第二十二章 長坂の戦い(十)
漢水のほとり、漢津の周囲は鬱蒼とした森に囲まれている。
逃げるに易く、探すに難い地形である。身を隠すのには打ってつけの場所だった。
この森のどこかに、劉備と諸葛亮は潜んでいる。
賈栩らに先んじてこの場所に到着した曹洪と曹仁は、数万の兵を率いて、大規模な捜索を行っていた。
「うおおおお! 劉備ぃ!! 何処だぁ!! 出てきやがれぇぇぇ!!」
曹仁は戦斧を振り回し、周囲の木々を伐採しながら突き進む。
彼の背後には、数機の無双甲冑が付き従い、彼らもまた、手にした斧で木々を切り倒している。
樹が無くなれば、隠れる場所も無くなる。こうやって無差別な破壊を行う内に、隠れ潜んでいる劉備を切り裂けるかもしれない。
それが曹仁がひねり出した考えだった。
「仁兄様」
そんな義兄に、曹洪は冷ややかな声を浴びせる。
何処だ、出てこい、そんな文句をどれだけ連ねたところで、出てくるはずなどあるまいに……
「止めるな子廉! 何言われようが、俺は止めねぇぞ!!」
彼は相当苛立っている。これまでも、逃げる劉備を仕留める好機はあったというのに……その度に、摩訶不思議な力で逃げられてきたのだ。
「止めはしないわ。話を聞いてくれというだけよ」
実際、曹仁を馬鹿にすることなど出来ない。
これだけの規模で探しているのに、まだ劉備を捕捉出来ていないのだ。
曹仁のような運任せのやり方でも、この際縋りつきたい。
劉備は、視界に入る範囲ならば、一瞬の内に移動してしまえる面妖な術を使うという。
そんな術を使う相手を、この深い森の中で発見できないのも無理からぬ話ではあるが……それでも、全く目撃情報が無いのはおかしな話だ。
既にこの森を抜け出し、さらに南に向かったか?
そのことを考えて、部隊を分け、南側と西側に包囲網を構築しておいたが……曹洪の直感は、劉備はまだ、この森の中にいると告げていた。
「何故……劉備はこの漢津までやって来たか?
奴も、陸路で南へ行くのは不可能だと分かっているはず。
あの男は恐らく、船を待っている。迎えの船が来るまで、息を潜めて私達をやり過ごすつもりよ。
だけど……」
「船が現れた時が、好機ってわけか……」
厄介な術を持つ劉備だが、こちらには兵の数という、それ以上の強みがある。
川辺を絶えず見張り、劉備の動きを待つ。
川沿いと森の中……包囲を固めて、劉備を追い詰めるのだ。
「仁兄様、貴方は好きなように壊し続けると良いわ。障害物が減れば減るほど……我々に有利になることには変わりないのだから」
「応よ!!」
曹仁は、再び嬉々として破壊活動に移る。
曹洪は、彼とは別方面から索敵を開始しようとする。その時……
漢水が見渡せる高台に、劉備と諸葛亮、的廬はいた。
確かに見え難い場所ではあるが、曹操軍の人海戦術にかかれば、とっくに見つかっていてもおかしくない。
彼らは、“見えるのに見えない場所”に、ずっと隠れていた。
それは……諸葛亮の張った“人払いの結界”によるものだった。
劉備と内密の話をする時に、よく使われた術である。
この術は、術者を中心とした一定距離の空間を、他者の認識から切り離す。
視覚的な情報は勿論、音も臭いも、気配さえも遮断する。
よって、すぐ目の前を通っても……“そこには何も無いもの”として通り過ぎてしまうのだ。
現に、何人かの曹操兵が近くを訪れたが、皆、付近を捜索しただけで立ち去ってしまった。
広範囲を探さねばならない関係上、あまり一箇所に時間を掛けられないという理由もあった。
隠れ潜むには、これ以上無い程最適の術……ただし、条件も多い。
まず、この術は、静止状態に近い物質しか隠蔽できない。
一歩や二歩歩いた程度では関係ないが……術をかけられた対象がその場から離れてしまえば、たちまち姿が露見してしまう。
この制約が無ければ、樊城からずっと気配を隠し、ここまで移動することも出来ただろう。
そして……
遠くから、曹仁の雄叫びと、斧による破壊音が聞こえてくる。
