第二十三章 孫劉同盟(二)
長坂を越えた曹操軍は、劉備の追撃を一時取り止め、江陵へと向かう。
そこには、曹操に寝返った荊州軍の者達が、揚州攻撃用の艦艇を揃えて待っているはずだった。
ここに、江陵を拠点とする揚州侵攻作戦が発動しようとしていた。
「お待ちしておりました、丞相閣下」
一年前から江陵基地に出向し、現地の兵を取り纏めていた程旻が、一同を代表して一礼する。
彼以外の兵も、皆一様に頭を下げる。統率が行き届いている証だ。
「おう、程旻。久しぶりよな。李通、そなたも」
「は、丞相閣下も、ご健勝で何よりです」
李通は背筋を伸ばし、敬愛する主に、態度で忠誠を示す。
「早速だが、これだけは聞いておこう。孫呉は今、どうなっておる?」
最初に確かめておくべきはそれだった。
抗戦か、降伏か。孫呉の出方次第で、これからの方針が決まるのだ。
「諜報班からの報告によれば、降伏が大勢を占めているとのこと。
しかし、周瑜を初めとする抗戦派も、粘り強く抵抗しており、何より、主君である孫権は未だその意志を明らかにしておりません」
「やはり、荊州のようにすんなりは行かぬか」
揚州の武官勢のしぶとさは、曹操も聞き及んでいる。
そして、郭嘉が死の直前まで気にかけていた、周瑜という男……彼の存在がある限り、孫呉が安楽な降伏を選ぶとは思えなかった。
「周瑜の動きはどうなっている?」
「さすがに諜報対策は万全です。徐晃も苦闘しているようですね。
ただ、抗戦派の重臣、魯肅が、江夏へ向かったとの報が入っております」
「劉備と同盟を組むつもりか。まずは妥当な一手ぞ」
「彼らの軍勢が加わったとて、戦力差は明らか。降伏派が、考えを改めるとは思いませぬが……」
劉備の軍は、長坂の追撃戦でほぼ壊滅している。
関羽、張飛、趙雲の三将、加えて劉備の人望は魅力的ではあるが、さりとてこの状況を覆すには至るまい。
常識的に考えればそうだ。しかし、今の劉備は、奇跡をも味方につける手段を手にしている。
合理的な思考にのみ委ねていては、足元を掬われよう。
「開戦にせよ、単なる脅しに留めるにせよ、そなたが作り上げた水軍、無駄にならずには済みそうだの」
「使わずに済めば、それが最善なのですがね」
程旻はまだ、無血による揚州占領にこだわっているようだ。
そのことに、不安は感じない。いざ戦となれば、誰よりも冷徹に、容赦なく任務を遂行する男だと、知っているからだ。
「では、程旻、見せて貰おうか。そなたが指揮を取って組み上げた、荊州曹操水軍をな」
「は……」
「ほう……」
長江に並ぶ艦隊を目の当たりにして、曹操は感嘆の吐息を漏らす。
紛れも無く、この時代の造船技術の粋を結集した艦隊だ。
「見事なものだ。これを組み上げたのは、蔡瑁なる男と聞くが」
「はい、お会いになられますか?」
「無論ぞ」
やがて、曹操の前に、髑髏に似た顔をした、痩せぎすな男が引きつられて来た。
禿頭に黒い布を巻き、右足は失われ、円錐形の義足を付けている。
「こ、これはこれは丞相閣下直々の御呼び立てとは、恐悦至極に存じます」
蔡瑁は、恭しく一礼する。媚び済ました態度であるが、極度に緊張しているわけでもない。
曹操を前にしても、自分を失わない胆力は中々のものだ。
自分のことは、単なる金づる以上に思っていまい。
水賊上がりだそうだが、利に聡く、情勢を見極め、強者にすり寄る生き方を知っている。
利益を保障し、多少の自尊心を満足させてやれば、有用な駒となろう。
「此度は、俺達みてぇな半端者を拾って頂いて、本当ありがとうごぜえやす」
「ふ、良い買い物であったと思うておるぞ。蔡瑁と申したな。
よくぞ余の期待に応え、これほどのものを作り上げた。いや、これは余の期待以上だ」
「ありがとうごぜえやす。丞相閣下にそう言って頂ければ、あたしら荊州水軍一同、骨を折った甲斐がありやした」
「そなたらの技術は、真に得難き宝ぞ」
「へ、へへ……その宝も、使う場が無ければただの持ち腐れでさ。
