表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国羅将伝  作者: 藍三郎
145/178

第二十一章 荊州侵攻(七)

 数十万の民草と共に樊城を発った劉備一行は、森の中で夜営を敷いていた。

 明日も知れぬ逃避行ながら、民の瞳は希望に満ちていた。

 皆、劉備という心優しき英雄を信じていたからだ。彼ならば、決して自分達を見捨てるような真似はすまいと……



 だが、当の劉備達はそう楽観してはいられない。

 日にほんの十余里、目的地の江陵までは、まだまだ長い。

 このままでは、曹操軍に追い付かれるのも時間の問題だった。


「どーすんだよ兄貴。毎日こんな調子でちんたら進んでたら、直に曹操の奴らに追い付かれるぜ?

 それとも、最初はなから奴らと一戦交えるつもりか?」


 張飛は、それはそれで面白そうだとでも言いたげだ。


「冗談じゃねぇや。俺だって、好きでのんびり進んでいるわけじゃねぇ」


 曹操がどの程度の戦力を荊州に送り込んでいるかは知らないが、劉備達にとって絶望的な数である事は間違いない。

 本来ならば、追いつかれる前に先を急ぎたいところだ。


 だが、劉備軍に合流した民草の大半は徒歩であり、子供や足腰の弱い老人もいる。

 そんな彼らの足に合わせて進んでいては、行軍に遅れを来たすのは必定だった。


「彼らは我々を頼って着いて来た民草達だ。置き去りにするわけにもいくまい」


 やんわりと、それでいて力強く言う関羽。


「わーってんよ、んなこたぁ!」

「そうです! あの玄徳様が、困った民を見捨てられるはずがありません!」


 そう叫ぶ徐庶は、これからの道程に何の不安も感じてはいないようだった。

 しかし、関羽や張飛は気付いている。民草の前でぶちまけたあの啖呵が、何の根拠もない、ただの虚勢であることに。

 確かに、民を勇気づける効果があったのかもしれないが、徐庶を除いたここにいる全員、本気で全ての民を江陵に連れていけるとは思っていない。

 だが、少なくとも関羽、張飛、趙雲の思いは同じ……劉備が民に対してどのような決断を下すにせよ、最後まで彼の意志に従い、命懸けで戦うだけだった。


「当初は、陸路を通って真っ直ぐ江陵に向かう予定でしたが……この進軍速度ではそれも叶わないでしょう。

 そこで、ここからの道程について、私に提案がございます」

「ほう、言ってみな」

 

 諸葛亮の話に耳を傾ける劉備達。


「“さる御方”から聞かされた話です……まぁ、ここにいる方々は名を伏せずとも、ご存知とは思いますが……」

 

 皆、それだけで誰の事なのか分かった。

 その御方とは、公式には死亡したことになっている劉表である。

 諸葛亮の言う通り、今ここにいる全員が、劉表の生存を知っていた。

 彼は今も、重臣達と同じく御車に入れられ、劉備一行と行動を共にしている。


「ここから東、漢水かんすいの渡し場、漢津かんしんに数百艘の小型船が停留しているとのこと。

 まず、別働隊を放ち、その船団を抑えます。同時に我々も長坂ちょうはんを経由して漢津に向かい、船団と合流します。

 そのまま漢水を渡って夏口に入り、劉埼りゅうき様の軍と合流するのがよろしいかと」

「なるほど、それなら移動距離を一気に短縮できるな」


 髭を撫でながら、頷く関羽。


「ですが、その頃には既に江陵は曹操様の手に落ちているでしょう。江陵にあるという物資や艦隊は、全て諦めることになりますが……」

「仕方がねぇ。船も物資も大事だが、まずは人だ。皆で生き残らなきゃ、何にもならねぇ」

「その通りです、玄徳様!」

 

