第二十二章 長坂の戦い(九)
流星を駆り、長坂を駆け下りる趙雲。彼の身体には数本の矢が刺さり、血が衣服を赤黒く染めている。
あれからずっと曹操軍の波状攻撃を受けていたにも関わらず、この程度で済んでいるのは奇跡的と言っていい。
体力の消耗は激しいが、集中力は一向に途切れない。
今も、飛んでくる無数の矢や弾丸を、“槍の結界”で叩き落としている。
しかし……健在なのは趙雲だけ。人間である甘夫人と阿斗の体力は、既に限界に達しつつある。
このまま精神的疲労が限界を越えれば、命を失う自体にも成りかねない。
それだけ、ただの人間にとって、戦場という場所は異常な空間なのだ。
常に生命の危機に晒されていることは、例え傷を負わずとも、精神力と体力を著しく削り取られる。
更に、敵の包囲は執拗で、中々前に進むことが出来ない。
敵の数が多すぎる。夫人と阿斗を乗せている以上、強行突破することもできない。
いや、これは敵の用兵が巧みというべきだろう。
包囲の隙間を見切って突破しようとしても、すぐにその穴を埋めてくる。
この指揮官の采配は、獲物を締め上げる蛇のように執拗で、無駄が無い。
焦らず、驕らず、こちらの息の根を、ゆるりと止めていくつもりだ。
……諦めたわけではない。
この程度で心を弱くして、隙を晒すほど、趙子龍という機械は脆くない。
だが、いざとなれば……自分の力が及ばない時は……自分は、彼女らを見捨ててしまうのだろう。
それだけは、趙雲の意志ですらどうにもならない、厳然たる事実だった。
その時……
「趙雲殿ぉ!! 奥様ぁ――っ!!」
曹操軍の後方の包囲が、一部崩れる。
そこから、二十余名の騎馬隊が現れ、趙雲の下へと駆けつける。
皆知った顔の者達だ。劉備の信任厚い、腹心の部下たちだった。
彼らは趙雲を取り囲み、直ぐに陣形を敷く。
全員盾を構えて、曹操軍の波状攻撃から趙雲や甘夫人を守る。
「ご無事で何よりです、趙雲殿!」
先頭を走っていた部隊長が、趙雲に話しかけて来る。
「はい、貴方達こそ……」
自分以外の将兵は、既に全滅していることも覚悟していた。
最も、生き残りがこれだけとあらば、それほど大差ない結果であるが……
「阿斗様は、そちらに?」
「はい」
趙雲は、自らの懐を指し示す。阿斗の顔を見た隊長に、安堵と、覚悟の色が浮かぶ。
「趙雲殿……この方は、我ら劉備軍の希望の光。何としても、奥様と阿斗様を、玄徳様の下に送り届けてくだされ」
「……お任せください」
内なる葛藤は捨て置き、あえて断言する。
それが、彼らの力を最大限引き出すのに、必要なことだから。
「我らはここで、身命を賭し、血路を開きます!」
隊長の表情は、信念に殉ずる覚悟を決めた男のそれだった。
この包囲を潜り抜けたとしても、敵はまだ追ってくる。劉備の下へ阿斗と甘夫人を送り届けられるのは、趙雲しかいない。
ここは、自分たちが捨て石となり、彼を先に行かせる。
それが、劉備の臣下としてなすべきことだ。彼らはごく自然に、その結論に達した。
当然である。元より劉備は、そんな人間達を側近として選んでいるのだから。
趙雲を後ろに庇い、鏃の陣形を取る。
玉砕覚悟の突撃で、敵の包囲を打ち破る――
「行くぞ、皆の者! 劉玄徳様の大恩に、今こそ報いる時!!」
「おおおおぉぉぉぉぉぉぉ――――っ!!」
兵士達は、一人、また一人、命を散らしていく。
包囲の壁を一つ破るたびに、数名が血の華となり、戦場に屍を晒す。
斬られ、貫かれ、抉られ、穿たれ……
だが、誰一人として無為に死ぬ者はいなかった。
必ず、数名、十数名の敵を犠牲にした末に、果てていった。
「ここが……ここが俺の死に場所だ!!」
