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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十二章 長坂の戦い(七)


 彼は物心ついた時から、“完璧”に憑かれていた。

 


 僅かな欠損や矛盾も認めることができず、“完璧”に在らざるものは無為も同然とさえ考えていた。


 白か黒か、優か劣か、善か悪か、有か無か、一か零か。


 その中間にある曖昧さを、容認することが出来なかったのだ。



 彼は、“武将”という、ただの人間とは違う特別な力を持って生まれた。

 その力は子供の身でありながら、屈強な大人数名を軽くあしらえるほどであった。

 故郷の道場では、誰も彼に敵う者はおらず、武将の中でも特に秀でた才能を持っていた。


 だが、彼はその才能に慢心することは無かった。

 彼の本質は、“完璧”を目指すことにある。

 それは、限界まで突き詰めることによって到達できるもの。

 どれだけの実力があろうとも、さらに上に伸ばせるならば、それは“完璧”とは言えないのだ。


 ゆえに、彼は限り無く完璧に近づくことを目指し、自己の研鑽に努めた。

 休むことなく修練に励み、武力のみならず、学問を修め、礼節を身につけた。

 中でも料理については、特に秀でた才能を発揮した。

 周囲からは、勤勉で公正な、非の打ち所のない好青年に映ったことだろう。



 だから誰一人……彼自身でさえも、己のいびつさに気づくことは無かった。





 何事においても潔癖な彼は、これほどの力が、一体何の為に存在しているのか……ということを考えざるを得なかった。

 人間を遙かに越えた力を持つ武将……自分を含む彼らの存在には、必ず何らかの意味があるはずだ。

 その意味を知らずして、“完璧”に至ることなどできない。


 当時の彼は、その問いに答えを出すことが出来なかった。




 やがて、黄巾の乱が始まり、彼は官軍に加わって、黄巾党を相手に戦った。

 黄巾の蛮行は、彼の故郷の周辺にも及んでおり、親類縁者を守るため、彼は力の限り戦った。

 この時のために研鑽してきた力は、強大な武となって、黄巾軍を圧倒した。


 だが……程無くして彼は思い知る。

 官軍に黄巾軍……そのいずれも、それぞれの正義を掲げて戦っているという現実に。


 官軍の語る正義、黄巾党の語る正義、そのどちらにも理はあり、同じぐらい欠陥はあった。

 官軍は、天下の平穏を守るために黄巾を討っている。

 同時に黄巾は、飢えた民草を食わせる為に官軍と戦っている。

 黄巾が罪無き民草から略奪を働けば、官軍も女子供もろとも黄巾に関わる者達を虐殺する。

 彼が戦ってきたのは、どちらが善でも悪でもない、血塗られた地獄だった。



 自らの眼で見、自ら体験することで、彼は理解する。

 

 完璧な白も、完璧な黒も有り得ない。

 この世界は、彼の理想とは程遠い、灰色の世界なのだ。


 “完璧”など、この世には存在しない。

 正義や信念に、“完璧”などは無く、ただ立場における違いがあるのみだ。



 そして……武将の存在意義。これについても答えは出た。


 それは、ただの“人殺しの道具”に他ならないというものだった。


 どれだけ好意的に解釈しようとも、武将の有する能力は、人間を殺傷することに特化している。

 いつまでも若い時を維持できる肉体、超人的な戦闘能力。

 それらは、戦いというカタチに収めてこそ、存在意義を確立できる。

 そのことは、黄巾の乱で存分に思い知らされた。

 中華の戦は、全てが武将を軸として成り立っていることに。


 武将の戦闘力は、時に大勢の味方の命を救うだろう。

 だが敵にとっては、理不尽な暴力を振るう悪魔でしかない。


 命令を下す者の使い方次第で、善にも悪にもなる……それは、道具以外の何物でもないではないか。



 普通の人間ならば、悩み、迷った挙句、現実を受け入れ、“完璧”であることを諦めるだろう。


 彼も、世界には完璧など有り得ないということは、認めざるを得なかった。


 だが……それでも彼は、“完璧”を捨てることが出来なかった。


 今更生き方は変えられない。それが、彼の本性なのだから。

 


 “完璧”のありえない世界で、“完璧”を追い求める方法はただ一つ……


 正義や信念に、“完璧”はない。

 だが、単純な人間としての能力ならば……

 理由も意味も存在しない、ただ、“道具”としての性能ならば……“完璧”は、存在する!