「あらあら、よほど苛立っているようね。怖い怖い……あいつが近くまで来たら……貴方、一巻の終わりよねぇ」
そう、この術は相手の認識から存在を隠蔽するだけで、確かに彼らがそこに存在していることには変わりないのだ。
もしも、この付近で曹仁が斧を振れば……曹仁は何も気づかぬまま劉備は肉塊と化すだろう。
「………………」
劉備は答えない。ただじっと、漢水の南側を見つめている。
関羽には、船を奪った後、漢水を辿って北上するよう言い渡してある。
時間的には、既に出航していてもいいはずだ。いずれ、関羽率いる船団が姿を見せるだろう。
その時になれば、この場を抜け出し、船に飛び乗る心算だ。
だが、劉備の狙いは敵方はとうにお見通しのようである。
川辺には、無双甲冑を含む曹操軍の兵が展開し、劉備が飛び出してくるのを今か今かと待ち構えている。
加えて、なおも悪いことに……
「貴方も大変よねぇ。主人に散々酷使されて……あ~あ、こんなに黒くなっちゃって……」
諸葛亮は、的廬の額の宝石を撫でる。本来は純白の輝きを宿した石も、今では真っ黒に染まっている。
これは、的廬の残りの“道”を現している。黒くなったということは、“道”が尽き果てたという証だ。
あと数日は休息をとらねば、空間転移は使えない。
的廬の“道”は、諸葛亮の扱うそれとは質が違う。“道”を分け与えることもできない。
曹仁、曹洪率いる騎馬隊に執拗に追われ、この場所に辿り着くまでに、何度も空間転移を使った。
もし一度でも使う事を躊躇っていれば、自分は今頃奴らに捕まえられていただろう。
劉備もまた……死の物狂いの逃走の末、ここまで生き延びたのだ。
「ん……?」
諸葛亮は、何かに気づいたように、漢水とは別方向を向く。
「どうした、孔明」
「来たわ……」
森の暗がりから、白い羽根が飛んでくる。その姿は、白い胡蝶のようであった。
諸葛亮はその羽を手に取ると、羽扇に戻す。
やがてその方向から、馬の足音が聞こえ……馬に乗った男女が、姿を現す。
「玄徳様……」
「子龍!!」
決して動かず、だが立ち上がって、劉備はその名を呼んだ。
「おめぇ……よく……」
趙雲の姿を見て、劉備は目を疑った。
額は裂け、端正な顔立ちは血で濡れ……身体は敵のものか自分のものか、返り血でべっとりと染まっている。
彼らしく、平静を保っているが……並々ならぬ痛みを感じていることは確かだった。
ここまで負傷した彼の姿を見たことは、未だかつてなかった。
いかに敵が多いとはいえ、あの趙雲が満身創痍になるまで追いやられるとは……
だが、彼の後ろにいる人影を見て、その見当がついた。
「あ、あなた……!」
甘夫人は、阿斗を抱き抱え、馬から降りる。
緊張の連続から解き放たれたこと、愛する夫と再会できた喜びで、暗く曇っていた瞳に、光が宿る。
「……お前達も無事だったか……よかった……よくやってくれたな、子龍」
「勿体なきお言葉……」
それもまた、劉備の本心である。だが、一方でこうも考えていた。
趙雲がこれほどの傷を負ったのは、あの親子を守っていたからだ。
自分一人でもいいから生き延びろ……そう命じたはずなのに。
思ったよりも人間らしい、情に流されやすい男だ。彼に対する認識を改めねばならないだろう。
どれだけ鉄面皮だろうと、任務に忠実な性格だろうと、彼もまた人間なのだ。
自分のような人でなしとは……違う。
その事で趙雲を責めるつもりは毛頭ない。彼は生きて自分の下に戻り、甘夫人と阿斗の命までも救ったのだ。
どうして文句をつけることが出来ようか。
「あなた……!糜夫人が!糜夫人が……!」
自分達を助けて、逝ってしまった親友の名を呼び、ふらつく足取りで劉備の下へ駆け寄ろうとする。
だが……
擦り傷のようなものはあるものの、ほぼ無傷な夫を見て、彼女の中で、何かが囁く。
何故……阿斗はこんな危険な目に遭わねばならなかったのか。
何故……趙雲はここまで傷つかねばならなかったのか。
何故……糜夫人は死ななければならなかったのか。
何故……いや、誰のせいで?
