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三国羅将伝  作者: 藍三郎
162/178

第二十三章 孫劉同盟(五)

「失礼いたします」


 玲瓏れいろうとした声が、議場に響いた。


 皆が息を飲む。

 長く伸ばした流麗な黒髪を後ろで縛り、紫色の着物の上に、白い衣を羽織っている。

 大きく黒い瞳に、絹のように滑らかな肌、婉然と微笑むその顔は、天女のごとき美貌を湛えていた。

 その美しさに、場の誰もが息を飲む。

 それは、周瑜と張昭の丁々発止のやり取りで、極度の緊張にあった議場の空気を、一時和らげるほどだった。



 皆の視線を一身に浴びて、彼は周瑜の傍に立つ。

 そして、張昭と孫権の姿を、その瞳に収めた。


「はじめまして、孫権様。並びに重臣の御歴々……

 私の名は諸葛亮しょかつりょう。字は孔明こうめいと申します。

 こたびは、かくも重大な会合にお招き頂き、恐悦至極に存じます。

 今日という日に、私に発言の機会を下さった周瑜様には、感謝の言葉もありません」


 優雅に扇を繰りながら、彼は慇懃に自己紹介した。



 諸葛亮、孔明……


 大半の家臣団にとって、初めて聞く名前だった。だが、その珍しい姓には馴染みがある。

 最初にそれを確認したのは、上座の孫権だった。


「諸葛亮と申したな。貴公はもしや……」

「はい。そちらの諸葛瑾は、私の兄でございます」


 彼は、離れた位置に座っている兄弟に視線を送る。

 皆のざわめきが大きくなる。


 あの麗人が、あの諸葛瑾の弟!?


 その美貌といい、堂々として礼儀正しい態度といい、血を分けた兄弟とは思えない。



「周瑜様とは、兄を通して知り合いました。

 兄から聞いております……兄を取り立てて下さったのは、孫権様であると。

 弟として、改めて御礼申し上げます」

 

 孫権に向かって、彼は大きく頭を下げた。



「諸葛孔明様」


 次に言葉をかけたのは、孫権ではなく張昭だった。

 彼は先程から、眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな顔をしている。

 得体の知れない美人の登場で、会議の流れが断ち切られたことが不満なのだろうか……いや、それだけではない。


「これはこれは、張昭様。孫呉きっての忠臣で、天下に名だたる政治家であられる貴方と会えて、大変嬉しく思います」

 

 やや大袈裟な、さりとて決して誇張ではない賛辞に対しても、張昭は冷静に応じます。


「ありがとうございます。そのように言って頂けて、身に余る光栄です」

「いえ、失礼ながら、先程の話を聞かせていただきました。

 貴方への世評が、決して過大なものではないと理解できましたよ。ですが……」

 

 朗らかに語っていた彼の顔に、妖しい影が帯びる。


「それでも……私は周瑜殿の側に付かせて頂きますが。

 この地の未来が、降伏によって開かれるという意見には、賛同しかねます」


 それは柔らかな語り口ながらも、明白な宣戦布告だった。



「周瑜殿の御友人とおっしゃられましたが、それだけでは無いでしょう?」


 張昭は、眉一つ動かさない。眼鏡の奥の瞳から、美貌の青年と、その隣にいる、周瑜を見据える。



「私も、貴方のことは存じ上げております。

 諸葛孔明様、貴方は現在、軍師としてかの劉玄徳殿に仕えておられる……違いますか?」

「驚きました……その通りです、張昭様」


 場のざわめきが一気に大きくなる。

 劉備といえば、今も曹操に公然と抗い続けている、反曹操陣営の代表というべき人物だ。

 その腹心の部下を、揚州に連れて来たということは……


「何や、もう知っとったんかいな。たいした情報収集力やでぇ。

 さっきの話といい、張昭はん、あんた軍人に転向しても十分やっていけるのとちゃいまっか?」


 魯粛の軽口は無視して、張昭は厳しい表情で、周瑜を睨みつける。


「周瑜……貴方の策というのは……」

「はい。お察しの通り、こちらの孔明殿は、劉備軍の使者。

 私は、劉備殿と同盟を結び、曹操に対抗しようと考えております」


 思わぬ周瑜の提言に、家臣団はまたも揺れる。

 

