第二十三章 孫劉同盟(三)
渾元歴208年、
十月某日、柴桑。
この日は、中華の後の歴史を決定づける、運命の分岐点であった。
孫権の居室は、暗殺未遂事件以降、前にも増して厳重な警備が敷かれている。
周瑜の許可を得た者以外は、謁見どころか傍に近づくことさえ許されなかった。
「そろそろ、交代の時間だな」
「ああ……」
この二人の衞士は夜を徹して警備に当たっていた。
彼らは腰に刀を携えており、有事の際は城内での抜刀が許されている。
間もなく交代の時間であるが、職責に忠実な彼らは、気を抜くことなどなかった。
だが、そんな彼らであっても……前からやって来る人物には、心を奪われずにはいられなかった。
美しい人だった。女官装束を着、蝶の髪留めで、長い黒髪を両側で縛っている。
見ない顔である。新しく入った女官だろうか……
「止まれ、姓名と所属は?」
衞兵二人の前で立ち止まると、名を名乗る。
「胡蝶、と申します。城には、本日付けで配属されましたので、ご存知ないかと思われますが……」
「然様か。しかし胡蝶殿、ここから先は、大都督殿の許可した者以外は、立ち入り禁止となっている」
「存じております。ただ、この書状を孫権様に届けていただきたいのです」
胡蝶は、一枚の書状を彼らに渡した。
「……これはどちらから?」
「気になるのでしたら、どうぞ中を改めてくださいませ。見られて困るようなものではありませんから」
「は……」
元より、孫権の下に届けられる贈物は全て、中身を改められることになっていた。
万が一にも、書状に毒が混入されている可能性があるからだ。
胡蝶に勧められるがまま、封を破り目を通す二人。
その顔が、見る見る内に青ざめていく……
「き、貴様っ!!」
即座に抜剣して、胡蝶を拘束しようとする二人。
しかし、一瞬目を離した隙に、胡蝶の姿は跡形もなく消えていた。
まるで、彼らが見た白昼夢であるかのように。
だが、これが現実である証に、胡蝶が差し出した書状が、床に落ちている。
その差出人は“曹孟徳”となっていた。
(さすがに、あそこから先に行くのは不可能ですね……まぁいいでしょう。
さて、呉の御殿様がどう動かれるか……任務で潜入していたとはいえ、この呉の地には愛着があります。
願わくば、賢明な判断を下していただきたいものですね……)
それから、誰にも見咎められることなく、胡蝶は城から姿を消した。
城の会議場には、呉の文武百官、そのほぼ全てが結集しつつあった。
会議が始まる前から、城の周囲は異様な緊張感に包まれていた。
当然であろう。降伏か、徹底抗戦か。今日の孫権の決断で、呉の未来が決せられるのだ。
皆、極度に緊張した面持ちで議場に足を運んでいる。
僅かな例外を除けば……
「ふあぁぁ……あ」
「こら、陸遜! 弛み過ぎにも程があるぞ!!
今日は孫呉の未来を決める大事な会合……戦に臨むと同等の心持ちでいろ!」
欠伸をする隣の男を怒鳴り付ける呂蒙。
彼の名は陸遜、字は伯言。
ぼさぼさにした黄色い髪に、赤い軍装を着た青年で、不老年齢は二十歳。
その瞼は半分閉じられており、今にも完全に閉じてしまいそうだ。
頭を不安定に左右に揺らして、見ていて危なっかしい。
朝が早いから……というわけでもなく、彼は四六時中この調子である。
「よいか! 今日は我らが主、周瑜様が全てを懸けて臨まれる日!
我ら臣下一同、片時も気を緩めてはならぬ!