「私は劉備殿に命を救われた……命の借りは、命で返す!!」
「今私がここにいるのは、劉備殿がいたからだ!!」
「幽州で旗揚げした頃から……俺ぁ、劉備様の為に命捨てるって決めているんだ!!」
「劉備殿の理想こそ、この中華の未来を切り拓くのです!」
「曹操軍、我が兄を奪った貴様達に、断じて屈しはしない!!」
「よくも俺の友を……曹操軍! 貴様らだけは許さねぇ!!」
「へへっ! 逆境になればなるほど、俺は燃える性質でね!」
「劉も曹も関係ない! 俺は戦いたいから戦う! それだけよ!!」
「くくくく! 絶望的な戦場で死力を尽くすことこそ、武人の本懐というもの!」
義理、人情、恩義、忠誠、憎悪、復讐、理想、信念、矜持、本能……理由は様々だ。
だが、全員に共通しているのは、“劉備の為に命を捨ててでも戦う”という点だ。
そうなるように、劉備が誘導した。一人一人の心理を把握し、言葉巧みに彼らを操った。
彼らは全員、自分の信ずるものに従って戦っていると信じている。
心から信じるもののためならば、人は命を捨てることすら厭わない。
劉備はそこに付け込んだのだ。
自分の利害と、彼らの信念を一致させることで、命を投げ打ってでも戦う事のできる“兵器”に仕立て上げた。
彼らはそのことに気づきもしない。自分の信念に殉じたと思い込んでいる。
間違ってはいない。今の状況は、彼らが自分で選び、決断したことだ。
それが、劉備の意図した通りに動かされた結果だとしても。
甘夫人は見た。自分達を守って死んで行く、彼らの凄惨な最期に胸が痛くなる……と同時に、恐怖も覚えた。
何故、彼らはこうも簡単に命を捨てられるのだろう?
わからない……わからない……
自分のために戦ってくれている彼らに対して、そんなことを思うのは間違っているのかもしれない。
己の身命を賭して、主君を守る……それが、古来より続いてきた君臣の道理であることは分かっている。
しかし……
ならば何故、夫は……劉玄徳は、ここにいないのだ?
彼は……こうなることを、最初から知っていたのではないか?
だとしたら、彼らが死んで行く中……彼は何を思うのだろうか……?
「………………」
断末魔を上げ、兵士がまた一人死んでいった。
それを目の当たりにしても、趙雲は殊更感傷に浸ることなど無い。
彼は頭脳は、ただこの場を切り抜ける手段を探す為にだけ、全力で稼動している。
兵士達は奮戦しているが、全滅するのも時間の問題だ。
その限られた僅かな時間で、この包囲網を突破しなければならない。
眼前の状況、及び、これまで集積した情報を統合し、突破口を導き出す……
やがて、彼の眼は、一機の甲冑に注がれる……
「あ、ああああ……」
張繍は、体が震えて動けなかった。
話が違う……
この無双甲冑に乗っていれば、怖い物などなかった。
迫り来る刀剣や降り注ぐ矢の雨も、鋼の鎧の前では無力。
相手を恐れることなく、一方的に殺すことができたのに……!
そう、殺した。
向かって来る兵、逃げる兵、怯えて降伏を求める兵、先程は、武器を持たない女子供だろうと殺してみせた。
無双甲冑の中にいる限り、自身の安全を維持したまま、一方的に敵を虐殺することができた。
それは、張繍の中で暗い快感を生み、心に巣食った恐怖を忘れ去ることができた。
だが……あいつらは何だ?
無双甲冑を一撃で仕留める規格外の武将。死をまるで恐れず立ち向かう将兵達。
敵とは、ただ殺されるだけの獲物だと思い込んでいた張繍に、彼らの存在は新たな恐怖として心に刻み付けられた。
体中に震えが走る。
心臓の動悸が激しくなる。
とめどなく流れる汗が、全身を濡らす。
怖い、怖い、怖い……!
