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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十一章 荊州侵攻(四)

 渾元暦208年、九月……


 首都・業を発った曹操軍は、ついに荊州に侵攻を開始する。

 荊州の新たな領主、劉綜は、早くから曹操に全面降伏する意志を固めていた。既に、曹操側の斥候とも取引を済ませている。




 その報を聞いた樊城の劉備達は、大慌てで逃げ出す準備を整える。

 劉綜が曹操と共謀の上で、曹操軍侵攻の情報を封鎖したため、対応が遅れてしまったのだ。


 襄陽に行く話も持ち上がったが、既に劉綜は曹操に恭順している。

 劉綜達を退けて城を乗っ取るにしても、その間に曹操軍が到着して、挟み撃ちにされては目も当てられない。

 とにかく、ここには味方が少なすぎる。

 劉表とも話し合った結果、劉備達は南の江陵こうりょうに当面の目的地を定めた。



 劉表が言うには、曹操との戦に備え、江陵に密かに基地を建設していたらしい。

 そこには相当の船団に兵糧、軍需物資が蓄えられているという。

 

 物資は勿論だが、それよりも船だ。

 どの道、陸路のみで曹操の追撃から逃げ切るのは不可能だ。

 江夏の劉埼達と合流する為にも、長江を渡る必要があり、劉備達にとってはまさに“渡りに船”であった。

 


「少し前に樊城ここに移ったと思ったら、今度は南に逃げ出すってのかい。

 全く、男の都合に振り回される側とちゃたまったもんじゃないねぇ」


 城内を慌しく駆け回る兵卒達を眺めながら、糜夫人は、一人ごちる。

 口ではそう言いつつも、彼女はこんな状況には慣れっこになっていた。


 そんな中、人混みから現れた劉備と目が合った。


「よ、よぉ……」


 劉備は、第二夫人に向けてややバツの悪い笑みを浮かべる。

 糜夫人も、表向きは平静を装っていたが、実のところ僅かながら動揺していた。


 何となく、直感した。何の根拠も無い、所謂女の勘という奴である。

 これが、この人と会話する最後の機会になるだろうと。


 しかし、不思議なほどに言葉が浮かんでこない。

 恨み言は、山ほどあるはずなのに……

 それは恐らく、自分が何を言ったところで、この男が生き方を変えるはずもないと分かっているからだろう。

 自分は甘夫人のように、この男に何かを期待する気にはなれない。


 それでも、昨日までの平穏な日々への未練を断ち切れないのは、それがあまりに長すぎたからだろう。


(七年……長く持った方さね)


