、それこそが大いなる誤解だ。好きと嫌い、善と悪、愛と憎、それら正反対の感情は、“両立”するのだ。
矛盾しているが、人間とはそう言うものだ。
そもそも“矛盾”とは人間が、人間の物差しで計って生み出した概念。それにそぐわぬものがあって何の不思議があろう。
万象、ただあるがまま、だ。
今の状況に話を戻す。
劉備は今、数多の矛盾した心情を残らず垂れ流している。
魯粛や彼女ならば気付けるように、巧みに言外に織り交ぜて。
複数の矛盾する思考が目の前にあれば、本心は一つで、他は全て嘘と考える。
だが、実際は全てが真実なのだ。
ゆえに、誰も劉玄徳の本心には近づけない。人間の枠に縛られている限り……
およそ三時間後、語れることは語り尽くし、誰が言わずとも小休止に入っていた。
皆、点心や茶に手をつけている。
その間も、劉備の頭の中は、この後の魯粛との駆け引きのことで頭がいっぱいだった。
もし、周瑜が見事曹操軍を撃退した場合、彼はその勢いに乗って荊州を丸ごと手中に収めようとするだろう。
その中で、自分はどれだけ“分け前”を確保できるか……
所詮は取らぬ狸の皮算用であるため、あえてその話題に触れようとはしなかった。
だが、戦勝後の領土配分は、同盟にとって避けては通れぬ問題である。
そして、最も同盟関係をこじれさせる要因でもある。そのことは、相手も良く理解していよう。
戦の結果次第では、劉備軍を切り捨てることに躊躇いなどあるまい。
「ねぇ、劉備様」
おもむろに、尚香が口を開く。この時劉備は気負っていた。彼女がどれだけ自分の野心について鋭い 指摘をして来ようと、無明の闇に流してやろうと構えていた。
だから……続く尚香の台詞は、劉備にとって完全な不意打ちだった。
「私と、政略結婚しませんこと?」
劉備は、盛大に飲んでいた茶を吹き出した。