表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国羅将伝  作者: 藍三郎
143/178

第二十一章 荊州侵攻(五)


 劉備達が樊城を発って間もなく……曹操の大軍は、荊州の最前線、新野城に入る。

 劉備のいない新野城は、一度も交戦することなく白旗を掲げ、城の者は礼を尽くして曹操軍を歓待した。



 その頃……本隊に先んじて、樊城を目指す一軍があった。

 先頭を走るは、白い長髪に黒の軍服を羽織った青年だ。その肩には、あまり見られない得物……長い柄から湾曲した刃の伸びた大鎌を担いでいる。

 だが、それ以上に彼を彼たらしめているものは、左目を覆う眼帯だった。


 夏侯惇かこうとん、字は元譲げんじょう


 曹操の義兄弟で、曹操四天王の一人。

 旗揚げ時代から同道している曹操の股肱ここうの臣で、無二の親友でもあった。

 敵の矢に射抜かれた左眼を、その場で喰らった豪傑ぶりから、隻眼の鬼将軍の異名で恐れられ、また親しまれている。

 曹操の信頼も篤い、曹操軍で最も名を知られた将でもあった。


「ん?」


 その彼の右眼が、こちらに迫って来る騎影を捉えた。

 単騎だったので、最初は劉綜から送られた伝令かと思ったが……直ぐさまそれは否定された。

 その男は、背に大剣を背負っており、何より隠す意志など微塵もない殺意を剥き出しにしていたからだ。


「待て待て待て! 待ちやがれぇ!」


 背の大剣に見合う巨体を持つその男は、夏侯惇軍の行く手に立ちはだかった。


「んだ、てめぇは」

「俺の名は魏延! 字は文長! 曹操軍! 今からてめぇらをぶっ潰す男の名だ!」


 背の大剣を抜き放ち、勇ましく名乗りを上げる魏延。


 魏延が手にする武器は、灰色の刀身を持つ片刃の大剣だった。

 その形状に、曹操軍の兵は度肝を抜かれる。単なる大きさではない。

 その刀身には、のこぎりのように無数の歯が刻まれていた。

 彼の凶暴な風貌と相俟って、ただ剣を構えているだけで禍々しい威圧感を放っている。


「ほう、てめぇが魏延か」

「知ってるのか?俺様のことを……」

「ああ、お前ら荊州の将に関する情報は、全部頭ん中入っている。調べさせたんだよ、うちの参謀がな」


 敵を知り、己を知れば百戦危うからず。

 曹操軍の軍師、荀攸は、荊州のみならず中華全土に斥候を放ち、名のある武将、秀でた才を持つ軍師の情報収集に余念がなかった。


「聞いてるぜ、大人しい荊州軍じゃ珍しい、手のつけられねぇ跳ねっ返り野郎だってな。

 だが、曹操軍おれらを潰すってはやり過ぎじゃねぇか?

 てめぇらの大将は、とっくに俺らの丞相に頭下げているんだぜ?」

「関係ねぇ……今の俺は天下の大徳、劉玄徳の心の臣下、魏文長だ!

 てめぇらを、劉備さんのところに行かせるわけにはいかねぇんだよ!!」

「はーん、てめぇも劉備にイカれてる口か。ま、それも情報通りだがな。

 しかし、心の臣? つまり、正式には劉備の臣下じゃねぇってことか?」

「うぐっ!?」


 痛いところを突かれたのか、やや動揺する魏延。

 劉表の死後、劉埼と劉琮の後継者騒動に魏延も巻き込まれ、あれから中々劉備に会うことができなかった。

 意を決して、臣下に加えてもらおうと思ったが、その時には劉備は既に樊城を捨てて南に逃げていた。


「いいんだよ! てめぇの首を手土産に、俺は劉備さんの第一の臣になるんだからな!!」


 すぐに劉備を追わず、樊城周辺で曹操軍を襲おうとしたのも、名のある将を討ち取るためだ。

 魏延の挑発に、夏侯惇は口の端を吊り上げる。

 


