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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十三章 孫劉同盟(七)


 劉備が江夏に入ってから数日……

 

 長坂で散り散りになった彼の部下や、荊州の反曹操勢力が、徐々に集まっていた。

 劉埼の兵と合わせ、現在劉備の軍は三万近くに達している。

 数十万の民草を連れ、曹操から見事逃げ切った劉備の声望はますます高まっていく。

 特に、長坂で獅子奮迅の活躍を見せた張飛と趙雲の名声は、大いに尾鰭のついた状態で荊州を中心に広まっていた。


 曹操軍を一喝し、彼らが恐れを成した隙に橋を切り落とした張飛。

 劉備の妻と息子を連れ、単騎で曹操軍のただ中を駆け抜けた趙雲。


 彼らの武勇伝は、曹操の強大さに絶望しかけていた人々の心に希望を点し、劉備を盟主に仰いで曹操に対抗せんとする気運を生み出していた。



 そう……曹操がもたらした、平和を引き裂く激流を。


 劉備は、自分の下に集まり、あるいは戻って来てくれた彼らを、満面の笑顔で、または滂沱の涙を流して歓迎する。


 劉埼の時と同様、本物の感謝で、真実の歓喜で、彼らを利用するために。

 言葉巧みに、彼らの自尊心、忠誠心、使命感を煽り立て、“使える”戦士に仕立てあげる。

 彼らを、いずれは死地に追いやってしまうと知りながら……

 自分の存在が、平和な荊州に、戦乱の風を巻き起こしてしまうと知りながら……


 巷に流れる武勇伝の類も、劉備自身が意図的に誇張して広めたものだ。

 彼は、民草が根拠の無い噂に流されやすい人種である事を知っている。

 曹操は悪であり、劉備こそは善であるという“誤った”認識を広める。

 それは、反曹操の動きをますます大きくしていくことだろう。


 反曹操の流れとは、乱世を再び呼び起こそうとする動きだ。

 自分が孫権と手を組み、曹操への対決姿勢を明確にすれば、中華は二つに分かたれる。

 そうなれば、もはや散発的な反乱では済まない。戦争である。


 初めて会った時、諸葛孔明が予言した通り、天下を三分した大乱世が始まるのである。

 自分は、中華の民全てを、戦乱の道に誘おうとしている。

 口では平和を説きながら……正義を説きながら。






「また、戦争を始めるのですね」


 そんな劉備の矛盾を全て見透かしたように言う甘夫人。

 その声音からは、冷たい拒絶の色が感じられた。かつての夫に向けていた温かみは、欠片も残っていない。


 あの修羅場から生き延びた甘夫人だが、その後すぐ体調を崩し、ずっと床に臥せっている。

 劉備は、ようやく余暇を見つけ、具合を見に来たのだが……


「古くからの私の友達や、私を助けてくれた家臣の皆さん……みんな、みんな死んでしまいました……

あの時と同じことを、まだ繰り返そうというのですか」


 劉備は答えない。

 甘夫人は、唇を強く噛み締め、吐き捨てるように言い放つ。


「全部……全部あなたのせいよっ!!」


 目を見開き、あらん限りの憎悪を込めて劉備を睨みつける。

 ああ……このひとが自分に怒りの感情を向けるのは、初めてのことではなかろうか。


「……私は、馬鹿で愚かな小娘でした。

 何も見ようとせず、深く考えようともせず、ただあなたに尽くすことが妻の道だと。

 それさえ全うしていればよいと、思っていました……」


 そうやって、貞淑な妻を演じていれば、彼女は幸福しあわせだった。

 この時代、世の女性の大半が同じ価値観を抱いていた。その献身を、盲目的と呼ぶのは酷であろう。


 だが、気付いてしまった。気付かされてしまった。

 あの血風渦巻く長坂で……自分が心から愛した男、劉玄徳。その本質に。


「だけど、貴方は見捨てた! 私を! 阿斗むすこを! そして私の糜夫人しんゆうを!!」


 糜夫人。聡明な彼女はきっと、この男の本性に気付いていたのだろう。

 彼女が時折見せる冷笑。

 それは、彼に奉仕して無邪気に喜んでいる、馬鹿な私に対する哀れみだったのだろう。

 そして馬鹿な私は、真実を知って、彼女のように斜に構えて流すことができない。

 裏切られた憎しみを、ただ思うまま発散することしかできなかった。


「私と阿斗の命を助けたのは、貴方じゃない。

 糜夫人に趙雲さん……多くの人達が命懸けで私達を生かしてくれたわ。

 貴方が一人で逃げている間に!!」


 軍において、最も尊重されるべきは主君の命。

 ならば、一軍の長として、あの時の劉備の判断に誤りは無い。

 それは甘夫人も分かっている。


 だが、父親としてはどうか?