 武将がただの戦争の道具ならば……自分は道具としての“完璧”を目指そう。



 仕える人間は、誰であろうと構わない。

 この世に明確な正義が存在しない以上、何処に付こうと同じことだ。

 彼にとって重要なのは、方向性よりも、捧げる忠誠の度合いこそが大事なのだ。

 迷っている時間さえも、完璧を求める彼には惜しかった。


 重要なのは、公平性を守ること。

 彼が定めたのは、最初に自分を臣下にした者に終生服従する……というものだった。

 そして、君臣の結びつきは、義理や情などという不確かなものではいけない。

 “契約”という、誰にとっても明白な形にしなければならない。




 

 こうして……彼は、最初の主君を得、ただ主君の命令を遂行する存在モノに成り果てた。



 そのことでしか、“完璧”であることを証明できないがゆえに。




 その主が死に、新たなる主を得た今も……

 彼は変わらず、“完璧”を追い求め続けている。










 自分達の乗る御車が、突然速くなった。外の馬群の足音も、一層激しくなったように感じられる。


(いよいよ、形振り構わず逃げ出してるってわけかい……)


 糜夫人は、誰に確認することもなく、自分達が抜き差しならぬ状況に置かれているのだと悟っていた。

 曹操の追っ手が、いよいよ間近まで迫っているのだ。

 だが、糜夫人はあくまで平静を装う。この御車には、甘夫人と阿斗も乗っている。

 彼女らに、無用な心労を負わせないためだ。

 しかし、赤ん坊の鋭敏な感覚は、迫り来る危機を感じとれるのか、阿斗は先程から大声で泣き続ける。


「阿斗ちゃん、大丈夫ですよ~。きっと、お父様が助けてくださいますからね~~」


 そう言って腕の中の息子を慰める甘夫人だが、彼女の青ざめた顔はとても大丈夫と呼べるものではなかった。

 彼女もまた、不安と恐怖に揺れているのだ。そのせいか、阿斗は中々泣き止まない。


「甘ちゃん、阿斗ちゃんをこっちに」

「え?」


 甘夫人の手から、阿斗を受け取る糜夫人。

 自分は、子供をあやす文句など知らない。


 その代わり、唄を歌ってみせた。

 自分が小さい頃、母に聞かせて貰った子守唄だ。

 程無くして、阿斗の泣き声は収まり、泣き疲れたのか、すやすやと眠り始めた。


「ありがとうございます。お上手なんですね」

「いやいや、歌詞なんざうろ覚えで、鼻唄みたいでちと恥ずかしいさね」


 慣れないことをしたためか、照れ隠しに笑う糜夫人。

 それでも、甘夫人は思う。


 子宝には恵まれなかったが……もし子が生まれていれば、このひとは、きっといい母親になったに違いない。

 斜に構えてはいるが、彼女は自分や阿斗を、大切に思っていてくれている。

 辛い旅路の最中、どれだけ彼女に勇気付けられたことだろう。本当は、思いやりのある、優しい女性なのだ。

 

 一方で、もし彼女の方が劉備と先に出会い……同じく子供を授かっていたら、どうなっていたか考える。

 今のように、仲良く出来るのだろうか。

 嫉妬も確執も無く……彼女と付き合うことが出来るのだろうか。

 それにはっきりと答えられない自分は……子供を持っているという優越感で、内心糜夫人を見下しているのではないか。

 だから、恋敵ではなく、友人として親しく接することが出来るのでは……


 そんな、己が心根の醜さに気づき、甘夫人は胸を痛めた。



 自覚していないわけではない。自分が、流されているだけの人間である事を。

 だが、そこから変わるには、彼女はあまりにも非力すぎた。

 何が起ころうと、妻は生涯夫に尽くすもの……そんな価値観から抜け出すことなど、思いもよらなかったのだ。

 

 しかし、どんな状況でも気丈に振舞う糜夫人や、無邪気に笑う阿斗を見て、このままではいけない、そう考える。

 危機が間近に迫っている今……例え女であろうと、自分の頭で考え、大切なものを守るために、自ら行動を起こす時ではないのか……



 だが……



 甘夫人に芽生えかけた小さな決意は、間近で起こった爆音によって掻き消された。







 砲弾が直撃し、爆風によって二体の騎馬が吹き飛んだ。

 劉備一行の後方には、賈栩率いる無双甲冑十二機が、ぴったり追い縋っている。

 まだ距離は開いているが、既に悪来改の肩部連装砲の射程に入っている。

 続けて爆音が轟き、悪来改の肩の砲塔から放たれた弾丸が、劉備軍に直撃する。


「一号機から四号機は左翼へ、九号機から十二号機は右翼に回れ! 