「言ってくれんじゃねぇか。 じゃあ、そいつの名をよく覚えておくんだな。

 俺の名は夏侯惇、字は元譲! ただし、てめぇに殺される男じゃねぇ。てめぇをブチのめす男の名だがな!」

 

 夏侯惇は意気揚々と名乗りを上げる。


「夏侯惇だぁ? それにその眼帯……」

「おうおう、流石に俺の名前は知ってたか」

 

 魏延は、途端に意地の悪い笑みを浮かべて言う。


「ああ、よーく知っているぜ。隻眼の夏侯惇……戦場でてめぇの目ん玉喰った変態野郎だろ?」


 曹操軍の兵達がざわめく。未だかつて、夏侯惇をそのように罵った男はいなかったからだ。


「ほう……」


 当の夏侯惇は、顔に青筋を浮かべ、きつく歯を噛み締めている。

 その鬼のように強張った顔つきは、自軍の兵卒を震え上がらせた。


 大鎌を肩から外し、そのまま地面目掛けて振り下ろす。

 あの方を本気で怒らせた……魏延以上に、曹操軍の兵士達は戦慄していた。

 しかし、魏延を見据える夏侯惇は……笑っていた。


「……嬉しいぜ。俺の片目を見ても、ビビるか褒めたたえるかのどちらかって奴らばかりでよ。

 俺も忘れかけていたぜ……片目こいつは誉れなんぞじゃねぇ、屈辱の証だってな」


 沸々と込み上がる怒りは、魏延に向けられたものではない。

 あの日、些細な油断が原因で片目を失ってしまった自身への怒りだ。


「いいかてめぇら……手ぇ、出すんじゃねぇぞ」

 

