第二十二章 長坂の戦い(八)
「あはははははは! とうとうやっちゃったわねぇ!
奥さんも子供も見捨てて、自分だけ逃げようってわけね!
全く持って貴方は、最っ高ぉの英雄だわぁ!」
けたけたと笑いながら、劉備を嘲る諸葛亮。
二人を乗せた的廬は、空間転移を繰り返し、後方の群れとの距離を見る見る内に離して行く。
多くの将兵は、的廬の能力を知らない。
ゆえに、劉備を見失っても、それはたまたま見えない場所にいるのだろうと考える。
そして……居るはずの無い劉備を守り、曹操軍と戦い続けるのだ。
それがどれだけ凄惨な結果を生むか、劉備は良く理解できていた。
だから、今更そんな挑発を受けたところで、彼は揺らぎはしなかった。
最悪……趙雲一人が生き延びれば、それでいい。
彼ならば問題ないはずだ。与えられた命令を、確実に遂行するあの男ならば……
「でもね、ちょっと甘いわよ。感情の話じゃなくて、見積もりがね」
「何……?」
劉備の思考を見透かしたように告げる諸葛亮。
「貴方は子龍一人が生き残ればそれでいいと考えている。彼になら、それだけの能力がある事も知っている。
確かに、彼ならばあれしきの状況は問題なく切り抜けるでしょうね。
だけどね……まだ貴方は、彼の本質を知らないわ」
諸葛亮は、どこかうっとりしたような……作り物の表情で、こう呟いた。
「彼……見かけによらず、“熱い男”なのよねぇ」
皓々と輝く満月が、深夜の長坂を照らし出す。
劉備軍は、曹操軍によってほぼ壊滅しつつある。
民草という盾が無くなった今、彼らに一切の容赦はない。
「殺せ! 殺せ! 劉備は、民草も親族も、全て捨てて逃げ出した!
こいつらを皆殺しにすることで、奴の無力さを天下に知らしめるのだ!!」
激したように叫びながらも、賈栩の腹の内はどこまでも冷静だ。
劉備は既に、例の瞬間移動で逃げ出したに違いない。それについては、曹洪と曹仁率いる騎馬隊が追撃中だ。
そして自分が成すべきことは……
ただ、殺戮あるのみ。
劉備が“仲間を見捨てて逃げた”という汚点を強調するためにも、可能な限り凄惨な結果を残すのだ。
「た……助けて……」
御車から這い出た女が、助けを求めて手を伸ばす。
彼女もまた、重臣の親族の一人。戦う術を持たない人間である。
だが、その訴えも虚しく……彼女の頭蓋は、鋼鉄の足によって踏み潰された。
「あははははははっ! 賈栩賈栩賈栩ぅ! 僕、僕、頑張るからねっ!! あははははははっ!」
完全に正気を失った笑い声を上げる張繍。彼の無双甲冑が手にした斧も、べっとりと血で染まっている。
先ほど、逃げ惑う兵士や女子供の頭を、片っ端から叩き割ってきたところだ。
賈栩は、実験動物の変貌ぶりに心が満たされるのを感じつつ、邪気の無い声で告げる。
「ええ、期待しておりますよ、張繍殿」
戦場の異常な空気は、人間の倫理観を容易く喪失させる。
自らの手を汚さない、無双甲冑に乗っているなら尚の事だ。
張繍だけではない、賈栩率いる曹操軍の兵は、血に飢えた野獣となって、劉備軍を殲滅する。
そんな地獄の中を、愛馬“流星”を駆り、単騎で坂をひた走る趙雲。
懐には阿斗を抱き、後ろには甘夫人を乗せている。
後方から、数機の無双甲冑が追いすがってくる。
「逃がすなぁ! 追え! 追えぇぇぇぇっ!!」
推進装置によって、あの巨体からは想像も出来ぬほど、無双甲冑は速い。
見る見る内に、距離が詰められていく。
射程圏内に入った瞬間、砲弾が飛んでくる。
「ちょ、趙雲さん!!」
見る必要も無い。音と空気の流れで、砲弾の軌道は特定できる。
後ろに槍を突き出し、砲弾を弾き飛ばす。
さらに、趙雲は左方から飛んでくる砲弾にも気づいていた。
槍の柄の尻で、砲弾を叩き落とす。
続けて飛んで来るは、後方の騎馬隊による弩弓の一斉射撃。
これは、背を向けたままではかわしきれない。
「奥様! 馬から手を離されませぬよう!」
手綱を握り、馬を背後へと急転させる。甘夫人が振り落とされぬよう、必要最小限の速さで。
そのまま、手にした槍を旋回させ、円形の盾にして矢の雨を弾き飛ばした。
その後も、降り注ぐ矢と砲弾を、趙雲は神業めいた超反応で叩き落としていた。
甘夫人と阿斗に、かすり傷一つ負わさぬように。
だが……
「! 趙雲さん!」
「………………」
趙雲は表情一つ変えない。肩に、一本の矢が突き刺さっていても。