目が醒めた……というべきか。
今の張繍は、かつての何も出来なかった彼へと戻っていた。
所詮、これまでか……
何処までも冷たい目で、張繍を見下ろす賈栩。無双甲冑越しからも、彼の怯えは理解できる。
確かに、劉備軍の者達の奮戦は凄まじい。
本来持てる以上の力を引き出し、数で勝るはずの曹操軍を圧倒さえしている。自身の死と引き換えに。
だが、彼らの叫びを聞いて、賈栩には良く分かった……
彼らにあるのは、与えられた大義だ。創られた正義だ。
自分でも気づかぬまま、劉備の操り人形として戦っている。
何故それが分かるのか。答えは簡単、それは、賈栩自身、人を利用する術を知る人間だからだ。
(クククク……死をも恐れぬ“特攻兵器”か。
単なる恐怖や命令では、人間の力をここまで引き出せまい。
譲れぬ信念があるからこそ、人は死の恐怖を越えて戦える。
無知な愚民を操るのは誰にでもできる。だが、信念を持つ者は、そう簡単には操れない……)
なるほど、荀攸が警戒するのも頷ける。稀代の煽動家との評に、誤りは無いようだ。
だが、これだけでは足りない。彼らの奮戦を持ってしても、この兵力差はどうにも埋め難いものがある。
「賈栩様!」
その思考を、部下の叫びが断ち切った。
「ち、趙雲が! 趙雲がこちらに!」
即座に配下の視線を追う。
電光石火の勢いで騎兵の群れを切り崩し、こちらに向かって来る白い騎影が一つ。
進路を遮るもの全てを、貫き、穿ち通すその姿は、さながら研ぎ澄まされた名槍のごとし。
その狙いは、過たずこの賈栩の喉元に定められている。
狙いは明白……指揮官を討ち取り、部隊の統制を崩すのだ。
(クククク! そうか、趙雲よ。やはり、この賈栩を狙うか!!)
その認識は正しい。賈栩の采配があればこそ、あの趙雲を取り囲むという難事を成せたのだ。
自分が斃れれば、曹操軍の統制は崩壊するだろう。
趙雲の“槍の結界”は触れる敵全てを切り刻んで行く。
趙雲のみに警戒を払っていられる状況ならば、ここまでやられはしなかっただろう。
劉備軍の予想外の奮戦が、このような結果を生んだ。
(趙雲は程無くして俺の下に辿り着くだろう。奴の前では、無双甲冑なぞただの棺桶にしかなるまい)
その時、俺は……
僕は……僕は、何のためにここにいるのだろう。
自分は、ずっと逃げ続けて来た。
領主の重責から逃げ、外敵の脅威から目を背け、ずっと自分の殻に篭っていた。
賈栩を初めとする部下に、全てを押し付けて、安全な場所で、今のようにびくびく震えていただけだ。
それは、曹操軍に降った後も変わらない。
曹操様が怖いあまりに、その恐怖を忘れたいがために、戦場へと逃げ出した。
だが、自分は一体、戦の何を知っていたというのだろう。
自分が出た戦などは、既に主力が撃滅された後の敗残兵の掃討ばかり。
それも、賈栩の優れた策略のお陰で、自分にさしたる危険など訪れなかった。
自分が挙げた分不相応な手柄は、みんな賈栩にお膳立てしてもらったものだ。
無双甲冑に乗ることが出来たのも、彼が裏で手を回してくれたからに違いない。
自分が、決して傷つくことのないように……
何と言うことはない。自分は今でも、賈栩に守られている。
彼の助けが無ければ、何も出来ない臆病者であることに変わりないのだ。
自分は今日、本物の怪物と、本物の戦場を知った。
それを知らぬまま、ただ弱者を殺していい気になっていただけの小さな存在だと、思い知らされた。
結局……自分は、何一つ変わっていない。
今、賈栩にかつてない危機が迫っている。
自分のちっぽけな自尊心を、完膚なきまでに打ち砕いたあの獣が、彼を殺そうとやって来る。
賈栩……賈栩……賈栩!
怖い……怖い……怖い!
大切な人を死なせたくない気持ちと、今にも逃げ出したい恐怖がせめぎあう。
逃げる……?
逃げて、どうするというのだ。
何処へ逃げても恐怖は追い掛けて来る。それは、自分の半生が証明している。
今逃げても、きっと、賈栩を見殺しにしたという後悔と罪悪感となって自分を苛むのだ。
この恐怖を打ち消すにはどうすればいい。
どうすれば………
ああ……
そうか……
気付いてしまえば、とても単純なこと。
ずっと近くにありながら、恐怖のあまり見過ごして来た答えを……彼は、ようやく掴むことができた。
「うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
張繍は絶叫と共に無双甲冑を駆動させ、賈栩と趙雲の前に割って入る。
「させないぞ! 賈栩は、賈栩は僕が守るんだぁ!!」
答えは、皮肉にも目の前のこの男が教えてくれた。
何万もの軍勢を相手に、女子供を守りながら、たった一人で立ち向かう。
彼は確かに、自分とは比べ物にならない程強い。そして彼の心、それ以上に強い。
僕に足りないものはそれだったのだ。恐怖は、自分の弱き心が生み出すもの。
だがら、何処へ逃げようとも恐怖はついて回る。
それなのに、僕は自分の弱さに目を背けて、逃げ続けていた……
恐怖を打ち消すには、まず自らの弱い心と戦わなければならなかったんだ!
