第二十三章 孫劉同盟(一)
渾元暦208年。
曹操軍の追撃から、辛くも逃げ延びた劉備一行は、漢水を渡り、江夏に向かう。
その途上で、親劉備派である劉埼率いる軍勢と合流し、劉備は纏まった兵力を取り戻すことが出来た。
「ご無事で何よりです! 劉備様!」
手を合わせて劉備を出迎える劉埼。
「ありがとな、劉埼。お前が来てくれるのが遅かったら危ないところだったぜ。
長江には水賊がわんさといるのは知っていたが、いきなり襲われるたぁな……」
あの後、劉備一行は水賊に襲撃されるも、劉埼率いる軍の参戦で事なきを得た。
劉埼は、難しい顔をして言葉を紡ぐ。
「劉備様、あの者達はただの水賊ではありません。水賊であって、水賊ではないのです」
「何?」
「お恥ずかしながら……彼らもまた、荊州軍の一部なのです。
劉備様も、噂はご存知でしょう。劉表が、水賊の活動を認める代わりに、彼らを自分の水軍に加えていたことを」
一族の恥を明かし、劉埼は苦渋の表情を浮かべる。父が存命中は、その問題を巡って何度も言い争ったものだ。
その話ならば、確かに知っている。劉表と水賊達の結び付きは強い。
劉表が長江流域を支配できたのは、彼ら水賊を自軍に取り込んだ点が大きいと言われる。
荊州の民は、長年水賊には悩まされてきた。劉表は、水賊を自軍に取り込み、荊州での略奪行為を止めさせた。
水賊の被害を取り除いたことで、劉表は民の声望を手中に収めることに成功する。
しかし、殆ど戦争のない荊州軍に水賊達の居場所はなく、彼らを養えるだけの金もなかった。
荊州は比較的豊かな土地であるが、発生した余剰は全て“文化と芸術の振興”に使われていた。
このままでは、水賊が再び略奪に走るのも時間の問題……そこで劉表がやったことは水賊達の矛先を、隣の揚州に向けることだった。
彼は最初から言っていた……“荊州”における略奪は許さない、と。
かくして、荊州の平穏は守られた。揚州の民の血と嘆きと引き換えに。
劉表は、揚州での略奪を黙認するばかりか、水賊達に兵器を貸し与え、彼らが奪った物品から一部を巻き上げることもあったという。
「唾棄すべき行いです……! 止められなかった自分の力不足が恨めしい……!」
今述べたことは、全て類推に過ぎない。劉表と水賊の関係を裏付ける決定的な証拠は、何一つ掴んでいなかった。
劉備は思う。確かに、悪いのは劉表と水賊達だ。
しかし、共にその恩恵に預かった、荊州の民はどうだろうか。
……民草が、お上の決定に逆らうことなどできるはずがない。彼らは流されるしかない生き物なのだ。
だが……彼らの意識の根底にあるものは、“自分さえよければそれでいい”というものだ。それは、罪ではないのか。
数十年間も、彼らの黒い関係が露見しなかったのは、民が隠蔽に協力したからではないか。
ならば、劉埼に尻尾を掴めるはずもない。彼は、民草の善性をかけらも疑わないのだから。
少しでも良い暮らしをしたい、安定した生活をしたい、死にたくない。
一つ一つは小さな欲望だ。誰も、他者を傷つけてまで富を得ようとは思わない。
しかし、それが為政者の欲望と結び付けば、巨大な悪意と化して、他者に害をなすようになる。
共同体は、個々の罪悪感を分散し、削減する。
“みんなでやればこわくない”の心理だ。
まして、凄惨な略奪が、自分の預かり知らぬところで行われているとあらば。
こうして、ささやかな願いを抱いていたはずの民草は、無自覚な略奪者となり、隣人からの搾取を受け入れるようになる。
両手を上げて、名君、劉表を讃えるのだ。
これと似たような状況は、どこにでも転がっている。
……わかっている。それが人間だ。その心に一片の利己がある限り、ただ生きているだけで他人を傷つけてしまう。
罪の幅を広げていけば、全人類が罪人となろう。
誰かを殺す、何かを変える。
それだけでは、人類全体が抱えるこの業を克服できはしない。
だが、それを成しえぬ限り、全ての人々を救うことなどできない。
劉備は、この不可能の極みと言える問題に挑もうとしている。
何を犠牲にしてでも……
やらねばならない。やるしかない。
「待てよ……奴らが荊州軍で、俺らを標的にしてきたってことは……」