 劉備の言葉に目を輝かせる徐庶。諸葛亮は、一瞬冷ややかな視線を向けるが、すぐに軍師の顔に戻る。


「では、そのまま長江を東に向かい、揚州に入りましょう。呉の孫権様と同盟を結ぶことが、当初よりの計画ですしね」

「いいじゃねぇか。よし、それで行こうぜ」

「分かりました。では、先んじて漢津の船を抑える別働隊ですが……」

「その役目、この私に任せてもらおう」


 自ら立候補し、立ち上がる関羽。


「雲長……」

「速さが要である以上、あまり多くの兵を割くことはできません。

 予期せぬ交戦を強いられる可能性もあります。

 単騎で軍に匹敵する武力、更に荊州の兵との交渉を考えますと、私も関羽様が適任と思います」


 ここで関羽を切り離すのは不安だが、これは武力と知力、更には硬軟織り交ぜた交渉術が要求される難しい任務だ。

 諸葛亮の言う通り、この中では関羽が最適だろう。

 趙雲も悪くないが、彼の性格上、自分の傍に置き、細かな命令を遂行させた方が都合がいい。


「わかった、雲長、おめぇに任せたぜ」

「どうか、御武運を……」


 関羽も不安なのだ。曹操軍の脅威が迫る中、劉備の傍を離れることが。

 しかし、曹操軍に先んじて江陵を抑えられれば全てが終わりだ。

 ここは、残された者達を信じ、一刻も早く船を奪って戻る他あるまい。


「益徳、子龍、徐庶、兄者を頼んだぞ」

「かしこまりました」

 

 あくまで事務的に、当然のことであるかのように答える趙雲。


「おう、こっちは心配すんな。何たって俺がいるんだからな!」

 

 張飛は、全く不安を感じていないようだった。 

 

「玄徳様と民は、必ず私達が守り抜いてみせます!」


 覇気に満ちた返答を返す徐庶。


 それから……関羽は諸葛亮に視線を走らせるが、彼には何も言わず、辞して立ち去った。


 関羽は千の騎兵を率い、群れを離れて漢水へと向かった。








「よかったわねぇ。一番五月蝿いのがいなくなって」

 

 会合が終わり、張飛、徐庶と別れ、趙雲と二人になった劉備に話し掛ける孔明。

 彼女は髪を解き、服の紫と白が反転した月英の姿になり、樹上に腰掛けている。


「……どういう意味だ」

「分かっている癖に。まさか貴方、あの民全員を揚州に連れていけるなんて思っているのかしら」

「………………」

「戦の役には立たない、進軍を遅らせるだけの足手まといを大勢抱え込んでどうしようっての?

 孫権と盟を結ぶにしても、あれだけの数の民草、向こうにとっても邪魔になるだけよ。

 まぁ、曹操への盾としては使えなくないこともないけど……どの道、いつかは見捨てなきゃならないことには変わりない。


 その時、一番反対しそうなのがあの関羽かたぶつだからねぇ。

 だからよかったわねって言っているのよ。彼が自分から群れを離れていって。

 これで安心して、邪魔くさい“荷物”を放り捨てられるわぁ」


「……捨てねぇよ」

「は?」

「見捨てねぇっつってんだよ! 勝手に俺の意志を決めつけんじゃねぇ!!」


 諸葛亮は、露骨な侮蔑の視線を劉備に向ける。


「あらあら、貴方どうしちゃったの? 

 私に貴方お得意の綺麗事が通じないことぐらい、分かっているでしょうに。

 冗談にしちゃ笑えないわよぉ寒すぎて。 あ、もしかして、マジで言ってたりする?」


 劉備は唇をきつく締め、諸葛亮を睨みつける。


「あ~れま、どうやら本当に頭が可哀相なことになっちゃったみたいね。

 何よ貴方、まさかあの民草を見て、我こそは民に選ばれた天下の救世主だーっ、なーんて、勘違いしてるんじゃないでしょうね?

 だとしたら救いようがないわ。


 いいこと?

 彼らは、曹操の覇業のあまりの速さに、深い理由も無く怯え、逃げ出しているだけなの。

 たまたま近くに、貴方というちょっと名の知れた男がいたから、藁をも掴む思いで縋り付いただけよ。

 貴方が仁君なんて噂を、またしても何も考えずに信じ込んでね!

 貴方の中身なんて、誰一人知らないくせに!

