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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十一章 荊州侵攻(三)

 死んだはずの人間がいることに、劉備も諸葛亮も驚いた様子はない。

 それも当然のこと。二週間前の劉表の病死は、本人と劉備、諸葛亮が企てた狂言だからだ。


 死を看取った医者も、その後の葬儀を執り行った関係者も、全員が共犯して劉表の死を偽装した。

 劉表が激しく咳き込んだ時、医師達が彼の周囲に集まったのも、治療のためではない。

 劉表の姿を覆い隠し、暴れる演技がばれないようにするためだ。


 二人の息子を含む劉表の親族、および家臣団の誰一人として、劉表がまだ生きていることを知る者は

いない。

 とっくの昔に墓の下に埋められたとばかり思っている。

 だが実際は、ここ新野城の地下室で密かに保護されていたのだ。

 劉埼を江夏に出発させたのも、万が一知られる危険性を避けるためだ。



「それにしても、あん時の劉表さんの演技は凄かったですねぇ。俺ぁてっきり、マジで病状が悪化したのかと思いましたよ」

「演じる側とすれば、最高の賛辞ですね。

 演劇もまた、文化の一つです。以前から興味を持って、勉強していたのですよ」


 加えて、劉表は数十年近く前から、人格者の仮面を被って人を欺き続けていた。

 元々、人前で演技をすることには慣れていたのだ。


 更に、この偽装が成功した要因は、二つ……

 一つは劉表は実際に高齢で、病で突然死ぬ可能性は常にあったこと。

 もう一つは、曹操の脅威がすぐ近くまで迫っていたことだ。

 残された者達は、後継者問題やその後の曹操への対応に追われ、劉表の死に疑念を持つ者は現れなかった。



 何故、このような偽装をしなければならなかったのか?


 それは、劉備を後継者に指名した時点で、劉表に死んでもらうためだ。


 仮に、劉表が健常な内に劉備を指名したところで、劉綜派の猛反発に遭い、撤回されるのは目に見えている。

 だが、死んだ人間の意志は、どうあっても覆しようがない。

 劉備こそは、劉表に指名された正統な後継者であるということは、厳然たる事実として残る。


 実際、劉備を荊州の主に推す声は日増しに高まりつつある。それは必ずや、未来において劉備の益となるはずだ。


 劉表の死は、劉備が長きに渡って荊州に影響力を及ぼす為に仕掛けた謀略だったのだ。



「劉埼様には、昨日江夏に向かっていただきました。これで荊州の主には、劉綜様が就かれることになると思われます」

「ふぅ、劉綜には困ったものですね。私の遺言に逆らうなんて、よほど荊州の地を我が物にしたいのでしょうか」


 孔明の話を聞いて、嘆息する劉表。

 そして、彼は貼り付けた笑みを崩さぬまま、平然とこう言ってのけた。

 