 砲撃の手を緩めず、劉備軍を包囲殲滅せよ!」


 やや後方に陣取り、他の無双甲冑に指示を出す賈栩。


「か、か、賈栩ぅ……ほ、本当に、いいのかなぁ? こ、こんなことしちゃって……」


 傍らにいる張繍が、怯えた声を漏らす。

 無双甲冑は完全防音という訳ではなく、兜の一部を開閉することで、近くにいる他の乗り手と会話できる。

 なお、戦闘の際には閉じられるようになっている。


「ええ、あそこにいるのは劉備の縁者や側近ばかり。

 降伏を呼びかけたとて、聴き入れはしないでしょう。

 もたついていると、劉備が一人逃げてしまうかもしれませんしね。

 それは、曹操様も望まれぬことでしょう」

 

 曹操……その言葉を聞いただけで、張繍の総身は震え上がる。

 せっかく振り払いかけていた恐怖の影が、またじわじわと彼を侵食していった。


「こうやって撃ち続けていれば……運良く流れ弾が劉備に命中するかもしれませんしねぇ」

「……うん! わかったよ、賈栩! よぉし……僕も……僕もやってやるぞ!!」


 そう言って、張繍もまた砲撃を開始する。

 またも爆煙が立ち上り、劉備軍の中から、阿鼻叫喚の声が上がる。




 勇んで砲撃を始める張繍を見て、賈栩は舌で唇を舐める。

 

 半分は嘘だった。こんな砲撃を繰り返した程度で、劉備を殺せるとは思っていない。

 劉備には、的廬という瞬時に長距離を移動する幻獣がいる。

 いざとなれば、その能力を使って一人遠方へと逃れるだろう。


 賈栩は最初から、劉備の側近や親族を皆殺しにする気でいた。

 全滅したという事実があればこそ、彼らを見捨てて逃げた劉備の声望を貶めることができる。


 曹操が、このようなやり方を望んでいるかどうかは分からない。 

 むしろ、賈栩本人が好ましいと思う作戦だ。

 それでいて、賈栩はこの方法こそ、曹操の望みに合致すると信じていた。


 曹操は、他者の個性を何より重んじる男だ。

 配下がどのような行動をとるかなど、手に取るように理解している。

 自分がこの戦場を任された以上……最も賈栩らしい戦をすることこそ、曹操が求めていることのはずだ。


「撃て! 撃て! 我らが丞相閣下に逆らう者がどうなるか……存分に思い知らせてやれ!」





 爆風によって飛ばされてきた破片が、趙雲の頬を打った。

 既に攻撃は始まっているが、彼は行動を起こそうとはしない。

 ぴったりと劉備の傍に付き、馬を走らせてだけだ。

 劉備の命令が下されていない以上、傍らの劉備の護衛に専念するのが、己の最優先事項だからだ。


 

 それでいて……爆音が轟いた瞬間……彼の脳裏に浮かんだのは、二人の女と一人の赤子だった。



 荊州にいた頃……糜夫人から、ある頼みを聞かされたのを思い出す……



 ――甘ちゃんと阿斗ちゃんを、護ってやってくれないかね?

 あたしは、あの子達が無事生き延びてくれれば、それでいいんだよ。



 