逃げるな、恐れるな、立ち向かえ!
大事な人を護るために!
弱き心に打ち勝つために!
力を貸してくれ!! 僕の……勇気よ――!!
左胸に激痛が走る。
視界が赤一色に染まる。
趙雲の繰り出した光速の刺突は、無双甲冑の左腕の間接部分から内部に侵入し、張繍の心臓を正確に貫いた。
これが……これが現実だ。
足止めはおろか、満足に抵抗することも叶わない。
それは、自分よりずっと熟練した無双甲冑の乗り手が、一撃で斃されたことから分かっていただろうに。
「ごほ……っ」
焼け付くような痛みが、体中を埋め尽くす。
体の血が逆流し、口から盛大に赤い吐瀉物を吐き出す。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い辛い苦しい痛い痛い熱い痛い痛い死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ無理だ無理だ無理だこんなの無理だやっぱりやめておけばよかったんだこんな僕にこんな僕に戦いなんて痛い痛い痛い僕は僕は僕は賈栩は痛い辛い曹操様は痛い痛い痛い僕は痛い痛い痛い賈栩を僕は僕は僕は護痛い僕は僕は――
僕は――
張繍は生まれて初めて……本気の敵意を込めた視線で、眼前の敵を睨みつける。
彼岸に飛びそうになった意識を無理矢理に繋ぎ止める。
失われつつある命の灯を、燃やし尽くす。
胸の筋肉が収縮し、引き抜かれそうになる槍を押し留める。
「僕は……僕は張繍! 曹操軍の、張繍だぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
無双甲冑の腕が、趙雲の槍を掴む。
単純な力ならば……“悪来改”の力は趙雲もを凌駕する。
張繍は、朦朧とする意識の中で、操縦桿を倒し……趙雲の愛槍“雀蜂”をへし折った。
これもまた、一つの結末か。
賈栩を仕留めるどころか、自らの槍を失った趙雲は、あのまま逃げ去ってしまった。
あの男のこと、万が一失敗した時、逃げる算段も立てていたのだろう。
一瞬の躊躇も無く、自分で切り拓いた道を引き返し、即座に退却してしまった。
もしや、こちらの狙いに気づいていたか? ククク……
何にせよ、弁明の仕様が無い敗北である。
虎の子の無双甲冑を数機も失い、騎馬隊にも相当の被害が出ている。
矢や弾薬も、予想を遙かに越えて消耗してしまった。
これ以上は、先行している曹洪の部隊か、遅れて到着するであろう曹操の本隊と合流する必要がある。
そして……今、賈栩の足下には、全身血塗れの張繍がいる。
賈栩を庇って、趙雲の槍で心臓に風穴を開けられ、今は虫の息である。
まだ生きているということは、僅かに心臓を反れていたのだろうか。
どの道、後僅かの命には違いない。
張繍は、賈栩にぎこちない笑顔を向けると、息も絶え絶えに話しかける。
「か……く……よかった……見てた? 僕……ぼく……賈栩の役に……立てたかな?」
どう答えたらよいものか。賈栩は無表情の奥で、少し悩んだ。
率直に言えばこうである。
“余計なことをしてくれた”と。
趙雲が自分を狙ってくる可能性は、最初から読んでいた。
賈栩の操縦する無双甲冑の胸部装甲には、多量の爆薬が仕掛けてあった。
賈栩は、趙雲が射程圏内に入った瞬間に脱出し、“糸”を用いて爆弾を起爆させるつもりでいた。
いかに至近距離で爆弾が爆発しようと、あの趙雲は殺せないだろう。
だが、劉備の妻子は、間違いなく葬ることが出来る。
その爆弾は、正面にいる相手に対しては、味方を巻き込むぐらい強力なものだからだ。
その時……趙雲はどんな選択をするのか?