我らの落ち度で、周瑜様の足を引っ張るなど、絶対に許されんのだ!!」
呂蒙の怒声を、陸遜は見るからに興味なさそうな顔で聞き流している。
この二人は、少年時代に共に周瑜に取り立てられ、今日に至るまでずっと彼に仕えて来た。
呂蒙の周瑜へ寄せる忠誠心は並大抵のものではない。それゆえに、呂蒙は陸遜の不真面目な態度が許せないのだ。
また、陸遜が、自分以上を才能を持っていることも、呂蒙の苛立ちを募らせる。
しかし、この二人の友情は決裂することなく、今も昔と同じやり取りを続けている。
「阿蒙は変わらないね……うるさくしないと息が詰まっちゃうのかな」
「誰のせいだと思っている!! 後、阿蒙と呼ぶな!!」
「えー、阿蒙は阿蒙だよ。どんなに偉くなってもね」
「お前は……」
“呉下の阿蒙に非ず”と称された孫軍の俊英も、幼なじみの彼にかかれば形無しである。
「でもさ、阿蒙は実際凄いや。将来はきっと、周瑜様の後を継いで、孫呉を引っ張っていく男になるんだろうね」
「わ、私が!?」
予期せぬ賞賛に狼狽する呂蒙。
確かに、いつかは周瑜に追い付こうと努力を重ねているが、目指す先があまりに遠すぎて、自分が彼の代わりになるとは、意識したことすらなかった。
「そんな、自分などは……」
「できるよ、阿蒙ならきっと。俺、阿蒙がどれだけ頑張っているか知っている。だから、信じられるんだ」
「陸遜……」
友の言葉に、胸が熱くなる。
「だから、さぁ……
呂蒙が偉くなったら、俺の分まで仕事して、俺が楽できるようにしてね」
「結局それかぁ!!」
「それと、眼鏡似合ってないよ。阿蒙はもっと馬鹿っぽい格好でないと」
「五月蝿ぁい! よくも、人が気にしていることを!! ああそうだよ、分かっているよ!
いくら文官の格好をしたところで、俺はやんちゃで無鉄砲な阿蒙のまんまだってな!!」
文武双方に携わる男として、少しでも知的に振る舞おうと心掛けているが、やはり自分には、こんな文官らしい姿は似合わないのではないかと、日々自虐していた。
「よーし、決めたぞ。俺がもっと上の地位についたら、お前をさんざこき使ってやる!
居眠りする暇など与えるものか!」
「……むにゃむにゃ……」
「寝るな!!」
呂蒙は、陸遜の耳元で叫ぶ。
「ふあぁ……ねぇ阿蒙、ここにいる皆、何だか怖がっているみたいだねぇ」
「当然だ。平然としていられるお前が特別なんだ」
原因は分かっている。
今朝、孫権の城に届けられたという、曹操からの書状。
書面は明かされていないが、容易に察することができる。
曹操からの書状の存在が、ただでさえ張り詰めたこの日の空気を、更に沈鬱なものへと変えていた。
(それにしても……殿の下までは辿り着かなかったとはいえ、周瑜様の敷いた警備を抜けて城に忍び込むとは……曹操軍にはそれほどの手練がいるのか……)
噂によれば、侵入者は女だったらしい。
あえてこのような形で、書状を送り届けたのは、曹操軍の実力を誇示するためか。
自分達は、決して数だけの集団ではない。その気になれば、本拠地に忍び込むのも容易だと……
勝てるのか? そんな奴らに……
それ以前に、殿が降伏の決断を下せば、戦うことすら無くなるわけだが……
この時期を見計らったように届けられた曹操の書状。
それは、降伏派にとって追い風となるやもしれない。
「……ねぇ、阿蒙」
「何だ?」
「周瑜様が、数日前何をしてたか、知らない?」
あまりに唐突な陸遜の質問。その意図が読めない。
「い、いや、どこかに出掛けておられていたようだが……
周瑜様は多数の案件を抱え、多忙を極める身。
どこへ行かれても不思議はなかろう。それを、いちいち自分達に報告する労も惜しいのだ」
お前と違ってな、と心の中で付け加える。
「……そっか。阿蒙には言えないことってわけだ」
「? それはどういう……」
いつにない、陸遜の真摯な顔が垣間見えた直後……それは跡形も無く吹き飛んだ。
「あー、瑾ちゃんだー。やっほー」
長い黒髪で、目を覆い隠した男の姿を目に止め、手を振る陸遜。
この二人は、不真面目同士というあまり好ましくない共通点ゆえ、意気投合していた。
しかし、何の反応も返って来ない。
やたら騒がしい彼らしくなく、黙って座っている。
「あれ、瑾ちゃん、どうしたのかな?」
「ほら見ろ。あの方ですら、この会合がいかに厳粛な場であるか理解しておられるのだ。お前も静かにしていろ。ただし寝るな」
「ふあぁい……」
「! どうやら、そろそろ始まるらしいぞ」
皆のざわめきが静まる。
上座に、自分達の主君が現れたのだ。
耳元で切り揃えた金髪に、冷然とした瞳。青い線の入った白装束。
久方ぶりに姿を見せた孫権は、緊張や気負いなど微塵も感じられない。
