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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十三章 孫劉同盟(六)

 いよいよ……いよいよ、戦が始まる。


 孫権が開戦を告げた直後……黄蓋こうがいは、思わず雄叫びを上げそうになった。


 長い雌伏の時を越え、ついに孫呉が天下に打って出ることになる。

 孫堅が、孫策が志しながらも、ついに果たせなかった天下への夢。

 それを、三代目と自分達の力で実現するのだ。心が高ぶらぬはずがない。

 筋肉に熱が宿り、体中の細胞が快哉を叫んでいる。

 孫家三代に仕え、全身全霊で崇敬と忠誠を捧げて来た黄蓋は、孫家の当主こそが天下の盟主に相応しいと、片時も疑うことはなかった。

 あの不幸が無ければ……いや、あの悲劇が、世間で噂されているように、劉表や、その裏にいる曹操の差し金だとしたら、尚更奴らに天下を取る資格はない。

 正義は、自分達にある。

 

 ……確かに、張昭の主張も分からないでもない。

 だが、自分は所詮武人、心の奥底では、武を持って決着をつけることを望んでいた。


 それに……



 自分は知っている。


 周瑜の言う秘策が、何なのかを。


 勝利を収めるに足る、秘策を。


 この会談が始まる前に、周瑜が教えてくれた。

 何故なら、この作戦の要となるのは自分だからだ。

 命懸けの策になる……周瑜はそう告げたが、黄蓋に躊躇いはなかった。

 既にこの身は老体、孫呉の未来のために、命をなげうてるなら本望だ。

 必ず成功させなければならない。孫権のために。そして、自分を信じてくれた周瑜のためにも。


 黄公覆の命を代価とし、曹操軍五十万を、長江の藻屑にしてくれる……!








「いやぁ、とうとう開戦しちまったすね。これからどーなっちゃうんでしょ、尚香様」


 会談の後、諸葛瑾は怯えた様子で尚香に話し掛ける。


「どうもこうもありませんわ。

 お兄様が開戦を決めた以上、曹操との戦が始まるのですわ。

 彼らは今江陵にいるそうですが……程なくして柴桑まで押し寄せてくるでしょう」

「ええー!! 曹操軍ってほら、百万だか千万だかいるんでしょ?

 勝てるわけねぇじゃねぇっすか!!」


 瑾の大声に、近くにいた孫呉の家臣達が、眉を潜める。


「たわけもの!!」


 家臣の誰かが口を開く前に、尚香が、どこからともなく取り出した薙刀なぎなたの柄が、瑾の頭を打っていた。


「あだーっ!!」

「滅多なことを言うものではありません! そのような弱腰では、戦う前から負けているようなもの! 皆の士気にも関わりますわ! 後、一千万は言い過ぎです!」

「うひー、これじゃ曹操軍が攻めて来る前に、鬼姫様に殺されちゃうっすー! あっ!」

 

 言ってから、それが失言だったことに気付き、青ざめる瑾。

 咄嗟に頭を手で押さえるが、薙刀の一撃は、待っても飛んで来なかった。


「んー?」


 見れば、尚香から怒りの色は失せ、どこか憐れみを湛えた眼で、瑾を見下ろしていた。


「どーしたんすか? いつもなら、もう百発はお仕置きが飛んで来るはずなのに」

「それがお望みかしら?」

「いえいえいえ! 滅相もありませんですハイ!」


 全力で首を左右に振る瑾。

 尚香は一息ついて、落ち着いた口調で話し出す。


「……貴方の気持ちはよく分かりますわ。私だって、戦が怖くないわけありませんもの。

 いえ、兄様も含めて、誰もが不安を抱えているはずですわ。

 私達は、本当に正しい道を選んだのかどうか」

「尚香様……」

「でも、私達はずっと、兄様を……孫家の当主を信じてついて来た。

 だったら、今回も兄様の決断を信じて、力の限り戦うだけですわ。

 と言っても、女の私に出来ることなんて、たかが知れていますけど……」

 

 自嘲するように呟く尚香。


「そんなことは無いっすよ!」


 瑾は、強気な口調で言う。


「瑾……」

「尚香様は、ご立派に孫家のお役に立っているっす!」

「そ、そうかしら……」

「仲謀様はいつも言っているっすよ! 妹が自分を励まし、信じてくれるからこそ頑張れるって!」

「まぁ、兄様がそんなことを?」


 尚香の顔に、赤みが注す。


「……どうせなら、面と向かって言って下さってもよろしいのに……」


「何せ、本気を出した尚香様は、野生の熊より獰猛で、殺人鬼よりも凶悪だ。

 その拳は空を裂き、その蹴りは大地を割り、その雄叫びは海をも吹き飛ばしまっすからねぇ!

