第三章 虎牢関の戦い(五)
虎牢関の前で……
張飛と関羽に挟撃され、呂布は再びその場に釘付けにされていた。
だが、生死をかけた戦いの最中で、呂布はある事に気づいていた。
「どぉした赤兎?」
方天画戟を振るいながら、赤兎馬へと語りかける。
先ほどから、赤兎馬の動きにいつものキレが無い。
何かに注意を引かれているように、集中力が散漫になっているのだ。
赤兎馬の濁った瞳は、ある一点を見つめ続けている。
その先を見て、呂布は直ちに納得する。
「ヒャハハハハハハ! そうか!
赤兎おめぇ、どうしてもあの白い馬を食べたいってか!!」
赤兎馬は、劉備の跨る的廬に対し、獰猛な殺気を放ち続けていた。
自分の攻撃を避けられた事に屈辱を覚えていたのは、呂布だけではない。
赤兎もまた、最速を誇る己の足でも追いつけなかった馬に、殺意と執着を覚えていた。
加えて、あの的廬の神秘的な雰囲気は、赤兎馬の食欲を刺激するのに十分だった。
強い敵に執着する……この男にしては珍しいことに、呂布は赤兎馬に対し共感の念を抱いた。
「ヒャハハハハ! いいぜぇ! 俺様のご褒美だ! 好きなだけ喰らって来な!!」
ここで呂布は、予想だにしない行動に出る。
赤兎馬の鞍を強く叩くと、その反動で宙へと跳躍したのだ。
これまで行動を制御していた乗り手を失った赤兎は、弦から弾かれた矢のごとく、的廬の下へと駆け出す。
「うおっ!? こ、こっちきやがる!!」
危険を即座に察知した劉備は、的廬を走らせる。
進路上の将兵を薙ぎ払って驀進する赤い暴嵐から逃げる劉備。
だが、その速さは歴然で、あっという間に追いつかれる。
「ちぃっ! 的廬!!」
劉備は心に強く念じて、的廬に命じる。
それが術発動の合図だった。
劉備と的廬は、魂の手綱で互いに繋がっている。
劉備が心で念じたことは、その手綱を通じて的廬へと直接伝わるのだ。
元々的廬を預かっていた、盧植先生から教わった初歩的な道術だ。
的廬の体が淡く輝き、劉備ともども白い粒子となってこの場から消える。
そこから刹那の時間すら挟むことなく、劉備と的廬は赤兎馬から遥か離れた場所へと移動していた。
正確には、瞬間移動よりも空間転移というべきだろうか。
時空を捻じ曲げ、空間と空間を接続して任意点間の移動を可能とする秘術。
道術使いの中でも幻とされている術で、天然に備わった的廬のみがこの術を行使できる。
摩訶不思議な現象であるが、赤兎にはそれを見て驚くような感性は備わっていない。
的廬の姿を目に留めるや否や、すぐさま馬首を返して駆け出す。
「グロロロロロォォォォォォォォン!!!」
沸騰する溶岩の音のような嘶きが響く。
その声を聞き、劉備の体に戦慄が走る。
「ま、まだ来るのかよ!!」
程無くして、先ほどのように追いつかれそうになる。
劉備は的廬に命じて、四度目の瞬間移動を試みる。
しかし、それで一時距離を開けたとしても……赤兎馬は機敏な動作で方向を変え、すぐさま追撃を再開する。
赤兎馬の頭にあるのは、“あの白い馬に追いつき、喰らうこと”。
ただそれだけだ。だからこそ、瞬間移動に動揺することもなく、最小限の動作で最短の道筋を選び、的廬を追うことができた。
赤兎馬に追い回される劉備を見た関羽は……
「益徳! お前はあの赤い馬を叩け!!」
「え? でも呂布は……」
地上に降りた呂布は、相変わらず突き刺すような殺気を放ち続けている。
「こいつは私が相手をする! お前は何としても、兄者を守り抜くのだ!」
「……わかったぜ、雲長兄貴!!」
張飛は馬を走らせ、赤兎馬の方へと向かう。
関羽は呂布の妨害を警戒し、すぐに動けるようにしていたが……
意外にも呂布は、方天画戟を担いでにやにや笑っているだけで、張飛に手を出そうとはしなかった。