 低く抑えた声で命じる夏侯惇。

 彼の怒りの程を推し量らずとも、異に唱えられる兵などいるはずもない。

 あの男は、隻眼の鬼将軍の逆鱗に触れた……誰もが魏延の確実な死を幻視した。



「ほう、俺と一騎打ちしようってか。

 ゲテモノ喰いの曹操の犬にしちゃ、中々いい度胸してやがる。それとも、怒りで我を忘れたか?」


 実のところ、夏侯惇は限りなく冷静だった。

 一人で魏延と戦うのも、この男の実力が、並外れたものであると見抜いたがゆえ。

 このまま全軍でかかっても、甚大な被害を生むは必至。

 今、奴に対抗できるのは自分だけだ。

 無駄に兵の犠牲を出すよりは、自分一人で戦う方が良いと判断したのだ。


「はっ、てめぇが負けた時、数で攻めるのは卑怯だ、なんてほざかれちゃたまんねぇからよ。それに……」


 夏侯惇は、不敵な笑みを浮かべてみせる。


「たった一騎で、この数相手に突っ込んで来るなんざ、命知らずにも程があんぜ。

 ここ数年、ろくな相手と戦ってなくてよ……どいつもこいつも口だけは達者な腰抜けばかりだ。

 一年前に攻めた烏丸にゃ、やばい奴らが何人もいたらしいが……生憎と俺はそん時ゃ遠征に加われなくてよ。

 この荊州攻めも、所詮は劉備や孫権とやり合う前の景気づけ程度に思ってたんだが……

 嬉しいぜ。久々に、てめぇみてぇな真っ直ぐな馬鹿野郎と戦えてよ」


 本心だった。彼との一対一を望むのは、部下を無駄死にさせないためだけではない。

 やはり自分の本質は武人……強い男を前にすると、無性に戦いたくなるのだ。


「てめぇ、馬鹿だろ」

「よく言われるぜ。それと、せっかく誰の邪魔も入れずにやり合うんだ。

 どうせなら、純然たる一対一でやろうじゃねぇか」


 そう言って、馬から降りる夏侯惇。馬の力さえも借りないつもりだ。


「面白ぇ!」


 こんなことをされては、魏延も応じないわけにはいかない。


 だが、彼が馬から飛び降りたその時……


「よぉしおめぇらぁ! 一足先に樊城に行ってきな!!」


 夏侯惇がそう叫ぶと、彼の部隊は一斉にその場を離れた。


「しまった!!」


 嵌められた――

 そう気付いた魏延は再度馬に飛び乗ろうとするが……


「シャアラァァァァァァッ!!」


 同時に、鎌を手に飛び掛かる夏侯惇。

 魏延は大剣で刃を受け止めるが、その隙に夏侯惇軍の兵は先に行ってしまう。

 徐晃のような駿足でない限り、人の脚では追いつけない。


「ぬあらぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 大剣を振るい、夏侯惇と激しく切り結ぶ魏延。

 一兵たりとも通さぬ気でいたのに、夏侯惇の口車に乗って馬を降りてしまったことが、悔しくてたまらないのだ。


「悪いなぁ。年を喰うとどうにもずる賢くなっちまってよぉ」

「て、てめぇっ!!」


 怒りに任せて、大剣を振り下ろす魏延。

 高密度、かつ超重量の大剣は、まともに喰らえば鎌ごと叩き折られてしまう。

 ゆえに、剣の腹を叩いて軌道を反らし、直撃を避けてやる。

 そして、重量武器の欠点……振り下ろした後の隙を、見逃す夏侯惇ではない。


「ぐっ!!」


 脇腹に、大鎌の刃が突き刺さる。

 この程度は肉を少々抉っただけ。彼にとっては傷の内には入らない。

 だが、それから二度三度と仕掛けるが、やはり大鎌の柄によって大剣をいなされ、大鎌の斬撃を喰らってしまう。

 魏延の身体から流れる血が、大地をどす黒く染める。


「野郎ぉ、せせこましい戦い方しやがってぇ!!」

「いちいち人が気にしていることを突いてくる奴だな」


 己の豪快な気性に反して、夏侯惇は戦場においては、常に沈着冷静な戦を心がける男だった。

 長い間曹操の下で戦っていれば、力押しだけでは思い通りにならない、不利な状況などいくらもあった。

 その度に、夏侯惇の猪突猛進な性格は抑えられ、慎重な振る舞いをするようになっていった。

 一軍を預かる将としての、責任感が芽生えたのも大きい。

 それは長所であり、卑下することではないのだが、「せせこましい」と言われるとその通りなのではないかと思ってしまう。

 この男は、自分が将となる代わりに失いつつある、ただ一人の男としての愚直さ、熱さをまだ残している。



「なぁ、魏延よぉ!」


 大鎌を繰り出しながら呼びかける夏侯惇。魏延は、その刃を鋸剣の歯で絡め取り、弾き返す。


「お前、劉表が死んじまって、今は誰の臣下でもねぇんだよなぁ!!」

「うぐ! そ、それがどうした!!」

「だったら……曹操軍うちに来ねぇか?」

「な、何だとぉ!!」


 決して攻撃の手を緩めているわけではない。夏侯惇の鎌は、混じりけの無い殺意を伴って魏延を襲う。

 そんな生死を賭けた戦いの最中、夏侯惇は魏延の勧誘を始めた。


「おめぇみてぇな奴、孟徳は絶対気に入ると思うぜ。俺も、てめぇとは肩を並べて戦ってみてぇしな!!

 どうだ? 曹操軍おれらと一緒に、楽しい喧嘩をやらねぇか?」

「断るっ!! 劉表殿亡き今、俺の主は劉備さんだけだ!!」

「言葉で表せるもんでもないかもしれねぇが、一応聞いとく。おめぇ、何だってそうも劉備にこだわる?

 奴がてめぇに何をしてくれるって言うんだ?」

 

 二人が言葉を交わす度、刃が交わり、火花を散らす。


「はっ! 損得勘定の問題じゃねぇや! あの人は本物の“漢”なんだよ!!