 劉玄徳。領地を持たぬ流浪の身ながら、漢王室の血を引き、今も曹操に抗い続ける男として、天下にその名を知らぬ者はいない。

 更にその軍も、寡兵ではあるが、関羽、張飛、趙雲といった勇将が揃っている。

 その力は、一人で万の兵に匹敵する。

 もし同盟を組むことが出来たならば……曹操との決戦において、頼もしい力となるだろう。

 いや、所詮数千の兵程度では……家臣団の思惑は様々だ。



「……何と言うことを」


 張昭は、不快な表情を崩さずに続ける。


「それが何を意味しているか、分かっておられるのでしょうね?」


 射殺さんばかりの厳しい視線を向ける。周瑜は、一切動じずこう答えた。


「無論です。国家の大事を、君命も仰がず独断で決めたこと……軍法に照らせば、死罪に相当しましょう」


 これまで、周瑜は独自の権限で、軍を拡張させてきた。

 それは、いずれ訪れる曹操との戦のためだったが、国防という名目ゆえに容認されてきた。

 真意はどうあれ、孫呉の益になる行動だったのだ。


 しかし、劉備との同盟は明らかに違う。

 劉備は長年に渡り曹操と敵対しており、そう世間に認知されている。

 もし、孫呉が降伏という道を選べば、劉備と密かに盟を結んでいたという事実は、交渉において大きな不利益をもたらすことになる。

 それは、孫呉の国益を損なう結果になる……家臣として、許されざる大罪である。

 そのことを、張昭は場の全員に語ってみせた。



「ま、わかりやすう纏めれば、こういうこっちゃな。

 殿が降伏という決断を下せば、わいと周瑜はんは無断で盟を結び、国益を損ねた大罪人。

 二人揃って打ち首っちゅーわけや」


 手で首を掻っ切る仕草をする魯粛。


「そ、そんな……」


 呂蒙は絶句する。

 もし孫権が降伏を是とするならば、周瑜は死なねばならぬということか。


(……自分の命を盾に、殿に開戦を迫るつもりですか)


 その中で張昭は、周瑜の裏にある冷徹な計算を読み取っていた。

 今の孫呉にとって、周瑜は必要不可欠な存在だ。

 さらに孫権は、兄の友人である周瑜を、臣というよりは師だと思っている。

 そんな彼を、処断することなどできるのだろうか。

 

 私情と実益の両面から、極めて難しい判断と言えた。

 張昭自身は、周瑜が孫呉を泥沼の乱世に引き込もうとするならば、彼の処断もやむなしと考えている。

 だが、孫権は……



「……なんか、さっきからわいの存在が忘れられとる気がするなぁ。

 なぁ、周瑜はん、ここは、全ての責任は自分にあるから、魯粛だけは見逃してーな、というとことちゃいまんの?」


 魯粛のぼやきに、耳を貸す者はいなかった。




「孫権様」


 周瑜は、真っ直ぐ孫権の顔を見据えて、告げる。


「貴方様の裁可も得ずに、勝手な行動に走ったこと、まずは謝罪致します。

 ですが……不遜極まりないと思われるでしょうが……私は、自分の行いが孫呉に背く物だとは思っておりませぬ。

 何故なら、私は孫呉の未来は、戦って勝ち取る以外無いと考えており、劉備殿との盟はその勝利に必須なのです。

 慈悲を賜ろうとは思いませぬ。ただ、我が命を証として、孫呉の勝利を信じて頂きたい」

「周瑜」


 孫権は、感情の篭らぬ声で呼びかける。

 周瑜の言葉に揺れているのか否か。それ冷徹な瞳からは、内心を伺い知ることはできなかった。


「お前は……そちらの、諸葛孔明殿の提案に、命を賭けるだけの価値を見出だしたのだな?」

「はい」


 刹那の迷いもなく、周瑜は答えた。そして、傍らの麗人を見遣る。


「では、聞かせて頂けるか? 孔明殿」

「はい。孫権様、並びにここにおられる方々も、最終的に目指す場所は一つだと思われます。

 それは、揚州の平穏と天下の安寧。

 しかし、まず私達は改めて見つめ直すべきなのです。天下とは、一体何なのか……」




 かつて諸葛亮が劉備の前で語った、“天下三分”の理を、語って聞かせる。

 

