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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十一章 荊州侵攻(六)

 曹操は、無人の樊城を通過し、三十万の兵と共に襄陽に入城する。

 新野の時と同様、劉綜は持てる限りの礼を尽くして曹操を歓待した。

 曹操に謁見した劉綜以下家臣団が最初にしたことは、劉備を逃がしてしまったことと、未だに領土内の反曹操勢力が、君命に従わず勝手に曹操軍に攻撃を仕掛けていることへの詫びだった。


「申し訳ありません、丞相閣下……

 全ては、この荊州を一つに纏め切れなかった私の力不足ゆえ……

 ですが、先代の急死と、劉備の影響力を鑑み、何とぞご慈悲を賜るようお願い申し上げます」


 劉綜は、荊州の混乱の責を、全て劉表と劉備に押し付けるつもりでいた。

 反曹操を唱える者は全て処罰し、行方の知れぬ者は罷免したという。


「私以下、荊州の家臣団一同、丞相閣下に曇りなき忠誠を捧げることをここに誓います。ですから、どうか……」


 その場に平伏し、全身全“礼”で、許しを請う劉綜達。


 曹操は、かつて劉表、劉綜が座っていた、荊州牧の椅子から、彼らを見下ろしている。

 この、齢十五程度にしか見えない細身の少年こそ、今や天下の大半を手中に収め、中華全土に恐怖と威圧を振り撒く覇王なのだ。

 彼の恐ろしさを伝える噂の数は、枚挙に暇がない。


 降伏という、ある意味楽な選択に、弛緩していたのは確かだ。

 曹操とて人の子、誠心誠意礼を尽くせば、悪いようにはされないだろうと……

 だが、そんな甘い予断は、実際に相対してみた瞬間に消し飛んだ。

 

 実物の曹操は、想像を遥かに越える、恐怖そのものだった。

 見た目はただの子供なのに……その内側には、人の理を越えた魔物がいるのではないかと思ってしまう。

 これが、覇王に昇り詰めた者のみが纏える風格なのか……

 彼の傍らに控える、黒い服を着込んだ武将達も、恐ろしさを増幅させている。


 だが、何より恐ろしいのは、曹操の瞳だ。

 あの琥珀色の目に見つめられていると、心の奥底まで見透かされている気分になる。

 もしも心に僅かな反意が芽生えれば、その瞬間死を与えられそうだ。

 耐えず微笑を浮かべているのも、子供らしい残虐さを連想してしまい、更に恐怖を煽り立てる。


 劉綜達は、曹操を相手にする恐怖を骨の髄まで感じながら、不安に心を引き裂かれていた。



 そんな彼らの思いを余所に……


「よい」


 曹操は、たった一言で、彼らを許した。あまりにあっさりした展開に、劉綜達は面食らう。


「この荊州が、長きに渡って平穏と中立を保ち続けたのも、そなたらの尽力があればこそ。

 余は、この文化の都が戦火に晒されなかったことを、心より嬉しく思う。

 これからもそなたらには、荊州を治める役目を任せたい。その働きに期待しておるぞ」

「あ、ありがたき幸せ!!」


 曹操の温情ある発言に対し、劉綜達は一斉に平伏する。


 元より、荊州における劉一族の統治には何の不満もない。

 それは、ここ十数年、領土での内乱が皆無だったことからも窺い知れる。

 この七年、荊州に兵を送らなかったのにはそういう事情もある。

 だが、劉表の死期が近づき、劉備が後継者となる可能性が浮上した時点で、荊州を放置しておくわけにはいかなくなった。

 裏では劉綜や蔡瑁と密約を交わし、表では圧倒的な武力に物を言わせて降伏を迫り、一気に荊州を手中に収めた。


 これまで荊州に欠けていたものは、外敵に対する軍事力だった。

 南では、揚州の孫家が曹操に対抗すべく、北上の機会を狙っているという。

 その脅威から領土を守るためにも、曹操の傘の下に入ることは必須だった。

 劉一族に引き続き荊州の統治を任せることで反乱を抑制し、曹操軍を駐屯させることで、孫軍を始めとした南方の諸勢力の防波堤とする。

 双方の利益が確保されている、理想的な恭順であった。


 民の間の連帯感が強く、土地への愛着が強い揚州と異なり、荊州の民は個人主義が強い面がある。

 そんな民の気質が、多くの才人を輩出し、荊州を文化と芸術の都へと変えたのだ。

 だが同時に、個人主義の風潮は、主君が誰であろうと生活が保障されていれば構わないという意識を育てた。


 荊州の早急な降伏には、そういった事情もある。

 一方で、州牧が降伏を認めようとも、自分達の信じる主についていく者も多くいたのだが。



「先代の劉表は、文化について非常に造詣が深いと聞く。一度会ってみたかったものだが……惜しい男を亡くしたものよのう」


 曹操も、劉表同様詩文を読み、芸術を愛する人物だ。劉表も、彼の詩文の才は高く評価している。

 存命中に会っていれば、さぞかし文化の話題で盛り上がったことだろう。


 だが何故、父は曹操に帰順せず、長きに渡って独立を維持しようとしたのか?


