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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十二章 長坂の戦い(二)

「みんなぁ、走れぇーっ!」

「急げー! 早くしないと曹操軍が来るぞー!!」

「重い荷物なんざ捨てちまえ!」

「大丈夫だ、後ろにはあの張飛様が行っておられる! 曹操の追っ手なんざ、軽く蹴散らしてくれらぁ!」

「おう! 俺達は劉備様を信じて、ついて行くんだ!」


 群れの中間地点では、漢水に架けられた長い橋を、民草が渡っていた。

 この橋は、かつては脆い吊り橋だったが、劉表の手によって鉄製の頑丈な橋へと作りかえられていた。

 狭い橋、更に民の数が多いこともあって、中々先に進めない。


 一方、先頭にいる劉備達は……



「玄徳様、玄徳様!」


 徐庶の呼びかけに振り返る劉備。


「ん?」

「失礼ながら、もう少し速度を落としてくださいませ。後ろの民がきつうございます」

「お、おう、悪いな」


 徐庶の言葉に従い、的廬の速度を落とす。

 すぐ背後まで迫った曹操軍の圧に押され、無意識の内に速度を上げてしまったようだ。


(たく、情けねぇ……)


 諸葛亮に視線を移す。思った通り、意地の悪い視線を送っている。




 ――ほら、あれだけ大層なこと言っといて、やっぱり曹操が怖くて怖くて仕方ないんでしょお?

 逃げちゃいなさいよあんな愚鈍な民なんか見捨ててさぁ。

 恥じることなんてないわ、所詮貴方はその程度の男だってことなんだから。


 

 心の中の孔明が……いや、孔明の口を借りて、劉備自身が語りかける。



 ――天下を救うと息巻いたところで、自分にすがりつく民さえも守れない。

 夢ばかり大きく持って、それを大義名分にして自分に近しい者を次々に死に至らしめる。

 そのことを、心の中では認めているくせに、口では平気で綺麗事を吐き続ける。貴方は往生際の悪いただの嘘つき。

 貴方は誰一人幸せにすることはできない。自分自身でさえ幸せになれない人間が、どうして人を幸せにできるのかしら。

 貴方に出来るのは、迫り来る脅威から必死で逃げ惑い、しぶとく浅ましく、生にしがみつくことだけよ。


 どんな気分なのかしらねぇ。貴方なんかを守って死んでいく可哀相な兵士達は。

 他に人がいないとはいえ……まさか自分の弟まで、捨て石にするとはねぇ。



(大丈夫だ! 益徳には、どんな時も生きて帰るよう叩き込んである。

 あいつは俺なんかよりずっと……強い男なんだ!)



 ――そうは言うけど、貴方も気付いているんじゃあないの?

 あの子の危うさに。

 貴方が自分の夢に依存しているように、彼は貴方に依存している。

 貴方のためなら、彼、自分の命なんて平気で投げ出しちゃうんじゃないかしら。




 希望を口にすれば、直ぐさまもう一人の自分がそれを否定しにかかる。

 それでも劉備は、夢を捨て去ることはできない。

 だから、己を責める声も、決して消えることはない。夢を叶えるその時まで、延々と苛まれ続けるのだ。



「玄徳様」


 趙雲の声が、彼を現実に引き戻す。


「いかがなさいました?お気分が優れぬようですが……」


 命令以上のことは基本的にやらない趙雲が、あえて声をかけるということは、余程暗い顔をしていたのだろう。

 これではいけない。民や兵を不安にさせてしまう。直ちに表情を明るく塗り替える。


「ああ、いや、何でもねぇよ! ははははは!!」




 ――ほら、また、嘘をついた……

 本当は、不安で不安でたまらないくせに。



(うるせぇ。俺の心ん中に、勝手に踏み込んで来るんじゃねぇ!)



 ――何言ってんのよ、この私は貴方が生み出したもう一人の貴方。

 罪に怯える貴方を断罪する貴方の影。

 

 そう、貴方は裁かれたがっている。

 自分の罪の大きさに恐れおののく、蚤のように胆の小さい男。

 だけど、誰も貴方を責めようとはしない。

 皆が貴方を許し、貴方を英雄だ、救世主だと持て囃す。

 だから貴方は、自分で自分を責めるしかない。


 貴方は、どうあっても死んだ人間に償えないことを知っている。

 貴方が罪の意識を軽減するには、己もまた苦痛を味わうことで、自らを裁いている幻想に浸るしかない。


 けどね! それは所詮貴方の自己満足に過ぎない。

 貴方は自分を責めているようで、その実自分を慰めているだけ!