 平気で我が子を見捨てる彼を、自分は本当に愛することができるのか。


「子供なんて、死んでもまた産ませればいいと思っている!

 貴方にとって、阿斗はその程度の存在なのでしょう!」




 そんなことはない、俺は阿斗を、お前達を愛している……そう言いかけて、劉備は言葉を飲み込む。


 どうして否定できようか。自分は、自分の命と、妻子の命を秤にかけ、彼女らを捨てたのだ。

 どう弁明しようと、その結果が愛の程度を現している。

 だから、甘夫人の言で、訂正する点があるとすれば――




「……だったら」


 この発言が、更に彼女の怒りに油を注ぐ結果になることは分かっていたが、それでもあえて劉備は言う。


「俺が徐州から追われて、散り散りになった時……お前はどうして俺のところに戻って来たんだ?」


 それは、官渡の決戦が始まる前……

 徐州を治めていた劉備は、曹操の攻撃を受け、二人の妻を捨てて逃げ出した。

 彼女らは曹操に人質に取られ、それが原因で関羽は曹操に降ることになる。


「雲長から聞いてる……曹操のところでの暮らしは、そう悪いもんじゃなかったんだろ?」


 ああ、そうだ。曹操の自分達への待遇は、人質と言うより賓客に対するものだった。

 望むならば、劉備の妻という過去を捨て、そのまま許都で暮らしてもよい、とも……



 烈火の如く怒り出すかと思われた甘夫人だが、意外にも彼女の顔に浮かんだのは冷笑だった。


「愚か、だったのよ……」


 自嘲するように、甘夫人は訥々と語り出す。


「ずっと……ずっと貴方を信じていました。

 貴方は皇族の血を引いていて、天下を平定する英雄。理想を目指して突き進む貴方を支えられることが、私の誇りでした……」


 愛していた。この人のためなら、どんなことでも耐えられると思った。


「苦しいことも、辛いこともいっぱいありました……

 だけど、貴方と一緒なら乗り越えられると思いました。

 いっぱい苦しんで、悩んで、戦った末に、貴方が言う、誰も泣かないで済む平和な世界が来るって、信じていました。

 だから、貴方を忘れて、一人で安穏と暮らすことなんて、出来なかった……」


 いつしか、甘夫人の瞳には涙が溢れていた。


 今思い返せば、何て愚かな妄想だろう。

 夫婦の愛さえあればどんな苦難も乗り越えられるなんて……

 現実を見ずに、愛と言う幻想に浸りたいだけの夢見る少女だったのだ、自分は。

 糜夫人が鼻で笑いたくなる気持ち、よく分かる。


「……荊州での七年は、本当に幸福でした。苦労の末、ようやく掴んだ平和はここにあるのだと。

 いつまでも、あの日々が続いて欲しいと思いました。貴方や糜夫人、阿斗と一緒に……」


 うたうように呟いていた甘夫人だったが……突然眉根を寄せ、憤怒の情を劉備にぶつけた。



「その幸福を、貴方が壊した! どうして? どうしてあの荊州での平和な日々に満足出来なかったの?

 どうして、勝ち目の無い戦なんかに全てを賭けられるの?