 おお! おっかないおっかない! 曹操軍の皆さんには同情しちゃいますよぉ。

 姫様の覇王尚香拳はおうしょうこうけんに掛かれば、五十万の艦隊も、一瞬で塵屑っすからねぇ!

 天下無双! 怪力乱神! 熊より虎より魔王よりも怖い鬼姫様! はっはっはー!」

「…………どうやら、まずは貴方から塵になりたいようね……」


 こめかみに青筋を浮かべ、尚香おにひめは薙刀を振り上げた。


「ぎゃひ――!! お、鬼姫様が暴走したっす――!!

 らめ――!そんな大きいの入れないで――!」

 

 どこか危ない発言をしつつ、しこたま叩きのめされる瑾だった。



「はぁ……とにかく、貴方に何か役目が回ってくることは無いでしょうから、皆さんの邪魔にならないよう怠けていなさいな。きっとそれが一番ですわ」

「ほへ?」


 諸葛瑾は、きょとんとした顔で……長い前髪のせいで、視線は見えなかったが……尚香を見上げている。


「もし……もし万が一のことがあっても、戦に積極的に関わらなければ、悪いことにはならないでしょうよ」


 万が一、とは、即ち孫呉の敗北のことだ。

 まともに考えれば、勝率の方が万が一と言うべきだが。


「んー、それはつまり、俺っちのこと、心配してくれてるんすか?」

「な……?」


 尚香は、先程同様顔を赤らめる反応を見せる。


「いや~~嬉しいっすねぇ。あの鬼姫様が、蛇蝎の如く忌み嫌い、牛馬の如くこき使って来た俺っちの身を案じて下さるなんて!

 こういうの、何て言うんすかね?つ……」

「お黙りなさい!!」


 雷が、瑾の脳天に落ちた。


「あぎゃひ――っ!!」


 しかしその一撃は、怒りだけが原因ではなかった。



 痺れる頭をさすりつつ、瑾は話を続ける。


「……まぁ、怠け放題サボり放題ってんなら、俺っちとしては有り難いんすけどね~~そういうわけにもいかないんすよ」

「どうして?」


 尚香の問いに、瑾はにっこり笑って答えた。


「だって、俺っちには役目があるっすから。仲謀様と尚香様を、お守りしないと」


 尚香は、しばし目をぱちくりさせていたが……


「……ばーか」


 そう言いつつも、尚香の顔には厭味でない微笑が浮かんでいた。


「な、何すかそれは!俺っちだってね、やる時はやる男なんすよ!!」


 見くびられたことが不服なのか、子供のように、腕をぶんぶん振り回す。それを見て、尚香は思わず吹き出す。


「分かりましわ。貴方の活躍、期待しておりますわよ。諸葛子瑜」


 彼もまた、食客ではなく、孫家の家臣の一人なのだ。彼を重臣に取り立てたのは、他ならぬ彼女の兄。

 ならば、王の妹として、臣の忠誠を疑ってはならない。


「はいはいはい! お任せ下さいっす、お姫様!」

 

 直立不動し、ぎこちない敬礼をする瑾。


「うふふふふ……」

「えへへへへっ」


 どちらともなく笑い出す瑾と尚香。


(そう……彼でさえ、私やお兄様のために何かしようとしている。

 私も……女だからと言って、何もしないわけには参りませんわね)