 てめぇらの親分みてぇな血も涙も無い奸雄じゃねぇ……

 強くて、温かくて、でっかくて!! 心から尊敬できる漢だからこそ、俺は劉備さんについていくんだ!!」


 魏延の瞳には、劉備への燃え滾るような忠誠心が宿っていた。

 しかし、その文言は劉備の信望者が口にする常套句であり、あまり深く考えていないのではないかとも思えてしまう。


 これが曹操ならば、魏延の心を徹底的に掻き乱し、屈服させるかもしれないが……あいにく自分には、そんな弁舌の才は無い。

 

「なるほどねぇ。ま、否定はしねぇさ」


 主君に対する暴言に、激したりはしない。

 自分の主が世間にどのように受け入れられ、本人も悪評など毛ほども気にしない男だということを知っている。

 自分も、彼と道を共にする以上、いかに誹謗中傷されようとも気に止めない。

 だが、自分は曹操軍の将である。

 言葉の枠を越え、力で曹操の覇業を阻もうとするならば……一辺の慈悲もなく、叩き潰す気でいた。



 魏延の身体に、再び裂傷が刻まれる。与えた傷の数ならば、夏侯惇が遥かに上だ。

 やはり年季と経験の差か、技量においては夏侯惇に軍配が上がるのだろう。

 しかし、それで慢心する惇ではない。魏延の大剣は一撃必殺。

 満身創痍であろうとも、ただの一度相手の体に刃を食い込ませれば、それで決着がついてしまう代物だ。

 おまけに、あの鋸のような細かい歯。あれで斬られれば、傷口を細かく裁断され、運よく逃げ延びられても、治療することもできず死に至るだろう。

 元より、逃げ出すつもりなどないが。


 それに、幾ら傷をつけても、敵の身体能力は微塵も損なわれてはいない。

 夏侯惇が斬ったのは、彼の全身を包む分厚い筋肉の鎧だけだった。 

 恵まれた体格、好戦的な性格、戦い方はまだ粗削りながらも、これから幾らでも成長していける余地を残している。


(大した野郎だ……!)