 それで贖罪なんて片腹痛いわ。


 いいこと?


 貴方は誰も救えない。


 貴方が生き続けている限り、人は死ぬ。



 それが、何もかも中途半端な貴方にとっての、唯一確かな現実よ。



 だから…………




 ――シンジマエヨ、オマエ……




 それは、劉備にとっては断罪にあらず、甘美な死への誘惑だった。

 死にさえすれば……この出口の見えない無間地獄から解放されるのだ。

 人が生きて、死に続ける限り、劉備の苦悩が続くのならば、彼の救いは自身の死以外にありえないだろう。

 ここで死を選ぶことができれば、劉備は幸福だった。

 

 だが、それは許されない。


 “何が何でも生き延びる”



 劉備の魂の奥にまで根付いた生き方が、彼に死を選ぶことを許さない。

 心を壊すこともできない。彼の内を貫く芯は、どれほどの流血や苦悩を持ってしても、僅かな皹さえ加えられないほど強固なものだった。


 救いを求めて、血塗られた道を走り続けるしかないのだ。



(益徳、頼む……死ぬな!!)


 それが、掛け替えのない義弟に向けたものか、同じく掛け替えのない、自分に従順な強者に向けられたものか……劉備自身にも判別できなかった。







 迫り来る五万の騎兵を前にして、張飛の脳裏に浮かぶのは、新野城での孔明とのやり取りだった。




「“赤蛇紋せきじゃもん”?」

「その名前は便宜的なものだけどね。本来“タオ”を使えない人間にも、道を扱えるようにするための術式よ。

 いや……そんな生易しいものじゃないわね。これはね、人間を、人間にあらざるものに変えるための“呪い”よ」


 諸葛亮は、張飛の前で、彼の身体に刻まれた傷について説明する。

 長兄の話から、彼女が道術に通じていることは知っていた。


「この術式を刻まれた者は、肉体を仙人のそれに造り変えられる。

 肉体そのものを、異次元に繋ぐ門に変え、無尽蔵に近い“道”を引き出す……って、これじゃ分かりづらいかしら。

 まぁ、要は人間はおろか武将の域さえも超える、爆発的な力を得られるわけ。

 貴方が、かつて体験した通りにね」


 それは、身に染みて理解できている。


 張飛は幼少期、謎の教団に囚われ、首から下にびっしりと、蛇がのたうつような傷を刻まれた。

 その最中、張飛は劉備と関羽に助けられ、後に義兄弟の契りを結ぶことになる。

 張飛が劉備に深い信頼を寄せるのは、そんな過去に起因している。


 その宗教団体の正体については、未だにはっきりしたことは分かっていない。

 張飛も、忌まわしい過去を忘れ、劉備の弟として生きていこうとした。


 しかし、彼らに囚われていた頃に味わった、想像を絶する苦痛と恐怖は、まだ脳の隅にしかと残っている。

 それを思い出す度、全身の傷痕が疼くのだ。



「なぁ、孔明さん。あんた、あいつらについて何か知ってんじゃねぇか?」


 張飛の問いに対し、諸葛亮は実に素っ気無く答えた。


「言いたくない」

「な、何だそりゃ……」

「ごめんなさい。“あれ”について、私は口にするのも嫌なのよ。だから、言いたくないの。それだけ」


 いつになく冷たい、真剣な表情で語る孔明。

 普段の面倒臭がりではない、断固とした拒絶が感じられた。


「それに、貴方が本当に知りたいことは、そうじゃないでしょ?」

「……まぁな」


 諸葛亮の言うとおりだ。

 自分の人生を捩曲げた“あいつら”は許せないが、その正体が分かったところで、急いで復讐しに行くつもりはない。

 もしも途中で出くわしたのなら、即座に殺してやるつもりでいるが、今の自分には、復讐より大切なものがある。


 張益徳は劉備軍の要、なすべきことはいくらでもある。

 そして……自分の大切な人を護るためにも、忌まわしき過去の象徴である、この傷の力を借りなければならない。




「先に言っておくわ。死にたくなければ、力を使うのはやめときなさい。

 本来異界に通じる感性を持たない人間が、無理に“道”の力を使おうとすれば、異界からの拒絶を受ける。

 その痛みは、貴方が身を持って味わっているはずよね?