 天下とは、一定のものに非ず。

 実体を伴わない、その時代に生きる人々の意識が決める概念なのだ。

 ならば……天下を分かち、あるいは創造することも可能である。


 家臣一同からすれば、目から鱗が落ちるような意見であった。 



「民の意識が、真に曹操を天下の主と看做みなしているならば、既に天下は曹操のものとして定まっております。

 張昭殿の仰るとおり……如何な力を持ってしても、覆しようがありません。

 ですが、そうでないならば……。

 数日前の話です。荊州、樊城を出立する際、数十万もの民草が、我が主君、劉備に同行を申し出ました」


 家臣団の顔色が、驚愕に変わっているのが分かる。

 反曹操の象徴と言っても、所詮は寡兵の長に過ぎない……と皆劉備を見くびっていた。

 それが、よもや彼に数十万もの民が心を動かされるとは……改めて、劉備の影響力を思い知る。


「荊州の主、劉綜様が、曹操様に降伏することを決めていたにも関わらず、です。

 それだけの数の民草が、危険を省みず、住み慣れた土地を離れることを覚悟の上で、曹操様に抗う道を選ばれたのです。

 この中華には、曹操様の天下を受け入れられない強い意志が、確かに存在します。

 それなのに、天下は曹操様ただ一人のものであると、決め付けてよいものでしょうか?

 この世に生きる人々は、それぞれが望む天下に生きるべきです。

 ただ一人の色に染める必要は無いのです。

 そう信じ、彼らのための新たなる天下を打ち立てるために……私や玄徳様は、曹操様と戦う道を選んだのです」



 分断でも、反逆でも、独立でもなく……新たなる天下を、創造する――



 それは、最前周瑜が語った揚州の独立に、新たな意味を持たせることでもあった。

 


「ですが、曹操様の力はあまりにも強大……ゆえに我々は、孫権様。貴方と盟を結ぶことを望みます。

 それに、ここ揚州は、荊州よりもずっと反曹操の意志は強い。もしも、このまま孫家が荊州と同じ道を辿れば……」

「民の信を失うことになりかねない……ですか?」


 珍しく、話に割って入る張昭。


「それはどうでしょうか。揚州の民の信頼は、あくまで孫家に寄せられたもの。

 我が殿が降るというならば、民もその意志を尊重してくださると、私は信じております」

「ええ、貴方のお気持ちは理解できます。揚州の民の、孫権様に寄せる信頼は本物です…… 

 しかし、“それゆえ”に危ういのです」

「何ですと?」

「曹操軍がすぐ近くまで迫った状態で、孫権様が降伏を選べば……民はどう思われるでしょう?」

「曹操が、孫権様を脅して、無理矢理揚州を奪い取ったっちゅーところやな」


 魯粛が予想を述べる。


「そうなれば、民草の曹操様への怒りは益々盛り上がることでしょう。

 その怨恨は、近い将来、新たな乱世を招く禍根に成り兼ねません。

 更にこの揚州には、かつて曹操が行った大虐殺により、徐州から流れてきた民も多く暮らしております。

 どれだけの民が、曹操様の天下を受け入れられるか……

 私は、彼らの受け皿となりうる、もう一つの天下を打ち立てる必要があると考えます。

 その旗標はたじるしに、孫権様以上の適任者はおりますまい」


 その通りだ……

 家臣団の中からも、同調の囁きが聞こえる。


 孫権を盟主とした、新たなる天下の創造……

 それは、家臣団の内で消えかかっていた覇気を、蘇らせるに足る目標だった。



 皆の内に熱が蘇る中……張昭は、あくまで冷徹に反論を述べる。


「詭弁です。天下を創る、などというのは言葉のまやかしに過ぎません。

 絶対的な力の前では、民意などただ飲み込まれるしかない。それは、これまでの歴史が証明しています。

 無礼を承知でお聞きします。劉備殿に付いて行かれた数十万の民草はどうなられましたか?