 返してよ……私と阿斗の平和な日々を返してよ!!」


 荊州に戦火が及ぶのは、時間の問題だった。

 曹操から逃げるという選択は、妻子を守るためという見方もできる。

 だが、激情に憑かれた今の甘夫人は、細かい事情など斟酌しない。


 彼女の変化、あるいは成長。

 その原因は、阿斗むすこの誕生にある。

 彼が生まれるまでは、自分はただの女であればよかった。

 愛した男のために全てを捧げる……そんな自己犠牲に陶酔することが出来た。


 自分の人生は自分ただ一人のもの、ならば、自分が最も満たされるように使えばいい。かつての自分には、そんな自由があった。


 だが、子を成し、母となったことで、その自由は失われた。

 夫と同等……あるいはそれ以上に大切なものが出来てしまった。

 女だった、少女だった頃とは違う。母になった自分は、何を置いても愛する我が子を、守らなければならない。

 夫や自分のことだけを、考えてはいられない……


 愛する人と手を取り合い、共に我が子を慈しんでいけるならば、それはどんなに幸福なことだろう。

 事実、荊州で過ごした日々には、それがあった。


 だが、夫が、息子に害なす存在となるならば……

 自分は、戦わなければならない。

 息子を巻き込もうとする、この男の理想あくいから。


 今の甘夫人の怒りと憎悪は、子を想う母の防衛本能だった。



「少し考えればわかることだったのに……貴方は、口では平和や大義を説きながら、その実みんなを騙して戦争の泥沼に引きずり込み、自分の野望のために利用しているだけ……


 そうよ、貴方は英雄なんかじゃない! 姑息で卑劣なただの詐欺師!!

 いい様に利用して、要らなくなったら切り捨てて、生き残ったらまた利用して……そして、貴方は……うっ!」


 突如、甘夫人は息を詰まらせる。


「……ごほっ!がはっ!」


 口に手を当て、猛烈に咳込み出す。


「おい、大丈……」

「近寄らないで!!」


 甘夫人は、掌をかざし、鬼の形相で睨み付ける。

 激昂したためか、元々芳しくなかった容態が、更に悪化した。苦しくないはずがない。

 それでも、彼に弱みは見せまいと、荒い息を吐きながら、怒気に漲った眼光を放ち続ける。


「はぁ……ぁ……憎い……憎いわ……!

 もう、私は長くない。

 私は、ずっと阿斗を抱いてあげることは出来ない……! 

 あの子が一人で歩いていける前に、逝ってしまう……」


 甘夫人は、自分の死期が近いことを悟っていた。

 元々、丈夫な体ではなかった。

 それが、度重なる危難による精神的疲弊、環境の急激な変化により、一気に悪化したのだろう。


「そうよ……私がいなくなったら、あの子は貴方に託すしかない。

 

 それが憎い!許せない!


 貴方のせいで糜夫人ともだちを殺されて! 阿斗むすこを捨てられて!それでも貴方にすがらざるを得ないわたしが憎い!!」


 血走った眼で、彼女は吼える。

 こんな男は、父親と呼ぶに値しない。自分は、母としてあの子を誰よりも愛している。

 それでいて、母としての責任を全うできない矛盾。

 父として認められない男に、この役目を譲らなければならない屈辱。


 それが彼女から理性を奪い、暴走させている。

 本来ならば、愛する我が子を守るため、彼に頭を下げて頼み込まなければならないはず。

 その程度の計算も出来ぬほど、彼女は激している。

 夫を捨て、子への愛に走り、そこから生まれたはずの怒り。

 その炎は彼女を焼き、根幹である子への防衛本能に、矛盾している。


「私が死んだら、あの子はどうなると思う!?

 英雄の息子だ後継者だと持て囃され、祭り上げられ、背負い切れるはずも無い重荷を背負わされて、父親と比べてどうのこうのと言われて、いいように利用されるのよ!!

 ふざけないでよ! 皆この詐欺師の舌先で躍らされている傀儡のくせにっ!!

 そんな奴らが、私の阿斗を貶めることは許さないッ!!」


 彼女は知った。思い知った。

 英雄と呼ばれる存在の本質を。邪悪を、非人道を知ってしまった。


 英雄の条件とは、省みないこと。その一点に集約される。


 何かをなすために、身の回りにあるものを打ち捨てる。

 遠くの大を求めて、近くの小を切り捨てる。

 その非情なる決断、凡人にはなせぬ英断は、なるほど超越者の一つの形だ。

 だから人は、憧憬と羨望、救済された感謝を込めて、彼を彼女を英雄と呼ぶのだ。


 だか、切り捨てられた者達は? 礎にされた者達は?


 次代のため、大義のためと、犠牲になった己を慰め容認することができるか?


 否……断じて否!

