表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国羅将伝  作者: 藍三郎
158/178

第二十三章 孫劉同盟(一)


 渾元暦208年。


 曹操軍の追撃から、辛くも逃げ延びた劉備一行は、漢水を渡り、江夏こうかに向かう。

 その途上で、親劉備派である劉埼率いる軍勢と合流し、劉備は纏まった兵力を取り戻すことが出来た。


「ご無事で何よりです! 劉備様!」


 手を合わせて劉備を出迎える劉埼。


「ありがとな、劉埼。お前が来てくれるのが遅かったら危ないところだったぜ。

 長江には水賊がわんさといるのは知っていたが、いきなり襲われるたぁな……」


 あの後、劉備一行は水賊に襲撃されるも、劉埼率いる軍の参戦で事なきを得た。

 劉埼は、難しい顔をして言葉を紡ぐ。


「劉備様、あの者達はただの水賊ではありません。水賊であって、水賊ではないのです」

「何?」

「お恥ずかしながら……彼らもまた、荊州軍の一部なのです。

 劉備様も、噂はご存知でしょう。劉表ちちが、水賊やつらの活動を認める代わりに、彼らを自分の水軍に加えていたことを」


 一族の恥を明かし、劉埼は苦渋の表情を浮かべる。父が存命中は、その問題を巡って何度も言い争ったものだ。

 その話ならば、確かに知っている。劉表と水賊達の結び付きは強い。

 劉表が長江流域を支配できたのは、彼ら水賊を自軍に取り込んだ点が大きいと言われる。

 荊州の民は、長年水賊には悩まされてきた。劉表は、水賊を自軍に取り込み、荊州での略奪行為を止めさせた。

 水賊の被害を取り除いたことで、劉表は民の声望を手中に収めることに成功する。

 