いかなる時も沈着冷静、かつ公正なる君主、孫仲謀のままだった。
その胸の内にあるのは決意か、それとも諦念か。外からは窺い知れない。
その隣には、彼の妹、孫尚香が控えている。
弓腰姫、お転婆姫などと仇名される彼女も、この場においては非の打ちどころのない貴婦人を演じていた。
最も、彼女はこの席において一切の口出しをする気は無い。兄の決定に従うと、最初から決めている。
家臣団は、孫権から見て右側に抗戦派、左には降伏派と分かれて座っている。
やはり、文官の大半は降伏派に組しており、逆に武官の大半は抗戦派にいる。
しかし、これを持って両陣営を互角と見なすことはできない。
何故なら武官の多くには発言力などなく、口で論を戦わす軍議で力を持つのは文官達の方だ。
更に、全ての武官が開戦を望んでいるか、といえばそうでもない。
武官の中にも、曹操を恐れて降伏を望む勢力も確かに存在する。
しかし、彼らはそれを口に出すことはない。
理由は簡単で、もし孫権が開戦を選べば、武官でありながら降伏を選んだ軟弱者と見なされ、その後の立場を失ってしまう。
だが、孫権が降伏を選べば、彼らは即座に降伏派に鞍替えるだろう。
君命こそは何においても優先すべき。その正義を、臣下の誰が否定できようか。
従って、抗戦派は頭数だけいても、実際には降伏派に圧倒されている状況にあった。
いや、それも正確ではない。降伏派の優勢が揺るがないのは、数の差などではなく、たった一人の男の弁舌によるものだ。
張昭、字は子布。
孫呉の最高顧問である彼は、孫呉の地を、民を、そして主君を守るため。
無双の論客となりて、ただ一人であらゆる障害を薙ぎ払おうとしている。
(張昭様……貴方とは、いつか決着をつけねばならぬと思っておりました)
それは、孫策が存命の頃から抱いていた、予感。
揚州の平和という大局に立って孫家に仕える張昭と、個人的な執着によって孫家に仕える自分とは、目指すものが根本から異なる。
張昭は現状を維持することを望み、自分は上を目指すことを望んでいた。
その一点で、対決は不可避だった。
孫策が生きていれば、もっと早く決着をつける必要に迫られていただろう。
(張昭様、感謝いたします。貴方が国を支えてくれたお陰で、孫呉はここまで大きくなれた。
私も、後の憂いなく、軍備を増強することができた。
全て貴方のお陰だ。貴方は国を富まし、私は兵を強くした。
孫呉の富国強兵の理想は、貴方なしでは成り立たなかった。
もしも貴方がいなければ、揚州の統一は更に遅れ、曹操の侵攻に対し、成す術なく降伏するしかなかったでしょう。
私がこうして抗戦派として貴方と対等に交渉できるのも、貴方のお陰だ。
貴方は頑張り過ぎたのですよ、張昭様。
貴方の水も漏らさぬ政策が、孫呉を富ませ、結果的に独立の気運を高めることになった。
貴方は、こうなることを承知だったのでしょうね。ですが、それで手を抜ける貴方ではない。
私は、貴方のその生真面目な性格を知っている。知っていて、利用した。
天下に挑むに相応しい国を、作り上げるために……!)
孫策の死から立ち直った時から、周瑜は妄執の虜と化した。
労を惜しまず、孫呉の隆盛に尽くしたのも、全て曹操を打倒し、天下を掴む戦いのため。
その意志は、今に至るまで全くぶれていない。
黄祖のごとき小物、倒そうと思えばいつでも倒せた。
しかし、あの頃はまだ曹操に対抗しうる国力を得ておらず、下手に領土を広げるのは、曹操に目を付けられる危険をはらんでいた。
黄祖を斬り、荊州と全面戦争になれば、曹操は北の袁家との戦を捨て置いてでも、介入して来ただろう。
そうなれば、揚州は呆気なく攻め落とされるに違いない。
ゆえに、周瑜は黄祖を生かし、揚州に留まったままで軍備の増強に努めた。
黄祖という“敵”の存在により、若き呉の戦士に戦の経験を積ませることができた。
現在の孫軍は、質ならば曹操軍にひけを取らぬと自負している。
その過程で、凌統の父を始め、多くの犠牲者が出たことは知っている。
彼らは、間接的に自分が殺したようなものだ。
しかし、後悔はしていない。
人の死に流す涙は、孫策の死の際に流し尽くし、涸れ果ててしまったのだから。
今の自分は、ヒトの形をした一個の妄執。
そのことを自覚した今、一切の躊躇いはない。
執念の炎で正論を焼き払い、己が野望のため天下を踏破するのだ。
(思えば……伯符が死んで幾年月。およそ敵らしい敵などいなかった。
敵も味方も、私の執着の前に、無惨に屍を晒すしかなかった。
ですが、張昭様。貴方は違う。貴方は、この周公瑾の野望を阻むに足る壁だ。
……乗り越えてみせましょう。今日に至るまで、孫呉を支えた敬意と感謝を込めて……
張昭様、私は貴方を踏み越えて、天下へ征く!)