張飛がこの場から離脱した後、呂布は方天画戟を構える。
「さて……これでようやくてめぇと一対一で闘れるな」
「最初から、これが狙いだったのか……?」
「俺はただ、赤兎馬の思い通りにさせてやっただけだ。
まぁ、てめぇの方が残ってくれたのは、俺にとっちゃ幸運だったがな」
両手で方天画戟を持ち、戟を斜め下に向けた構えを取る呂布。
溢れる殺気が炎となって、戟に纏わり突いているように見える。
思えば、呂布が構えを取ったのは初めてのことだった。
「………………」
その呂布を見て、関羽も馬を下りる。
「おいおい、俺ぁ馬に乗ったままでも一向に構わないんだぜ?」
「そうはいかん。私にも、武人としての矜持がある」
劉備が聞けば、馬鹿らしいと一刀両断にする考えだが、関羽にはまだまだ割り切る事はできない。
関羽もまだ一介の武人。
呂布のような強者を前にすると、対等の条件で戦いたい衝動が強まっていくのだ。
青龍偃月刀を構える関羽。
こちらは静かにゆらめく蒼い炎のような闘気が、刀身から浮かび上がっている。
「ヒャハハハハ! じゃ、始めようぜぇ! 最高の殺し合いをよ!!」
呂布の叫びと同時に、両者は互いの武器をぶつけ合った……
これで通算六度目の空間転移。
どこへ転移しても執拗に追って来る赤兎馬に、劉備は焦燥の色を濃くする。
彼の焦りには理由があった。
的廬の空間転移は、視界に移る範囲までしか飛べないという制限があるものの……
逃げに徹する限り、決して捕らえられない無敵の術と言ってもいい。
しかし、弱点は術そのものではなく、別の部分にあった。
的廬の額に埋まった白い宝石が、徐々に黒ずみ始める。
宝石の輝きが失われるに従って、的廬の汗の量は増え、疲労していくのが目に見えて分かる。
全ては、空間転移を連続使用したことによるものだ。
術を行使するには、体内に流れる“気”を消費しなければならない。
気力は、体力、精神力に密接に関係しており、気が充実していれば肉体の力を十全に発揮できるが、
気が減少すれば体は衰弱し、発病へと至る危険がある。
気は決して有限では無い。
気が尽きてしまえば、術の行使が出来ないのは勿論、衰弱し切ってまともに動くことすら出来なくなる。
空間転移ほどの奇跡ともなれば、消費する気は膨大なものとなる。
的廬は元々気の量が多い馬だが、立て続けに術を行使すれば、すぐに気は底をついてしまう。
今の劉備は、空間転移を駆使する事で何とか赤兎馬から逃げ延びている状態だ。
もし的廬の気力が底をつけば、衰弱しきった的廬はすぐさま追いつかれ、乗り手もろとも食い殺されてしまうだろう。
「冗談じゃ……ねぇ!!」
そう呟いたところで、的廬の宝石の黒色化はますます進行している。
後一回使えば、的廬の気力は全て失われるだろう。
その瞬間、劉備と的廬の天命は終わる。
劉備は、自分が生死の崖っぷちに至った事を実感していた。
しかし、決して死を覚悟したわけではない。
彼の信条は、何が何でも生き延びること。
心が折れれば、その身はたちまち死に引きずられることは、これまでの戦でよく理解していた。
だから劉備は、最後まで諦めない。
どれだけ絶体絶命の窮地に追いやられようと、決して生きる意志を捨てないのだ。
そんな劉備の足掻きなど意に介さず、赤兎馬は旺盛な食欲と闘争本能だけで的廬を追う。
最後の空間転移を使うか否か、その決断を迫られた時……
「おらぁぁぁぁぁぁっ!!」
蛇のようにしなる鎖が、赤兎馬の首に巻きつき、その動きを押し留めた。
「グロロアアァァァァァァン!!!」
「益徳!」
「へっ、召し取ったり!!」
蛇矛から伸びた鎖で、赤兎馬を拘束して動きを止めている。
しかし、それもほんの一秒足らずの間。
猛進する赤兎馬の力に負けて、張飛の体は宙へと引っ張られる。