視界が歪む。
此処にたどり着いたのは自分達だけ。
みんな……みんな死んでしまった。ただ一人の男を、守るために……
だが、死んでいった者達のために、彼が何をしたというのか。
皆が苦しみ、血を流しているというのに……何故この男は、平然としていられるのか。
主君の為に、身命を捨てて尽くすのが臣下の、妻の務め。
だが……
劉備の姿を見ているうちに……妻として、女として、抱いてはならぬはずの暗い感情が、静かに沸いて来るのを感じた。
「玄徳様」
孔明の呼びかけが、二人の会話を遮った。
「あちらを、御覧くださいませ」
彼は、その羽扇で漢水の方角を指し示した。
扇の指し示す先、数隻の船が、こちらに向かって来るのが見える。
「来たか!」
待ちに待った、関羽率いる船団の到着だ。
「ですが、ここからが問題です」
河辺に目をやる孔明。
そこには、曹操軍の兵が多数犇めいている。
この場所で水路に切り替える劉備の考えは、既に読まれているようだ。
彼らは皆、劉備が飛び出して来るのを今か今かと待ち構えている。
「あの包囲を突破せぬ限り、関羽様の船に乗り移るのは難しいですね」
劉備は考える……既に的廬の空間転移は使い切っている。
ぎりぎりで趙雲が戻ってきたのは僥倖だが、この負傷では、どこまで戦えるか……
「私なら問題ありません」
趙雲は、健常であると主張する。しかし、息の荒さは隠せない。
怪我よりも、疲労の方が深刻と見るべきか。
だが……それでも彼には戦ってもらわなければならない。
「子龍、俺の命令は……まだ有効だぜ」
「はい。何が何でも生き延びる……でございますね?」
趙雲の答えに、劉備はゆっくりと頷く。
あえて、“自分だけを守れ”とは言わなかった。
「……よし、孔明。雲長に合図を送れ」
「畏まりました、玄徳様」
厭味を込めた笑みを崩さぬまま応える孔明。
扇の羽根を一枚ちぎると、それを船に向けて飛ばす。
関羽は眼前の光景を凝視する。
彼は群れを離れた後、一睡もせず漢水流域にあるという、小型船を隠し場所を目指した。
そこで彼は、劉表の部下と交渉し、首尾よく船を手に入れ、劉備の待つ漢津へと北上している最終であった。
河辺は曹操軍の兵で埋め尽くされ、肩に大砲を備えた、無双甲冑の姿も見える。
「ま、まずいですよ関羽様。このまま進めば、曹操軍のいい的にされちまいやすぜ」
物見が脅えた声を出す。確かに、この船は何の武装も持っていない。
河辺から集中砲火を受ければ一たまりもない。いや、この場所に留まっている今も十分危険だ。
(兄者……)
せめて、兄が何処にいるのか特定できれば……賭けに出ることも辞さないのだが……
その時……河辺の方角から、一枚の羽根がひらひらと飛んで来る。
この羽根については、諸葛亮から事前に聞かされている。
離れた場所にいる味方に、自分の居場所を伝えるためのものだ。
羽根は、風に吹かれるように見えて、ある場所に自分を誘導しようとしている。そこに、長兄達はいるはずだ。
「曹操軍の矢が届かない位置で止めてくれ。私が出る」
関羽の指示を聞いた操舵手の顔が青ざめる。
「ま、まさか、関羽殿。あの待ち伏せの中を突っ切るおつもりでは……」
「ああ」
事もなげに答える関羽。何も問題はない。
兄弟のために戦う時にこそ、己が武は極限まで研ぎ澄まされる。
「私が河辺の敵を掃討するから、お前達はそれに合わせて船を動かしてくれ。
長兄を収容し次第、すぐに南へ逃げる。この船が沈んでは元も子もない……頼んだぞ」
「はい! 関羽様!」
操舵手の力強い答えに微笑を返すと、関羽は青龍偃月刀を手に、漢水に飛び込んだ。
「敵陣に乱れが。船から降りた武将が、真っ直ぐこちらに向かって来ます」
ここからでも見えた。南の岸辺に配置された曹操軍の兵が、血飛沫と共に宙を舞うのが。
「雲長、だな」
月光を反射して輝く青龍刀を確認せずとも、一人で曹操軍を圧倒できる味方など彼しか心当たりがいない。