 江夏に辿り着く前に、皆散り散りになったのではありませんか?

 迫り来る曹操軍の猛威の前に、貴方達はただ逃げ惑うことしか出来なかった……違いますか?」


 そう……劉備軍は結局、民草達を守りぬくことが出来なかった。

 彼らを盾にしながら、僅かな兵を江夏に逃がすのが精一杯だったのだ。

 その結果は、理想の脆さ、曹操軍の強大さを雄弁に語ってしまっている。

 

 それでも、彼は動じずに答える。


「仰る通りです。ですが、その結果を持って、曹操様に抗うことが、無意味だとは思いません。

 彼らの志を無に帰さぬためにも、玄徳様は、戦い続けることを誓われたのです。

 数十万の民草が、玄徳様を慕い樊城に集まった時……玄徳様はこの民の熱き意志こそが、己の天命であると悟られました。

 玄徳様に付き従う、我々臣下一同も同じ気持ちです。

 もし……ここで同盟がならぬ場合でも、私達は、曹操様と戦う意志を崩そうとは思いません」

「勝ち目が無いに等しくともですか? あたら多くの兵を、無駄死にさせても構わないと?」

「無駄な死というものは、この世のどこにもありません。

 私達は……劉玄徳様は、何より生き延びることを第一に考えておられますが……悲しむべきことに、戦に人の死は付き物です。

 それは誰かを、あるいは自分の中の誇りを守ったが故の、意味ある死。

 そして死した者の意志は、次の者に受け継がれます。

 そうなれば……理想や志は、どれ程の時を経ようと、決して死ぬことはありません。

 私達が恐れるのは、戦における敗北ではなく、理想が死すことです。

 故に私達は、決して退くわけにはいかないのです。

 なるほど……確かに現実は大事です。

 ですがそれは時として、理想を妥協してしまう要因になってしまう。

 一時の情勢や力関係では揺るがない、尊き理想。それを守り抜くことこそが、私達が戦う理由なのです」


 議場に詰める幾人かは、諸葛亮の言葉に感銘を受けたようだった。

 受け継がれる意志と絆……それは、一族や仲間の結束を重んじる、孫呉の理念でもあったからだ。



「張昭様」


 張昭が反論する前に、再び周瑜が口を開いた。


「私が開戦を主張する理由は……貴方を守るためでもあるのです」

「私を?」

「先程貴方が申された、降伏してからの、対話による戦い……

 正しい理に従えば、それが最も現実的な道かもしれません。

 ですが……それも、貴方が健在であれば、の話です。

 貴方はご自分の能力を、些か過小評価しておられる。

 私も、そして曹操も、貴方を揚州における最大の脅威と見做している。

 もしも孫呉が曹操に降れば、貴方に対し、懐柔を図ろうとするでしょうか?