 しかし、殆ど戦争のない荊州軍に水賊達の居場所はなく、彼らを養えるだけの金もなかった。

 荊州は比較的豊かな土地であるが、発生した余剰は全て“文化と芸術の振興”に使われていた。

 このままでは、水賊が再び略奪に走るのも時間の問題……そこで劉表がやったことは水賊達の矛先を、隣の揚州に向けることだった。


 彼は最初から言っていた……“荊州”における略奪は許さない、と。

 かくして、荊州の平穏は守られた。揚州の民の血と嘆きと引き換えに。

 劉表は、揚州での略奪を黙認するばかりか、水賊達に兵器を貸し与え、彼らが奪った物品から一部を巻き上げることもあったという。


「唾棄すべき行いです……! 止められなかった自分の力不足が恨めしい……!」


 今述べたことは、全て類推に過ぎない。劉表と水賊の関係を裏付ける決定的な証拠は、何一つ掴んでいなかった。



 劉備は思う。確かに、悪いのは劉表と水賊達だ。

 しかし、共にその恩恵に預かった、荊州の民はどうだろうか。

 ……民草が、お上の決定に逆らうことなどできるはずがない。彼らは流されるしかない生き物なのだ。

 だが……彼らの意識の根底にあるものは、“自分さえよければそれでいい”というものだ。それは、罪ではないのか。

 数十年間も、彼らの黒い関係が露見しなかったのは、民が隠蔽に協力したからではないか。

 ならば、劉埼に尻尾を掴めるはずもない。彼は、民草の善性をかけらも疑わないのだから。


 少しでも良い暮らしをしたい、安定した生活をしたい、死にたくない。

 一つ一つは小さな欲望だ。誰も、他者を傷つけてまで富を得ようとは思わない。

 しかし、それが為政者の欲望と結び付けば、巨大な悪意と化して、他者に害をなすようになる。

 共同体は、個々の罪悪感を分散し、削減する。

 “みんなでやればこわくない”の心理だ。

 まして、凄惨な略奪が、自分の預かり知らぬところで行われているとあらば。

 こうして、ささやかな願いを抱いていたはずの民草は、無自覚な略奪者となり、隣人からの搾取を受け入れるようになる。

 両手を上げて、名君、劉表を讃えるのだ。


 これと似たような状況は、どこにでも転がっている。

 ……わかっている。それが人間だ。その心に一片の利己がある限り、ただ生きているだけで他人を傷つけてしまう。

 罪の幅を広げていけば、全人類が罪人となろう。


 誰かを殺す、何かを変える。

 それだけでは、人類全体が抱えるこの業を克服できはしない。

 だが、それを成しえぬ限り、全ての人々を救うことなどできない。


 劉備は、この不可能の極みと言える問題に挑もうとしている。

 何を犠牲にしてでも……

 やらねばならない。やるしかない。




「待てよ……奴らが荊州軍で、俺らを標的にしてきたってことは……」

「はい、荊州水軍は既に、曹操軍の手に落ちています。

 つい最近分かったことなのですが、江陵を預かる蔡瑁さいぼうが、曹操と密約を結んでいたのです。

 ここ江夏や揚州にはまだ手は伸びていませんが、荊州の長江流域は、曹操の支配下に入ったと見てよいかと……」


 何ということだ。魏延ぎえんから、荊州水軍は信用ならないと聞いていた。

 だが、まさか既に彼らが寝返り、江陵が曹操軍に奪われていたとは。


 江陵は、当初の劉備の目的地でもある。

 進路を変更せず、真っ直ぐ江陵に向かっていたらと思うと、ぞっとしない。

 数十万の民草を連れていたから、江陵を捨てて最短距離で江夏へ向かうと言う選択が出来たのだ。

 世の中、何がさいわいわざわいになるか分からない。



「長坂でのことは、聞き及んでおります……糜夫人を始め、多くの忠臣が命を失われたと……」


 劉埼の瞳に涙が滲む。

 自分がその場に居合わせなかったことに、悔恨を覚えているのだろう。


「曹操軍は勿論、許すまじは父の遺志を無視し、劉備様を見捨てた弟、劉綜……いえ、これは荊州劉家全体の罪です。

 その贖罪のためにも、我ら江夏軍一万五千、劉玄徳様に終生変わらぬ忠誠を、ここに誓います!」


 手を合わせて深々と一礼する劉埼。

 劉備は、劉埼の手に自然と手を重ねた。


 彼の眼からも、涙が流れていた。


「ありがてぇ……ありがてぇ! おめぇみてぇな男がいてくれたら、死んでいったあいつらも……浮かばれるってもんだ!

 頼む、劉埼! 自分の女房も守れねぇこの情けない男に、力を貸してくれ!!」

「玄徳様……!」


 劉埼は、感極まった表情をしている。



 

 ああ、滑稽なほど……計算通りだ。


 今の涙の理由は三つある。


 死んでいった者達への悲哀がまず一つ。

 劉埼が協力を申し出てくれたことへの、感謝が一つ。



 最後は、いずれこの劉埼も、自分の野心のために犠牲にしてしまう……

 

 そんな自分への、怒りの涙だった。


 嘘泣きでは誰も騙せない。真実の涙だけが、人の心を動かすのだ。

 だが、その真実が何であるかまでは、見抜けない。

 さらに、涙の理由が複数ある場合、一つの理由にのみ眼が行ってしまい、それ以外の理由に思い至ることはない。

 涙とは便利なものだ。喜怒哀楽、どの感情を基にしても流すことができ、他者の同情を買うことができる。

 

 容易く涙を流せる自分の弱さは、一つの長所だ。

 なるほど、かつて曹操の言った通り、才の価値とは、状況に応じて入れ替わるものなのだ。


 真実に真実を重ねて偽装する。それは、劉備の詐術全てに通じる核心であった。


 呆れ返るほどに人でなしだ。

 多くの人間を死なせておいて、あれだけ泣き腫らしておいて……数日経たぬ内に、彼らの死を、同情を誘うために利用している。

 自分の悲しいと思う気持ち、それさえも利用している……




 拍手の音が聞こえてきた。



「おうおう、感動的な一幕でんなぁ」


 窓際に腰掛けていたのは、白菜のような特徴的な金髪をした青年だった。

 揚州地方の方言で喋るこの男は、緩やかに手を叩きつつ、こちらに挑戦的な視線を向けて来る。


 くせ者だ。一目見て、そう直感した。

 彼は、劉埼のように義や情に訴える詐術など通用すまい。

 騙そうと思って近づけば、こちらが罠に嵌められる。そんな抜目の無さが、この男から感じられた。



「劉備様、この方は孫呉の重臣で……」


 孫呉? となるとこの男が、劉埼に頼んでおいた、孫呉との繋ぎ役か。


「ええわ。自己紹介は自分でするでぇ。わいの名は魯肅ろしゅく、字は子敬しけいや。あんさんのことは、劉埼から聞かされとる。今後ともよろしゅうな」

「初めまして。劉玄徳です。こちらこそよろしく」


 魯肅の差し延べた手を、握り返す劉備。


「あーあー、そない堅苦しい言い方せんでええで? 何かわいの方が、空気読めん阿呆に見えてまう」

「そっすか。じゃ、遠慮なく……」

 

