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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十二章 長坂の戦い(五)


「何ですって? 張飛殿が……!?」

「は、はい! 張飛殿は、全ての民が渡った後、橋を破壊したのですが……その際、橋と共に崖の下へ……」


 川の南側で、張飛の奮戦を最後まで見届けた兵士が、涙ながらに報告する。

 彼の胸の内には、単身曹操軍に立ち向かう張飛の姿が、いつまでも焼き付いていた。


 報告を聞いた徐庶は、目眩を起こす。


 一方の劉備は、話を聞いても顔色一つ変えなかった。


「……行くぜ、あいつが作ってくれた時間、無駄にしちゃあなんねぇ」


 的廬の手綱を握り、更に先へ進む劉備。


「げ、玄徳様……」


 確かに劉備の言うとおりではあるが……義弟が生死不明だというのに、いささか冷たすぎはしないか。

 徐庶は劉備の冷淡な対応に、やや困惑する。

 彼は、本当のあの劉玄徳なのか……? 




 先頭を走る劉備の傍に、諸葛亮が寄って来る。

 仏頂面を浮かべる劉備に、彼女は小声で話しかけて来る。


「随分と薄情ねぇ。あの子、貴方のために犠牲になったのに」


 劉備は、険しい顔つきで答える。“犠牲”という言葉が、彼の癇に障った。


「話聞いてたのか? あいつは死んだわけじゃねぇ。

 崖から落ちただけだ……なら、まだ生きてる」


 もしかすると、かもしれない、ではなく、“生きてる”とはっきり断言する劉備。

 劉備三兄弟にとって、確実な死以外は死に当たらない。

 生き延びる可能性があるのなら、それは無条件で喜ぶべき。橋を破壊し、自らも生きる道を繋いだ張飛を、心から褒めたたえたい。

 

「いくら心配したところで、あいつの生死は変わらねぇ。だったら、ただ信じるだけだ。必ず生きて、また会えるってな」


 結果が同じならば、気を揉むだけ時間の無駄……合理的な考えではあるが、諸葛亮は意地の悪い笑みを崩さない。


「ふーん、それが貴方達兄弟の絆と信頼って奴ね、うふふ……美しいわねぇ。

 だけどね……私が気にしているのは、そのことじゃないのよ」

「あ?」

「いつもの貴方なら、内心がどうあれ、本気で心配する演技でもしてみせたはずよ。派手に涙なんか流してね。その方が外受けがいいものね。

 なのにどうしたの? 天下の大嘘つきの貴方が、嘘をつかない。


 それは、“嘘もつけない程動揺している”ってことじゃあないかしら」


「……っ!」


「ああ、図星ね。貴方の語る言葉は全て嘘。

 本心を語っているようで、その実、冷淡を装うことで、心の弱さを覆い隠しているだけなのよ。

 見えるわ……弟が心配で心配で、グッラグラに揺れている貴方の心がね」



 見透かされた……


 今まで、兄弟にしか見通せなかった自分の仮面を……会ってまだ半年足らずだというのに……こいつは、事もなげに剥ぎ取ってきやがる……!



 ああ……その通りだよ。


 俺は……怖い。もしかしたら、あいつを失ってしまうんじゃないかってことが……!


 張飛のことは信頼している。きっと生きていると信じている。


 そう叫び続ける一方で……

 劉備にとって張飛が、信頼に足る男であればあるほど……彼を失うかもしれないという恐怖が、心を蝕むのだ。 



 かつて、徐州で虐殺に遭った民草の死体を目の当たりにした時も、関羽に同じことを指摘された。

 自分はあの頃から、何も変わっていない。

 心が揺れそうになれば、すぐに冷たい仮面で覆い隠す。

 自分の弱さをさらけ出すことで、本当に弱くなってしまうことを恐れるがゆえに。


 何度も何度も、人間らしさを捨てようとしたのに……目的のためならいくらでも非情になれる男になりたかったのに!