 趙雲は、直ちに彼女らを頭から消し去る。

 自分に必要なのは、主君の命令を十全に果たす機能だけ。

 それ以外の雑念は、任務を遂行する上での障害となる。

 周囲の状況を冷静に把握し、劉備に訪れる危機にのみ神経を払う。 


 劉備の表情は動かない。妻子が危険に晒されているというのに、まるで意に介さぬかのように前を見て走り続けている。

 そんな彼の唇が、久方ぶりに動く。


「……孔明」

「なぁに?」

「あれをどうにかできねぇか? てめぇの道術とやらでよ」


 劉備の求めに対し、孔明は迷わずこう答えた。


「やだぁ、面倒くさい。言ったはずよ。私は、敵を倒すために“力”は使わないってね」


 それもまた、あの無名庵で交わした契約の一つ。

 諸葛亮は、敵兵の前では道術を使わない。

 もし彼女が道術を行使すれば、突風で無双甲冑を薙ぎ払い、この場を切り抜けることもできるかもしれない。

 しかし、それは曹操軍に、諸葛孔明の存在を強く印象付けることになってしまう。

 多くの人々に注目され、化け物扱いされることは、諸葛亮にとって非常に“面倒くさい”事態なのだ。

 自分はあくまで、少し頭がいいだけの人間の軍師として押し通す。それが諸葛亮の、決して譲らぬ条件だった。


「だろうな……」

「私は私が無事ならそれでいいの。貴方の家族や軍がどうなろうと、知ったこっちゃないわ」


 孔明のそんな発言を聞いても、劉備は眉一つ動かさない。

 分かっていたことだ。

 この女は、どれだけ理不尽なことであろうとも、一度言い出したことは決して翻さない。


「そう言うと思ってたぜ……だからよ」


 劉備は、左隣を走る趙雲にこう命じた。


「子龍! 孔明を的廬の後ろに乗せろ!」

「かしこまりました」


 命令を受けた趙雲の動きは速い。 


「申し訳ありません、孔明様」


 諸葛亮が声を発するより早く、彼女の後ろに回りこみ、その肩を掴んで、強引に劉備の後ろへと移した。


「ちょ……何すんの!」

「はっ! こうすりゃ、お前は嫌でも俺を守るために、術を使わざるを得なくなるわけだ。俺がやられたら、お前も一緒にお陀仏だもんな!」


 孔明は、見るからに不快な表情に変わる。


「それに、てめぇを置き去りにしたら、そのまま逃げ出しかねないからな。てめぇには、まだまだやって貰うことがあんだよ」

「……そう、そういうこと。こうやって私をこの子に乗せたってことは……」


 諸葛亮は、劉備の意図を察した。

 彼はいよいよ、的廬の特殊能力、空間転移を使って、この場を切り抜けるつもりでいる。

 いかに無双甲冑が速かろうと、的廬の空間転移には追いつけない。


 だが、的廬に乗せて空間を転移できるのは、劉備以外に一人だけ……

 これはその人間の質量とは一切関係ない。

 “道”とは、元々自然界から乖離した法則がまかり通るもの。


 “生命二つ分”……それが、的廬が共に空間を移動できる限界なのだ。


 劉備がその一人に選んだのは、諸葛孔明だった。

 彼女がいれば、どんな危機が迫ろうと、自己の保身のためにそれを跳ね除けようとするだろう。

 それに、彼女は劉備の目的の為には、必要不可欠な存在である。


 今後の覇業を考えるならば、文句の無い人選……

 だがそれは同時に……他の助けられる親族の命を、全て切り捨てることを意味していた。



「子龍!!」


 劉備は、再度を趙雲に呼びかける。


「俺は今から、真っ直ぐ漢津に向かう。この場は任せた。

 だが、無理はするな。絶対に、生きて俺のところに合流しろ!」

「はっ!」


 相手は無双甲冑十二機。

 絶望的な戦力差だが、趙雲ならば、彼らを少し足止めして、いざとなれば逃げ出すことも容易だろう。

 さらに、劉備はこう付け加える。感情を押し殺した、冷徹な声で。



「……今、ここで必要な人間は、お前だけだ。

 いいか、他がどうなろうが構わねぇ。お前一人だけ生き延びることを考えろ」

「……は!」


 返事が僅かに遅れたことを、趙雲は自覚していた。

 

 自分の家族を見捨てても、趙雲に生き延びろ……劉備はそう言っているのだ。

 家族を救うことに固執するあまり、自分の命をないがしろにするな……そう忠告している。


 優れた武勇と忠誠心を持つ趙雲は、今後とも有用な戦力になるであろう。

 彼の存在は唯一無二のもの、他に代替は効かない。


 家族は……そうではない。

 失ったとしても……劉玄徳の覇業には影響しない。


 彼は既に、家族の命を諦めている。“必要な人間”だと見なしていない。


 今劉備が見ているのは、己の目的のみ。

 勝利の為に必要な選択を、迷い無く選んでいる。選択の為に、非常に徹することが出来る。

 生き延びる為には手段を選ばない。それは、天下に覇を目指す者ならば、当然の在り方だ。

 

 だが……



 だが?