 彼らはただ、不確かな噂に振り回され、何が正しいかも分からず流されているだけ。

 貴方は、そんな彼らに担がれて、救世主という心地の良い幻想に浸っているお山の大将。

 所詮、貴方もあの愚民どもと同じ……自分の成すべき道も見つからず、周囲の状況に流されているだけなのよ! 違うかしら?」

 

 諸葛亮に延々と罵倒され、劉備は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、やがて絞り出すように呟く。


「俺はともかく、あいつらにゃ罪はねぇ……天下の皆が、てめぇみたいに小利口になれると思うなよ!」


 劉備には、彼らの気持ちがよく分かる。

 曹操は、全てにおいて規格外の征服者だ。

 その速さ、冷徹さ、有り余る才能……どれも同じ人間とは思えない。

 戦慣れした自分でさえ、曹操には恐れを感じずにはいられないのに、非力な民草の抱く恐怖は、それこそ想像を絶するものであろう。


 劉備は、曹操の恐ろしさを誰よりもよく知っている。

 だから、曹操に怯え、安定した生活を捨ててまで自分について行こうとする民の気持ちは、痛いほどよく分かるのだ。

 自分が彼らを保護することで、彼らから少しでも恐れを払拭できるなら、喜んで先頭に立とうと思う。



「ええ、そうね。無知は愚かであっても罪ではないわ。本当に罪深いのは……貴方よ、劉備!」

「何ぃ……」

「貴方は口では彼らを救うと言っておきながら、その実救おうとしない。

 彼らを見捨てたくない……それがズレた考えだってことにどうして気付かないのかしら。

 彼らを救う方法は、彼らを江陵に連れていくことじゃない。

 彼らに、元の土地に戻るよう説得することよ!」


 ああ……やはりこいつは……

 

 魚が水を知るように。


 俺の心を、簡単に見透かしてしまう……



「貴方ならそれができたはずよ。貴方の民への影響力を使えばね。

 それに、貴方は知っている……曹操という男が、自分に従う民を無下にするほど愚かではないことに。

 でも、貴方はそれをしなかった。

 それどころか、貴方についていけば、希望があるかのように思わせた。そんなものどこにも無いのにね。

 彼らが貴方に過剰な期待を寄せていたのは確かなこと。

 だけどその幻想を膨れ上がらせ、自分の都合のいいように誘導したのは紛れも無く貴方!

 貴方がしたことは、巨人の足音に混乱して逃げ惑い、火の海に飛び込みそうになった人達を、落ち着かせるどころか、その背中を突き飛ばしてしまうのも同然なのよ!」


 けらけらと笑う諸葛亮。


 民に聞かれればそれこそ大混乱に陥ること必至の発言であるが、劉備も諸葛亮も気にした様子はない。

 彼らのいる場所は、諸葛亮によって人払いの結界が張られており、民や兵が近づく心配はなかった。

 劉備としては助かるが、その分、諸葛亮の気が済むまで彼女の罵倒の嵐に晒されることになる。


 なお、趙雲は先ほどから何も喋らず、空気のように立ち尽くしている。

 彼にとって、主君の命令以外は、何であろうとただの情報に過ぎないのだろう。


「貴方は彼らを騙している。彼らを見捨てないのは、彼らのためじゃない。

 貴方にとって、彼らが必要だから! 数十万の民草が、あの曹操に刃向かってまで貴方に着いていく……

 その事実は、劉玄徳という英雄に、更に箔をつけるでしょうねぇ。

 今の貴方は、そういう“伝説”の類が喉から手が出る程欲しいのよ。

 だって、あらゆる面で曹操に負けている貴方は、もはや騙しやすい愚民どもの支持に頼るしかないものねぇ!