真っ二つに別れた孫呉の中で、中立の席にいるのはごく僅か。
程普、韓当、黄蓋、朱治の四将軍は、不埒者が乱入した事態に備え、孫権の周りを取り囲んでいる。
会議場の外も、厳重な警備体制が敷かれていた。
今朝、曹操からの使者が城内に侵入する事件があったのだ。当然の措置と言えよう。
しかし、彼ら四将軍は、議論に発言する権利を持たない。する気もない。
彼らはただ、体を張って孫権を守り、彼の決断に従うのみだった。
降伏であれ、抗戦であれ、この英明な君主ならば、必ずや孫呉のためになる決断を下すと信じて。
周瑜の隣には魯粛がいる。
彼が今まで不在だったことについては、様々な憶測が飛んでいる。
その憶測の中には、真実を射抜くものもあった。
太史慈と凌統は、この場にいない。
万が一にも、曹操軍が先制攻撃を仕掛けて来た場合に備えて、州境で迎撃体制を整えている。
最も……それは口実。
真の狙いは、今日の会合で開戦が決まった時のため、水軍を臨戦態勢にしておくことだ。
国防に関する話には、張昭とて口出しできない。
長江では、いつ開戦の号令が発せられても良いよう、大艦隊が発進の時を待っていた。
だが、それも今日の結果次第。
孫権が降伏を決断すれば、周瑜が心血を注いで作り上げた艦隊は、一度も矛を交えずして曹操に奪い取られてしまうだろう。
「孫権様」
孫権の登場後、最初に口を開いたのは張昭だった。
「会議を始める前に……まずは、今朝曹操から届けられたという書状、その文面を明らかにしていただきたい」
張昭の要求に対し、場のざわめきが大きくなる。
曹操よりの書状、その存在が彼らの関心の多くを占めていた。
孫権はゆっくりと頷く。
「無論だ。元より、皆に知らせるつもりでいた」
彼は書状を取り出すと、自ら読み上げる。
親愛なる孫 仲謀様。
揚州は実に素晴らしい土地だ。長江という水の恵み、中原から離れているがゆえに生まれた独自の文化。
何より、そこに生きる人々の活力と情熱には、目を見張るものがある。
彼らをまとめ上げ、揚州を隆盛に導いた孫家の偉業は、いくら賞賛しても足りぬ。
先代、先々代の急死にも負けず、より強く、より豪壮に生まれ変わっていく様は、時を越えて受け継がれる絆の力を感じたものよ。
余は常々、国とは民が作り出すものと思うておる。
住まう土地を心から愛する民と、彼らの信頼を預かり、それに応える君主がいれば、それは一つの国なのだ。
余は、この国を愛している。
余もまた、この国の繁栄に力を貸したい。
揚州の発展は中華の発展、共に手を取り合い、よりよい未来を切り開こうではないか……
孫権の朗読を聞きながら、一同が思うことは様々だ。
曹操は意外に話の分かる奴だ。
いや、奴は我らを舐めているのだ。ここで奴の甘言に乗っては、武門の恥よ!
騙されるな! これは我らを油断させるための罠だ!