 

 あの子は何も知らない赤子なんだ、望んでこんな男の後継者になったんじゃないんだ。

 どうして、咎なき我が子が、呪われなければならない!


「もしかしたら、戦争に巻き込まれて死ぬかもしれない。貴方の血縁であるということだけで、殺されるかもしれない!

 私の、私の阿斗がっ! 貴方の……貴方の息子でさえなければよかったのに!!」


 最大級の呪言が、彼女の口から放たれる。


「貴方は誰も救えない、貴方みたいな人間が、本物の英雄になれるわけがない!

 呪われるがいい!! この……悪魔っ!!」




 自分に罵声をぶつけて来る妻に対して、劉備は沈黙するしかない。


 どうして反駁することなど出来ようか。

 彼女の言うことは、何から何まで真実だ。

 救いようのない、屑……劉玄徳の本質を、的確に評している。


 言い訳はしない。彼女はとても優しいひとだから……説得を試みれば、自分に遠慮して、更に苦しむことになるだろう。

 愛憎相反する感情が内でせめぎあう苦しみは、劉備もよく知っている。


「私は死なない……死んでたまるもんですか!

 阿斗を、阿斗を守るのは私よ! 貴方にも、誰にも渡さない!」


 怒りと憎しみ、そして息子への情愛は、生きていく上での糧となる。

 この感情をばねに、少しでも長く生きて欲しい……



 ああ、それも所詮は独善だ。

 本当に憎まれたいと思うのなら、もっと悪辣に振る舞えばいいのだ。

 一片の情けもかける価値のない、愚劣な夫に堕してしまえばいい。


 だが、それはできない。結局、自分は彼女に、心から嫌われるのが怖いのだろう。

 愛されるに値しないと分かっているのに、捨てられたくない。繋がりを絶たれたくない。


 彼女達を捨てた人間が、どの面下げてそんな口を叩くのか。


 さらに、彼女に憎まれたい、裁かれたいと考えているのも、結局自分の願望でしかない。

 己の罪から逃避している、という罪悪感を打ち消すために。


 愛されたい、憎まれたい。双極の感情が渦を巻く。

 だが、根源にあるのは全て自分のためだということだ。

 彼女のため、等と言うのはただの言い訳でしかない。



「う、うううぅ……うああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


 絶叫し、泣き崩れる甘夫人。それを見ながら、劉備はしかと自覚する。


 彼女との道は、今分かたれたのだと。





 だが……一つだけ、言わせて貰えば……


 自分は、阿斗を自分の後継者にする気は無い。


 それは阿斗を捨てて別の子供を作る……という意味ではない。

 自分は、誰かに後を継がせる気は毛頭ない。


 己の理想は、己の一代で完遂する。


 誰にも任せるつもりは無い。

 それは、最初からの大前提。自分の理想は、自分以外には実現できない。

 そうでなければ、とうの昔に自分よりも優秀な人間に託している。



 こんなこと言ったところで、彼女は自分の言うことなど信じないだろう。

 そうでなくても、信じるか信じないかの葛藤に引きずり込むのは心苦しい。

 だから、これは自分に対する誓い。


 阿斗が成人するまでに、全てを終わらせる。


 全てを、救う。


 劉玄徳の覇道りそうを、完遂する。



 ……何も阿斗のためではない。不老の体ゆえ普段あまり意識しないが、自分の寿命は、長くて後二十余年だろう。

 理想の成就は、自分が生きている間……という前提条件と合致する。


 正気の沙汰ではない。

 後二十年足らずの間に、曹操、孫権を打ち倒し、天下を平定した上で、万民を幸福にするというのだから。


 人間を越えた領分どころの話ではない。

 誓いと呼ぶのもおこがましい、子供の夢想以下の絵空事だ。

 誰に言っても、悪い冗談としか思われまい。


 だが、成し遂げる。妥協も後退もしない。

 そうでなければ、目の前の妻や、多くの人々に強いた犠牲とつり合わない。

 望みは次代に託すなどと妥協するぐらいなら、あんな犠牲を払う必要はなかった。

 彼女の悲しみが、数多の屍が、それしきの重みなどではないと証明するためにも、最良の結果以外は認められない。


 だが結局は、それもまた、夢想家の傲慢でしかない。

 そのために、これから更に多くの悲しみを、中華の大地に広げていくことになるのだから。







 医者を呼び付け、甘夫人の安静を確認した後、劉備は彼女の部屋を立ち去る。

 