 尚香の笑顔の中には、ある決意が宿っていた。

 そう、このことは、しばらく前から考えていた。



「ねぇ、瑾。貴方の弟……孔明様とおっしゃいましたかしら。あの方は、かの劉玄徳様の片腕なのですわね?」


「え、ええ……」


 弟の話題を振られた途端、無駄に多い彼の元気に陰りがさした。


「姫様がご覧になった通りっす。俺っちとは似ても似つかぬ、美形で立派で頭もいい、何一つ非の打ち所の無い、自慢の弟っすよ」

「それはどうでもいいことですわ」


 彼が、自分より全てにおいて優れた弟に対し、言い知れぬ劣等感を抱いていたことは明らかだ。



 まして、彼は兄……本来優位に立つべき存在が、後から生まれた者に追い抜かれる。

 きっと、自分が思っている以上の葛藤と苦悩があっただろう。

 今の彼の性格を形成したのは、弟への劣等感かも知れなかった。

 ゆえに、これ以上孔明について話すつもりはなかった。


「あの方は、同盟締結の報告に、すぐ江夏に戻られるんですわね?」

「ええ、そうっすよ」


「それなら――」







 会合の直後、城では早速曹操に対抗するための軍議が始まった。


 予め、周瑜が綿密な計画を立てていたこともあり、方針は意外に短時間で定まった。

 大都督、周瑜に軍の全権を預け、彼に孫呉の命運を委ねるというものだ。

 孫呉が誇る大艦隊は、既に出航準備を終えている。

 

 明日は運命の日となろう。



 会議中、あれだけ強硬に降伏を主張していた張昭だが、一度孫権が開戦を定めてからは、一切異を唱えることはなかった。

 ただ、長期戦になれば、物資でも人員でもこちらの不利。ひいては江南の民にも被害が出る。

 勝敗は、迅速に決すべし。そのことを、重ねて強調していた。

 周瑜の方も、元よりそのつもりだったらしく、短期での決着を約束した。


 先の会議で、最も家臣団の関心を集めたであろう、周瑜が抱く“秘策”については、作戦に携わる者達を除いて、結局全貌が明かされることはなかった。

 

 唯一判明したのは、それが“炎”を扱うものであることだけ。


 なるほど、絶望的な数の不利を覆すには、火計に頼る他ないだろう。

 しかし、曹操軍とて火計については警戒はしているはず。

 そう上手く、曹操軍の艦隊を焼き尽くすことなどできるのだろうか。

 それに、ただの人間ならいざ知らず、“武将”の肉体は並みの炎など効きはしない。


 作戦の総ては、周瑜の頭の中にある。

 そして、曹操軍五十万を敵に回して勝てる可能性のある軍師は、周瑜だけだ。

 皆はいくらかの不安を残しつつ、彼に総てを託すことに決めた。


 諸葛亮は、同盟の締結とその後の共同作戦について劉備に報告するため、魯粛と諸葛瑾を伴って江夏に帰還した。

 