時は今を置いて他に無い。後ろに孔明を乗せ、的廬の手綱を握り締める。
趙雲は既に、甘夫人を後ろに乗せ、阿斗を抱えて流星に乗っている。
「さぁ、行くぜ……このまま、突っ切るッ!」
劉備の掛け声と共に、二頭の馬が走り出す。
「! お、おい、あれは……」
「劉備だ! 劉備が出たぞぉーっ!!」
結界を抜けた瞬間、方々から声が上がる。
その声には驚きが混じっている。
ようやく標的が姿を見せた驚き、というよりは、何度も確認した場所から現れた不思議が大きい。
いずれにせよ……標的を見つけた以上、やることは一つ。
「劉備だぁーっ! 劉備を見つけたぞぉーっ!!」
「殺せ! 殺せぇーっ!!」
ある者は刀を取り、ある者は槍を構え、ある者は矢を番える。
押し殺していた殺意を、一気に爆発させる。
瞬時にして充満する殺気の中を、駆け抜ける的廬と流星。
趙雲は、正面に立ちはだかる兵士の顔面を、槍で突き刺す。
折れてしまった“雀蜂”の代わりに、曹操軍の兵から奪ったものだ。
強度に不安はあるが、折れればまた奪えばいいだけのこと。
近づくもの全てを打ち払う“槍の結界”を形成し、主君を護る。
「……!」
此処にたどり着く前に負った傷口が開く。とうに肉体は限界を迎えている。
体を動かす度に傷が痛み、槍の速さ、精密さ、共に精彩を欠いている。
それでも、彼は屈することはできない、許されない。
この槍の届く範囲にある者は全て護り抜く。自分自身も含めて。
この痛みは己の咎。劉備の命令を忠実に護り、自分が生きて脱出することだけに専念していれば、ここまで手傷を負うこともなかった。
最終局面で、自分の力が必要とされることは分かっていたはず。
その段になって、体を万全な状態にしておかなかったことは、臣下としてあるまじきこと……
ここで劉備が討たれるようなことがあれば、それは情に流された自分の責任だ。
それは、断じて許されない。
この時初めて、彼は“嫌悪”という感情を覚えた。
それは、後悔することへの嫌悪。
もしも命令を遂行できなければ、糜夫人の最期の願いを聞き、あの親子を救ったことを、きっと後悔してしまう。
それは……嫌だ。
だから、自分は命令を完遂する。本調子で無かろうが関係ない。
何が何でも、彼らを生かす。自分も生き延びる。
命令に従う意志と、趙雲自身の願望が一体となり、極限の集中力を生み出す。
活路に繋がる一切を脳内に収め、活路を閉ざす一切を排除する。
駆ける、駆ける、駆ける。
竜巻の如き敵意と、怒涛の如き殺意の中を、ただひたすらに駆け抜ける。
自分の成すべきことを見失わず、趙雲の切り拓く活路を突き進む。
甘夫人と阿斗を見た瞬間……嬉しくて泣きそうになった。
よく生き残ってくれたと、抱きしめたかった。
同時に、趙雲と彼女ら以外は、糜夫人を初め誰も生き残っていないことを悟り、今度は悲しさゆえに泣きたくなった。
分かっていたことだ。覚悟していたことだ。
だが、今は泣くわけにはいかない。
泣けば、きっと悲しみと罪悪感で押し潰され、自分は弱くなってしまう。
だが、ここで泣いたら、自分はきっと弱くなってしまう。
劉備は、己の優しさという枷をよく理解していた。
妻子を守るために、敵の矢の前に飛び出し、庇い死にしかねない。
だから、いち早く逃げ出したのだ。
部下や仲間が殺されるのを見せ付けられれば……自分の甘さが、自分を殺すと承知していたから。
涙を堪え、心を冷やす。
情を押し殺し、ただ生き延びることだけを考える。
死ねば、全てが終わるのだ。
狂っても、壊れてもいい、その程度ならば問題はない。
元々自分は、夢に狂っているのだから。
何を犠牲にしてでも、生き延びる。生への執着ならば誰にも負けない。
生きる欲望を刃に変え、生きる意志を弾丸に変え、この修羅場を突き進む。
青龍偃月刀が唸りを上げ、朱の混じった水飛沫を上げる。
岸辺の曹操兵六人の胴体を、纏めて切り裂く。
関羽の耳にも、劉備発見の声は響いた。
(兄者……!)