「ねぇ劉備さん。どうせなら、劉綜を消した方が都合が良かったのではありませんか?」


 その一言に、劉備は背筋が凍る思いがした。

 そう、劉綜を不慮の事故なり何なりに見せかけて殺してしまえば、もはや劉備の荊州牧就任を阻む者はいなくなる。

 荊州を治めることだけを目的とするならば、それが最短の道……しかし……


「な、何言ってるんですか、貴方の息子ですよ?」


 冗談だと思い、乾いた笑みを浮かべる劉備。

 だが、劉表の微笑みは、僅かながらも崩れることは無かった。


「ですが、この荊州にふさわしい人間は息子ではありません。劉備さん、貴方ですよ。

 貴方は必ずや歴史に名を残す英傑だ。

 その時、稀代の英雄・劉備の治める都として、この荊州もまた輝きを伴って歴史に刻まれるでしょう。

 形ある者は必ず崩れる、生ある者は必ず死ぬ……しかし、人々の心に刻まれた名は消えることはない。

 それこそは、何にも勝る誉れではありませんか?」


 淡々と語る劉表の言葉に、劉備は怖気が走るのを禁じえない。

 あらゆる嘘を見抜く劉備の眼力を持ってしても……劉表の瞳や言葉に、嘘は感じられなかった。


 分かっていたことだった。この男にとって劉備じぶんとは、荊州の価値を高めるための看板か何かでしかない。

 さらに、凡庸な息子よりは、自分を荊州の主にする方が価値が高いと考えた。


 彼にとって何より優先すべきは、荊州をより美しく彩ること。

 そのためならば、例え我が子だろうと犠牲に出来る独裁者、それがこの男の本性だ。


 彼は、自分が創り上げた文化の都、荊州を心から愛している。

 だがその愛は、所有する道具や芸術品に向けるようなもの。

 そこに生きる民草については、何の愛情も抱いていない。

 ただ、文化を生産するための家畜か奴隷、あるいは都合のいい装置と見なしている。この劉備じぶんも含めて。

 結局……彼が愛しているのは自分だけなのだろう。

 荊州の地を保護するのも、文化を奨励するのも、権謀術策を用いて諸勢力を排除するのも……全ては自分の所有物をより輝かせるため。

 それでこそ、この荊州を育て上げたという愉悦に浸ることが出来る。彼にとって荊州とは、自己満足を満たす為の箱庭なのだ。



 劉備は声を震わせながら、冗談に聞こえるように答える。


「ははは……何を言いますか。今、息子さんに何かありゃ、俺が勘繰られちまいますぜ」

「そうですか。ならば致し方ありませんね」

 

 その後は、何事も無かったかのように孔明と話をしている。

 彼にとっては、もはや瑣末なことでしかないのだろう。


 彼は、この荊州を富ますために多くのものを犠牲にしてきた。

 彼の口から語られる文化は、数多の人間が流した涙の上に成り立つものなのだ。


 彼の冷酷かつ独善的な在り方は、“悪”と呼べるのかもしれない。

 だが、彼のそのやり方が、荊州の平穏を維持してきたのも、また事実だった。


 だから、彼は結局“かなり悪い”止まりなのだ。

 少なくとも、彼は目的意識がはっきりしている。

 存在すら不確かなもののために、大勢の人間を巻き込んだ戦乱を起こそうとしている自分よりは、よっぽど善良な人間だ。



 だが……どうも、近頃の劉表は変わっているように思える。

 荊州への執着を、以前ほどは見せなくなった。表面上の態度だけで、やはり内では強い執念が渦巻いているのかもしれないが…… 



「もう一つ……重要なお知らせがあります。

 明日、新野ここを引き払って、樊城はんじょうに移る予定です。その時には、劉表様、貴方にも来ていただきたいのですが……」


 新野はあまりに州境に近いところにある。曹操が荊州入りすれば、真っ先に攻め落とされることだろう。

 現在、曹操軍と真っ向からぶつかり合うような事態だけは避けたい。

 城に罠を仕掛けたところで、それが通用する相手とも思えない。


「ええ、勿論構いませんよ」


 諸葛亮の申し出を快諾する劉表。どの道、新野から樊城に移ったところで、地下で暮らす生活には変わりないのだ。

 

「ところで、劉備さん……しばし、孔明さんと二人にしてくれませんかね?」

「え? ああ、いいすよ。いつものことですし」


 席を外す劉備。劉表は、何かにつけて諸葛亮と二人きりになりたがる。

 気になって、一時は覗いてみようと考えたが……


「覗いたら、殺す」


 諸葛亮にそう耳元で囁かれ、断念したことがある。



 劉備にはどうしても不可解な点が一つある。それは、何故劉表がこちらの申し出に乗る気になったか、だ……

 劉表は、自分だけが大切な人間だ。

 それが、何の見返りも無くあのような凝った芝居を打ち、今の地位を手放すだろうか。

 劉備の知る劉表像にはそぐわない行動だ。

 諸葛亮が何かをしたのは間違いない。今回の計画は、ほぼ彼女の発案だった。

 だが、どうやって劉表を説得したのだろうか……


 諸葛亮の微笑みの仮面からは、やはり何も読みとれはしなかった。






「それでは、始めましょう」

 

 劉備が立ち去った後……諸葛亮は、劉表の頭の上に羽扇を乗せ、目を閉じて何事かを呟く。

 すると、淡い光が生まれ、劉表の身体へと流れ込んで行く。


「おお……!」


 “力”が体の隅々まで行き渡って行く。細胞が活性化する感覚に、劉表は恍惚する。

 十数分ほど続けた後、扇の光は静かに消えた。 


「今日の分はこれで終わりです。どうですか、今の気分は?」

「ええ、これを始める前は、とみに体の不調や衰えを感じていたのですが……今では2、30年は若返ったようです。これも孔明先生のお陰ですよ」

「私が授けた力など微々たるものでしかありません。それだけの効能を発揮したのは、偏に貴方の精神修養の賜物でしょう」


 諸葛亮の話を聞きながら、劉表は内から込みあがる笑いの衝動を抑えていた。

 荊州や後継者問題など、もはや彼にとっては瑣末なこと。

 自分は既に、“究極の文化”への鍵を手に入れているのだから……


(ふふふふ……また一歩近づきましたよ……“不老不死”の頂にね!)