しかし……想像とはまるで異なる、曹操の鷹揚な物言いに、皆の心が緩みかけたのは確かだ。
孫権が、書状を最後まで読み終わるまでは。
そなたらが知っての通り、余は現在、揚州の目と鼻の先……江陵に来ておる。
もしもそなたらが、余を受け入れてくれるならば、余自ら揚州に赴き、そなたと友愛の契りを交わそう。
そして、揚州の繁栄のため、共に力を尽くそうではないか。
余の言い分に、自尊心を傷つけられた者もいよう。
その気持ちは、余にはよく分かる。
余は、そなたらのそういった気骨や誇りにも、敬意を払っておるからの。
ゆえに、もしもそなたらが、余と鉾を交えようとするならば……余はその決断を尊重したいと思う。
当方の総兵力は、五十万千二百七。
全力を持って、そなたらの武に、敬意を示そう。
曹 孟徳
皆、しばし絶句していた。
孫呉への愛と敬いに満ちた文面は、ただの一行を持って、この上ない脅迫文と化した。
総兵力、五十万。
これまでも、曹操の送り込んで来る軍勢については、多くの予測がされて来た。
その中には、五十万という数字もあった。
だが、所詮予測は予測。多くの者は、その数字を現実として受け入れていなかった。
だから、こうして曹操自身から現実的な数字を突き付けられたことによる衝撃は、計り知れなかった。
程度の差はあれ……誰の心にも次の言葉が浮かんだ。
勝てない。
勝てるわけがない。
最初から曹操に怯えていた文官は勿論、反曹操の気炎を上げていた武官達もまた士気を打ち砕かれていた。
武に精通した彼らだからこそ、分かるのだ。
五十万、これは、どうあがいてもひっくり返しようがない、絶望的な差だということが。
友愛などとは程遠い。
それは、降伏という甘い選択に誘う罠。
この書状は、ただの一行で孫呉を絶望に突き落とす、曹操の放つ最後通牒だった。
(やぁってくれたのう、張昭はん……!)
魯粛は苦々しい顔付きをしている。
彼にとって、書状の内容は驚くに値しない、想定の範囲内のことだ。
だが、この降伏か抗戦かを決める土壇場で読まれたのはまずかった。
皆が曹操五十万に恐れをなし、降伏という安楽な道に逃げる衝動を抑え切れずにいる。
孫権は、臣下の意を汲み取り、彼らの代表として政を行う王だ。
このまま家臣団の心情が降伏に流れれば、それは孫権の決定に大きな影響を及ぼすだろう。
曹操は、ここまで計算した上で、この時期に降伏を促す書状を送り届けた。
張昭は、曹操ならば、こちらの戦意をくじくのに最も効果的な手段を取ると考え、それを利用した。
たった一つの事実は、時に百万言に勝る。
誰よりも言葉を知る張昭だからこそ、その本質をよく理解していた。
(しかも、なお悪いことに……)
魯粛は、傍らの周瑜に目をやる。五十万という数字は、以前、周瑜が予測したものと全く同じであった。
だからこそ、圧倒的な信憑性を持って家臣団の心に突き刺さったのだ。
周瑜の分析力には改めて感心するが、今回は、その聡明さがこちらの首を絞めている。
五十万はこちらを脅すための曹操の虚言。曹操は、我々は即座に恐れをなし、降伏すると決め付けている。
実際には、それを見越してもっと少ない兵力のはず……
そんな逃げ道も、封じられてしまった。今更前言撤回というわけにもいくまい。
だとすれば、残された手は……
「……この文面の信憑性については、調査と議論の必要があるでしょう。
ですが、我々には時間がありません。
真実がどうあれ、今が切羽詰まった状況であることは、皆様理解されていると思います。
目前に迫った曹操軍に対し、私達はすぐにでも決断を下さなければなりません」
張昭は、孫権を正面から見据えて言い放つ。
「孫権様。この張昭の意志は、以前と些かも変わっておりません。
戦わずして降伏することこそ、孫家の血脈を永らえさせ、孫呉の民の恒久的な安寧に繋がる道と信じております。
ですが、私には主君の決定を捩曲げる意志まではありません。
貴方がいかな決断を下されようと、私はそれに従うことを、誓いましょう」
降伏派の長である以前に、彼は孫仲謀の臣であった。
その線を、一歩たりとも越えるつもりはない。
「ですが、孫権様。大変な僭越であることは理解しております。
しかしどうか、これだけは約束してくださいませ。
この会合の間に、必ず決断を下すことを! 孫呉の危機的な状況を鑑み、どうか……!」
張昭が、孫権に対しここまで強く嘆願するのは珍しいことであった。
孫権は、静かに口を開く。
「……思えば、私の決断が遅れてしまったがゆえに、お前達には多大な心労をかけてしまったようだな。
まずはそれを詫びよう、済まなかった」
家臣団に対し、頭を下げる孫権。
「最も、諸君が望んでいるのは、謝罪ではなく他にあろう。張昭、お前の願い、聞き届けよう。
私は、この会議の間に決断を下すことをここに誓う。元より、そのつもりであった」
「ご厚情、深く感謝いたします。孫権様」
深々と頭を下げる張昭。
(あくまで殿の決断であることを強調し、どないな結果になっても文句は言わせん腹か。
ま、それはわいらにも有利に働くことやけど、な)
「周瑜様」
張昭は、今度は周瑜を見つめて言う。
「貴方も、約束していただけますね?