 その先に待ち受けていたのは、聞き慣れた毒舌だった。


「女を泣かせる男ってどう思う?まして自分の奥さんを。最低よねぇ」


 諸葛孔明は、女の姿で立っていた。

 どうやら、妻との会話は全て盗み聞かれていたらしい。


「……俺達夫婦の問題だ。口を出される筋合いはねぇ」

「それって妻子を虐待しているDVどぶ男の決まり文句よねぇ」


 けらけらと笑う諸葛亮。


「で、どうなった?」


 それ以上、彼女と無駄話をする気はない。単刀直入に、成果を問い質す。


「あらぁ、労いの言葉も無いのぉ? 人生であれだけ労働したのって、三回あるかないかよ?

 これって国民栄誉賞ものの偉業なのよ、分かってる?」

「よくやったって頭撫で撫でして欲しいのかよ」

「うえぇっ、気色悪い。手から毒が浸透して、頭蓋骨が溶けて脳味噌が腐りそうだわ。

 ……ま、かみ砕いて言えば、全部貴方の狙い通りよ」


 孫権は開戦を告げ、孫と劉の同盟が成立した。

 魯粛も現在江夏を訪れているという。


「そうか……」


 これだけでも跳び上がって喜ぶに足る成果だが、そんなことで満足してはいられない。

 これはただの前提条件。この先にある、壮大な奇跡を成すための第一歩に過ぎないのだ。


「よかったわねぇ。貴方の望み通り、これでもうじき戦争が始まるわ。

 また、大勢の人間が死んじゃうわねぇ」


 彼女の言葉が、心臓に突き刺さる。

 甘夫人の台詞と同じ……だが、そこに悲嘆や非難の色はない。彼女は喜悦している。

 戦の犠牲者など、塵芥も同然であるかのように。


「孫権や貴方が負ければまだいい。曹操の天下統一で物語はおしまい、夕日にでかでかと『劇終』と出て終了よ。

 でも、もし奇跡的に勝ったりした日には……」


 あえて言わずとも、その先は十分理解できていた。


「あの張昭ってのが言ってたこと、あれ、全部正しいわ。

 一時の勝利で争いは終わらない。報復が報復を呼び、中華にかつてない大乱世を巻き起こすでしょうね。

 天下三分は……向こうは二分のつもりだろうけど……そんなに甘い策じゃないわ。

 天下の分断は即ち、一人だった人間を二人にするようなもの。敵と味方の概念は、人間が二人にいて初めて生じる。

 人が同じ世界に二人いれば、争い合うのは避けられない。

 言ったわよね。天下三分は、中華を再び乱世に引きずり込む最悪の策、だって。

 それでも、貴方はやるのね?」


 傷口をえぐられ、罪悪感いたみが一気に流れ出す。

 もう何度味わった痛みだろうか。それでいて、決して慣れることはない。



「……今更だろ。それに、俺一人でどうこうできる領域はとうに越えてらぁ」


 劉備だけではない。周瑜や孫権、数多の人間が曹操の天下統一に否と唱え、その覇業に牙を突き立てる道を選んだ。

 その瞬間から、新たな時代の潮流が生まれる。

 曹操の瀑布の如き覇道に比べれば、小川の如きちっぽけなものであるが……

 その流れは、個人の意志では止められない。もちろん、自分も止める気は無い。


 最も、それで己の罪悪つみを転嫁しようとは思わない。

 己の決断が、選択が、この流れを生み出す一因となったのは間違いないからだ。



 孔明は、嬲るような目と笑顔でこちらを見ている。


 ああ……彼女は愉しんでいる。

 劉玄徳の目的に手を貸す代価として、彼の苦しみを吸っている。


 他者の苦しみは蜜の味……彼女は、そんな人間の持つ負の一面に、どこまでも正直な女であった。


 思えば、彼女の存在は全て、劉備の苦しみに繋がっている。

 彼女がいたからこそ、劉備は曹操に打ち勝つ希望を見出だし、その結果として生まれる犠牲に苦しむことになってしまった。

 今もまた、孫劉同盟を成立させ、劉備を後戻りできなくした。


 諸葛孔明こそは劉備を、苦難と悲嘆の道に引きずり込む疫病神だ。

 彼女と共にある限り、自分の人生には苦しみしかないだろう。