 無能な君主に、それに群がる愚民ども、お似合いよ、貴方達……あはははははっ!!」


 嘲笑う諸葛亮に、心掻き乱される劉備。

 だがその苛立ちは、諸葛亮に向けられたものではない。

 諸葛亮の言うことは全て正しい……

 自分は、数十万の民草の切なる願いを利用し、覇業の礎にしようとする卑劣な詐欺師だ。

 その悪名を受け入れ、彼らを最後まで騙しきる覚悟を決めて、彼らと共に行く道を選んだはず。

 それを、この程度の挑発で心を揺らしてしまう未熟な自分に、腹が立って仕方ないのだ。





「……言い訳はしねぇ。けどな、これだけは言っとくぜ」

「何よ?」

「俺はともかく、雲長を見くびるな。あいつは、俺なんかよりも、ずっと覚悟決めてこの戦いに臨んでいる。

 俺の腹の内なんざ、お見通しだろうよ」

「……じゃあ、あの人は最初から貴方が気兼ねなく民を見捨てられるように、群れを離れたというの?」

「さてな、てめぇには教えてやんねぇ」

「義兄弟だからこそ通じ合う絆って奴かしら。確かに私には理解不能かもね。

 ま、民草については現状維持ってことでいいのね? 優柔不断の劉備さん」

「ふん……」


「それで……私たちはもう一つ、厄介な荷物を抱えているんだけど、それについてはどうするの?」

「何だそりゃ」

「とぼけないでよぉ。あの荊州の元領主様のことよ。

 あの人がいつまでも生きているのは、私たちにとっても都合が悪いって、分かっているでしょ?」


 劉表の遺言で、劉備は荊州の正統なる後継者として指名され、今後の足がかりを築くことが出来た。

 しかし、劉表の役割は、その時点で終了している。

 もし何かの拍子に彼の生存が民や兵に知られてしまったら……あるいは、劉表の心変わりで、自ら正体を明かしてしまえば……

 劉備達の仕掛けた計画が露になり、その目論見に皹が入るやもしれない。

 劉表が未だ生き続けていることは、劉備達にとって危険なのだ。


 諸葛亮の忠告は良く理解できる。だが……


「……あの人も同じだ。俺についてきた以上は、見捨てねぇよ」

「知らないわけじゃないでしょ。劉表あのおとこが今の地位を維持するのに、どれだけあくどいことをやってきたのか……

 貴方を慕っている民草達とは明らかに違うわ。七年も世話になった恩? 騙している負い目があるから?

 でもそれって、個人的な感傷じゃないの? そんな私情に囚われていて、天下の頂に上るなんてできると思っているのぉ?」

 

 処置無しと言わんばかりにため息をつく諸葛亮。

 劉備は何も言えない……それは、孔明の指摘が正しいことを表していた。

 

「正義の味方を演じながらも本性は卑劣漢、非情に徹しようとしているくせに、あっさり情に流される。

 そんな何もかも中途半端な人間が、どうして天下を救えるなんて思い上がれるのかしら。

 ああ、そうそう、貴方って馬鹿だったわよね。なーんだ、馬鹿なら仕方ないわぇ」


 けらけらと笑う諸葛亮。

 劉備は、眉間に皺を寄せて話を聞いていたが、開き直ったように言い返す。

 

「その馬鹿を、わざわざ樹に登ってまで見下すあんたも憐れな奴だよなぁ。何とかは高いところが好きって言うが……」

 

 その後も、益体の無い罵りあいを続ける二人。

 端から聞いていれば、酷く低次元の争いに聞こえるだろう。



「とにかく! 俺はあの人をどうこうしようなんて気はさらさらねぇんだよ!

 いいか孔明……くれぐれも、余計なことすんじゃねぇぞ……」

 

 最後は真剣な口調で、孔明に釘を刺す劉備。

 

「はいはい分かったわよ。言われなくても、私は必要以上のことはやらない主義だから」


 その点は、劉備と諸葛亮が共通している点だった。

 劉備は人間を殺したくはない。諸葛亮は、面倒くさいことはしたくない。

 根本は全く異なっていながらも、必要以上のことはやらない、という点では共通していた。


「それに劉表あいつ、召使にするにはちょうどいいしね。徐庶やあんたと違ってうるさくないし」


 諸葛亮は、一際大きな欠伸をする。


「ふぁぁぁ……小うるさい馬鹿に付き合っていたら、すっかり遅くなっちゃった。しつこい男ってやぁねぇ」

「てめぇの方から喧嘩吹っかけてきたんだろうが!」


 劉備の声には答えず、諸葛亮は樹上から降りることも無く、宵闇の奥へと消えていった。


「……ったくよ……」

 