丞相閣下が気前よく物資を下さらなければ、あたしら一同、せせこましい小船乗りで終わっていやしたぜ」
蔡瑁は、自分達の船を見上げて、両手を広げる
「こんな贅沢な船で、戦争やらかせるやんて、水賊冥利に尽きるってもんでさぁ!」
「蔡瑁よ。そなたらは、長江で生まれ育った者達よ。水の戦には、誰よりも練達していよう」
「ええ、あたしらにとって、この河は庭みたいなもんでさ」
「ならば、そなたらには余の兵を調練して貰いたい。いいや、余自身も、そなたから水の戦の何たるかを学びたいのだ」
曹操の琥珀色の眼は、好奇心に輝いていた。
「ひいっ、丞相閣下にあたしらなんぞが教えるなんて、恐れ多いこと……
しかし、それが命令ならば是非もありませんとも。閣下の軍を、立派な水軍にしてご覧にいれましょう!!」
蔡瑁は、肋骨の浮いた胸を叩いて請け負った。
「まずは、そなたらの船の機能を教えて貰おうか」
「お任せを! どうぞこちらに!」
「………………」
李通は、蔡瑁に対して朗らかに接する曹操を、無言で見つめていた。
「気に入らぬか。殿が蔡瑁に気を許しておられるのが」
「はい。あのような賊徒、本来は、我らが閣下と口を利くのも許されぬはず。それを……」
程旻の問いに、李通はあくまで正直に答える。
「そうか。よもや、殿があの男に出し抜かれる、とは思っておるまい?」
「当然です。仮にそうなっても……あの男を斬る理由ができます」
李通は涼しげにそう答えた。
「結局、ただ気に喰わないという理由に落ち着くわけか」
「己の未熟を恥じるばかりです」
しかし程旻は知っている。
この男はとかく正直な男だが、同じぐらい自制も働く。
蔡瑁への嫌悪以上に、曹操への忠誠心の方が遥かに大きいからだ。
「李通。あれが曹操様のやり方よ。
相手と同じ目線に立つことで、その者を自然体に置き、器を見極めようとしておられる。
見下すことも、さりとて過度に敬うこともなく、な。
今頃は、最も有用な使い方を見出だしているであろう」
そう……程旻は知っている。
あそこで子供のように瞳を輝かせ、船を見上げている曹操の内には……実は何も無いことを。
あるのはただ、目的遂行のための合理的思考のみ。
感情のように見えるものは、全て見せ掛けだけの道具に過ぎないのだ。
そう……自分たちに向けてくる、感情も信頼も全て――
魯肅は劉備と密かに会見した後、同盟の使者、諸葛孔明を伴って呉へと帰還した。
揚州に戻った魯肅がまず脚を運んだのは、周瑜の邸宅だった。
時刻は既に深夜であったが、周瑜は生憎不在で、周夫人・小喬が彼らを出迎えた。
「申し訳ありません、魯肅様。主人はもうじき戻ると思いますので」
「いえいえ、お構いなく。今、一番大事な時期やっちゅうのは承知しておりますからに」
周瑜の多忙を思えば、今日一日戻ってこなくてもおかしくない。
魯肅と諸葛亮に、茶と菓子を振る舞う小喬。
髪を両側で束ね、桜色の着物を着た、かわいらしい顔立ちの女性である。
「そちらの方は?」
「ああ、諸葛瑾の弟さんの諸葛孔明はんや。今回の出張の目的にはな、この人を連れて来ることも含まれてん」
「……まぁ、“あの”瑾様の……」
その間が気になったが、兄が周囲からどう思われているかを思えば、当然の反応であろう。
「初めまして、奥様。諸葛亮、字は孔明と申します」
「初めまして、周瑜の妻の小喬と申します。長旅お疲れ様でした。遠慮なく寛いでくださいね」
そう言われて、ついいつものようにだらけたくなるが、自制する。あの兄と同類と思われては敵わない。
「大変頭のええお方でな。今日は、ちょい知恵を貸して貰おう思うて、呉に来てもろうたんや」
「そうでしたか……あら……?」
外から馬の蹄の音が聞こえて来る。
「失礼します」と言って玄関に向かった小喬は、やがて夫を伴って戻ってきた。
「初めまして、諸葛孔明様。私は周瑜、字は公瑾と申します。
此の度は、私の都合で揚州まで来て頂き、真にありがとうございます」
深々と頭を下げる周瑜。長く伸びた黒髪に、眉目秀麗な顔立ち。