 どれだけ嘘を突き通しても、胸の内の罪悪感は、一向に消えてくれない。


 認めよう……自分はまだまだ弱い。


 曹操軍に捕捉される危険を承知で、数十万の民草を見捨てずにいたのは、自身の名声を高めるため……だけではない。


 自分は……ずっと恐れていた。

 自分のしようとしていることが、多くの血を流し、中華を最悪の乱世に叩き込んでしまうことを。

 それでいて、立ち止まることもできない、自分の壊れた本性。

 その葛藤や懊悩は、とうに乗り越えたつもりでいた。



 だが、それは錯覚に過ぎない。

 民草が劉備を求めたから、彼らを受け入れたのではない。

 自分が、彼らを必要としていたのだ。


 認めて欲しかった。慰めて欲しかった。


 お前はまだ生きていていいのだと、誰かに赦しててもらいたかったのだ。


 あの、樊城に集まった民草を見て、最初に思ったのは彼らは利用できるというものだった。

 しかしそれは、劉備が劉備自身についた嘘。


 本心では……ただ嬉しかった。

 こんな嘘つきで醜い自分を、これだけの民が受け入れてくれる。

 その事実に、劉備は純粋に……歓喜してしまった。


 彼らと共に、自分だけの天下に上り詰めたいと、本気で思ってしまった。

 


 本来ならば、曹操軍に追い付かれた時点で、全てを捨てて逃げ出すべきだった。

 張飛という天下無双の英傑と、数はいても、足手まといにしかならない民草……今後の戦いを思えば、秤にかけるまでもない。

 張飛を危険な戦場に送り出すのは、合理的な選択とはとても言えない。


 にも関わらず、民草を見捨てられなかったのは、単なる同情心でも、名声を得んがための計算でもない。


 劉備が、彼らを必要としていたから。


 自分を熱狂的に受け入れてくれる民草に、救いを求めていたのだ。



(俺は……馬鹿だ。みんなにちやほやされて……舞い上がっちまってたんだ……)


 孔明の指摘は、全て正しかった。

 自分は意志の強い人間だ。決して、感情に流されることはない……そう、高をくくっていた。


 だが、実際はこの有様である。

 己の弱さから目を反らし続けた結果、この瞬間まで、民草に引きずられている自分に気付かなかったのだ。

 だから、こんなに簡単に己を見失ってしまったのだ。



 自分に縋って来る民を手放したくないあまり……本当に大切なものを見失ってしまった。

 関羽も、張飛も、趙雲も、自分の成すべきことをしかと理解し、そこから揺れることがなかった。

 甘えていたのは、自分だけだ。



(益徳、すまねぇ……)


 悔恨と共に、心が急激に凍りついていく。

 思考は限りなく研ぎ澄まされ、己の果たすべき使命にのみ絞られていく。

 俺は何のために生きているのか……

 望むもの全てを手に入れられる人間などいはしない。自分の器量も弁えず、欲するもの全てを救おうとすれば、結局何もかも失ってしまう。


 一人の人間にできることなど限られている。

 ならば、その限られたことを成すために、全力を尽くすべきだ。

 そうすることでしか、人は何かを成し遂げることなどできない。


 この場の決意で、自分という人間が変わるとは思えない。


 自分の、全ての人間を救いたいという願望は、彼自身にも制御できぬほど、巨大なものだ。

 一方で、人間の手にあまる奇跡を成し遂げるには、人の情を捨て、全てを合理的に進めなければならない。


 情より出でた目的のために、情を捨てる。

 この二つは、決定的に矛盾している。

 目的のためには手段を選ばず、非情に徹しようとしても、その目的が脚を引っ張る。

 長年、劉備の中で繰り返されてきたことだ。


 その矛盾を、“弱さ”、“迷い”、あるいは“病”と呼ぶ。


 病的と言えるほどの、天下万民への想いがあればこそ、劉備は戦い続けてきた。

 だが、その想いこそが、劉備の道を阻む最大の敵なのだ。

 自縄自縛とはまさにこのこと。


 自分が、曹操に対して最も劣ると考える部分がこれだ。


 彼には迷いや揺らぎがない。勝利のためには手段を選ばず、劉備の理想とする合理性を実現している。


 何故、自分は曹孟徳のようになれないのか。

 それは、彼ら二人の根源を成すものが違うからだ。


 劉備は、万民を幸せにするために戦っている。

 曹操は、万民が生み出す未来の可能性のために戦っている。


 この二つは、近しいようで大きく隔たっている。

 劉備の場合は、主体が民にあるのに比べ、曹操は徹頭徹尾自分のためだ。

 民のためではなく、民を利用してその先にある未来を見ようとしているのだ。

 同じく民を利用している劉備と比べ、目的と手段が綺麗に合致している。

 だから、矛盾も迷いもない。


 そんな曹操の在り方を、羨むことはない。

 民を第一としない覇業は、それがどれだけ民の益になろうとも、一度道を外れれば、取り返しのつかない破滅を招く危険をはらんでいる。


 だから、自分は曹操を認めていない。戦って、彼の天下を奪うつもりでいる。

 可能性は限りなく低い。何せ自分は、己さえ制御できずにいるのだから。





 自分は、曹操のようになるわけにはいかない。

 矛盾を抱えたまま、戦い続けなければならない。


 感情が、非情に徹する自分を妨げているようで……その感情があるからこそ、自分は目的を見失わずにいられるのだ。


 結局、情も非情も、どちらも劉備にとって必要不可欠なものなのだ。


 自分はこれからも、決断を迫られる度、迷い、苦しむことになるのだろう。




 だが……今は……


 張飛が、命を賭けて繋いでくれた、今だけは……!