 残された劉備は、静かに毒づく。その表情は、夜の闇に隠れて見通すことは出来なかった。







 皆が寝静まった頃……徐庶は、ある人物の元へと向かう。目当ての人物は、御車の中にいた。


「……劉表様、劉表様」


 周囲に聞こえないよう、小声で話し掛ける徐庶。御車の中には、劉表がいた。


「ん……何ですか? 徐庶さん……」

「お静かに……実は、孔明先生から、貴方を呼び出すよう言われているのです」

「……孔明先生が?」

「貴方に伝えておきたいことがあるそうです。何でも、ある秘術に関することだとか……」


 劉表の眠気は一気に覚めた。きっと、不老不死の更なる秘密を教えるのだろう。

 彼の心は、まだ見ぬ秘術への期待感で膨らんでいった。


「私が案内いたします。どうぞこちらへ……」







 劉表は徐庶に先導され、夜営から離れた川のほとりにたどり着く。

 満月に近い月が周囲を照らし、夜風が頬を撫でる。


 諸葛亮は、道術の効力を引き上げるには、才能や努力だけではなく、“場所”も重要だと言っていた。

 その土地によって気の流れは異なっており、土地の良し悪しで修業の効率は大きく異なる。

 仙人や道士が、人の寄り付かぬ深山に篭って修業をするのは、俗世との関わりを断つ以外にも、より修業に適した土地に求めてのことだという。

 この周辺は、気の量が一際多いのかもしれない。

 もしや、最良の土地が見つかったので、いよいよ本格的に不老不死の秘法を伝授するのだろうか。


 心の内で、欲望が膨れ上がるのを抑えられない。

 数十万の民を引き付ける大徳も、百万の軍勢を従える覇王も、所詮は限られた命しか持ち得ぬ匹夫。

 たかだか数十年しか持たない権力など、砂上の楼閣でしかない。

 天上天下の文化を、永遠に脳髄に留めておける人間こそ、真に中華の支配者と呼べるのだ。



 先へ進む徐庶が、突然動きを止めた。何事かと思い、声をかける。


「徐庶さん?」


 徐庶は答えず、ゆっくりと劉表の方に向き直り……告げる。

 



「…………偽善者め」




 

 劉表の身体が裂け、赤い花が咲く。

 焼けるような痛みを感じたのは、その後のことだった。


「え? え?」


 左肩から胸を切り裂かれ、劉表はその場に崩れ落ちた。

 傷口から流れる血が、川を赤く染めていく。


「徐庶……さん?」


 徐庶は、剣を抜いたまま佇んでいる。

 不可議なことに、徐庶の剣は一切血で汚れていない。

 また、劉表と徐庶との間には距離が開いており、一瞬で移動できる距離ではなかった。


 だが、劉表を切り裂いたのは、紛れも無くこの青年だった。

 地に這う虫を見るかのような、冷たい視線を向ける徐庶。

 