先ほど馬を反転させる際、甘夫人を気遣ってやや速度を緩めたのが原因だ。
彼一人ならば、こんな失態を演じることは無かった。
馬が遅い……当然だ。
赤ん坊は除いても、人間二人、いつもの二倍の体重が乗っているのだ。
更に、趙雲はあえて全速を出さずに走らせている。
この馬もまた幻獣種。最高速度を出せば、人間である甘夫人はたちまち振るい落とされてしまうだろう。
結果、敵に追い付くことを許してしまっている。
彼女ら人間の身体は、あまりにも脆い。趙雲は、そのことを熟知している。
硝子細工を馬に乗せ、それを壊さずに戦うようなものだ。
彼女らを壊さない“最小の力”、かつ、その範囲内における“最大の力”、その境界を正確に見極めつつ、戦うしかないのだ。
自分一人ならば、とうに万の敵を屠っている。
だが、護るべき対象を抱えている以上、思い切った攻めに出て、敵の数を減らすこともできない。
このままでは、夫人はおろか、自分の身の安全も……
――生き延びろ――
主君の命令が、脳内で木霊する。
自分一人が生き延びれば、与えられた任務は達成できる。
彼女らの存在が、任務遂行の妨げとなるならば、その時は迷わず……
胸の奥が痛む。
それは、とうに忘れていたはずの痛み。
“完璧”を目指すと決めた時に、捨て去ったはずのものだった。
だが、実際には、捨てきれていなかったのだ。そう、あの時も……
――趙子龍、この城から逃げろ。そして、何としてでも生き延びよ。それが、君に下す最後の命令だ――
伯珪様……
彼が契約を打ち切り、自分だけ生き延びるよう命令した時……自分は何を思ったのか。
臣下として、主君の命令は絶対……それに異を唱えることは許されない。
己は武将、人間を超えた力を持つ者。
その気になれば、羽虫を押し潰すように、容易く多くの人々を殺めてしまえる存在だ。
人の形をした怪物……それが武将の正体だ。
ゆえにこそ武将は、自己を厳しく律する必要がある。
それが、己の欲求に従い、好き勝手に動いてしまえば……ただの無軌道な暴力にしかならない。
倫理も規範も存在しない武将の暴走は、乱世以上の地獄を招くだろう。
己の感情に従って怪物となるか、己を殺して道具となるか。
趙雲は、後者を選んだ。元より完璧を追求する性格ゆえ、その中間を選べなかったのだ。
己を殺し、ただ、主君の為にのみ生きる。道具としての“完璧”を目指す。
現実を見れば、大半の武将達が、己の感情の赴くままに動いている状況だ。
だがそれが、彼が己の生き方を改める理由にはならない。
何もかもが不確かなこの世界だからこそ……
自分は一度交わされた契約を、そして己を決して裏切らぬと誓ったのだ。
だが……
あの時、自分はどう思ったのか。
寂しげな笑みを浮かべる主君を見て、何を感じたのか。
本当は……彼を助けたかったのではないか。
公孫贊を連れたままでは、脱出は困難を極めただろう。任務の成功率は著しく落ちる……
だからこそ、公孫贊は自分だけ脱出しろと命令したのだ。
趙雲は、その命令に抗うことは出来なかった。臣下としての在り方を、貫き通したのだ。
……後悔しているのだろうか。
あの時、公孫贊を救えなかったことを。
例え、彼が死を望んでいたとしても、それを見過ごしてしまうのは、道具としては正しくても、臣下としては正しかったのだろうか……
今、こうやって任務の成功を度外視して甘夫人と阿斗を守っているのは、その時の贖罪ゆえか……
いや……
自分は、そんな上等な人間ではない。
糜夫人に哀れみは感じる。彼女の願いを叶えてやりたい、という思いはある。
自分に、完璧とは遠い揺らぎがある事も、また事実だろう。
だが……
自分の中には、もっと冷徹な心算がある。
“全ては主君のために”
それだけは、趙雲の中で決して譲れぬ信念……否、掟であった。
(なるほどな、趙雲とやら……やってくれる)
賈栩は、趙雲の狙いに気づきつつあった。
明らかに足手まといである甘夫人と阿斗を連れて逃げる趙雲。
主君の妻子を、命懸けで守り抜く……臣下としては、実に自然な行動に思えるだろう。
だが賈栩は、その行動に裏の意図を感じ取った。
いや、欺かれたことに気づいたというべきか。
(劉備の妻と息子を連れて逃げることで、可能な限り我々の注意を引きつけ、劉備への追っ手を減らすつもりか。
ククク! なるほど、最初からそれが狙いだったというわけか?)