「はい、荊州水軍は既に、曹操軍の手に落ちています。
つい最近分かったことなのですが、江陵を預かる蔡瑁が、曹操と密約を結んでいたのです。
ここ江夏や揚州にはまだ手は伸びていませんが、荊州の長江流域は、曹操の支配下に入ったと見てよいかと……」
何ということだ。魏延から、荊州水軍は信用ならないと聞いていた。
だが、まさか既に彼らが寝返り、江陵が曹操軍に奪われていたとは。
江陵は、当初の劉備の目的地でもある。
進路を変更せず、真っ直ぐ江陵に向かっていたらと思うと、ぞっとしない。
数十万の民草を連れていたから、江陵を捨てて最短距離で江夏へ向かうと言う選択が出来たのだ。
世の中、何が幸で禍になるか分からない。
「長坂でのことは、聞き及んでおります……糜夫人を始め、多くの忠臣が命を失われたと……」
劉埼の瞳に涙が滲む。
自分がその場に居合わせなかったことに、悔恨を覚えているのだろう。
「曹操軍は勿論、許すまじは父の遺志を無視し、劉備様を見捨てた弟、劉綜……いえ、これは荊州劉家全体の罪です。
その贖罪のためにも、我ら江夏軍一万五千、劉玄徳様に終生変わらぬ忠誠を、ここに誓います!」
手を合わせて深々と一礼する劉埼。
劉備は、劉埼の手に自然と手を重ねた。
彼の眼からも、涙が流れていた。
「ありがてぇ……ありがてぇ! おめぇみてぇな男がいてくれたら、死んでいったあいつらも……浮かばれるってもんだ!
頼む、劉埼! 自分の女房も守れねぇこの情けない男に、力を貸してくれ!!」
「玄徳様……!」
劉埼は、感極まった表情をしている。
ああ、滑稽なほど……計算通りだ。
今の涙の理由は三つある。
死んでいった者達への悲哀がまず一つ。
劉埼が協力を申し出てくれたことへの、感謝が一つ。
最後は、いずれこの劉埼も、自分の野心のために犠牲にしてしまう……
そんな自分への、怒りの涙だった。
嘘泣きでは誰も騙せない。真実の涙だけが、人の心を動かすのだ。
だが、その真実が何であるかまでは、見抜けない。
さらに、涙の理由が複数ある場合、一つの理由にのみ眼が行ってしまい、それ以外の理由に思い至ることはない。
涙とは便利なものだ。喜怒哀楽、どの感情を基にしても流すことができ、他者の同情を買うことができる。
容易く涙を流せる自分の弱さは、一つの長所だ。
なるほど、かつて曹操の言った通り、才の価値とは、状況に応じて入れ替わるものなのだ。
真実に真実を重ねて偽装する。それは、劉備の詐術全てに通じる核心であった。
呆れ返るほどに人でなしだ。
多くの人間を死なせておいて、あれだけ泣き腫らしておいて……数日経たぬ内に、彼らの死を、同情を誘うために利用している。
自分の悲しいと思う気持ち、それさえも利用している……
拍手の音が聞こえてきた。
「おうおう、感動的な一幕でんなぁ」
窓際に腰掛けていたのは、白菜のような特徴的な金髪をした青年だった。
揚州地方の方言で喋るこの男は、緩やかに手を叩きつつ、こちらに挑戦的な視線を向けて来る。
くせ者だ。一目見て、そう直感した。
彼は、劉埼のように義や情に訴える詐術など通用すまい。
騙そうと思って近づけば、こちらが罠に嵌められる。そんな抜目の無さが、この男から感じられた。
「劉備様、この方は孫呉の重臣で……」
孫呉? となるとこの男が、劉埼に頼んでおいた、孫呉との繋ぎ役か。
「ええわ。自己紹介は自分でするでぇ。わいの名は魯肅、字は子敬や。あんさんのことは、劉埼から聞かされとる。今後ともよろしゅうな」
「初めまして。劉玄徳です。こちらこそよろしく」
魯肅の差し延べた手を、握り返す劉備。
「あーあー、そない堅苦しい言い方せんでええで? 何かわいの方が、空気読めん阿呆に見えてまう」
「そっすか。じゃ、遠慮なく……」
劉備は、軽く咳ばらいをしてこう告げる。
諸葛亮と同じだ。この男には、上っ面だけの敬意など意味をなすまい。
「あんた、前置きは長い方が好きか?」
「冗談やない。孫呉には、何でもかんでも長話にしたがるけったいな人がおってのう。
長い話には辟易しとるんや。単刀直入、ずばっと手短に頼むでぇ」
「わかった。曹操は、もうじきあんたらのいる揚州に攻め込んで来るだろう。