“美周郎”と称される、噂通りの美しさであるが、同時に、その物腰には一部の隙もなく、戦に臨む武人も思わせた。
(こいつは、本物だわ……)
周瑜に礼を返しつつ、諸葛亮は内心そう呟く。
本物の英雄、本物の天才。
夢のみが膨れ上がった結果、その手段として英雄の道を選んだ劉備とは違う。
最初から、英雄になるに相応しい才を持って生まれ、実に自然に英雄になった人物だ。
彼が今いる地位は、ごまかしでも幸運でもない、その才に比して、当然のように得たものであろう。
ぞっとするほど、真面目な男だ。
真面目というのは、この諸葛孔明にとって、対極に当たる概念だ。
「魯肅、君も御苦労だったな」
「いえいえ、こんなんお安い御用でんがな。張昭様達に突き上げ喰ろうとるあんさんに比べりゃあの」
周瑜は苦笑いを浮かべる。魯肅の言う通り、つい先程まで張昭と激論を交わして来たところだ。
彼の言い分は、徹頭徹尾変わらない。曹操軍には勝てない。
孫呉の民を守るため、孫家の命脈を保つため、曹操に降伏すべし。
誰もが、この当然の理に圧倒されていた。
加えて……曹操の大軍が、ついに揚州の眼と鼻の先にまで現れたことで、降伏派は更に勢いを増すこととなった。
重臣一同は震え上がり、曹操の機嫌を損ねぬよう、一刻も早く降伏すべきと声高に叫ぶ。
武官達は、敵を目前にして白旗を上げれば、孫呉の威信は地に墜ちると声を荒げる。
しかし、優に三十万を超えるであろう曹操軍にどう対処するかについて指摘されると、途端に全員が押し黙った。
彼らもまた、内心曹操軍を恐れているのだ。
苦し紛れに出る意見は、全て意地や誇りといった感情論ばかり……
喋れば喋るほど、彼らは何ら具体的な方策などなく、ただ他の武官に弱みを見せたくない、その一心で抗戦を望んでいることを露呈していくのだった。
その弱みを見逃す張昭ではない。
戦場では無双を誇る武将達は、木の葉を薙ぎ払うように次々と論破されていった。
「そりゃまた……あんま見たくない光景やね」
魯肅の額から冷や汗が流れる。その場に居合わせなかったことを幸運に思う。
「で、どないしたんや? 張昭殿が本気出したら、とっくに降伏に決まってもおかしくなさそうやけど……」
「ああ、だろうな」
周瑜は認めた。張昭の一部の隙もない理……これを覆すのは不可能だ。
こと正論を語らせたら、彼の右に出る者はいない。
「ですが……」
ここで、諸葛亮が口を挟む。
「貴方がたの様子からすると、まだ降伏で固まっているわけではなさそうですね」
周瑜は首を縦に振る。
結論を言えば……この日、結論は出なかった。
周瑜は張昭を論破しきれなかったのだが……降伏に決まらなかったのには理由がある。
最終的な決定権を持つ孫権が、会議に不在だったからだ。
少し前に起こった暗殺未遂事件を理由に、周瑜は孫権を外に出すことを許さなかったのだ。
曹操軍が荊州まで進出した今、危険はより高まるからと……これでは、結論を出しようがない。
「はー、また強引な手を……」
「その通りだ。引き伸ばせるのも今日まで。
明日には、孫権様の立ち会いの下で会議を開き、決断を下すことになるだろう。
殿も、それを望んでおられる」
護衛の責任者の権限を盾に、孫権を外に出さない策も……もう限界だ。
孫権自身が、決断を望んでいるのだから。
それに、今回の議論で大半の武官が、張昭に心を折られてしまった。
誰もが、己の無力と曹操軍の脅威に、意気消沈してしまっている。
明日の最終決議では、絶望的な戦いを強いられることになるだろう。
「だが、今日の論争は我らの勝利だ。あの張昭殿から、明日という時を得ることができたのだから」
周瑜の顔には、狼狽の色はない。これは、己が勝利を確信している男の顔だ。
今までの話を聞く限り、到底抗戦派に勝ち目があるとは思えないのだが……
「魯肅、よくぞ孔明殿を連れて戻って来てくれた。天佑は我らにある」
そう言って、周瑜は自分に意味深な視線を送った。
私……?