 恐らくそんな生易しい処置では済まない。貴方の内に在る、孫呉への揺るがぬ忠誠に、曹操が気付かぬとも思えません。

 必ず、貴方を無力化しようとなさるでしょう」


 無力化、とは柔らかな表現だ。栄転という名目で、揚州より離れた地に遠ざける。

 最悪の場合は、殺されることも有り得るだろう。


「重臣の御歴々に対して、失礼な物言いでありますが……

 張昭様、貴方を欠いた状態で、曹操と対等な交渉ができるとは思えませぬ。

 降伏すれば、主導権は全て曹操に移るのです。喉元に刃を突き付けられた状態で、対話など望むべくもない。

 それは我々にとって、決定的な敗北も同然。

 和平を否定するわけではありません。ですがこの周瑜……敗北だけは、断じて許容できません。

 それは、孔明殿が仰られたように……孫呉が代々受け継いできた理想を殺すことになる。

 まして、勝つ術があるのなら、尚の事です」


 周瑜の内には、揺ぎ無き勝利への確信があるようだ。

 その迷いの無さが、家臣団の心を揺り動かす。



「張昭様が先程仰られたように、例え曹操に勝利できたとしても、真の苦難はそこから始まるのでしょう。

 しかし、我らの勝利は、世に溢れる反曹操勢力にとって希望の光となるはずです。

 それは反曹操の巨大なうねりを呼び起こすことでしょう。

 そして、我らが殿にはその先頭に立って頂き、曹操の天と対を成す、もう一つの天を打ち立てます。

 両極の力が拮抗すれば、曹操とて容易に南に攻め込んでは来られませぬ」


 周瑜は、ここで張昭の方を向く。


「その時にこそ、張昭様、貴方の力が必要だ。

 貴方の弁舌と政治力は、孫権様の天下を万民に認めさせるのに必要不可欠です。

 その為にも、貴方には生きて頂きたい。共に、孫呉の未来を創り上げて行って欲しいのです」


 張昭に向けて、頭を下げる周瑜。魯粛と諸葛亮も、同時に一礼する。

 それを見ても、張昭は動じた素振りを見せなかった。

 その反応を見越していた周瑜は、それ以上言及することも無く、再び孫権に向き直り、こう続ける。


「私は、殿に想像を絶する苦難の道のりを強いることになるでしょう。

 それを逆臣のあり方と見なされるならば、いつでも我が首お刎ねくださいませ。

 ですが、ここで曹操に屈してしまえば、また過去に逆戻りするだけ……

 悲運に見舞われ、志を果たせなかった孫堅様に孫策様……またしても、私達は時計の針を止めてしまうのでしょうか?

 天の時、地の利、人の和が、今の孫呉には揃っています。天命は、我らが主孫権様に、天下に勇躍する機を与えようとしております。

 その機を潰してしまうのではなく、主君を頂に押し上げる助けとなることこそ、臣下の道と心得ます。

 殿! どうかこの周瑜に、曹操と矛を交え、その喉笛を貫く機会をお与えください!」


 周瑜は、孫権に向けて深々と頭を下げる。

 語るべきことは、全て語り終えたといった様子だ。

 傍らの麗人も、それに続く。


「孫権様……私からも、改めてお願いします。どうか我が君主と盟を結び、開戦の号令を発しくださいませ!」






 

 全員の視線が、孫権に集まる。いよいよ、決断の時が来たのだ。

 孫権は、表情を崩さぬまま沈黙を保っている。

 だが、それは長く続かず……直ぐに瞳を開き、皆に向かって告げる。


「双方の主張……聞かせて貰った。皆、心から孫呉の未来を、真摯に考えていることはよく理解できた。

 降伏、開戦、いずれを選んでも、苦難の道は避けられぬ……

 正直に言おう。この期に及んで、私はどちらが正しいのか、確信することができない」


 皆、孫権を責めることは出来なかった。

 周瑜、張昭……双方の主張は、共にこの場の全員の心を動かすに足るものだった。

 しかし、孫権は間を置かずにこう続ける。



「……だが、私にはただ一つ信じられることがある。

 それは、今ここに集った我が家臣達は、文武共に最上の能力を持っているということだ。

 時計の針を先や後に進めても、これ以上は望むべくも無いだろう。


 私は……“今”の孫呉の力を信じたい。


 御前達ならば、必ずや曹操を討ち破り、この揚州に自由と独立をもたらしてくれると信じよう」



 孫権は、腰の直剣を抜くと、曹操の書状を文机ごと叩き斬った。



「私は、曹操と戦う。戦って、未来を切り拓く」



 孫策の形見でもある剣を掲げ、高らかに開戦を宣言した――


 