 荊州での七年間は、住居さえも定まらぬこれまでの流浪の生活が嘘のように、幸せな日々だった。

 劉備が笑い、甘夫人が笑い、そして阿斗も笑っていた。

 自分も……言葉や態度に表さずとも、あの平穏な暮らしを、心から幸福に感じていた。

 その幸せを、この男は今切り捨てようとしている。

 左将軍の地位を蹴り、曹操に弓を引いた時から、この静穏はいずれ崩れ去る運命にあった。


 今荊州を捨てて逃げようとしているのも、妻子や部下を曹操の魔手から守るため……今更曹操に降ったところで、すんなり許されるはずもない……

 そうやって、自分や甘夫人を慰めることはできる。

 だが、一時は劉備を激しく愛した自分だ。彼がそんな易しい人間では無いことは分かっている。

 彼は逃げようとしているのではない。

 曹操に抗うため、更に上を目指すため、荊州を捨て、新天地へ旅立とうとしているのだ。

 彼にとって荊州での七年は、身を潜め兵力を増強するための準備期間。

 例え曹操が荊州を攻めずとも、結果は同じ。彼は必ず事を起こし、乱世の泥沼に舞い戻っただろう。


 彼は、決して戦を好む性分ではない。

 ただ、誰よりも戦を厭い、それを止めたいと思うがゆえに、乱世の渦中に飛び込まずにはいられないのだ。


 初めて劉備と出会った時、自分はまだ何も知らない、世間知らずの小娘だった。

 劉備の真っ直ぐな情熱や、全ての民を想う優しさに惹かれ、彼を愛した。

 だが、それが錯誤であることに気付くのに長い時間は要さなかった。


 天下に懸ける情熱は、目的のためなら何でも犠牲に出来る非情さとして表出する。

 全ての民を平等に想う……それは即ち、家族もまた、名も知らぬ大勢の民草と同列に見なしているということ。

 元より大願を成就するために、犠牲は避けられない。

 劉玄徳は、目的のためならば家族でさえも犠牲にできる男だった。


 彼の妻として暮らした日々で、自分は世間の厳しさ、冷たさ、無常さを、嫌と言うほど知ることになった。

 今の自分の人格形成には、劉備が大きく関わっていることは疑いようがない。


 ……そう言えば、煙草を吸うようになったのも、彼を真似したのが始まりだったか……



 そう考えると、甘夫人は強い。

 彼女は今でも劉備を心から愛し、信じ切っている。

 自分と同等の苦労を重ねながらも、まだ劉備を信じることができるとは……

 本当に、強いひとだと思う。同じ女として、尊敬の念すら感じる。

 だから、彼女には何としても幸せになって欲しい。

 女として愛される幸せを諦めた自分に代わって、真っ直ぐに劉備を愛し、笑っていて欲しい。


 官渡の大戦の折、自分と甘夫人は劉備に見捨てられ、曹操に人質に取られていた。

 解放された後も、劉備は助けに来なかった。当時彼が置かれていた状況を考えると、やむを得ないと言えるだろう。


 曹操は、二人が望むなら、このまま許都で、漢朝の民として暮らしても構わないと言った。

 あるいは、劉備を追って許都を去るのも自由だと……


 二人の女は、劉備の下に戻る道を選んだ。

 劉備は自分達家族を犠牲にして、己が野望を追い求めた。

 また彼の下に戻ったところで、更なる不幸を味わうのは目に見えている。

 だが、甘夫人の意志は固かった。

 どんな苦難の道であろうと、一度契りを結んだ以上、最後まで尽くすのが妻の道……一人でも劉備の下に帰る……そう言った。

 そんな彼女を放っておくことなどできず、自分も劉備の下に舞い戻った。


 いや、これでは彼女に自分の選択の責任を押し付けているようだ。

 劉備の下に帰ったのは、自分の中に紛れも無く、戻りたいという意志があったからだ。

 それが愛情か、未練か、憐憫か……彼女自身にも判然としない。


 確たる理由が無くても、当たり前のように戻ってしまう……それが家族なのかもしれない。

 糜夫人にとって、劉備や甘夫人は、とっくに家族になっていたのだ。


 行方知れずになっていた二人の妻と再会した時、劉備は涙を流して喜んだ。

 その気持ちに偽りは無い。徐州から逃げ出した後も、片時も自分達を忘れずにいたに違いない。

 彼の優しさは……本物だ。

 

 だからこそ、彼は最悪なのだ。


 愛する者の信頼を、愛しながらでも平然と裏切ることのできる男なのだから。





 劉備の唇が動く。考えた末に、何か言おうとしたようだが、先んじて言葉を発する。

 

「甘ちゃんと阿斗ちゃんには会って来たのかい?」

「あ……いや、まだだ」


 急な出立で、妻子を構う余裕などなかった。糜夫人と出くわしたのもただの偶然だ。

 糜夫人は、それを咎めだてもせず、こう言う。


「二人とも、不安でいっぱいのはずさね。行って、勇気づけておやり」

「ああ、分かった……」

「気をつけなよ。赤ちゃんは繊細だからね。あんたの恐れを感じとって、大泣きしちまうかもしれないよ」

「ああ……」

 