 それだけじゃない。神経の耐久限界を越える痛みは、脳内にまで波及する。

 意識を失い、ただ目の前の生物を葬るだけの狂戦士と化す。敵も味方もお構いなく、ね……」


 それもまた、下丕城の戦いで経験済みだ。

 あの時は、敵を倒した直後に意識を失ったから良かったものの……

 まだ暴走が続いていれば、そのまま劉備を殺していたかもしれない。

 それに、曹操軍に名を連ねる歴戦の猛者を相手に、単なる獣と化した状態で勝てるとは、到底思えない。


「この術式を作った奴は、きっと悪魔的な天才ね。

 最大の痛みと引き換えに、最大の力を引き出せるように組み上げられている。

 中間がない。馬で言うならば、最初から鞭で思いっきりびしばし叩き、脚が壊れるまで走らせるようなもの。

 まるで、使用者を苦しめるために、わざとそうしたみたい。

 更に、恐ろしく複雑な式が使われていて、組んだ本人にしか解除も改変もできないわ。私にだって無理よ」


 少なくとも、田舎の狂信者集団に施せるものではない。

 これは恐らく……



 話を聞いた張飛は、微かな笑みを浮かべ、こう答えた。





 関係ねぇ――




 力と引き換えに肉体に激しい負担をかける……そんなことは関係ない。


 張飛は、眼前に迫る曹操軍の精鋭騎馬隊を、真っ直ぐに見据える。


 敵が何万いようが、こちらの味方が歩兵と民草ばかりだろうが……そんなことは関係ない。


 関係無いほど瑣末なことだ。


 重要なのは、この道の先にいる劉備を守るため、向かって来る敵を一兵残らず葬り去ること……

 

 今の張飛は、躊躇いも恐れとも無縁だった。己の成すべきを成さんとする、使命感に燃えていた。



 今自分の後ろにいる民草は、劉玄徳の天下だ。



 その天下を、汚い脚で踏み荒らそうって奴らは……誰であろうが関係ない。ただ一つの言葉をくれてやる。




 ――ぶっ殺すっ!!




「うおおおああぁぁぁぁぁぁぁ――――っ!!」


 腹の底、魂の奥から放たれた咆哮が、大気を揺るがす。

 張飛の全身の傷痕が赤く発光し、爆炎のごとき闘気が解き放たれる。


 赤い輝きは、夕焼けの如く空を染める。

 噴き上がる紅蓮の気は、天をも焦がす勢いだ。

 これは現実の炎ではない。だが、今の張飛はそれ以上の熱と、圧を身を纏っていた。




(これが……于禁の報告にあった、張飛の持つ“力”か……)


 張飛の力については、既に情報が入っている。

 あれは、自分がまだ呂布軍にいた頃のこと。

 城の地下で、張飛は赤い闘気を身に纏い、圧倒的な力で魏続、宋憲を撃ち破ったと言う。

 だが、莫大な力を得られる代わりに、理性を失い、ただ眼前の敵を屠るだけの獣と化す……ということも。


 五万の騎馬と騎兵が、張飛の放った闘気に押される中、張遼と黒捷は速度を落とすことはなかった。

 張遼は、間合いに入るや否や大輪刀を振るう。


 白刃が煌いた刹那、張飛の姿はかき消え、環状の刃は虚しく空を切る。

 さすがに速い。だが、この程度は予測の範疇内。相手はこちらの死角をついて来るだろうから、それに合わせて反撃を……


 だが、張遼の身体に刻みつけられた、武人としての反射神経が反応するより早く……

 彼の第六感は、不穏な可能性を感知していた。


「荀攸殿!!」


 張遼が声を荒げた直後……



「ぐ……はっ!」


 荀攸が目にした光景……それは、自分を庇って、肩を貫かれる楽進の姿だった。


「楽進!!」

 

 あの瞬間……張飛は張遼を飛び越え、蛇矛の刃を、後退中の荀攸へ向けて飛ばしていた。



「荀攸さん……逃げ……」


 蛇矛の刃が、楽進の肩から引き抜かれる。鮮血が吹き出て、彼の顔面を濡らす。

 もし、張遼が張飛の狙いに気付かず声を発していなければ……

 楽進が、その声にいち早く反応し、荀攸を庇っていなければ……今頃荀攸の命はなかったに違いない。

 張飛の瞳は、闘争の狂気に揺れながらも濁ることはなく、しかと目の前の敵を見つめていた。


「貴様ぁ!!」


 十数の兵が、一斉に張飛を包囲しにかかる。

 張飛の顔に笑みが宿る。蛇矛を旋回させ、自分に近寄る敵兵士を薙ぎ払う。


 その刃には赤い光が宿っており、本来の倍以上の刀身を形成していた。

 鎧ごと胴体を寸断し、血肉と臓物を撒き散らす。



(違う……!)