 劉備は、軽く咳ばらいをしてこう告げる。

 諸葛亮と同じだ。この男には、上っ面だけの敬意など意味をなすまい。


「あんた、前置きは長い方が好きか?」

「冗談やない。孫呉うちには、何でもかんでも長話にしたがるけったいな人がおってのう。

 長い話には辟易しとるんや。単刀直入、ずばっと手短に頼むでぇ」

「わかった。曹操は、もうじきあんたらのいる揚州に攻め込んで来るだろう。

 あんたらを見くびってるわけじゃねぇが、呉だけじゃ、曹操には敵わねぇ。俺達だけってのは論外だ。


 だから、俺は、孫呉あんたらと同盟を結びてぇ。そのために、主君あるじの孫権殿にお会いしてぇ。

 魯肅さん、どうか俺を、孫権殿に会わせちゃくれねぇか?」


 魯肅の目を、真っ直ぐ見て頼み込む劉備。


「……ええよ」


 さして時を置かずに、魯肅は答えた。


「ほ、本当か!? ありがてぇ!!」

「元より、そのつもりで江夏まで来たんやからな。正直、あんさんが無事ここまで辿り着けて、ほっとしとる。

 あんたらに死なれたら、こっちの目論見もご破算やからなぁ」

「それじゃあ……」

「おっと、ちょい待ち。期待させといて悪いけど……まだ、あんさんを呉に連れてくことはでけへんねん」

「何?」


 思ったより、落胆の念は少なかった。

 そうすんなり行くとは、最初から思っていなかったからだ。


「そうがっかりせんといてや。これは、あんさんの為でもあるんやで」

「……降伏派か?」

 

 思いついたことを、そのまま口にしてみる。


「何や、知っとるなら話は早い。そうや、わいら孫呉は、まだ曹操に対してどうするか、はっきりした結論を出しとらへん。

 今も、降伏派と抗戦派の間で、喧々囂々(けんけんごうごう)の議論の真っ最中や」

「あんたは、抗戦派なんだろ?」

「当たり前や。じゃなかったらこうしてあんさんに会いに来やせん」

「……俺なんかの力を頼るってことは、やっぱ、相当形勢は悪いみたいだな」

「分かるか。そうや、重臣連中は、大半が降伏論に傾いとる。抗戦派は、大都督の周瑜殿が先頭に立って論争あらそっとるが……

 何分、こっちは大半が口下手な武官、更にうちの長史殿は口の戦なら天下無双という御仁や。

 最終的には、孫権様の決断に委ねられるんやが……正直、ここでこうしとる間にも、降伏を決定されるやもしれへん。

 そないな中、反曹操の象徴たるあんさんがのこのこ出ていったら……」

「取っ捕まって、曹操への手土産にされるのが落ち……か」

 

 孫呉の状況を思えば、決して考えすぎではない。


「そやな。そうなったら、わいの首も飛ぶ。何せ、ここに来たんも孫権様の預かり知らんことやからなぁ。わいも、命懸けっちゅーわけや」


 軽い口調であるが、それが冗談ではないことはすぐに察せられた。

 この魯肅は、抗戦派の中心人物の一人。自分達との同盟は、彼らの完全な独断なのだろう。


「せやから、まずは使者をこっちに送って欲しいんや」

「使者?」

「ああ、最も、使者やのうて客人という扱いになるけどな。その人を通して、孫権様に開戦と、あんさんらとの同盟を説くつもりや」

「なるほどな……じゃ、誰を送るべきか……」


 やはり関羽……趙雲も悪くないが……


「おっと、使者についてはわいらに指名させてもらうで」

「何?」

「この仕事に、誰よりも向いているお人や。いや、この人以外に、交渉を成功させることはでけへんやろ」


 はて、そんな凄い人材が劉備軍にいただろうか。


揚州こっちにも噂は流れとるで。つい最近、あんたんとこに加わった、若き天才軍師……」


 嫌な予感が、頭の中で広がっていく。

 

 い、いや、魯肅さん、“あいつ”は駄目だ。

 あんたは噂に躍らされてる。あいつに交渉なんざできるわけがねぇ。

 纏まる話ですら纏まらなくなる。だから……



「諸葛孔明はんや」







「やーよ、面倒臭い」

「そう言うと思ったぜ……」


 諸葛亮は、紫一色の上着と脚半を着込み、長椅子にうつぶせになり、本を読んでいた。

 劉備には見向きもせず、ただ返事だけを返す。


「けどな、これは向こうさんたってのお願いなんだよ。

 こっちは、同盟組んでくださいお願いしますって頼み込んでる身だ。無下に断ることもできねぇ。分かんだろ?」

「分からないわ~」


 諸葛亮の返答に、劉備はこめかみに血管が浮くのを感じた。


「……はぁ。そう言うなよな。向こうじゃ、おめぇの兄さんも待ってるって言うし」

「…………何ですって?」


 本をめくる手を止め、初めてこちらを見上げる諸葛亮。

 その眼には、常日頃にない真剣さが宿っていた。


「お前の兄さんだよ。今揚州に住んでいて、お前に会いたがっているらしい。

 だからよ、表向きはその兄さんに会いに行くってことにして…… ん? どうした、孔明?」



 彼女は劉備の問いに答えず、目を見開き、表情を凍りつかせていた――



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