 劉備の場合は、恐れというより後ろめたさと呼ぶ方が正確だろう。


 荊州を発って、何事もなく南に辿り着けるとは思えない。

 すぐ近くまで曹操軍が迫っている以上、必ず戦になるはずだ。掛け値なしに命懸けの旅になるだろう。

 劉備の顔には、妻子に危険な旅を強いることへの罪悪感が浮かんでいる。


 長い付き合いである。多くを語らずとも、互いの考えていることは分かっていた。

 ゆえに、あまり会話を交わすこともない。

 夫を前にすれば、必ず非難の言葉が飛び出るだろう。

 だが、自分が何を言おうとも、この男が己の夢を諦められるはずもない。

 それが分かっているから、最初から何も言わないでいるのが一番なのだ。


 だが……


「なぁ……お前は、大丈夫なのか? 脚、震えてるぞ?」


 劉備に言われて、糜夫人は初めて自分が怯えていることに気付く。

 先程は、甘夫人や阿斗を気遣うように言ったが……本音では、自分も不安なのだ。

 他人を気遣い、気を強く持つことで、恐れを紛らわせていたに過ぎない。


 人生を諦めてはいても、死への恐怖まで無くなるはずもない……

 斜に構えた態度をとるのは、迫り来る現実に心を潰されないようにするため……

 糜夫人が劉備の心中を見抜いているように、劉備も妻の化粧の裏にある不安を、敏感に察知していた。


 いつものように、憎まれ口を叩いてもよかった。


 だが、今日は……今日だけは……


「ちゃんと、守ってくれるんだろうね?」


 内なる恐怖を、己の弱さをさらけ出す。


 か弱い一人の女になって、夫に助けを求める。



 あの糜夫人がこのような態度を取るのは、それだけ追い詰められている証だ。


 劉備は、僅かに苦渋の色を浮かべるも、すぐに満面の笑顔に変え、力強く言い切る。


「おう! 任せときな!」



 その笑顔は、誰もが安堵を覚えずにはいられない、自信に満ちたものだった。

 糜夫人も、先の見えない闇から、一瞬救われた気になった。


 だが、すぐさま彼女の理性が、それは偽りの顔であると断ずる。



 劉備は、本心から自分を守りたい、救いたいと思っている。

 だがそれは、所詮希望でしかない。彼はそれが限りなく薄い希望であることを知っている。

 知っていて、糜夫人を勇気づけるために強がってみせたのだ。


 それが、劉備の嘘……



 もし、自分が妻でなければ……本性を見抜けるほど彼を愛していなければ……

 彼の優しさゆえの嘘に騙されて、幸福な気分に浸ることもできただろうに……


 捨て去ったはずの幸せへの未練が、内から込み上がる。

 泣き崩れそうになりながら、強い自分がそれを許さなかった。


 ――これじゃ、あたしもあいつと同じだねぇ……



 そんな糜夫人に、かけてやれる言葉など何も思いつかぬまま……劉備は一歩前に踏み出す。

 抱き締めたい……そんな衝動が起こりかけた、その時……



「玄徳様」



 趙雲の無機質な声が、それを遮った。


「し、子龍……」


 別にまずいところを見られたわけでも無いのに、劉備は狼狽する。

 趙雲は、糜夫人を一瞥するも、すぐに劉備に向き合って要件を告げる。


「お取り込み中のところ、大変申し訳ありません。ですが、至急城門前にお越しくださいませ」


 何事も沈着冷静に、かつ、余裕を持って行動する趙雲が、主を急かすような発言をするのは実に珍しい。

 それだけ緊急の事態だということか……

 趙雲に先導され、城門へ向かう劉備。去り際に、糜夫人を振り返るが……


 彼女は既に、蓮っ葉で皮肉屋な、強い女の仮面を取り戻していた。





「な、な……!」


 城の外に広がる光景を目の当たりにした劉備は、驚愕のあまり言葉を失った。

 劉表の側近に兵卒、百姓、飢民……城門前には、数十万に達するであろう民草の群れが集まり、口々に劉備を慕う声を上げていた。



「人気者だなぁ、兄貴」


 数十万の民草の熱気に圧倒されている劉備を茶化す張飛。

 門の前には、関羽、張飛、諸葛亮、徐庶が既に集まっていた。

 徐庶は感極まった様子で叫ぶ。


「ご覧ください! 玄徳様! ここにいる皆、玄徳様と共に新天地を目指そうと集まった方々です!」



「劉備様!」

「劉備様ー!」

「大徳、劉備様ー!」

「劉備様は、おら達の希望ですだ!」

「曹操の支配なんざ真っ平御免だっ!」

「私達は、貴方についていきます!」



 彼らの劉備を支持する声は、天をも焦がさんばかりに高まっていく。



 七年も同じ場所に留まっていたことで、劉備の支持者は全国から集まっていた。

 それもまた、劉備の計算に含まれていたのだが……これほどまでに膨れ上がるとは、劉備の想像を遥かに越えていた。


「……わっけ、わかんねぇ……」


 劉備がようやく絞り出した言葉が、それだった。


「何がだ?」

「だってそうだろうがよ! 既に荊州のお上は降伏を決めちまってる!