あんたらを見くびってるわけじゃねぇが、呉だけじゃ、曹操には敵わねぇ。俺達だけってのは論外だ。
だから、俺は、孫呉と同盟を結びてぇ。そのために、主君の孫権殿にお会いしてぇ。
魯肅さん、どうか俺を、孫権殿に会わせちゃくれねぇか?」
魯肅の目を、真っ直ぐ見て頼み込む劉備。
「……ええよ」
さして時を置かずに、魯肅は答えた。
「ほ、本当か!? ありがてぇ!!」
「元より、そのつもりで江夏まで来たんやからな。正直、あんさんが無事ここまで辿り着けて、ほっとしとる。
あんたらに死なれたら、こっちの目論見もご破算やからなぁ」
「それじゃあ……」
「おっと、ちょい待ち。期待させといて悪いけど……まだ、あんさんを呉に連れてくことはでけへんねん」
「何?」
思ったより、落胆の念は少なかった。
そうすんなり行くとは、最初から思っていなかったからだ。
「そうがっかりせんといてや。これは、あんさんの為でもあるんやで」
「……降伏派か?」
思いついたことを、そのまま口にしてみる。
「何や、知っとるなら話は早い。そうや、わいら孫呉は、まだ曹操に対してどうするか、はっきりした結論を出しとらへん。
今も、降伏派と抗戦派の間で、喧々囂々(けんけんごうごう)の議論の真っ最中や」
「あんたは、抗戦派なんだろ?」
「当たり前や。じゃなかったらこうしてあんさんに会いに来やせん」
「……俺なんかの力を頼るってことは、やっぱ、相当形勢は悪いみたいだな」
「分かるか。そうや、重臣連中は、大半が降伏論に傾いとる。抗戦派は、大都督の周瑜殿が先頭に立って論争っとるが……
何分、こっちは大半が口下手な武官、更にうちの長史殿は口の戦なら天下無双という御仁や。
最終的には、孫権様の決断に委ねられるんやが……正直、ここでこうしとる間にも、降伏を決定されるやもしれへん。
そないな中、反曹操の象徴たるあんさんがのこのこ出ていったら……」
「取っ捕まって、曹操への手土産にされるのが落ち……か」
孫呉の状況を思えば、決して考えすぎではない。
「そやな。そうなったら、わいの首も飛ぶ。何せ、ここに来たんも孫権様の預かり知らんことやからなぁ。わいも、命懸けっちゅーわけや」
軽い口調であるが、それが冗談ではないことはすぐに察せられた。
この魯肅は、抗戦派の中心人物の一人。自分達との同盟は、彼らの完全な独断なのだろう。
「せやから、まずは使者を呉に送って欲しいんや」
「使者?」
「ああ、最も、使者やのうて客人という扱いになるけどな。その人を通して、孫権様に開戦と、あんさんらとの同盟を説くつもりや」
「なるほどな……じゃ、誰を送るべきか……」
やはり関羽……趙雲も悪くないが……
「おっと、使者についてはわいらに指名させてもらうで」
「何?」
「この仕事に、誰よりも向いているお人や。いや、この人以外に、交渉を成功させることはでけへんやろ」
はて、そんな凄い人材が劉備軍にいただろうか。
「揚州にも噂は流れとるで。つい最近、あんたんとこに加わった、若き天才軍師……」
嫌な予感が、頭の中で広がっていく。
い、いや、魯肅さん、“あいつ”は駄目だ。
あんたは噂に躍らされてる。あいつに交渉なんざできるわけがねぇ。
纏まる話ですら纏まらなくなる。だから……
「諸葛孔明はんや」
「やーよ、面倒臭い」
「そう言うと思ったぜ……」
諸葛亮は、紫一色の上着と脚半を着込み、長椅子にうつぶせになり、本を読んでいた。
劉備には見向きもせず、ただ返事だけを返す。
「けどな、これは向こうさんたってのお願いなんだよ。
こっちは、同盟組んでくださいお願いしますって頼み込んでる身だ。無下に断ることもできねぇ。分かんだろ?」
「分からないわ~」
諸葛亮の返答に、劉備はこめかみに血管が浮くのを感じた。
「……はぁ。そう言うなよな。向こうじゃ、おめぇの兄さんも待ってるって言うし」
「…………何ですって?」
本をめくる手を止め、初めてこちらを見上げる諸葛亮。
その眼には、常日頃にない真剣さが宿っていた。
「お前の兄さんだよ。今揚州に住んでいて、お前に会いたがっているらしい。
だからよ、表向きはその兄さんに会いに行くってことにして…… ん? どうした、孔明?」
彼女は劉備の問いに答えず、目を見開き、表情を凍りつかせていた――