 だが……だからこそ、彼女は劉備にとって、何より必要な人間だ。


 劉備の苦しみとは、己が因となって起こる戦争の犠牲。

 彼はその痛みを、己がことのように感じられる。そうなるようできている。


 だが、それを恐れているようでは変革はなしえない。

 苦しみに耐え、否、今以上の苦痛を味わうことになろうとも、走り続けなければならない。

 自分が苦しめば苦しむほど、夢に近付ける。

 そして彼女は、自分に最も苦しみを与える方法を知っている。

 ゆえにこそ、劉玄徳と肩を並べ、血塗られたこの道を駆けるに最も相応しい相方なのだ。



 あの長坂で……ただ一人を選んで逃げ出さねばならぬ時……


 自分は妻でも子でもなく、この性悪男女を選んだ。


 つまり、それが全てなのだろう。認めざるを得ない。

 劉玄徳は、諸葛孔明を必要としている。


 彼女は水。全てを等しく包み、状況において千変万化しながらも、本質は変わらぬ水。

 自分は魚。ただ前に進むことしかできず、理想みずの中にいなければ生きていけない魚。


 この水は、清流とは程遠い、えら呼吸するのも苦しい泥水であるが、元より陸上おかに上がれば死ぬ身だ。

 そして自分には、如何なる状況とて生きようとする以外の選択肢はありえない。



 かのじょは劉備に苦痛きぼうを与え、安息ぜつぼうを奪うもの。


 彼女かれがいるからこそ、自分は停止せずにいられる。夢に向かって、進み続けられる。




 これから会う孫呉の面々も、自分が更なる高みに昇るための、踏み台に過ぎないのだ。友情や同情を感じる必要は全くない。


 だが、彼らと話をしていく内に、彼らにも彼らなりの切実な理由、確固たる信念があって、曹操と戦うことに気付くだろう。

 孔明曰く、甘ちゃんの自分では、彼らに同情してしまうのは避けられそうにない。

 それに、こうして曲がりなりにも曹操に対抗することができるのも、孫呉かれらが戦う勇気を示してくれたお陰。そのことには、真剣に感謝している。


 だが、それでいい。


 彼らに抱く親愛の情、それが、劉玄徳の本性を覆い隠す最高の偽装となる。

 これまで数多の人間にそうして来たように、孫呉かれらもまた、存分に利用してくれよう。


 劉玄徳を愛した者は、すべからく利用され、打ち捨てられる宿命にある。

 触れた者は命を落とす毒気の化身。まるで病原菌のような存在だ。

 それを認めることに、もはや躊躇いは無い。



 その不幸もうどくこそ、劉玄徳の最大の武器だ。


 自分に関わった人間達は、尽く不幸になる。そう……敵も、味方も。

 自分の存在が、総てを狂わせて行くのだ。

 故に自分に関わった敵達は、味方諸共、破滅の坂を転がり落ちて行くことだろう。

 

 だが、そこに自分自身は含まれない。


 何故なら、総てを愛し、総てを救いたいと考える劉備にとって唯一、そしてこの地上から消してしまいたいほど憎悪している対象が、自分おのれ自身だからだ。

 

 この身は夢の傀儡、救済を実現する為の道具。


 劉備の本心が苦痛を覚え、死を望み、裁きが下されるのを願うほど……

 何が何でも生き延びようとする本能が、劉備どうぐを死から遠ざけようと、一層力強く働くのだ。

 だから自分は死なない。悲願を果たすまで、生き延びてみせる。



 愛する者を苦しめ、虐げ……敵味方諸共に殲滅し、それを礎として総てを救済する。


 ゆえに最後まで病原菌おのれの隣にいる者は、劉備を厭い、劉備が厭う疫病神かのじょに限られるだろう。



「……行くぜ、孔明」


 孔明は、やはり総てを見透かしたように薄く笑うと、劉備の後につき従う。





 だが、ゆめゆめ忘れるなかれ。


 魚は水が無ければ生きていけないが、水は魚を必要としていない。


 “水魚の交わり”とは、そういうことだ。



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