「いいですか、劉表様……この群れに参加している方々は、純粋に劉玄徳様を慕い、他者を思いやり、正義を貫き通そうとしている素晴らしい人ばかりです。

 それに引き換え、貴方は何ですか。頭にあるのは自分のことばかり……自分が楽しく、少しでも長く生きることしか考えていない。

 そんな人は、ここにいるのに相応しくない……

 貴方がいると、玄徳様の正義が濁ってしまう……それは、許されないことです」


 徐庶の瞳には、罪悪感の欠片も無い。

 彼は、自分の中の正義に従い、それに反する者を粛清しただけなのだから。

 例えそれが、劉備や諸葛亮の意を完全に離れた行為であっても……徐庶は、この行為が彼らのためになると、心の底から信じきっている。


「……貴方が生きていると、あの方のためになりません。だから、ここで消えて貰います」





 劉表も武将の端くれ……肩口から切り裂かれても、即死だけは免れた。

 だが、その傷は完全に致命傷であり、もう長くは持たないと思われる。

 意識は朦朧として、永遠の眠りに引きずり込まれようとしている……にも関わらず……


「ふふふふ……ふはははは……あははははははははははははっ!!」


 劉表は、喉の奥に血が溜まっていても構わず、大声で哄笑する。

 常に含み笑いをしてきた彼にとって、ここまで大きな声で笑ったのは初めてのことかもしれなかった。


「どうしました? 早く楽になった方が貴方のため……」

「何ですか!? 今のは? 貴方、どうやって私を斬ったのですか!?」


 何故斬られるのか、ではなく、どうやって斬ったのか……

 劉表の口から出たのは、徐庶への恨み言でも、自分を殺す理由についての問いでもなかった。

 徐庶が行使した不可思議な術への、純粋な興味と疑問だった。

 

 死の渕に追いやられても、そんな質問を発する劉表に、徐庶は薄気味悪さしか感じなかった。

 込みあがる不快感が、彼を反射的な行動に走らせる。


「黙りなさい」 


 徐庶は腰の剣を抜き放つと、その剣に赤い“タオ”を纏わせる。

 剣を振るった瞬間……赤い“タオ”の刃が劉表目掛けて飛び、右の肩を切り裂いた。


 

 “撃剣げきけん”……

 

 徐元直の行使する術で、“タオ”を剣に纏わせ、気の刃に変えて飛ばす、文字通り“撃”つ“剣”である。

 “タオ”の刃なので、剣に血がつくこともなく、離れた間合いからでも敵を殺傷できる。

 劉表とは違い……正式な仙人の弟子である徐庶だからこそ使える、正真正銘の道術だ。



 

 だが、それでも劉表は死ななかった。

 すぐに上体を起こすと、顔面に歪んだ笑みを浮かべ、またも笑い出す。

 それは、徐庶の術を目の当たりにした歓喜ゆえの哄笑だった。


「あはははははははっ!! 興味深いっ! 実に興味深いですねぇ! 

 それも“タオ”の一種ですかぁ? いいですよぉ! それもまた、文化! ですからねぇ!!」


 おかしい……今のは確実に致命傷だったはず。

 何故だ……何故こいつはまだ生きている……?

 

「知りたい……知りたいっ!! 教えてください、その術の秘密を!!」


 まさか……こいつは不死身なのでは……

 ありえないとする考えと、あの諸葛孔明に教えを受けているならば、もしかすると……そんな疑惑が彼のうちで鬩ぎあう。


「さ、最期の最期まで自分のことですか……やはり貴方は悪だっ……!」

「ああ、欲しいっ! 文化が欲しくてたまらないっ!!

 あははははははははは……ひ、ひひひっ!! ひはははははははははははははっ!!!」


 死に瀕して錯乱したのか……劉表は、自分が不死であるという幻想に取り付かれていた。

 彼の膨れ上がった知識欲は、苦痛や恐怖をも麻痺させ、ただ未知の文化を求める餓えた獣に変えていた。

 彼の文化への異常な執着は、死の寸前になっても、衰えることはなかった。


「さぁ……ごほっ! もっと! 私に文化を……ぐふっ!」


 血を吐きながら、とうに死んでいるはずの深手を負いながらも、劉表は薄ら笑いを浮かべて手を伸ばす。

 その姿に、徐庶は戦慄を禁じ得なかった。

 追い詰めているのは自分のはずなのに……相手は何もできない、死にかけの老人だというのに……


 何なんだ? こいつは……

 何故、自分が恐怖を覚えなければならないのか。



「うああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! 死ぃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 逆上し、立て続けに撃剣を放つ徐庶。



「あはっ、あは、あははははははは!! 嗚呼!

 文化は素晴らしい! 私は文化を愛しているッ!! 