 今の張飛の動きで、張遼は認識を改めた。あれは、理性を失った獣などではない。

 軍の要である軍師を真っ先に狙う判断……何より、張飛の眼には、確かに正気の光が宿っている。

 それでいて、その戦いぶりは暴嵐のごとし。聞いていた通り、爆発的な力の上昇を感じる。


 張飛の内では、確かな理性と強大な力が、渾然一体となっている。


「荀攸殿! 急ぎ後退し、殿の部隊と合流されよ!!」


 張飛に向けて愛馬、黒捷を走らせながら、張遼は叫ぶ。


 荀攸も、今ので張飛の凄まじさを感じ取ったのだろう。

 千の兵と共に、急ぎ後方へ退却する。ここからは、自分のような非力な軍師の出る幕ではない。

 頭では理解できていても、心中では成す術無く退却することへの苦悩がある。


 悔しい……口惜しい……

 自分がいなければ、楽進は負傷することはなかったかもしれない。

 張飛には最大の警戒を払っていたつもりでいたが……自分はまだ甘かったのだ。

 世の中には、軍師の思惑など軽々飛び越える“怪物”がいる。

 呂奉先、そしてあの張益徳のように。


 そんな無念を胸の内に押し込めて、荀攸はこの件を早々に伝えるべく、長坂を駆け上がる。






 熱い。痛い。苦しい。

 

 全身が、炎で炙られているかのようだ。

 とうに発狂してもおかしくない苦痛に苛まれながらも、張飛は意識を飛ばすことなく、目の前の状況を正確に把握していた。

 理性と本能が、完璧に共存している。諸葛亮が、術式を改変したわけではない。


 これが、張飛が費やした七年間の成果。


 彼は、荊州にいる七年間に、己が身に宿る呪われた力を使いこなすための修行に明け暮れた。


 体を頑丈な鎖で縛り、力を発動させる。

 狂死しかねない苦痛に耐え抜き、強靭な意志で理性を繋ぎ止める。

 関羽や趙雲に、対戦相手を務めてもらうこともあった。

 肉体的な苦痛は元より、自らの記憶と向き合う精神的苦痛にも晒されながら、張飛の心は折れなかった。

 最初は、力を制御仕切れずに暴走し、意識を失うまで消耗してしまうことが殆どだった。

 だが、この無謀な修練を続ける内に、痛みにも耐性がつき、自分の力の本質に少しずつ近付き始めた。

 全ては、長兄劉備を守るため。次兄関羽に頼り切らない強さを手に入れるため。

 兄達への深い愛情と、確固たる信念……それがあったからこそ、苛酷極まる修練を乗り越え、力に飲まれぬ己を打ち立てることができたのだ。


 今の張飛にとって、この傷痕は忌むべき過去の象徴のみに非ず。

 大切な人を守るため、死に物狂いで掴み取った“力”だった。


 そして、その努力は、張飛の武を未知なる次元へと導く――




 張遼の振り下ろしを、道で強化した蛇矛で受ける張飛。

 赤い光の残滓が、血飛沫のように舞い散る。


(この力……!)


 小柄な体からは想像もつかぬ力が、この矛には込められている。

 張遼の剛力を持ってしても、打ち崩すことできない。


「弩弓隊、てぇーっ!!」


 周囲の兵隊が、動けない張飛目掛けて矢をいる。

 ここは既に戦場、一対一の戦いを邪魔してはならぬ理はない。張遼もそれを受け入れている。



「っらぁぁぁぁぁっ!」


 張飛の周囲を、鱗状の赤い闘気が包み込む。

 矢は彼の身体に突き刺さることなく、闘気の鎧に弾かれた。



 これまでは、ただ“タオ”を無尽蔵に垂れ流しているだけだった。

 しかし、苛酷な修業の果て、理性と狂気が渾然一体となった境地に至ることで、ついに張飛は道の本質を識る。

 一度でも道の法理に触れれは、精神が道の方程式を導き、記憶する。

 後はただ望むだけで、己の特質に見合った術を引き出せるのだ。

 長い詠唱や術式の構築などは必要ない。この感覚は、道を扱える者以外には理解できない。

 目覚める……と言うより、思い出すと言った方が適切かもしれない。


 境界に隔てられて気付かなかっただけで、本来誰もが生まれながらに持っている力なのだから。

 ただ、それに気付く才を持つ者が、あまりにも少ないだけだ。

 異界と感覚を繋げた今の張飛は、蛇矛を扱うように、一切の時間差なしで術を使いこなすことができた。




「だぁらぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 復活した楽進が、張飛の左側面から突進してくる。