 この男が、あの関羽、張飛を擁する劉備軍に加われば、曹操軍にとって脅威となるに違いない。

 ならば、その才が開花する前に排除することこそ、曹操の益になるはずだ。

 これだけの才を、発展途上で散らしてしまうのは惜しい。

 だが、彼にとって曹操への忠義は、全てに優先される。

 加えて、一人の武人として、真剣勝負に決着をつける喜びに抗えそうに無い。


「ぬああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

「シャオラァァァァァァッ!!」


 二人とも闘争本能を解放し、激しくぶつかり合う。


 魏延の剣が暴風ならば、夏侯惇の鎌はその隙を縫って吹く疾風。

 両者とも、互いの特性を最大限に生かしつつ、五分の斬り合いを演じていた。



 極限の命のやり取りの中で、魏延もまた歓喜を覚えつつあった。

 地位も、名誉も、目的すらもかなぐり捨てて、いつまでも戦い続けていたい……そんな思いさえ芽生え始めていた。


 だが……



 魏延の剣をかわした直後……こちらに近づく蹄の音が聞こえてくる。

 夏侯惇は咄嗟に叫んだ。



「! おいてめぇ! 臥せろ!!」


「ああ!? 何……」


 突然の夏侯惇の叫びに、魏延は面食らう。だが、次の瞬間……



 魏延が声を返した時には、既に遅かった。

 飛来する数本の矢が、魏延の体を側面から貫いていた。


「ぐ……はっ!!」


 鉄製の矢は、魏延の腿も穿ち通していた。その場に崩れ落ちる魏延。


「魏延!!」


 夏侯惇は、矢の飛んできた方向を見ずともそれを射ったのが誰かわかった。


 戦闘中とはいえ、あの魏延に気付かせずに忍び寄り、相手の急所を正確に射抜く技量。

 魏延の鋼の筋肉を、易々と貫通する破壊力。


 それほどの弓の名手といえば、曹操軍……いや、天下広しといえども彼しかいない。


「淵……!」


 夏侯惇の従弟であり、義弟でもある曹操四天王の一人、夏侯淵かこうえん、字を妙才みょうさい


 約一万の騎兵と共に現れた彼は、左腕に“接続”した弓を魏延に向け、冷然とした視線を浴びせ掛けている。


 腕を覆う手甲に装着された弓は、曹操軍の機械技師、李典が開発した半自動・半手動型弩弓、“せん”。

 この機械弓は、背中に背負った矢嚢と繋がっており、自分で矢を番えずとも、一度矢を放てば次の矢が自動的に装填されるようになっている。

 さらに、矢は銃器同様火薬を用いて複数同時に発射されるため、弦を引き絞る必要すらない。


 しかし、夏侯淵の神業めいた射撃技術を活かすため、従来の手動による射撃に切り替えることも可能である。

 夏侯淵自らの手で、弦を引いて放たれる矢の破壊力と命中精度は、機械仕掛けのそれを遥かに上回る。


 夏侯惇は、右目で義弟を睨み付ける。


「おい淵! てめぇ、自分が何したかわかってんのか?」


 責め立てるような口調に対しても、夏侯淵は眉一つ動かさずに答えた。


「見ての通りだ。貴方の敵は即ち、丞相閣下の敵。ゆえに排除した……それだけの話だ」

「そういうことじゃねーよ! 俺は、こいつと一対一でやり合ってる最中だったんだよ!

 それを横から余計な手ぇ出しやがって……」


 怒気を込めた声で迫る夏侯惇。


「ああ、それがどうした?」

「どうしたか、だと……?」


 夏侯淵は、冷たい表情のままで答える。


「我らの任務は、曹孟徳丞相に敵対する反乱分子を、発見し次第排除することにある。

 あの男が、丞相閣下の敵である以上、私には即時抹殺以外の選択肢は存在しない」

「うぐ……」


 全くの正論である。曹操に仕える臣下としては、非の打ち所のない在り方だ。

 それどころか、半ば私情で一対一の戦いなどをしている夏侯惇を、暗に非難しているようであった。


 元々、沈着冷静な性格だったが……官渡の決戦の後、彼はさらに冷徹さを強めることとなる。

 反乱分子には一切容赦しない苛烈な戦いぶりと、氷のように冷徹な判断力で、多大なる戦果を挙げて来た。

 彼の中核にあるものは、覇王の階段を昇る曹操の臣下としての責任感と、限りなき忠誠心であった。

 それがよくわかっているからこそ、夏侯惇はこれ以上追求することが出来なかった。

 いかな状況であろうと、武人の道に反する行いであろうと……

 敵を前にして即座に矢を射った夏侯淵は、曹操軍の人間として、間違いなく正しいのだから。




「て……てめぇらぁぁぁぁッ!!」


 体中に矢を浴びながらも、まだ立ち上がる魏延。

 その瞳は、抑えられない怒気が荒れ狂っている。


「一対一とか抜かしといて、不意打ちたぁやってくれんじゃねぇか……この腐れ外道がァ!!」

「それは……」


 違わない。夏侯淵の奇襲が、例え夏侯惇の意に沿わぬものであったとしても……どうして信じることができようか。

 さらに、夏侯惇は憤りながらも、夏侯淵のやり方を認めてしまっている。

 そんな自分に、魏延に弁明する資格はない。



「退け、惇兄」


 夏侯淵は、魏延が起き上がったのを見るや、即座に矢を放つ。

 だが、先程と違い魏延には反応する余裕があった。

 飛来する十数本の矢を、大剣を正面に構えて弾き返す。

 それでも数発は当たってしまうが、それしきの痛みを意に介す魏延ではない。


「ぬおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」


 弓使いは間合いに入ってしまえば恐れるに足らず。

 剣を振りかぶればその隙を狙われる。このまま体当たりを喰らわせた後、一気に始末するつもりでいた。


 激昂しながらもそこまで瞬時に判断し、行動に移した魏延の戦闘の才は並外れたものと言えよう。

 だが、夏侯妙才……彼もまた、常識の枠を逸脱した射手であった。


 夏侯淵は、後ろに飛びのくと同時に、十数本の矢を一斉に放つ。

 だが、狙いはバラバラで、魏延の大剣に弾かれもせずに、彼の両隣をすりぬけていく。


「くぅぅぅぅたばりゃぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 しくじった? 否、そうではない。