やはり長兄はここにいた。
喜びと同時に、危機感が込み上げてくる。
あれだけの数の敵……いつまで持つか分からない。
一刻も速く、道を斬り開かねば。
「兄者!!」
「雲長!!」
もう、互いの声が届く距離まで近づいている。
後少し……後少しで……
「何をしている! 関羽も船も無視してよい! 劉備だけを討て!! さすれば、我らの勝利だ!!」
凛とした声が、戦場に響き渡る。
崖の上にいる曹洪は、銀の鞭を振るい、眼下の兵に指示を出す。
曹洪自身は騎馬隊を率いて崖を降り、劉備を側面から討たんとする。
「く……やらせん!!」
兵士達の注意が劉備に向いた今は、好機でもある。
敵の包囲を突き破り、劉備の下へ向かおうとするが……稲妻が、真正面に落ちた。
振り下ろされた戦斧を、青龍刀で受ける関羽。
その衝撃に、関羽の体が大地に沈む。
曹仁の巨躯が立ち塞がり、劉備へ通じる道を閉ざす。
「……そこをどいて貰おう!!」
「がははははは!! そう言われてどく奴がいるかよっ!!」
突き、払い、下ろしを同時に繰り出す関羽。
だが、曹仁は斧を胸に対して水平に構え、関羽の斬撃を防ぎ切る。
曹仁の戦斧は、彼の身を覆うほど大きい。
その大きさ、強度、重量は、本来の用途である破壊のみならず、防御においても長所となる。
その体積は、あらゆる方面の攻撃を受け止め、その強度は生半可な威力など弾き返す。
駆け引きや読み合いが苦手は曹仁は、避けるより防ぐ方が性に合っている。
最もこの超重量武器を盾としても扱えるのは、曹操軍百万の中でも曹仁を除けば張遼と許楮ぐらいのものだ。
関羽は思わず歯噛みする。曹仁は手強い。それは、一目見た時から分かっていた。
問題なのは、彼が完全に守勢に回っていることだ。
躍起になって攻めてくれば、まだ隙も生まれ、一撃で倒せる可能性もある。
これでは、戦いが長引くことは必至。そうなれば、長兄の命は……
曹洪の言った通り、この戦いの要は劉備だ。
ゆえに関羽は何を置いても劉備を守り、曹仁はそれを阻止せねばならないのだ。
関羽の心を掻き乱すのは、それだけではない。
劉備、趙雲、諸葛亮は、既に視界に収めた。では、張飛は……弟は何処にいるのか。
長兄の危機に際して、彼がいないなどありえないこと。
では……
最悪の予想が脳裏を過ぎる。
即座に打ち消そうとするも、一度生まれた不安は瞬く間に全身を蝕み、離さない。
彼にとって張飛が大切な弟であればあるほど……不安の渦は広がってしまう。精神的な負荷が、彼の動きに影響するのは避けられなかった。
(さすがに、強ぇな……!)