「孔明……」

「ん? 何かしら?」

「曹操軍は、これからどう動く?」


 劉備の真剣な表情を見て、諸葛亮は軍師としての顔で語る。


「……これで終わりとは思えません。抜け目のない曹操様のこと。

 橋梁が破壊され、本隊の進軍が滞る事態も想定し、最初から迂回路に別動隊を送っておられると思われます」


 最悪の予想……だが、常に相手にとって最悪の手を打って来るのが曹操だ。


「そうか……」

「人は、危難を乗り越え、安堵した時に最も隙を晒すもの。

 予断を許さないどころか、今は最も危険な状況と言っていいでしょう。

 関羽様も張飛様もおられませんし……」

 

 そう、張飛の生死はどうあれ、彼が戦線に復帰する可能性は絶望的だ。

 もし曹操軍の別動隊が仕掛けてくれば、趙雲と僅かな兵で対応するしかなくなる。

 今攻められたら、一環の終わりだ。


「……孔明、策はねぇのか」


 劉備の問いに、諸葛亮は薄く笑うと、あえて質問で返す。


「……それを、私に聞くの?

 貴方はとっくの昔に、分かって来るくせに」

「………………」


 諸葛亮は、普段の口調に戻って話し出す。


「貴方はずっと逃げ続けて来た。貴方の半生は逃亡の歴史。

 今よりもっと絶望的な状況なんて、幾つもあったはず。

 貴方はその度、貪欲なまでに生に執着し、形振り構わず生き延びて来た。

 改めて考えてみて……この戦における、勝利とは何なのか。

 天下の曹操軍が、こんな貧相極まりない軍隊を、血眼になって追い掛けているのは何のため?

 答えは簡単、そこに貴方がいるからよ。

 扇動の鬼才、理由なき大徳、劉玄徳を葬らずして、曹一族の天下は盤石なものとはならない。

 この戦、貴方を始末することだけが、彼らにとっての勝利条件。

 民草をいくら殺したところで、意味を為さぬどころか、劉備の声望をより強めてしまう。

 逆に考えれば……」


 この先は、聞く必要がない。

 彼我の戦力差が圧倒的であろうと、どれだけの犠牲を払おうと……


 劉玄徳ただ一人が生き残れば、この戦は自分の勝利だ。


 そう考えれば、絶望的としか思えないこの状況が、一気に逆転する。

 曹操は、数十万もの人間から劉備ただ一人を見つけ出し、殺さねばならない。

 趙雲や、民草らの妨害を受けながら、だ。


 一方自分は、ただ生きて漢津までたどり着き、逃げ切ればいいのだ。

 何と易しい勝利条件か。


 “何が何でも生き延びる”……それは、劉備が常に自らに課している信念だ。


 さすれば、死地としか思えないこの長坂は、劉玄徳の最も得意とする戦場ではないか。

 誇ることなど何一つない自分だが、これだけは言える。


 ただ生き延びることに専心するならば、劉玄徳は、天下無双だ。



 何とも不思議なことだ。

 考え方を一つ変えるだけで、有利不利が入れ代わってしまった。

 これも、孔明が言う、言葉の魔力なのだろうか……


 己のやろうとしていることの是非に、八年以上も悩み、迷い、苦しみ抜いた。

 無謀としか思えない夢に、自分はおろか他者の全てを懸けることを、劉備はずっと自分で自分を責め続けた。

 それは、ほんの数分前まで続いていた、あまりにも長い、昏迷の旅路。



 だが、一度決意を固めてしまえば……行動に移すのは速かった。


 自分に期待を寄せてくれる民草、自分を愛してくれる妻子……

 掛け替えのないものであるはずのそれら全ては、劉備の生き延びようとする執念の前では、実に呆気なく、塗り潰されてしまう。




「劉玄徳の名の下に命じる!」


 普段とは別人のような、覇気の篭った声で、劉備は叫ぶ。

 趙雲、徐庶を初め、周囲の全ての兵が、一斉に劉備を見る。

 劉備がはっきり命令と口にしたのは……一体何年ぶりのことだろうか。


「これより我らは全速力で漢津を目指す! 一斉の異論は認めない!