 本来、正々堂々とした一対一の戦いを望む彼だが、それは理性を保てている場合の話。

 荀攸を狙われ、自身も肩に傷を負わされたことで、彼の理性は消し飛んでいた。

 一度火がつけば、状況などお構いなく眼前の敵を葬ること以外頭になくなる。それが楽進という男だ。


 張飛目掛けて、渾身の拳を放つ楽進。


 だが……



「切れんなよ。その程度の“痛み”でよぉ……」



 楽進の拳は、あろうことか張飛の掌で押し止められていた。

 楽進の顔が一瞬凍りつく。武器で防げば武器を砕き、盾で受ければ盾をも撃ち抜く自分の拳が、こんな細い腕によって止められてしまった。


 凄まじい圧力が、張飛の掌から感じられる。

 まるで、肉食獣に噛まれているようだ。

 それは、ただの素手ではなかった。高密度の赤い闘気が、蛇の顎門を形成し、楽進の腕に牙を突き立てていた。


「っらぁっ!!」


 闘気を纏った掌で、楽進を地面にたたき付ける張飛。

 あまりの力に、地面が割れ、陥没が生じた。楽進の頭から血が流れ、地面を紅く染める。


 その勢いを利用し、張遼の武器を蹴って空に舞い上がる。


「はあああああぁぁぁぁぁぁっ!!」


 翼を展開するように、赤い闘気を放出する張飛。

 その姿は、空飛ぶ赤い悪魔にしか見えない。

 滅多なことでは動じない北の烏丸兵も、これには戦慄する。


 赤い闘気は、蛇矛へ集まり、刀身のみならず鎖や柄も飲み込み、膨れ上がっていく。

 それはまるで赤い鱗に覆われた大蛇のようであった。


 楽進を助け起こした張遼は、それを見た瞬間に叫ぶ。


「全隊、下がれぇ――っ!!」




 蛇矛を媒介として溢れ出る破壊の奔流。

 荒れ狂う力の流れを押さえ付け、眼下の敵目掛けて振り抜く。


 真紅の大蛇が牙を剥く。長大なる光の蛇は、数千の兵を巻き込み、大地を薙ぎ払う。



 その一撃は、両側の崖上まで達する亀裂を、長坂に刻みつけた。

 破壊の光に飲まれた人馬は、原型を留めぬほどに潰れてしまっている。

 人間はおろか、武将の域さえも遥かに越えた暴力に、誰もが戦慄を禁じ得ない。

 赤い光を纏って大地に舞い降りる姿には、神々しささえ感じられた。


「美しい……」


 張合も、この純粋な力の結晶に対し、素直に賛辞を送る。




 掌を中心に、道の手甲を纏って肉体を強化する“こう”。

 身体の周囲に、道による防御壁を構築する“鱗甲うろこ”。

 蛇矛に道を纏わせて、敵を打ち払う“へび”。


 そして、大量の道を蛇矛に流し込み、光の蛇で敵軍を一気に薙ぎ払う“大蛇おろち”。


 身体強化、結界構築、武器強化……どれもが張飛本来の戦闘法に適合したものばかり。

 ただ力に溺れているだけでは、これほど多彩な術を操ることはできなかった。


 兄弟への想いを支えに、忌まわしき過去を乗り越えたことで、鋼の精神と、規格外の暴力とそれを制御する精神を併せ持つ、天下無双の器へと昇華させたのだ。



 だが、その力とて無限ではない。

 こうして力を解放し続けている今も、身体と精神は擦り減っている。

 いかに痛みを克服したとはいえ……力を使い続ければ、いつかは倒れることは変わらないのだ。

 張飛は、そのことを正確に認識している。それでいて、力を出し惜しみすることはしない。

 己の限界を意識せずに戦い抜くことが、結果的に長い時間戦うことができると知っているから。



 赤い闘気を纏って立つ張飛の姿は、鬼神の如し。

 その姿は、かつて最強と呼ばれた男を……あるいは、同じく赤き“タオ”を操り、中華最悪と呼ばれた怪物を彷彿とさせる。




「死にたい奴はかかってきな……纏めて咬み砕いてやるよ」



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