 自分には、父の気持ちがよく分かる。

 乱世に生まれながらも、文化を愛する英雄……そんな名声を、曹操に奪われるのが嫌だったのだろう。


 父の野心を支えていたのは、己が荊州の文化を牛耳っているという独占欲だ。

 ゆえに、何としても荊州の主という地位にしがみつかねばならなかった。

 だが、中原の争いが終局し、曹操の覇業の矛先が荊州に伸びるに至り、荊州における主権を維持することは不可能となった。


 その事実に絶望し、自分に残された時間は短いと知り、病に抗う力を失ってしまったのではないか……


 曹操は、劉一族の地位と身の安全を保障するという。

 劉綜はそれに心から安堵したが……父は、それでは満足できなかったのかもしれない。

 名君の仮面を被り、虎視眈々と天下の覇権を狙う策略家……いつまでも、そんな気分に浸っていたかったのだろう。


 だが……結局、父のしたことは無駄な悪あがきだった。

 曹操にとって、劉景升は敵ですらなかった。

 荊州を統治するのに都合がいいから、放置していたに過ぎないのだ。

 もし生きている間に、曹操と会っていたら、一体どうなっていたのだろう……




「あるいは……のう、劉綜」

「何でございましょうか、丞相閣下」


「劉表が、実はまだ生きているなどということはあるまいな?」


「え……?」


 劉綜のその反応で十分だった。

 何を言われたのか分からない……そんな顔をしている。


「……戯言だ。今の発言は忘れよ」


 曹操に命じられては、劉綜は食い下がることもできない。


 やがて、劉綜と家臣団は退出を命じられ、静々とその場を離れた。




 劉表の死が狂言という可能性は考えていた。

 死の直前に劉備を後継者に指名した……という話からして既に胡散臭い。

 劉綜の臣下の報告から、劉表が死の直前、劉備や諸葛亮とよく秘密の会合を開いていたと聞いている。

 劉表の死と遺言が、劉備が荊州に影響力を残すための策略だとしたら……


 一体何が劉表をそのような行為に走らせたのか。

 つい最近劉備の臣下に加わったという、諸葛孔明なる人物が関係しているのか。

 それとも、劉備に、あの劉表を動かす程の器があったというのか。


 興味深いが、所詮は憶測の域を出ない。

 あの、完全に虚を突かれた反応から、劉綜が何も知らないのは明らかだ。

 

 それに……もし劉表が生きていたところで、もう二度と会う機会は無いのだろう。

 



「しかし、あそこまで怯えずともよいものを。これでも愛想良くしている方なのだかのう」


 愚痴を零す曹操に対し、賈栩は思わず苦笑する。


「それは無理な話でございましょう。

 貴方様が持っておられる武力や権力は、力無き者達にとっては途方も無く恐ろしいもの……

 誰もが、首の根元に刃を突きつけられている気分でしょう」


 例え害が無いことが分かっていても、獅子や虎と同じ檻に入れられて恐れを知らない人間がいるだろうか。

 ほんの少しの気紛れで、相手の命を奪える力関係……それは、当人達の意志に関係なく、相手に恐怖を植えつけるものだ。


「そなたも、そう思っているのか?」

「ええ、恐ろしいですとも。今も、いつ機嫌を損ねて問答無用で首を刎ねられるのではないかと、内心戦々恐々しておりますよ」

「恐れか……その恐れゆえに、数十万もの民草は劉備についていったのだな」


 劉備が、大勢の民を引き連れて樊城を発ったとの報は、既に耳に入っている。

 その展開は予想していたが、さすがに数十万という数は常軌を逸している。

 新野、襄陽を無血開城した成果など、すぐに吹っ飛ぶほどの緊急事態だ。


「無知な大衆は、丞相の政の中身を解そうとせず、ただ恐れから逃れようとしているだけでございます。

 劉備は、そんな民の不安を煽り立て、自分の信望者を増やしているのでしょう」


 そう言う賈栩の顔は、どこか嬉しそうだ。それもそのはず。

 彼が理想は、万民に恐れられる覇王としての曹操。

 曹操を恐れる民の数が多ければ多いほど、より賈栩の理想に近づくのだから。


「それが、劉備の才というわけか」


 曹操に、劉備に対する遺恨はない。元より怒りや怨みとは無縁の男だ。

 客観的に見て、これだけ絶望的な差がついていながら、なおも自分に抗おうとしている劉備という男を、好ましくさえ思う。


 自分は武力で障害となる敵を撃ち破り、万民に恐怖を植え付けることで、天下を平定してきた。

 それが自分の覇業の形だ。もはや変えることなどできない。

 