 振り返るな、ただ、前へ進め!!」


 そう言って、的廬を走らせる劉備。

 一切の間を置かず、趙雲も速度を上げ、劉備にぴったりとくっついて疾走する。

 他の兵士達は、突然の命令に動揺していたが、一人二人、やがて全員が、劉備を追って走り出す。




 そんな中……

 徐庶の受けた衝撃は計り知れなかった。

 愕然となりながらも、一気に速度を上げた劉備達に必死に追い縋る。


「玄徳様! お待ちください! 玄徳様――!!」


 後方からの叫びに、劉備は振り返ろうともしない。

 一体何の用だ。今の命令の一体どこに、質問する部分があるというのだ。実に単純明快ではないか。


「何故ですか! 何故速度を上げるのです! これでは後ろの民草は全員、取り残されてしまいます!」


 徐庶の叫びは、大半の兵士達の代弁であった。

 劉備軍の大義は、この民草を守って曹操軍から逃げること……だが、ここで民草を見捨ててしまえば、その大義は瓦解してしまう。


 それでも劉備は答えない。

 ただ前を見て、的廬を走らせる。

 自らも、物言わぬ風と化したかのように。


「乱心なされたのですか!

 玄徳様! 貴方は民草の想いを蔑ろにされるような方ではないはずだ!

 どうか! どうか気をお静めくださいませ!!」



 五月蝿い。言われなくても、とっくに落ち着いている。

 冷静に考えて、今動かなければ、今度こそ生存の道は絶たれると確信していただけだ。

 むしろ、今までの自分こそどうかしていた。


 本気で天下を掴む気があるならば……もっと早く、こうしておくべきだった。



 徐庶はその後も何か喚いていたが、劉備の耳には響きはしなかった。

 そんな中……遥か後方から、爆音が聞こえた。

 あれは大砲の音。だとすれば……


 曹操軍が追い付いて来た!


 諸葛亮の予測は当たっていた。しかも、こんなに速く……


「玄徳様! 今のを聞かれたでしょう! 急ぎ、民を助けにいかなければ……」


 縋るように、徐庶は声を上げる。

 それに対し、ついに劉備は言葉を返す。

 だがそれは、非情なものだった。


「言ったはずだぜ。振り返るな……ただ、前を見て、走れ!!ってな……」


 徐庶は劉備の口から出た言葉が信じられなかった。

 劉玄徳は、誰よりも民を慈しみ、弱者を決して見捨てない男のはず。


 後方では、民草が曹操の蛮兵に蹂躙されているかもしれないのに、それを見て見ぬふりをしようなどと……

 徐庶の頭の中の、理想の劉備像が、音を立てて崩れて行く。


「孔明先生!!」


 徐庶はたまらず、孔明に声をかける。


「どうか、孔明先生からも玄徳様を説得してください!

 こんなことは間違っています! 力なき民草を見捨てて、逃げ出すなどと……!」

 

 諸葛亮は、はぁ、とため息をつくと、突き放すように言う。



「徐庶、あんたさぁ、もうちょっと空気読みなさいよね」



「!!」


 

 拒絶も同然の一言に、徐庶は足元が崩れ落ちていくのを感じた。


「ここから引き返したって、どうせ曹操軍には勝てっこない。

 それに、下手に彼らを刺激しない方が、民にも被害が出な……」



「もういい!!」



 諸葛亮の言葉を待たずに、徐庶は声を張り上げる。


「わかった……わかったよ。結局あんたらは、自分がかわいいだけなんだろ?

 口では綺麗事並べておいて、いざ危険が迫るとこうやって民を見捨てて逃げ出すんだ。自分さえ助かれば、それでいいんだ!!

 何が仁だ! 何が大徳だ! この詐欺師め!! そんなんだから、弟を平気で見捨てられるんだ!!」


 普段の好青年らしい態度を捨て、劉備を悪し様に罵る徐庶。

 恐らくはこれが、彼の地なのだろう。

 徐庶の罵倒に、劉備は何の反応も示さない。



 ああ、煩わしい。今はそんなことを気にしている場合ではない。

 生きる。ただ生き延びる。

 それ以外の全ては、雑音でしかない。

 

 気にするな。意識するな。


 今はただ、罪に濡れたこの道を、駆け抜けろ!