「皆の者――私に力を貸してくれ!」




 張昭は、そっと目を閉じる。

 決は下った。これ以上……自分が言うことは何も無い。

 この時この瞬間から、降伏の二文字は張昭から消える。




「はっ!! お任せを、我らが王よ!!」


 周瑜を初めとして……抗戦派も、降伏派も、全員がその場に平伏する。落涙している者すらいる。

 誰一人、異を唱えようとはしない。

 主君が戦いを決めた。ならば、臣下たる自分達は、その決定において死力を尽くそう。

 必ずや勝利をもぎ取り、主君の信頼に応えよう。


 孫家への絶対の忠誠……その点において、彼らの心は一つだった。



 


 江南に、戦の風が吹く。

 


 歴史の舳先は、大戦に向かって舵を切った――








 



 ……




 …………


 


 ぎっ。




 うぎっ。




 うぎゅっ、うっげひひひ、ぎゅひひひひひ、ひひょひょひょひょひょ、びひひゃっ!




 

 皆が平伏し、様々な感情で胸を打ち震わせている中、“彼”は一人、嘲弄とも歓喜とも取れる笑い声を、心の中で上げていた。




 あ~あ……決めちゃった……決めちゃったねぇ御殿様ァ!!



 いやいやいやいやあんたは何も悪くない!


 あんたは正しい! その選択は間違っちゃいなぁい!


 まァ後世の人間はあんたを非難したり、あれこれ脚色したりするんだろうが、そんなもん気にすんな!!


 過去が腐った死体でしかねぇように、未来なんざ、まだ混ざり合ってもねぇくっせぇ精子と卵子でしかねぇんだ!

 どっちも糞滓クソカスであることにゃ変わりねぇ!!


 一番尊ばれるべきは今のあんたの決断、それは誰にも侵せない!!


 後に生まれた奴らが何を抜かそうが、奴らはここにいない!

 

 つまりは不戦敗、歴史の敗者なんだよ!!

 奴らが抜かす考証なんてのは、所詮負け犬の遠吠え以外の何者でもねぇのさ!!



 あ~あ、あんたも可哀想な人だよ! 象の糞みたいに重い期待背負わされて、それでも決断を下さなきゃならねーなんてよぉ!!


 ここにいる忠義面した阿呆どもの一体何人が、本当のあんたを理解しているって言うんだ!!


 あいつらが信じているのは、あんたの後ろにいる親父そんけん兄貴そんさくの亡霊だろうが!


 バッカバカしい! とっくに墓の下にいる惨めな負け犬をこれみよがしに崇めやがって!!

 土に埋めたくそに群がる蛆蝿うじばえどもが!!


 ああ、俺は知っているぜぇ!! そのことを、あんたがどれだけ重荷に感じていたが!!

 あいつらが下手打ってくたばったせいで、あんたがどれだけ苦しむことになったか!!


 あんたに死人の面影を押し付けた、こいつらも同罪だよ!!

 これからこの国がどぉーなろうが、こいつらに騒ぎ立てる資格はねぇ!!


 ああでもお優しいあんたは、こんな屑どもにも情けをかけてやるんだろうなー。

 しょぉーがねぇなぁ、それがあんたの美点なんだからよぉ。


 だぁかぁらぁ、安心しなぁ。断言してやるよぉ、“あんたは勝てる”!!


 何も心配するこたぁねぇのさ、勝利は既に確定しているのさ。

 あんたはその報を、玉座で転寝うたたねしながら待っていりゃあいい……



 げはっ、げほっ! 


 ぎへっ、ぎげげげげげげげげげ、げびぶぶぶじぇぶぶぶぶ、げひひひひ、いげげげへへへへへへぇっ!! 



 今……一滴の雫が垂らされた。


 濃縮された悪意の雫は、長江を黒く、何処までも黒く染め上げるだろう。



 さぁ、地獄の蓋は開かれた。


 極上の喜劇を始めよう。



 ああ、五臓六腑から歓喜が湧き出てたまらない!


 今ここで、忠義面をして平伏している奴輩! 


 奴らの掲げる忠誠! 信念! 正義!!


 余さず纏めて綺麗さっぱり冒涜おかしてやれると思うと!!



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