「…………!!!」




 魏延の背中に激痛が走る。

 予期せぬ痛みに肉体の方が耐え切れず、魏延はその場に膝をつく。

 彼の背中には、数本の鉄矢が突き刺さっていた。



 背後に射手の姿はない。

 にも関わらず、魏延を襲った矢は彼の後方から飛んできたものだ。




(跳弾ならぬ“跳矢”かよ。いつもながらとんでもねぇ真似しやがる)


 

 魏延の背後には、彼によって弾かれた矢が何本も突き刺さっていた。

 夏侯淵の矢はそれによって跳ね返り、魏延の背中を貫いたのだ。

 偶然ではない。全ては夏侯淵の計算通りの結果……

 夏侯淵は、出鱈目に矢を射ったのではない。

 後方に刺さった矢に狙いを定め、矢が反射して魏延を貫くよう、計算して打ったのだ。


 角度、地形、風向き、矢を砕かずに反射させる微細な力加減……それら全てを一瞬の内に計算し、実行する。

 彼以外の誰がそんな神業めいた真似ができようか。

 熟練や天才の域を越え、弓の神に愛されているとしか思えなかった。


「ぐ……ぐぐ……」


 膝を突き、想像を越える痛みに見舞われながらも、魏延の闘志は消えはしなかった。

 だが、間髪入れず、追撃の矢が降り注ぐ。

 

 頭と心臓だけは何とか防御したものの、手足を貫かれ、魏延の体は昆虫標本のように地面に縫い付けられた。

 彼の体から滴る血が、大地を赤く染めていた。


「畜生、畜生ッ! 許さねぇ、許さねぇぞてめぇらぁぁぁぁぁっ!!

 うぐああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 四肢を不随にされ、怨嗟の声をあげる魏延。どれだけ吼えたところで、彼の命は、もはや風前の灯であった。



 夏侯淵は、敵を追い詰めた状況下にあっても、冷静さを崩すことはなかった。

 