「それだけじゃあない! 俺は知っているんだぞ!! あんたのついた大嘘をな!! いいか……」

「嘘……ねぇ。それは貴方も同じでしょ、徐庶」


 孔明の指摘に、徐庶は一瞬どきりとなる。

 ばれていたのか……自分が、劉表を殺めてしまったことが……!


 だが、正義の怒りに燃える今の徐庶は、その程度で矛先を緩めはしなかった。

 すぐに開き直った顔つきになり、吠え立てる。


「ああ、そうだよ! だがそれがどうしたってんだ! 俺はあんたらの為に“あいつ”をぶっ殺してやったんだ!

 あのくたばりぞこない、最期までわけのわからないこと抜かして、最高に気持ち悪かった!

 それでも殺したんだ! 正義の為に! あんたの為に! 

 だから許せねぇ! あんたの為に人まで殺したこの俺の心を裏切りやがって!!

 いいか、あいつは――――」



 その瞬間……

 

 徐庶の身体は、馬を離れて宙へと舞い上がった。



 もんどりうって落馬する徐庶。その間を、馬群が駆け抜けて行く。

 彼の姿はあっという間に、豆粒のようにかすんで行く。



「子龍……GJよくやったわ


 微笑みを浮かべ、親指を立てる諸葛亮。


 趙雲は、何事も無かったかのように槍を持つ手を下げる。


「主君の意に従わぬばかりか、その暴言の数々……見過ごせません」

 

 彼は眼にも止まらぬ速さで、槍で徐庶の馬の脚を払い、強制的に落馬させたのだ。


 なお……趙雲は劉備に絶対の忠誠を誓っているが、彼に格別の敬意を払っているわけではない。

 正直、劉備がどれだけ罵倒されようが、それで彼の心が痛むことはない。

 徐庶を払い落とした真の理由は、彼に余計なことを喋らせない為である。

 妄言と切って捨てることもできたが、この状況下で無用の混乱を招くのは避けたい。

 それは、劉備の利益へと繋がる。趙雲の行動原理は、名誉よりも利益に重きを置いていた。



 劉備は、その趙雲に礼を述べることも無く、ただ的廬を前に走らせている。 

 今の一幕ですら、劉備にとっては瑣末なことでしかない。



 そして、徐庶の言葉に追随する兵士達は、一人もいなかった。

 徐庶の気持ちもわからないではないが、君命に逆らうのは明らかな暴走である。

 それに、皆内心分かっていたのだ。

 曹操軍と戦っても勝ち目はない。今は逃げ出すのが最善の選択である、と……






「うぐ……ぐ……」


 徐庶は、土まみれになりながらも何とか起き上がる。

 劉備達は、もう見えないぐらい遠くに行ってしまった。


 背中がズキズキと痛むが、それ以上に心に受けた傷の方が大きかった。

 瞳から、熱い液体が溢れ出て、足下を濡らす。

 

「……信じていたのに……あんた達なら、本当の正義を実現してくれるって、信じてたのに!!」


 義も無く信も無く、ただ曹操という強者のみに統合されていくこの世界に、徐元直は失望と、深い憤りを感じていた。

 彼らは断じて正義ではない。天子を傀儡にして、武力で天下を統一していく曹操の覇業には、美徳の欠片もありはしない。

 正義の名の下に、その野望を食い止めねばならない。

 曹操のような武力や姦計ではない……慈愛や功徳の精神で持って、天下を治めるに相応しい器を持った人物がいるはずだ。


 そんな中……徐庶は劉備に出会った。

 彼と固い絆で結ばれた関羽と張飛、彼に曇りなき忠誠を捧げる趙雲、そして、劉備を慕い、彼の下に集まった民草たち……

 劉玄徳は、天下の大徳という世評通りの人物だった。

 ずっと探し続けてきたものを、ようやく見つけられた気がする……

 彼の下ならば、本当の正義がある……そう確信した。


 だが、それも全て、たった今砕け散った。


 劉備は正義などではなかった。

 ただ、聞こえのよい言葉で他者を騙し、いざとなれば仲間や民を切り捨てて逃げ出す卑劣漢だったのだ。


 思い出すたび、徐庶の内で激しい怒りが沸いて来る。

 それに伴って、彼の頬を伝う涙の量も増して行った。


 絶望に挫けそうになりながらも、徐庶は立ち上がる。

 まだだ……まだ自分には、やるべきことがある。


 

「……行かなきゃ……もう、あいつらには頼らない……俺が……俺が民草たちを、守ってみせる……!!」



 それが自分の本心なのかも分からぬまま……

 徐庶は、遠くに見える民草の群れへ向かって歩み出す。


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