自分の身を挺して二人を護るのか。
二人を切り捨てて、自分を殺しにかかるのか。
あの男の鉄面皮は、いかなる変化を遂げるのか。
その選択を突きつける瞬間……賈栩の心は、例えようもない愉悦で満たされる。
せっかく奴の心の奥底を覗ける絶好の機会だったというに……この男が割って入ったせいで、台無しになってしまった。
さりとて……賈栩は、それしきの小細工が間違いなく上手く行くと思うほど、自惚れてはいない。
爆弾の仕掛けはあっさり看過され、事前に対策を打たれたかもしれない。
その場合……今頃自分は、趙雲の槍によって串刺しにされている。張繍が、自分を庇わなければ。
その点、彼に感謝しているのもまた、事実だった。
それに、張繍が最期にこのような行動を取ったのは、賈栩にとっては意外な結果と言えた。
彼は意外性のある結末を好む。
特定個人を必要以上に痛ぶり、嬲り、弄ぶのも、単なる嗜虐心を満足させる以上に、その人物が、自分にとって想定外の行動を取る事を期待しているからだ。
恐怖から逃げ続け、追い詰められた弱者は、最終的にどのような行動を取るのか。
賈栩は、張繍を相手に、そんな“実験”を続けていたが……まず、及第点はやれる結末だった。
張繍は、その一例として、賈栩の脳内に刻まれるだろう。
あの趙雲に一矢報いるなど、張繍の能力からするとありえないことだ。
死に瀕して潜在能力が解放されたのか……それとも、これが“想いの力”という奴なのか。
自分で言って笑ってしまう。だが、賈栩はその手の精神論を否定しない。
賈栩自身も……己の享楽のためならば、平気で他者を、己をも犠牲に出来る人間だ。
精神の高揚によって、人としての、武将としての限界を越える……実に興味深い。
それらを統合して、賈栩が張繍に、簡潔な一言を送る。
「ありがとうございます、張繍殿」
賈栩の無機質な返答に対し、張繍は笑顔を浮かべる。
「よかっ……た……」
それは、彼が初めて見せた、心からの笑顔。
何もかもに怯え続けた彼が、恐怖から解放された証だった。
実験動物が一匹死んだ。
彼が興味を向けるのは生者のみ。死者は等しく、廃棄すべき塵でしかない。
それ以外の如何なる感慨も沸かぬまま、賈栩はその場を後にした。
趙雲は、長坂をただ一騎で駆け抜ける。
付いて来る者は誰もない……皆、趙雲を逃がす為に命を散らした。
もしも、あそこで賈栩を討ち取れていれば、何人かは……いや、それは無意味な思考であろう。
後ろの甘夫人は、流星に掴まったまま微動だにしない。
度重なる危機の連続に、精も根も尽き果てたのだろう。体温から、辛うじて生きていることが分かる。
「きゃあ、きゃあ」
懐の中の阿斗が笑う。母親と違い、こちらは肝が据わっているようだ。
阿斗もまた、劉備の血を引く武将であることを考えれば、さほど不思議ではないが。
少なくとも、大きな声で泣かないのはありがたかった。
そこへ……
一枚の、白い羽根が飛んでくる。その羽根の形状に、趙雲は見覚えがあった。
(孔明様……)
あれは、彼女が持っている羽扇の羽根だ。
白い羽根は、風の流れに従わず、まるで意志を持っているかのようにある方向に向かって飛ぶ。
趙雲は、羽根の導きに従い……進路を変更する。
趙雲には、“道”の素質はない。
だが、事前に孔明の口から、この羽根で自分達の居る場所まで誘導すると説明を受けている。
その先に見えるのは、鬱蒼とした森だった。
孔明と劉備は、あそこにいるのだろうか。
態勢を立て直した追っ手が間もなくやって来るだろうが、あの中に入れば、彼らの目を晦ましつつ、逃れることが出来るはずだ。
複雑な地形は、逃げる側に有利に働く。
趙雲は、僅かたりとも気を抜くことなく、戦闘時の集中力を維持したまま、羽根の導きに従い駆け抜ける。
ただ……それが分かっていながら、心は自分に問いかけてしまう。
今回は、仲間の助けがあって、夫人と阿斗を連れたまま脱出することが出来た。
だが、それが叶わず、彼女らと自分の身命を天秤に掛けられた場合、果たしてどちらを選ぶのか?
そのような迷いを抱くこと自体、“完璧”には程遠いと知りながら……