あわよくば、足止めだけではなく関羽を仕留める欲が沸きかけたが、一太刀交えてすぐに吹き飛んだ。
彼は、今の状況と自分が成すべきことを冷静に把握している。この男の実力は、自分よりも格上。
それを見極められる経験と実力を、曹仁は身につけていた。
だから、この場は守りに専念する。曹洪が劉備を討つまでの間足止めできれば、自分達の勝利は確定する。
曹洪は、自らの射程距離に劉備を捉えていた。劉備にはその姿が、自分に死を運ぶ黒い死神に見えた。
「弓兵! 劉備に矢を射かけよ!!」
曹洪の命令に従い、周囲の兵が一斉に矢を射る。
その全てが、趙雲によって叩き落とされる。
だが、曹洪は配下が矢を射ると同時に鉄鞭を振るっていた。
あの矢はただの牽制。趙雲の不可侵なる“槍の結界”、その綻びを見つけるための……
趙雲の槍は、神速の直線、対して曹洪の鞭は高速の曲線。
速さにおいて、曲線は直線に及ばない。だが、それは万全の状態であればの話。
今の趙雲の槍は、神速には届かない。
速さの優位が消失すれば……直線は、不規則に動く曲線を、止められない。
蛇のようにしなる鉄鞭が、槍の結界の亀裂を摺り抜け、鋭利な尖端を劉備の首に突き立てんとする。
だが、趙雲の顔に、絶望の色はない。
彼の耳は既に捕らえていた。劉備を救う、鎖の音を……
「……っ!!」
曹洪の顔が歪む。必殺を期して放った鞭は、反対側、河方面から飛んできた鎖繋ぎの刃により、弾かれたのだ。
「ついさっき目が覚めたってのに、いきなりこれかよ……たく、てめぇのお守りは退屈しねぇな」
「え……え……」
満月を背に、男は河辺に立っていた。鎖で繋がれた刃が、男の担ぐ柄へと戻る。
不敵な笑みを浮かべるその姿は、紛れも無く……
「益徳ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
「益徳!!」
「よ、兄貴。何だ何だ、雲長兄貴も一緒じゃねぇか。もしかして、俺ら三人、今再会したばっかとか?」
兄達の反応や状況を見るに、どうやらその通りらしい。
「益徳……本当に、おめぇなんだな……?」
「おうよ。こんないい男が、天下に二人もいるかってんだ!
幽霊でも幻覚でもねぇ、正真正銘、張益徳さまよ!」
曹操軍の兵を蹴散らしながら語る張飛。
「へ、何だその面ぁ。まさか、俺が死んだと思っていたんじゃねぇだろうな?」
今にも泣き出しそうな劉備の顔を見て、からかうように告げる張飛。
「ば、バッカヤロー! おめぇ、遅すぎなんだよっ! 生きてるこたぁ分かってたんだ! なら、もっと、速く……」
喜びの感情を上手く言葉に出せない劉備。
「心配、させやがって……」
「へへっ……」
憎まれ口を叩く劉備の瞳に、喜びの涙が滲んでいるのを、張飛は見逃さなかった。
「うう、寒い!ずぅーっと河に浸かってたからな……体温めるためにも、ちと一暴れすっか!!」
蛇矛を旋回させ、劉備の周囲の敵を一掃する。同時に、張飛自身も飛び上がり、曹洪目掛けて蹴りを放つ。
「く……っ!!」
手綱を握り、体勢を崩すまいとする曹洪。
張飛は、劉備を背後に庇う位置に着地する。
「ご無事で何よりでございます、益徳様」
「子龍! 俺がいねぇ間、しっかり兄貴を守ってくれたみてぇだな。ありがとよっ!
こっからは、敵は俺がぶっ殺す! 子龍は、兄貴達を守ってくれ!」
「はっ!!」
「ぐ……!」
張飛が参戦すると同時に、曹仁を襲う関羽の青龍刀が一層烈しくなる。
弟の生存が分かり……関羽の剣からは、完全に迷いが消えていた。
張飛もまた、曹洪を抑えつつ劉備の進路を確保する。
劉備は、全ての人を救う夢のために生きる。
張飛は、義兄弟の絆を守るために生きる。
関羽は、己が信念を貫き通すために生きる。
趙雲は、命令を遂行するために生きる。
甘夫人は、愛する我が子のために生きる。
諸葛亮は、死ぬのが面倒くさいから、生きる。
“何が何でも生き延びる”
一つに収斂された意志が、絶望の壁に、風穴を穿つ――