ここで改めて、あの劉備の妻子にどれほどの価値があるのか考える。
相手は妻子を見捨てて逃げるような父親だ。人質の役には立つまい。
殺したところで、劉備には何の問題はない。自分の後継者……子供などは、いつでも作れるからだ。
だからこそ、劉備も平然と見捨てて逃げることが出来るのだ。
ここで劉備の息子を追ったところで、益などは無い……それが、賈文和の出した結論だった。
見れば趙雲は、真っ直ぐ走っているようで、本来の進路から大きく左側に反れて移動している。
自らを囮として、劉備への追っ手をこちらに裂こうとしているのだ。
これ以上趙雲に感けていれば、劉備を取り逃がす事態に成りかねない……
(と……この賈文和に思わせることまでが、貴様の狙いか?)
劉備の妻子に殺す価値が無いのは確かだ。
しかし、自分の目の前には、それ以上に美味しい獲物がぶら下がっている。
(息子などもはやどうでもいい……この賈文和が真に殺すべき敵は、貴様だ、趙雲!)
規模で見れば、取るに足らぬ弱小でしかない劉備が持つ、二つの財産。
一つは声望と弁舌を駆使して兵や民の心を揺り動かす煽動の才。
そしてもう一つが、関羽、張飛、趙雲という、彼には過ぎたる力を持つ武将達だった。
これらがあるからこそ、曹操軍は劉備軍を将来において“危険な敵”と見なしている。
逆に言えば、劉備という男の価値を高めているのは、ただそれだけなのだ。
ここで趙雲を討ち取れば、劉備の戦力を大幅に落とすことが出来るに違いない。
そして、甘夫人と阿斗という足手まといを連れている今こそ、趙子龍を仕留める絶好の機会なのだ。
(クククク……認めようではないか、劉玄徳!
この戦……これだけ混乱した状況で、貴様一人を討ち取るのは至難の業だ!
その点において、既に貴様はこの戦に勝利している!
見事だよ。曹操軍三十万を相手に、逃げの一手に徹することで、勝ちを拾うとはな!)
民草や臣下、親族を囮にしてでも、自分一人逃げ延びようとする。
その生き汚さに、賈栩は素直に賞賛を送る。
だが、それは一時の勝利に過ぎない。
劉備が、曹操軍全てを倒す必要が無いように……曹操軍も、この長坂で、劉備を殺す必要は無いのだ。
曹操軍が脅威と見なし、倒さねばならないのは劉備という一個人ではなく、彼が築き上げる“劉備”という勢力のことだ。
劉備を殺さずとも、彼を“英雄”たらしめている虚飾を全て剥ぎ取ってしまえば……劉備は何ら脅威でもなくなる。
劉備を殺さずして、“劉備”を殺す。
その第一歩……されど、あまりに大きな一歩として、まずは奴の腹心の配下、趙子龍を討つ!
それが自分に成せるか? 賈栩は自問する……
趙雲は、劉備などとは物が違う。
関羽や張飛……こちらで言うなら、張遼や張合に匹敵する実力者だ。
逃げの一手を打たれれば、討ち取ることは極めて困難となろう。
だが……それは、足手まといがいなければの話だ。
もしも趙雲が、あの妻子をただの囮以上の存在だと考えていれば……
「女と赤子を狙えい! 逆賊の血を後世に残してはならん! 劉備の息子を、必ずや抹殺するのだ!」
あえて、“最大の標的”とは別の標的を指示する賈栩。
これでいい……趙雲が、妻子の防衛に徹すれば、必ず隙を晒すはず。
(趙雲とやら、試してやろう。貴様の忠誠心がどの程度のものか……
真に劉備を思うならば、生き延びるべきは妻子ではなく貴様の方だ。
いざとなれば、迷わず切り捨てるが良かろう。さすれば、貴様の勝利だ!