この男は、私に何か期待しているのか?
話を聞いていれば、まるで諸葛孔明が間に合ったから、抗戦派が勝つかのような口ぶりだ。
だとしたら、とんだ見込み違いと言わざるを得ないが……
二人は、しばし無言で見つめ合う。
「……あ~~今こういうこと話しとる場合やないって理解しとるけど……すまん、言わせてくれへんか?」
沈黙を破って声を発したのは、魯肅だった。
二人を指差してこう言い放つ。
「あんたら二人とも、美形すぎやねん!!
二人並んどると完全にお耽美の世界で、嫌が応にもわいが脇役で引き立て役なことを思い知らされて、惨めなことこの上ないっちゅーねん!!」
「は?」
何を言い出すのかと思いきや……あまりに頓珍漢な発言に、二の句が告げない。
「そうですよねぇ!!」
意外なところから賛同の声が上がった。小喬である。
「私もさっきから言いたくてうずうずしていました!!
いやぁ、私、公瑾様に並ぶほどの美男子なんてこの世にいないと思って、妻として鼻高々だったんですけど、たった今、その思い上がった鼻を見事にへし折られました!
まさか孔明先生がここまで美男子だったなんて!!
公瑾様!! もっと孔明先生の側に寄ってくださいな!
手を重ねたり、肩に手を回したりしてくれたらなおよしです!!」
妻の言に従い、諸葛亮の側に寄る周瑜。さすがに、手を重ねたりはしなかったが。
絶世の美男子二人が、小喬の視界で並び立つ。
「はううううう!!
ずるい! ずるいぐらいにお似合いじゃないですか!
何かもう妻としての女としての自信なんか粉みじんに砕かれて長江の彼方に流されてしまいましたよ!
悔しい悔しい悔しい!!
でも私の中の乙女は快哉を叫んでいるの、おっしゃーひゃっほー美形最高!!
今こうしている間も、腐りきった脳髄から物語がただ流れて書物にしようする衝動を止められないの!!
ひゃっはー!! 今年の冬は熱いぞオラァーーッ!!」
……何と言うか。最初見た時には、若いのによく出来た夫人だと思ったのだが。
なるほど、これが彼女の素というわけか。
「嗚呼!私の中で天使と悪魔が争っているわ!! 周孔か?それとも孔周か?
公瑾様は鬼畜がお似合いですけどー、根は真面目だから天然系に翻弄されてめちゃくちゃに攻められるのも似合うと思ったりー!」
おい、自分の旦那で何を妄想している。
つか天然系というのは私のことか。私にナニをさせようってんだこの腐女。
「孔明殿」
「は、はい!」
際限なく熱狂している妻をよそに、周瑜は真面目な顔で言う。
「明日の会議のことですが……」
どうやら、小喬のことは無視して話を進めるようだ。
心底安堵する。もしかすると、流れに乗って「やらないか」などと言い出すのではないかと内心怯えていた。
一方、小喬は「あの扇を大事な部分に……」などとほざいている。
あまり、深く掘り下げたくない話だ。
彼女の妄言に耳を塞ぎ、周瑜の言葉にのみ耳を傾ける。
だが、その時……
「やー、俺っちは孔明受けっすね!あの澄ました顔をめちゃくちゃにしてやりたいというか」
“五人目”の声が室内に響いた。
見れば戸口には、黒い朝服に、長い黒髪を持つ男が立っていた。
鼻から上が覆い隠れるほど、前髪を伸ばしている。
彼の姿を目に止めた瞬間……諸葛亮の表情が凍りついた。その顔には、明らかに“怯え”の色が浮かんでいる。
生唾を飲み込み、搾り出すように言葉を発する。
「兄さん……」
諸葛瑾は、口許を綻ばせて、言う。
「久しぶりだね。孔明」