 

 自分は……この命令に異存があると言うのか。

 馬鹿な……この自分が、主の命令を完璧に遂行することを第一とする、この趙子龍が……

 主君の口から出された命令に対して、僅かでも拒絶の意志を持ってしまうなどと……!



 

 そんな彼の想いなど知る由も無く……


 劉備と孔明を乗せた的廬の身体が、光の粒子になって宙に溶けていく。

 空間転移が完了し、先頭には趙雲ただ一人が残された。



 とにかく、今の状況を確認しようと、後ろを振り向いた次の瞬間……




 砲弾が、一台の御車を直撃した。





 車から放り出される、赤子を抱えた女性。


 あれは――




 この時趙雲は、一切の思考を空にして、炎上する御車へと馬を走らせた。






「あはっ! あははははっ! あはっ! やったよ! やったよ賈栩ぅ! 当った! 僕が! 僕が当てたんだ!!

 あはははははははははははははっ!!!」


 張繍の無双甲冑の放った砲弾が、御車に命中し、粉々に吹き飛ばした。

 狙ったわけではない。そもそも無双甲冑から見える視界は狭く、とても狙って当てられるものではない。

 ただの偶然であるが、それだけに彼の歓喜もひとしおだった。


 彼の心は、既に戦場の狂気に囚われている。

 今自分が撃ったのが、非戦闘員の乗る御車であることなど、気づくはずも無い……


 今の彼はただ、眼前の敵を殺すことが、曹操の機嫌をとる道だと信じていた。







「奥様! 阿斗様!!」


 趙雲が駆けつけた時、甘夫人は泣き叫ぶ阿斗を抱き締めて、その場にへたり込んでいた。

 彼女の目の前では、御車が炎に包まれている。


「わ、私は大丈夫……でも、糜夫人が……糜夫人が!!」

「! 奥様!!」


 趙雲の眼は、同じく御車から投げ出された糜夫人の姿を捉えた。


 だが……離れた位置から見てもすぐに分かるほどに……彼女はもう、手遅れだった。


 爆風で顎から下は焼け爛れ、腹には御車の破片が刺さっている。

 体から流れる血によって描かれた赤い円の半径が、急速に広がって行く。


「あ、あの人……私達を突き飛ばして……そのせいで……!」


 砲弾が直撃し、御者の内部が光に包まれた刹那……糜夫人は、甘夫人を御車から突き落とした。

 だがそれによって、自分の脱出が遅れてしまい……



 趙雲と甘夫人は、糜夫人の下へと駆け寄る。


「奥様! しっかりしてください! 奥様!」


 彼女には、まだ息があった。珍しく声を荒げて、呼びかける趙雲。


「……趙雲さん……かい? ……情けないところ、見せてしまったね……かはっ!」

 

 血を吐き出す糜夫人。彼女の唇が、さらに赤く染まる。


「喋ってはいけません!」

「いいさ……もう、長くない事ぐらい、分かっている……」


 喋り続けることは、死への短い時間を、苦しみで満たす行為でしかない。

 それでも、彼女は最期に喋らずにいられなかった。


「後悔は……してないよ。あたしが、自分で選んだ道だ……こうなることも、覚悟していたさ……」


 半分は嘘だ。迫り来る死の恐怖を克服できるほど、自分は強い女ではない。

 だが、もはやどうにもならないのも事実……死に近づくに伴って、彼女は自身の最期を受け容れつつあった。



「だけど!」

「!」


 震える手で、趙雲の手を強く握り締める糜夫人。

 死にかけた人間とは思えぬ力と、強い意志が感じ取れた。

 最期の力を振り絞り、彼に訴える。


「あの子は……阿斗ちゃんは……好きでここに来たんじゃない……!

 あの子は何も悪くないんだよ!

 誰の子であろうと……生まれたばかりの子は……幸せに生きる権利があるはずさ……

 お願いだよ……甘ちゃんを……阿斗ちゃんを……守って……おく……れ……――」


「奥様……」


 糜夫人の手から、急速に熱が失われていく。

 残る命を振り絞った、最期の訴えだったのだ。


 趙雲は糜夫人から目を逸らさぬまま……手にした長槍“雀蜂”を掲げる。

 飛来してきた砲弾を貫き、上空で爆破させる。



 状況は、眼で確認せずとも把握できた。


 取り残された趙雲と夫人達の周囲を、六機の無双甲冑が取り囲んでいる。

 残りの六機は、劉備を追って先に行ってしまった。


 六機の無双甲冑、その背後には万に達する兵が控えている。

 自分一人ならば、この場を切り抜けることも容易だろう。

 だが、甘夫人と阿斗を連れて脱出するとなれば……非常に困難になると言わざるを得ない。


 

 他に構わず、自分一人が生き延びることを考えろ――


 劉備の下した命令を、確実に遂行するには、いかな選択をすべきか……







(あの赤子は……)


 阿斗を目の当たりにした、賈栩の脳髄が高速で動く。あれはまさか、劉備の息子?