 彼は、戦いとは相手の可能性を潰すことだと考えている。

 相手の成し得る可能性を余さず想定し、かつ、それらを全て潰すことができれば、完全に無力化させることができる。

 彼は、矢を装填する一秒にも満たない時間で想定する。

 ここで、魏延が生き残る可能性はあるか。


 一つある。それは、先程から沈鬱な面持ちで、魏延がやられる様を見ている夏侯惇だ。

 情に篤い彼ならば、魏延を庇う可能性も十分考えられる。


 だが、淵は即座にそれを否定する。

 多くの兵や民が彼を慕っているが、本当の彼を知っているのは、自分や主君を含むほんのごく僅かだ。

 夏侯惇は、曹孟徳のためならば、いくらでも自分を殺すことができる男だ。

 彼の曹操への忠誠心は、普段憎まれ口ばかり叩いている姿からは想像もできないほど、強く、深い。

 彼にとって、曹操の益は全てにおいて優先される。

 そのためならば、命を賭けることは元より、自分の誇りや名声を犠牲にすることを厭わない。

 だから今回も、例えどれだけ心を痛めようと、魏延を助けることはないだろう。


 こうなった以上、どれだけ弁明したところで、もはや魏延が曹操軍に心を許すことはあるまい。

 ならば、今この場で、確実に始末する……それが最も曹操の益になる道のはずだ。


 だから夏侯惇は動かない。動けない。

 長い間、そんな兄の生き方に密かに敬意を払っていた夏侯淵だからこそ得られる確信だった。



 弓に番えた矢を魏延に向け、弦を力一杯引き絞る。

 夏侯淵自身の膂力ちからを込めた矢は、武将の頭蓋であろうと撃ち貫く。

 捕虜にして劉備に関する情報を聞き出すという手もある。

 しかし、この男が素直に口を割るとは思えないし、何より生かして捕らえておくのは危険すぎる。

 やはり、ここで殺してしまうのが最善だ。



 電光の速さで弓から矢が放たれる。




 だが、その瞬間……





 鈍い轟音と共に、爆風が巻き起こる。

 魏延を中心として、地雷が爆発したかのようだ。


「な、何だぁ!?」


 想定外の事態。しかし、今優先すべきは、魏延を確実に仕留めること。

 爆煙に向けて、更に数発矢を射かける夏侯淵。

 夏侯惇も、状況を確認しようと鎌を振って煙を払う。


 やがて、煙が晴れた先に垣間見えたものは……




「だ、誰だてめぇは!?」


 そこに立っていたのは、白い布で全身をすっぽりと包んだ、謎の人物だった。

 背丈は高くも低くもなく、顔は頭から被った布によって覆われている。

 その正体はおろか、性別さえ判然としない。


 その人物の隣には、気絶した魏延が倒れている。

 手足の矢は抜かれていた。あの白装束の人物が助け出したというのか……あの一瞬で。

 謎の人物は、おもむろに掌をかざす。

 その刹那、再び粉塵を巻き上げる爆発が起こり、二人の姿を覆い隠す。



 再度噴煙が晴れた頃には……二人とも、姿を消していた。

 地平線の彼方まで目を凝らしてみるが、影も形も見えない。


「……何なんだ?あいつは……」

「………………」


 夏侯淵は地面に目をやる。

 彼が放った鉄矢が、ひしゃげて落ちているのが目に止まった。


 彼の手による矢は、火薬による爆発程度で威力を失ったりはしない。

 何か、爆発以上の力が加わったのか……爆発を起こしたのも、その力によるものかもしれない。

 いずれにせよ……曹操に報告し、更なる警戒を払う必要がある。


 敵は劉備のみにあらず。不可思議な術を操る、神出鬼没の怪人までいるのだから……


「……なぁ、淵」

「どうした?」

「こんなこたぁ、お前にしか言えねぇが……

 何となく思ったんだよ。このまま襄陽を落として、今回の遠征は切り上げるべきじゃねぇかってな」


 それは、夏侯惇の口から放たれたとは思えぬ、弱腰な発言だった。


「劉備をこのまま見逃せ、と?」

「奴らは俺らだけでぶっ潰せばいい! 関羽や張飛がいる以上、義弟おとうと達や張遼、楽進の手も借りる必要があるだろう。

 ただ、孟徳は……ここらで都に引き上げさせた方がいいかもしれねぇ……」

「あの、白ずくめか?」

「奴を孟徳に近づけちゃなんねぇ。そんな気がしてる……」


 最初から、夏侯惇が単なる弱気でこんなことを言っているのではないことはわかっていた。

 あの白衣の人物の底知れぬ不気味さは、淵とてよく分かる。

 ただ、何事も冷静に、合理的に考える自分と比べて、夏侯惇は勘や直感に自身の行動を委ねることが多い。


 長き戦を経て磨かれた、彼の本質を見抜く目には信頼が置ける。

 特に情報の全く無い相手を推し量る時には、理性より感性の方が重要となる場合が多い。

 夏侯惇の直感は、夏侯淵が想像する以上の危険性をあの白ずくめから感じとっていたのだろう。


 だが……


「……悪い、今言ったことは全部忘れろ」


 今更、作戦を変更できるはずもない。

 此度の遠征は、曹操軍の完全勝利を持ってその至強の武を四海の隅々まで知らしめること。

 それを、総大将が途中で引き返したとあっては、曹操軍の威信が地に落ちかねない。

 元より、夏侯惇の思いつきには何の根拠も存在しないのだ。


 一筋縄では行きそうにない……夏侯惇は、早くもこの遠征に暗雲が立ち込めているのを感じ始めていた。



 それから、彼らは兵の一部を魏延と謎の人物の捜索に割り当てたが、やはり何の成果も上げられはしなかった。






「う……ぐ……」


 荊州の山麓の、とある洞窟にて……

 横たわった魏延はうめき声を上げる。全身に酷い矢傷を負っていたが、適切な治療が施され、既に峠は脱したようである。


「気を強く持ちたまえ。君はまだ、死ぬべき人間ではない」


 白ずくめの人物は、魏延に向けて穏やかな口調で語りかける。



「劉玄徳の……そして、中華の未来のために……」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