だが、そうなる事は張飛にも読めていた。
自ら乗騎を蹴って、宙へと舞い上がる。
元々、赤兎馬に追いつく為にかなり無理をさせてきた。その脚は既に限界を越えているだろう。
張飛が飛び立った後、彼の乗騎は、力尽きてその場に倒れてしまった。
蛇矛を離すまいと、強く握り締める。
赤兎馬と鎖で繋がった張飛は、そのまま馬の背目掛けて落下する。
「へっ!てめぇを俺様の乗騎にしてや……うおおおっ!?」
「グロロォォォォォン! グロロォォォォン!!」
呂布以外の者に背中に乗られたことで、赤兎馬は激しく暴れだす。
張飛の軽い体は嵐に揺られる小船のごとく、今にも転げ落ちそうになる。
「こ、このクソ馬が……」
張飛は赤兎の首を縛る鎖に力を込める。
そのまま首を締め上げて窒息させるつもりだ。
彼は小柄だが、その膂力は武将の中でも上位に位置する。
だが、筋肉で出来た丸太のような赤兎馬の首は、かすかに軋むだけでまるで揺らぐ様子が無い。
それでも、張飛は力を込め続ける。荒れ狂う赤兎馬の暴走に耐えながら……
張飛の腕、赤兎馬の首、どちらが先に屈するか、壮絶な我慢比べだった。
「益徳! 使え!!」
その時、兄の声が張飛の耳に響いた。
劉備は自らの銃剣を、張飛に向けて放り投げる。
片方の手で銃を受け取ると、張飛は即座に赤兎馬の頸部へと銃剣を突き刺す。
「オラァッ!!」
刃を深々と刺され、嘶く赤兎馬。
銃を今まで一度も使ったことがなく、狙いも下手な張飛だが……
零距離ならば、外す可能性は皆無だ。
「くたばりやがれぇっ! クソ馬ぁぁぁぁ!!」
出し惜しみせず、引き金を立て続けに六回引く張飛。
鈍い銃声が六度鳴り、全六発の弾丸は、残らず赤兎馬の体内へと吸い込まれる。
「グロロロロォォォォォォォォォン!!!」
さすがの赤兎馬もこれは効いたのか、いつもより高い声で無く。
だが、張飛が一瞬勝ちを確信した瞬間……
赤兎馬の体が、大きく飛び跳ねた。
「う、うおおおおおっ!?」
それは、赤兎馬の渾身の躍動だった。
同時に、これまでの酷使で限界を迎えていた蛇矛の鎖は、ついに砕け散った。
撥条仕掛けのように、張飛は天高く打ち上げられる。
そのまま真っ逆さまに墜落するところで……
「益徳ぅ!」
落下地点に、劉備の乗る的廬が駆けつける。
張飛の体を両腕で受け止める劉備。
骨に響く振動が、両腕に伝わってくる。
「あ、兄貴……」
「よくやったな! 益徳!」
軽く労いの言葉をかけると、間髪入れずに的廬を走らせる。
赤兎馬の方を振り向かない。振り向いている余裕など無い。
張飛を後ろに乗せて、劉備はひたすらに逃げる。
それを見送る赤兎馬は……さすがに堪えたのか、
穿たれた丸い穴と創傷から血を流し、四肢を折り蹲っていた。
「兄貴……あの野郎にとどめは……」
「とどめ刺すとなるとまた大仕事だ。お前の蛇矛も壊れちまったしな」
いつも彼からは考えられない、か細い声で喋る張飛。
あの赤兎馬の躍動に耐えた彼はすっかり体力を消耗しきっていた。
こんな状態で、赤兎馬と戦う事など叶うまい。
今は、とにかく逃げることを最優先にすべきだ。
「とりあえず痛み分けだ。それで上等だよ」
「兄貴……」
「あ? 今度は何だ?」
「……ありがと……よ……」
小さな声で呟く張飛。
あそこで劉備が危険を冒してでも近づいてこなければ、自分は負けていた。
またしても、自分はこの弱い義兄に命を救われたのだ。
「はっ……」
いつもの劉備ならば「お前は俺のかけがえの無い弟だからな」だの気の効いた文句を返すのだが……
この時は……
この真に信頼する義弟に対しては、あえて“本当の顔”で喋る。
「てめぇにゃ、まだまだ働いてもらわなきゃ困るからよ」
それを聞いた張飛は、安心したように微笑を浮かべた。