 さしたる根拠はなく、そう直感した。劉備の重臣である趙雲が、急ぎ助けにいく程の重要人物といえば……


 だとすれば、捕らえるべきか、殺すべきか。

 賈栩が判断を下す前に……


「あははははは!! 撃てぇ! 殺せぇ!!」

 

 張繍の声が、夜空に響いた。

 

 無双甲冑の砲口が、趙雲達に向けられ、爆音と共に、砲弾が発射される……




 轟音、閃光、爆発。



 趙雲らのいた辺りは、瞬時に爆煙に包まれる。



「あはははははははっ!! ねぇねぇ賈栩ぅ! これでいいんだよねぇ!! 賈ぁ栩ぅぅぅぅ!」


 けらけらと笑う張繍。その変貌ぶりに対しても、賈栩は冷静に把握していた。


(“呑まれた”な……)


 彼に強いられた極限の緊張は、敵を殺すことによってのみ解放される。

 今の張繍は、その解放感に酔っていた。

 敵を殺すことで……戦場の恐怖から逃れようとしているのだ。

 彼はもう、戦場の狂気に完全に自我を呑まれてしまっている。


 かつての主の変貌ぶりに、賈栩は、口許を歪める。


(壊れたならば……壊れたまま動かすとしよう!)


 それが、かつて董卓軍で恐れられた、闇の軍師……賈栩の真骨頂だ。




 


 その時……


「む!!」


 噴煙を突き破り、夜空に飛翔する騎影。


 それは、阿斗を抱きかかえ、愛馬の背に甘夫人を乗せた趙雲だった。



「奥様、しっかり捕まっていてくださいませ」

「は、はい!!」


 趙雲は、敵の包囲の隙を瞬時に見切り、そこに向けて馬を走らせる。

 弾丸のように速く、かつ、しなやかな動きは、無双甲冑や軍馬の隙間を縫い、瞬く間に包囲を突破する。


「な、なななななな!?」

 

 その速さに、張繍は目を丸くする。







 

 霞んだ視界の中に、甘夫人と阿斗を連れて逃げる、趙雲の姿が映った。


(頼んだよ……)


 もはや声を出すことも出来ない。視界は真っ赤に染まり、何も見えない。

 先ほどの砲撃で、体の一部が吹き飛んだようだ。

 人間としての原形を留めているかどうかさえ怪しい。

  

 自分も女だ。せめて最期は、美しいままで死にたかった……



 いや、違う――


 自分には、他にも未練があったはず。



 そうだ……自分には、好きな人がいたはずだ。

 

 生涯を賭して、愛してもいいと思った人。




 だが、その人は、この世界の全ての人間を愛していた。

 だから、自分はその人にとっての特別にはなれないのだと思った。

 やがて、自分が本当に、彼を愛しているのかどうか分からなくなった。


 弱かったのは、自分なのかもしれない。

 愛している自信が持てないから……自分から彼を避けてしまった。


 

 今となっては、それが後悔なのかどうかは分からない。

  

 単純に、愛が冷え切ってしまっただけかもしれない。



 それでも、確かに……好きだった人。




(やれ……やれ――)




 こういうもやもやした気分を晴らす時は、煙草を吸うのが一番だ。

 煙管は……愛用の煙管は、何処へ行ってしまったのか。


 今は無性に……煙管が恋しい。







 ――ほらよ。



 見えるはずの無い視界に。居るはずの無い男の手が見える。


 彼の手には、彼女の愛用の、花柄の煙管が握られていた。


 動かせるはずの無い手で煙管を取り……口に銜える。

 すると、あの男が燐寸で火をつけてくれた。

 煙管の先端から、紫煙が立ち昇る。




(……最期ぐらい、気を利かせたつもりかい……遅いんだよ)



 そう言う彼女の頬は、少し綻んでいた。









 焼け爛れた血塊となった糜夫人が、これ以上思考を動かすことは……永遠に無かった。


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