 文化……文化……文化……! 文化万歳ッ!!!」


 劉景升は、赤い刃によって全身を切り刻まれ、真っ赤な肉塊と化す。

 彼は不老不死でも何でもない。だが、命の灯が消えるまで……

 

 彼の顔から、笑みが消えることはなかった。



 劉景升は、この夜、二度目の死を迎えた。





「ぜぇ……ぜぇ……」


 剣を足元に落とし、肩で息をする徐庶。

 撃剣は便利な術であるが、使う度に体内の“道”を消費する。

 むやみやたらに使えば、著しく“道”を消耗し、疲労困憊に陥ってしまうのだ。


 激昂していた彼の形相は、徐々に平静を取り戻していく。


「……これで……正義は執行されました」


 無感動な声で呟く徐庶。最期、異常な行動を見せた劉表への恐れは、既に消え去っている……いや、無理矢理内へと押し込めた。

 胸の奥の不快感に、正義という名の蓋をして。

 

 原型を留めぬほど破壊された劉表の体は、川に流されていく。

 元々、身元が分からないように死体を壊すつもりだった。


「……悪は……欺瞞は……滅びなければならないんです。この世界に、真実の正義を蘇らせるためにも……」


 このことは、劉備達には秘密にするつもりだ。

 それもまた欺瞞であるという矛盾に、彼は気付いていない。

 彼らを悲しませたくない……そんな言葉で自分の嘘を正当化する。無意識の内に。


 彼の正義への執心は、多少の矛盾など打ち消してしまうほどに、強固で、かつ独善的であった。







 翌日……


「何? 劉表さんが?」

「はい。これ以上、玄徳様の世話になるのは心苦しい。

 誰の力も借りず、ただ一人の民として、自分が生まれ育った荊州の地で、生きていきたいのだと。

 私も引き留めたのですが、決心は固いようでして……勿論、自分が劉表であることは、誰にも言わず、墓場まで持っていくとおっしゃっていました」


 徐庶は、淀みない表情ですらすらと述べる。


「そう……か」


 劉備は、ただ一言そう漏らした。徐庶の伝言に納得しているのかどうか、表情からは判然としない。


「孔明先生にも、修業を途中で放り出すようで、申し訳ない、ですが、やはり自分には道術は過ぎたる力、大成する見込みもないのに、孔明先生の貴重なお時間を割くのは心苦しい、そう言っておられました」

「あっそ」


 寝ぼけ眼で答える諸葛亮。彼女は最初から、何の関心も無いようだった。


「最後に……自分は、劉玄徳が天下の主となり、中華を照らす時を、心から待ち望んでいる……と」

「……わかった。それがあの人の決断なら仕方がねぇ」

「そんなことよりさぁ、子龍、朝ごはん」

「畏まりました、孔明様」


 前に出る趙雲。彼は歩きながらでも食べられる、即席の朝食を用意していた。


「おい、孔明……」


 劉備は諸葛亮に、小声で何かを尋ねようとする。

 しかし、彼女は間髪入れずにこう答えた。


「私は何も知らない。何を聞かれようが、それが全てよ」

 

 あらゆる質問を拒絶する切り返しだった。

 それが嘘であれ真実であれ、彼女はもう何も答えはしないだろう。







 自分は、悲しんでいるのだろうか、怒っているのだろうか、それとも……



 昨夜、諸葛亮と話した後で、彼は一つの決意を固めていた。


 それは、自らの手で、劉表に引導を渡すことだった。


 劉表は、自分が天下を登り詰めるのに間違いなく急所となる存在だ。

 そして、既に彼の役割は終わってしまっている。

 彼が生き続ければ……薄氷の上を歩くような劉備の王道に、更に危険が付きまとうことになる。

 合理と冷静に徹すれば……答えは一つだ。


 例え殺したくなくても、どれだけ心を痛めようとも……目的の為ならば最善の道を選んでしまうのが、劉備という男なのだから。


 劉表の突然の離脱に、自分は、安堵しているのだろうか……

 自分の手を汚さずに済んで……


 この件に関して、裏でどんな事情があろうと……自分に、誰かを責める資格はない。

 それだけは確かなことだった。




 劉備軍と民草の群れが、曹操軍の先発隊に追い付かれたのは、長坂に差し掛かった頃だった。



<第二十一章 荊州侵攻 完>


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