 明日どうなるかもわかんねぇ俺についていくより、ここに留まった方が利口なはずだ! それが何でこんな……」

「自分の未来を賭けてもいい……そう思えるだけの何かを、兄者に見出だしたのであろう」


 彼らは決して愚民ではない。関羽の目に映る民草の瞳には、覚悟の色が感じられた。

 それは、戦場に身を投じる兵卒と比べても、見劣りするものではない。


「民の意志は即ち天の意志……さすれば、玄徳様を天下に押し上げようとするこの民の熱情こそは、時代が貴方を求めておられる証ではありませんか?」

 

 素知らぬ顔で言う諸葛亮。それが本心ではないことは明らかだ。

 「まさかそんな風に思い上がってんじゃないでしょうね?」と言いたげだ。

 

 しかし、徐庶はその台詞を真に受けたようだ。


「その通りです! この世に玄徳様ほど仁義に溢れ、民に愛される英雄はおりません!

 玄徳様こそは、全ての民を救済しうる救いの御手……真に天下の主になられるべきお方なのです!」


 徐庶の叫びに呼応して、劉備を讃える民の声はますます大きくなる。


 

 これが、理を超えた力というものか……


 約束された平穏を捨て、自分の信じる主のために命を賭ける。

 合理とまるで対極の、愚かと呼ばれても仕方のない行為だ。

 だが、世界には理では捉えられぬ巨大な力があることもまた事実……

 目の前にいる数十万の民草が、それを証明している。


 最初から分かっていたことだった。

 完璧なる合理を持って天下を平定する曹操に打ち勝つには、それに相反する力を借りねばならぬことを。

 曹操と対極をなすもう一つの天となりて、曹操の革新から零れ落ちた人々を集め、曹操に対抗する力とする。それが当初よりの計画だったはず。

 その目論見は、劉備の想像を遥かに越えた形で、今、目の前で結実している。


「おら、行って来い!」


 張飛に背中を押され、民草の正面へ突き出される劉備。


「……っ! てめぇ、何しやが……」



 劉備の言葉は、瞬時に掻き消される。

 自分達の新たな主へ向けられた、民の熱き咆哮によって……



 数十万もの民の声望が、劉備一人にのしかかる。

 離れた場所にいる関羽や張飛でさえ、大気が震えるのを感じるほどだ。

 

 直にその熱を浴びている劉備は、計り知れない圧を感じているのだろう。


 しかし、劉備に動揺や恐怖はなかった。

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、民と正面から向き合う。

 紅蓮の業火のごとき民の熱意に晒されながらも、劉備の心はどこまでも冷え切っていく。



 そう……この程度では、まだまだ足りない。

 いずれ自分は、天下に劉玄徳の名を知らしめ、全ての人々の心に己が存在を刻み込まねばならないのだ。

 曹操に固まりつつある天下の流れを砕き散らす、大渦を生み出すためにも……

 それが、これしきの数でおたついてはいられない。

 数十万の民草、その全てを自分に取り込もうと、今また劉備は、聖者の仮面を被る。



「よう! おめぇらぁぁぁぁぁ! 俺が! 劉玄徳だぁぁぁぁっ!!」


 

 十数万の熱気に負けぬ覇気を持って吠える劉備。


「てめぇらの熱い思い! しかと受け取ったぜ!

 こんな時代に、まだ自分てめぇの正義を貫き通せる奴らがこんなにいて、俺ぁ、嬉しい!

 てめぇらの命は、この俺が預かった! 誰一人欠けることなく、行こうぜっ!!


 誰もが幸せに暮らせる、“俺達の天下”に!!」



 劉備の熱い啖呵に、民の興奮は最高潮に達する。


 俺達の天下……


 それは、これまでのように一部の特権階級の都合で民草が虐げられる世の中ではない。 

 心から民を愛する仁君が治める、民による、民のための国家。

 長い乱世に喘ぐ民草は、自分達の夢を、理想を、劉備に託しているのだ。



 そんな彼を眺めながら、劉備は思う。

 もはや後戻りはできない。既に時代は動き始めた。自分が動かした。

 その激流は、何人たりとも止められない。

 どれほどの屍を積み重ねようとも、悲願を達成するその時まで……天下の全てに嘘を突き通す覚悟を、劉備は改めて決めた。







 城に戻った徐庶は、未だ興奮覚めやらぬ様子だった。


(玄徳様……あの方こそは、真に中華の救世主になられるお方……この腐った世の中に、本当の正義をもたらしてくれる……!