 逆に劉備は、仁と徳を持って民の心を慰撫し、彼らの支持を得ることで、曹操じぶんに対抗しようとしている。


 実際は、そんな単純に割り切れるものではない。互いが、世間の印象とは相反する要素を内包している。

 両軍の本質を知る賈栩からすれば、無条件に曹操を貶し劉備を崇める民の姿は、さぞや無知で滑稽に映ることだろう。


 だが、大多数の人間が、そう認識していることは事実だ。

 世評とは、噂を真実に昇華させ、時として真実以上の影響力を及ぼすもの。


 悪の象徴・曹操と、善の象徴・劉備。陰と陽の宿命を背負った二人の英傑。

 歴史の流れがこのような構図になっていくのは、もはや避けられぬ必然であった。



 悪……か。


 基準さえ判然としない、曖昧模糊とした概念であるが、皆がこぞってこの言葉を使いたがる。

 人は、物事を善と悪に区分したがるもの。 

 敵か味方か、好きか嫌いか……自分の知識に明確な線引きが無ければ不安で仕方が無いのだ。


 その点……明確に、善とも悪とも言い難い自分のような存在は、さぞかし民の不安を掻き立てるのだろう。


 曹操としては、ただ全てを合理的に進めているだけなのだが、古き因習に凝り固まった民には、その考えは革新的に過ぎる。

 理解の及ばない、魔物のように思えてしまう。

 結果、彼らは劉備というわかりやすい英雄に縋り付くのだ。


 彼らを蔑むつもりはない。しかし、因習という暗闇が人間の可能性を閉ざしてしまうのならば、自分はそれと戦わなければならない。

 中華社会を縛ってきた常識と、その象徴として担ぎ上げられた劉備との戦いは必然だったのだ。


 それを大義と言うつもりもない。全ては、人間の可能性を追求し、自分の本性を満たしたいだけだ。

 他者を省みない、独りよがりの欲望を“悪”と呼ぶならば、その称号は自分に相応しい。


 そう、漢王朝を乗っ取り、袁紹を破って中原を制覇したのも、ほんの始まりでしかない。


 彼の本当の戦い……中華の破壊と再生は、ここから始まるのだ。




「さて、余らも南に向かうとするか……張遼」

「はっ!」

「手筈通り、精兵五万を率い、先行して劉備を追撃せよ」

「お任せを!」


 数十万の民を連れている以上、劉備達の進行速度はかなり鈍るはずだ。

 旧呂布軍の騎馬隊を擁する張遼軍の速度ならば、追い付くのは容易だろう。

 最も、問題なのは追い付いてからなのだが……


「ククク……劉備は望む望まぬに関わらず、民を盾にして我らの進軍を阻もうとするでしょうな。

 私達にとって、やりづらい戦になるのは間違いない」


 そう言いつつも、賈栩は酷く楽しそうな表情をしている。惨劇が起こることを期待しているかのようだ。


「心配はいりません。このような事態は既に想定済み。私達の敵は劉備であって民ではない。

 劉備が如何な策を弄しようと、丞相閣下の御名を地に落とさせはしません」


 自信たっぷりに述べる荀攸。彼もまた先発隊に加わり、張遼軍の軍師を務めることになっている。

 賈栩は、言外に「お前が喜ぶような展開にはさせないぞ」という意志を感じとった。

 

 自分には全く理解できぬことだが、この賈栩は何が何でも曹操を冷血で残酷な、民に恐れられる魔王に仕立てあげたいらしい。

 とんでもない話だ。丞相は漢王朝の腐敗を一掃し、乱世を終わらせ、善政を敷いて民の生活をより良くしようとしている。

 今の曹操の何処に、悪たる要素があるというのだ。

 乱世の奸雄の名は既に過去のもの。それどころか、中華を再生し、平和な新時代を築き上げる名君として讃えられるべきだ。

 少なくとも荀攸は、その称号が決して過大なものではないと思っている。


 確かに、曹操は今の地位に上り詰めるまでに、その手を血で染めてきた。

 荀攸も、自分の主は聖人君子だとは思っていない。

 覇業とは、英雄とは、言葉の響きからはかけ離れた、陰惨で血生臭いものであることも理解している。

 だが、その悪名を一身に背負い、それを恐れることなく乱世を駆け抜けた、曹操という男がいたからこそ、中華は今の平和を取り戻したのではないか……


 もし曹操に罪があるとしても……荀攸は、彼の偉業が、その贖罪に足るものだと信じている。

 曹操という名から負の因子を拭い去るためにも、自分達臣下が曹操を盛り立て、更なる功績を上げねばならない。


 皆がそう思っている中で、“奸雄”としての曹操を殊更に賛美し、更に悪名を広めることを望む賈栩と、荀攸が相容れるはずもなかった。


 叔父の荀或は一線を退き、郭嘉は病で逝った。

 軍師として、これからの曹操軍を担う重責を感じつつ、荀攸は使命感に燃えていた。



 きつい視線をぶつけて来る荀攸に対し、賈栩は冷ややかな笑みを浮かべてみせる。

 彼自身は、進んで惨劇を起こそうという気はない。

 ただ、そうなる状況を心待ちにしているだけだ。

 そして彼は、そんな願望を抱けば、望み通りの展開を引き寄せやすいことを知っていた。





 曹操黒騎兵団の三将軍、張遼、楽進、張合、そして荀攸を擁する五万の騎馬隊は、襄陽を発つ。


 曹操は十万の兵を荊州に駐屯させた後、自らも二十万の兵と諸将を率いて、南へと向かった。


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