 この屋敷を訪れるのも久方ぶりだ。

 彼女とは、もう長い間……いや、伯符が死んでからは、およそ顔を合わせても会話らしい会話などしなかった気がする。

 周瑜の視線の先には、琴の手入れをしている女性がいた。


 薄紫色の着物を着、中央で分けた黒髪を肩ま伸ばし、透き通るような白い肌をしている。

 彼女は、来訪者の存在に気づくと、にっこり笑って一礼する。


「お久しぶりです、周瑜様」

「こちらこそ、ご健勝のようで、何よりです。大喬だいきょう様……」



 彼女の名は大喬だいきょう


 小喬の姉で、八年前、非業の死を遂げた孫伯符の妻だった女性だ。


 孫策とは仲の良い夫婦で、それだけに夫の死の衝撃は計り知れなかった。

 周瑜同様……魂の抜け殻も同然の状態になり、生きる気力を取り戻すには、長い年月を要した。


 現在は、柴桑にある屋敷で、穏やかに暮らしている。

 何もしないのはどうかと思い、近頃は街の人々や城内の女官に、琴を教えている。



 あまり時間も無いので、最初から本題に入る。


「既にお聞き及びかと存じますが……孫権様が、開戦の号令を発せられました」

「はい、妹が知らせてくれました。戦が、始まるのですね……」

「ですが、ご安心ください。曹操が、この柴桑の地に足を踏み入れることはありません。

 孫呉の総軍を持って、必ずや撃退して御覧に入れましょう」


 大喬の顔に、感情の色はない。

 ただ黙って、周瑜の話に耳を傾けている。


「曹操は、伯符の……先代の急死にも深く関わっている模様……なればこの戦は」

「周瑜様」


 凛とした声が、周瑜の耳に刺さる。

 いつしか、大喬から微笑みは消え、厳しい顔で自分を見据えていた。


「主人は、常々言っておりました。自分は多くの怨みを買いながら戦い抜く道を選んだ。

 その“つけ”が、いつ自分に降り懸かってもおかしくない。

 だから、もし自分が死ぬことがあっても、それは戦の理に殉じた結果。

 誰かを怨んだり、新たな戦の火種にすることだけは、やめて欲しいと」


「………………」



 知っている。

 覇を掲げ、他人の前ではいつも笑顔でいながらも……心の奥では、奪った命の重みに震えていた、主君であり親友だった男。

 孫策の根底にあるものは優しさ。世に覇を掲げたのも、乱世を平定し、民に安息をもたらしたい一心ゆえだ。

 彼女は、孫策のその優しさに惹かれたのだろう。


 それに対して、今の自分は……




「ですから私も、誰かを憎むのは止めました。夫は、この乱世に殺された。

 あの人も、仇討ちは望まない……ただ、一日も早く、戦が終わることを願っている。そう思ったんです」


 淡々と語る未亡人。

 しかし、その理解に達するまでは、艱難辛苦の道程があったことだろう。


 自分もそうだったから、分かる。

 大切な人を失った時……自分の器を遥かに越える悲しみと苦しみが、体の中で荒れ狂う。

 もし、殺した相手がはっきりしていれば、それは憎しみという形で、外に発散することが出来る。

 しかし、憎むべき相手が誰かも分からず、喪失感だけを募らせてしまえば……それは、決して潤わぬ渇きに、絶えず苛まれているようなものだ。

 彼女も自分も、同じ地獄を潜ってここにいる。


 そして……小喬や多くの人々が、手を差し延べてくれたことも同じだ。

 妹達の献身があったからこそ、彼女は孫策の死に引きずられることなく、こうして自分を取り戻している。



 大喬の冷淡な口調には、どこか責めるような響きが感じられる。

 このひとは、きっと周公瑾の心胆まで見抜いている。そんな気がする。

 何より大切な人を失い、飢餓に似た深い喪失感を味わった者同士だから……


「……失礼いたしました。今の私は、ただの女、一人の孫呉の民に過ぎません。

 元より、国家の決定に口出しする心算つもりも、資格もありません」


 大喬は、居住まいを正して、こう続ける。


「ですが、周瑜様……これだけは忘れないでいて下さい。

 妹は……小喬は、貴方が生きて、幸福しあわせになることだけを望んでいると……」




 

 妹から告げられた。自分は、周瑜様の心が分からない、と……


「あの人は、ずっと曹操と戦いたがっていた。その望みが叶ったのだから、妻としては祝福すべきなんだろうけど」


 震えの混じった声で、妹は言う。


「私……怖いの。このままだと、勝っても負けても、周瑜様が、どこか遠くに行ってしまいそうな気がして……」


 自分達女は所詮、戦に関しては無知も同然。

 戦の勝敗について分析するのには、限界がある。

 だが、今の周瑜に、破滅に向かって突き進んでいるかのような危うさがあるのは、大喬にもよく分かる。

 妻である彼女は、より鋭敏に感じ取っているのだろう。


 自分は知っている。いつも明るく、笑顔でいる小喬いもうと

 彼女がどれだけ、夫である彼を愛し、その身を案じているか知っている。



 だから……



「承知しております。義姉あね上様。

 私の幸福は、妻や貴方を含めた、孫呉の全ての民を守ることにあります。

 私は今……この上なく満ち足りております」

「そ、それは……」

 

 違う――



 だが、正しい。



 孫呉の民全ての幸福が自分の幸福といい、そのために己が才の限りを尽くすのは、孫呉の臣として、この上なく正しい。

 私を捨て公に殉ずる彼の生き方を、誰が否定できようか。


 だが、もしこのまま、彼が戦の螺旋に飛び込むのを黙って見ていれば……



 最悪の事態が起こった場合、妹が、自分の二の舞になってしまう。

 