 貴方の家臣であることを、私は心から誇りに思います!)


 軽快な足取りで、通路を進む徐庶。

 上機嫌の彼は、周りがよく見えていなかった。だから、曲がり角から突然現れた人影を避けることはできず、正面からぶつかってしまう。


 徐庶は何ともなかったが、相手はその場に倒れ込む。


「も、申し訳ありません! 大丈夫ですか?」


 詫びを入れて、その場に屈み込む徐庶。

 その人物の顔を見た瞬間、徐庶の顔が驚愕に凍り付く。


 彼は、頭からすっぽり布を被り、顔を覆い隠していた。

 しかし、徐庶とぶつかった拍子に布が外れ、素顔が露になってしまった。

 彼は、慌てて布を被り直す。

 だが、徐庶の目は、その顔をしかと焼き付けていた。そう、あれは紛れも無く……


「劉表……様?」

「ち、違います! よく似ていると言われるんですよ、ははは……」

「そう、なんですか?」

「そ、それに、劉表様はもう一月も前に亡くなられているじゃありませんか。

 では、私は急いでおりますのでこれにて……」


 彼はそそくさとその場を立ち去った。


 残された徐庶の頭の中からは、先程までの浮かれた気分は吹き飛んでいた。

 他人の空似? 本当にそうか?

 あの顔は、確かに劉表だった。見間違うはずもない。

 だが、彼の言う通り、劉表は既に死んでいるはず……


 いずれにせよ、劉備と諸葛亮に報告する必要がありそうだ。






 徐庶から、劉表らしき人物と遭遇したという話を聞かされた劉備は、頭を抱えた。


「あのオッサン……あれだけうろちょろすんなって言ったのによー……」

「あの大歓声は城の奥まで響いていました。気になって様子を見に行かない方がおかしいかと」


 もしかすると、敵襲と思ったのかもしれませんし……諸葛亮はそう捕捉する。


「徐庶! このこと、俺ら以外の誰にも言ってねぇだろうな?」

「は、はい!」

「ふぅ……そいつぁ不幸中の幸いって奴だな」


 徐庶以外の人間に出くわして、騒がれていたら大変なことになっていた。

 劉備は、あの男は綺麗さっぱり忘れるよう念を押す。だが、それで徐庶が納得できるはずもない。


「どういうことですか? あの方は、本当に劉表様なのですか!?」


 二人のやり取りから、徐庶はこれがただならぬ事態だと気付いたようだ。


「しゃあねぇなぁ……孔明、説明してやんな」

「えーやだーめんどくさーい」


 徐庶の前だからか、素で答える諸葛亮。


「この件に関しては俺よりお前の方が詳しいだろうが」

「たく、仕方ないわねぇ……いいですか、徐庶」

「は、はい!」


 男孔明の口調で説明する諸葛亮。

 存外、軍師としての演技も気に入っているのかもしれない。



 まず、徐庶が出くわしたのは、幽霊でもそっくりさんでもなく、本物の劉表で、一月前の葬儀は狂言だったことを明かした。

 劉表は常々荊州の主という重責に耐え兼ねていた。

 そんな中、諸葛亮と出会い、彼の弟子となって道術を学び、仙人になる道を選んだという。

 その際、世俗の煩わしさから完全に解放されたいがため、劉備、諸葛亮の協力のもと、死を装って表舞台から姿を消した。

 不老不死云々は伏せておいた。徐庶も、少しは道術をかじった身だ。

 それが嘘であることなど、すぐ露見してしまうだろう。


「なるほど……分かりました」


 疑問が氷解し、徐庶は曇りのない笑顔で応えた。


「それが劉表様の決断で、玄徳様も孔明先生も納得しておられるなら、私が言うことなどありません。 もちろん、今聞いたことは、誰にも喋ったりしません」

「頼んだぜ、徐庶……」


 この忙しい時に、これ以上の厄介事は御免被りたい。

 諸葛亮の話は、正直かなり怪しい部分が多かったが、徐庶はすんなり受け入れた。

 尊敬する劉備と孔明の言葉に疑問を抱くことなど考えられないのだろう。

 劉備を孔明に引き合わせた功績は大きいが、彼の最大の長所は、この従順な気質だと劉備は思った。





 それから……劉備は家臣と親族、数十万の流民と共に、樊城を出立した。

 

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