いかな選択であろうと、殿の決断を、孫呉の決定として受け入れることを」
「無論です。君命に逆らう意志は毛頭ありません。
仮にその決断が、張昭様の望み通りであったとしても、呉の臣として、和平がために力を尽くすことを誓います」
とても信じられない……この男の開戦に賭ける執念は、例え殿が降伏を望んだとて、覆るとは思えない。
それでも、こうして言質を取っておくことには大きな意味があるだろう。
「では、本題に入りましょう」
開会を告げる張昭の一言に、抗戦派の者達は一斉に身構える。
彼の言葉は、いかに堅い城壁とて打ち砕く、破城鎚のごとき破壊力を持ち、皆に恐れられていた。
先日も、正論の鉈で抗戦派の気勢を散々に刈り取った。
周瑜が一人奮戦したからこそ、何とか食い止め切れたのだ。だが、既にこちらの防衛線はズタズタだ。
張昭が……とどめを刺しに来る……!
「私は、以前より曹操軍との和平を主張して参りました。
ですが、改めて確認しておきたいのは……
降伏とは、曹操が書状で語るように楽な道ではない、ということです」
(? 降伏派のあんさんが何を言うてん……!そうか!)
魯粛は唇を噛み締める。
やってくれる……あの方は、こちらの最後の望みさえ、容赦なく断ち切るつもりらしい。
「この揚州の地に、全く習俗の異なる中原の人間が入れば、軋轢が生まれるのは確かでしょう。
それは、新たな争乱の火種になりうるかもしれません。
降伏もまた、苦難の道程であることに変わりないのです。
いえ、国を動かすという大事に、楽な道などありえません。
一部の皆様が危惧されておられるように、降伏への甘い誘いは、曹操の仕掛けた罠かもしれません。
ですが、私は信じております。殿の器を、家臣の皆様の手腕を、そして揚州の民の底力を……
一度も鉾を交えることなく、曹操に降ることを恥辱と感じられる方もおられるでしょう。
ですが、ですがどうか、その屈辱に耐え、私に力を貸してくださいませ。
さすれば、曹操が交渉の席でいかな謀を仕掛けて来ようと、我らが殿と、民を守ることができるはずです。
降伏も開戦も、いずれも茨の道には違いありません。
私は、少しでも希望の残る道を選びます。全ては、孫呉の未来がために……」
皆が息を飲み……やがて、あちこちから感嘆の吐息が漏れる。
その中には、張昭の対面にいる抗戦派の人間も混ざっていた。
魯粛は、それを責めようとは思わない。張昭もまた揚州の人間なれば、揚州人の気質というものを、よく理解している。
武官の中には、曹操の提示した甘い条件に縋り付くことを、恥と感じる者も少なからずいた。
江東の民は、ただ無為に生かされていることを良しとしない、反骨心旺盛な人々なのである。
後退よりも挑戦を、恵まれた平穏よりも、困難から掴み取った勝利を尊ぶ。
それが揚州人の気風であり、先代・孫策、大殿・孫堅が、体現してきたことであった。
そんな彼らの、理屈では説明できない熱情すらも、張昭は見逃さなかった。
あえて和平の困難さを明かし、降伏を、逃げるのではなく、“挑む道”にすり替えることで、彼らの賛同を得ようとしている。
彼は、抗戦派の全てを降伏派に取り込んだ上での、完全勝利を狙っている。
そしてそれは、半ば達成されつつある……
(わいはこの辺を突くつもりでおったんやけどな……
どうやら、わいなんぞの出る幕やなさそうや。後は任せたで、周瑜はん!)
最初からこの会合は、周瑜と張昭、二人の重鎮の決着をつけるための場なのだ。