 自分は、“わずか”八年で立ち直ることが出来た。

 思った以上に、自分はしたたかな人間だったようだ。妹という支えがあったことも影響しているだろう。


 だが、妹はどうなるか分からない。

 あの子は、気丈なようで繊細な娘だ。自分と同じ喪失を背負えば、壊れてしまうかもしれない。

 人に手を差し伸べることに慣れている分、自分を救う方法を知らないはずだ。

 それに……あの、砂を肺腑に詰められたような飢餓と閉塞感を、妹に味わわせたくはない。


 だから――




「失礼します」


 周瑜は唐突に立ち上がる。

 これ以上、話すことなど無いように。


「あ――」


 大喬は、彼が去るのを見送るしかない。これから、戦の準備で多忙を極める彼を、引き止めることなど出来ようか。

 自分に出来るのは……


「……周瑜様。私に出来ることは何もありません。ただ、一人でも多くの方が生きて帰られることを、祈っています……」

「大喬様……貴女の、孫呉の民のその祈りが、天に通じ、奇跡を呼び起こすことでしょう。

 孫軍を代表して、心より感謝いたします。では……」


 周瑜は、丁重に辞して大喬の家から立ち去った。





 ああ……


 大喬は、今のやり取りで悟ってしまった。同じ境遇を味わった者同士……自分との、小さな、かつ決定的な違いを理解できた。


 周瑜は、小喬が愛した彼は……既にこの世にいないのだと……


 彼は、かつての自分だ。全てを失い、物言わぬ虚ろになった自分。

 今の彼は、ただ物を喋り、手足を動かし、理性的な思考ができるだけで……かつての、壊れていた自分と何も変わらない。

 彼の内では、大切なものが欠け落ちたままだ。そしてその欠落は、自分や小喬の想像を遥かに越えて、深い……

 自分では、救えない。小喬いもうとがどれだけ祈っても、あの人には届かない。


 居るとするならば、それは……


 いや、例え“あの人”が生きていたとしても、もう――







 ああ、やはり彼女こそは、孫伯符の最大の理解者だ。

 彼女の語る言葉は、孫策の意志に限りなく近いと言って良かろう。


 だからこそ、意味がある。


 貴重な時間を裂いて大喬の下に赴いたのは、最終確認をするためだ。

 いざとなって、自分の中の情が脚を引っ張るようでは、全てが水の泡。


 彼女の切なる言葉……孫策の言葉に等しいそれを聞いて、なお自分の中で一片の躊躇いも生まれなければ……それは、周公瑾が完成された証明になる。

 何の憂いもなく……大戦に臨める。



 大喬の……孫策の言葉を、脳裏で反芻する。

 一方で、これから自分が行おうとしている、外道悪鬼の所業を思い浮かべる。

 孫策が生きていれば、きっと眉をひそめ、怒鳴り散らしただろう。

 そんな手を使うぐらいなら、降伏した方がましだと言うはずだ。

 孫策の顔と声を思い浮かべ、何度も、何度も、己自身を糾弾する。




 ――完璧だ。


 心の奥底まで探ってみても、細波さざなみ程度の躊躇いも起こらない。

 周公瑾は、十全に、勝利に必要な全てを執行するだろう。



 彼女と自分は違う。

 絶望の海に沈んでも、多くの人が手を差し延べてくれたことまでは同じ。彼女はその手を掴み、長い時間をかけて水面に、生ける人の世界に浮かび上がることができた。

 だが、自分は違う。救いの手を黙殺したばかりか、更に深くへと潜った。

 悲嘆と閉塞しかない、海の底まで……

 そして、暗い闇底で過ごす内に、次第に適応していった。

 いや、気付いたというべきか。自分の居場所はここなのだと。

 愛情と優しさに溢れた、光射す生者の世界ではなく、冷たい夢のむくろに囲まれた死の世界こそ、自分のいるべき場所だ。


 ゆえに、生者の情や理で、自分は縛られない。


 自分はただ進み続ける……死者おのれの妄念で築き上げられた、血塗られた道を――



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