だが、情に流され、あの二人を見捨てなければ、三人まとめて死ぬことになる!)
賈栩の内では、任務を逸脱して、趙雲という男への歪な興味が芽生え始めていた。
「!」
趙雲の目の前に、百余名からなる騎馬の群れが、進行方向に回り込んできた。
自分達を逃がさぬよう、確実に包囲する心算だろう。
先程まで殺戮に興じていたというのに、今は完璧な統率の下動いている。
これが曹操軍騎馬隊の錬度というわけか。
どうやら、敵は意地でもこちらを逃がすつもりは無いようだ。
自らを囮として、劉備への追っ手を減らす、こちらの目論見は成功したと言えるが……
己の中に迷いがあるのは確かだ。
この先、甘夫人と阿斗を見捨てることなく戦い続けたとして、果たして生き延びることが出来るのか……
敵兵は全員弩弓を構え、発射態勢に入っている。
後方の兵も、同時に弩弓を構える。文字通り“挟み撃ち”にする格好だ。
「――――――」
迫り来る危機に、趙雲は迷いを打ち消す。
今は、己の持てる全てを尽くして、この場を突破する。
甘夫人と阿斗も、最後まで見捨てない。
最後……とは、命令を破るか否かの境界のことだ。
主君の命令は趙雲にとって絶対……どうあろうと、その境界を踏み越えることは無い。
いざとなれば、自分はあっさりこの二人を見捨ててしまえるのだろう。
ならば、その命令の範囲内で、自分に出来る全力を尽くす。
二人を生かしたまま脱出するのは、“困難”ではあるが、“不可能”ではない!
それは、臣下としては“完璧”とは言えないのかもしれない。
“二兎を追うもの一兎を得ず”の諺通り、多くの命を救おうとするあまり、肝心要である自分自身をも守り通せないかもしれない。
だが、完璧を超えた先にこそ、真の完璧はある。“完璧”に近づくことが出来る。
幼少期からずっと……自分は、決してたどり着けない完璧を、追い求めてきたのだ。
何ということはない。
自分が、こうして死力を尽くして戦うのは……自分の本性に従った結果というわけだ。
その時、甘夫人は垣間見た。
社交辞令以外では笑ったことの無い趙雲の口許が、僅かに綻んでいるのを……
趙雲は、槍を小脇に抱え、左手で甘夫人を押さえつけ、右手の手綱で馬に支持を出す。
この三つの動作を、ほぼ時間差なしの一瞬でやってのける。
前後にも左右にも逃げ場が無いならば、逃げ道は一つしかない。
大地を力強く蹴り、“流星”が天高く跳び上がる。
前後の部隊が放った矢は共に標的を失い、互いの友軍に命中してしまう。
だが、敵も流れ矢の危険は警戒していたのだろう。抜け目無く盾も構えており、同士討ちの被害は最小限に留まった。
趙雲は、空中で手綱を捌き、比較的敵の少ない地点に着地する。
無論、甘夫人と阿斗にかかる衝撃が最小限になるよう、力を調整してある。
同時に飛んできた矢を槍を弾き飛ばし、再び加速する。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚……全ての感覚を研ぎ澄まし、戦場におけるあらゆる情報を脳内に収集する。
敵の配置、敵の武装、地形の情報、大気の流れ、友軍の動き、愛馬の状態、甘夫人の状態、阿斗の状態、そして、自分自身……
どんな僅かな変化も見過ごさず、危機と成り得る事項には即座に対処する。
生き延びる為に……己の全てを研ぎ澄ます――
趙雲は、己の扱う銀色の槍が好きだった。
その形状には無駄が無い。ただ、敵を突き殺すことにのみ特化している。
武器は、日々の手入れを怠らない限り、決して使い手を裏切らない。
使い手の技量を正直に、余すことなく、戦場に解き放ってくれる。
それを見るたび、思うのだ。
自分も、この武器のようにありたい。
主君の想いを、余すことなく具現化できる臣下でありたいと――
「死ねぇぇぇぇぇ!!」
趙雲の行く手に、一体の無双甲冑が立ちはだかる。
手に斧を携えた、鋼鉄の巨体が肉薄してくる。
砲撃ではなく、あえて接近戦を選んだのは、単純に弾薬が尽きたからである。
無双甲冑に搭載されている砲弾は、左右それぞれ三発、合計六発。
彼だけではない、ほぼ全ての無双甲冑が、砲弾を使い果たしていた。
無双甲冑の装甲は、刀剣槍戟の類はもちろん、砲弾からも完全に操縦者を守る。
趙雲の槍と膂力では、幾重にも重ねた鋼の鎧を穿ち通すことはできない。
最強の盾は、同時に最強の矛にもなる。
斧を使うまでもない。巨体による体当たりならば、奴の槍ごと砕き散らすだろう。
この戦法で、悪来改は多くの戦果を上げてきたのだ。
だが……
無双甲冑が、趙雲の槍の射程に入った瞬間……
趙雲の両腕が、音も無く流れる。
操縦者の目は、ただ光が瞬いたようにしか見えなかった。
次の瞬間……彼が目にしたものは、赤一色で染まった操縦席だった。
「か……はっ!?」
彼には、何が起こったのか理解不能だった。
無双甲冑の喉にあたる部分……そして、彼自身の喉に円形の孔が穿たれていたのだ。
溢れ出る鮮血が、操縦席を埋め尽くす。
操縦者が絶命した無双甲冑は、その場で転倒する。
完全無欠に思える無双甲冑だが、弱点もある。
頭部と四肢を繋ぐ間接部分は、機能上どうしても装甲が薄くなる。そこを槍で突かれれば、一たまりも無い。
だが、その隙間は極々僅かなもの……とても狙って突ける部位ではない。
武将の中でも群を抜いた、集中力と観察力……そして、精密に手を動かせる者以外は。
無双甲冑が自身の間合いに入った瞬間……趙雲は、槍を削岩器のように回転させ、胴体と頭部の付け根の部分を狙い、刺突を繰り出したのだ。
そしてただの一撃で、大砲の直撃にすら耐える無双甲冑を仕留めてみせた。
(馬鹿が……先走りおって)
賈栩は内心舌打ちする。
並みの武将ならば、それで勝てたのだろうが、相手はあの趙雲だ。考え無しの体当たりで、倒せるはずも無い。
趙雲の槍の届く範囲は、まさに“死の結界”。
矢だろうが弾丸だろうが、侵入する一切を叩き落し、踏み入れた者は、何であろうと確実な死が与えられる。
また無双甲冑をけしかけても、先ほどの二の舞になるだけだ。
更に悪いことに、兵士達は趙雲に恐れを抱き始めていた。
あの無双甲冑を一撃で斃したことで、気づかされたのだ。
彼は獲物ではなく、獰猛な獅子であるということに……
「か、賈栩ぅ……!」
先ほどの光景は、張繍にとっても衝撃的だったようだ。
嬉々として敵を殺していた態度はどこへやら、声に、いつもの弱気が混じっているのが分かる。
本来ならば……彼も続けて趙雲に仕掛けるつもりだった。だが、先行した甲冑が一撃でやられるのを見て、途端に体が竦んでしまった。
「張繍殿。我らは一旦下がり、弾薬の補給を行いましょう」
騎兵の中には、無双甲冑の弾薬を補給する役割の兵もいた。
賈栩は周囲の騎兵に、新たな命令を飛ばす。
「接近戦は禁じる。包囲を維持しつつ、矢を射掛け続けろ。何、当らずとも構わん」
例え趙雲の身体に傷一つ負わすことができなくても……この波状攻撃は、それ以上に重要なものを削り取ることだろう。
(さぁて……この大軍勢を相手にどこまで持つかな……
お前が劉備に忠実な番犬というのなら、己が生き延びることを優先させるはずだ。
情を捨てて実を取るか、情に流され実を捨てるか!
そのどちらでも、俺にとっては良い見世物となる! ククククク!)
興味を持った対象を、つい実験動物にしてみたくなる。
そんな悪癖があることを自覚しつつ、それもまた、切っても切れぬ賈文和の一部なのだと理解していた。