 屈強かつ不老の肉体を持つ武将といえども、寿命による自然死からは逃れられない。

 ゆえに、古来より権力者は、その死すらも超越する手段を追い求めてきた。


 不老不死……老いることも死ぬことも無い、完全無欠の肉体。


 劉表がずっと諸葛亮を捜し求めていたのも、この不老不死を得んがためだ。 

 諸葛亮が荊州入りして程無くして、劉表は彼と一対一で向かい合う機会を得た。


「私はね……ずっと、貴方に会いたかったんですよ、孔明先生……そう、八年も前からね」


 劉表は、開口一番こう切り出した。


「それは光栄ですね。しかし、私のことを誰からお聞きになられたのですか?」

 

 八年前、諸葛孔明は全く無名の人物であったはず。大体の想像はついていたが、あえて問うてみる。


「とある友人からです。彼は私の恩人でしてね……色々と世話になりました。

 彼がいなければ、今の私の地位はなかったと言っていいでしょう。

 例えば、あの虎狩りも……ふふふ……」


 当時を思い出し、意味深に笑う劉表。


「実はその方は摩訶不思議な術を操り、数百年以上も前から老いることもなく生き続けているお方なんですよ」


 無表情で話を聞いていた諸葛亮が、僅かに反応を見せる。


「そう、孔明先生、貴方と同じようにね」


 諸葛亮は否定も肯定もしなかった。


「残念ながら、その方は八年近く前に、私の下から去っていきました。

 その時に、彼が言い残したことがあります。自分には同門で修行した、諸葛孔明という兄弟弟子がいると。

 自分よりも遥かに才能豊かな彼ならば、ただの人間を不老不死にすることすら可能だと――!」


 自分もまた、あの男や諸葛亮と同じ、不老不死の仙人となる。

 それが、劉景升が長年追い求めてきた野望だった。


「孔明先生! どうか私に、不老不死の秘法を伝授してくださいませ!」


 瞳に溢れる情熱を込めて、諸葛亮に懇願する劉表。

 諸葛亮は、口許に扇を当てつつ、逆に問うた。


「仮に……私が仙人で、その方法を知っていたとして……何ゆえ貴方は、不老不死を望むのですか?」

 

 その問いに対し、劉表は待っていましたとばかりに講釈を始める。  


「……いくら地位を高めたところで、一人の人生で味わえる文化は限られています。

 文化とは、その時代を生きる人々の価値観、社会情勢が背景となって生まれるもの。

 文化は時代の数だけ存在するのです。限られた命しか持たない人間では、未来の文化まで味わいつくすことなど不可能……!

 私は……私は耐えられない! 私が朽ち果てた後で、私の知らない、私を魅了しうる文化が生まれるかもしれないと思うと!

 今や乱世は終結し、新時代が訪れようとしています。 時代の変化と新たな文化の発祥は不可分なもの!

 これから中華では、未知なる文化の花が咲き誇ることになるでしょう。

 私は見たい! 乱世を経て生まれた文化が、どのような輝きを放つのか! いかように変遷し、いかな結末を迎えるのか!

 そして、その次の時代には、いかな文化が生まれるのか!?

 その次の次、そのまた次の時代……人類の英知の結晶である文化は、どのような歴史を辿るのか、その果てには何があるのか!

 過去、現在、未来に渡る文化の全てを……この脳髄に閉じ込めたいのです!

 ですがそれは、時のくびきに繋がれたままでは出来ぬこと……

 ゆえに私は、永遠の命が必要なのです! 世界のあらゆる文化をその身に刻む、智の番人……

 人類が生み出した、人の証たる文化を、未来永劫残しておくためにも、私には不老不死の身体が必要なのです!」


 劉表は、何かに取り付かれたように、異常な熱をこめてまくしたてた。

 実際、彼は取り付かれている。文化への過剰なまでの愛情に。

 そして、己こそがこの世で一番文化を愛しているという自尊心に。



 劉表にとっては、領地も、国家も、そこに生きる民草も、所詮は文化の付随品でしかない。

 真に大切なのは文化だけだ。不老不死になれば、時の制約のみならず、世俗のあらゆるしがらみから解放される。

 一切の曇りなき目で、文化を鑑賞することができるのだ。

 それに比せば、一時代の覇王にどれほどの価値があろうか……曹操とていつかは死ぬ。

 一代で覇業を成し遂げようと、彼はその先を見ることはできない。

 だが、自分は永遠に生き、遥かな高みから人の営みを見下ろし続けよう。


 私が“天”そのものとなるのだ――!





 諸葛亮は、しばし考え込んでいたが、静かに口を開く。


「分かりました……正直に答えましょう。私は、既に数百年近い時を生きています。そして……」

 

 扇を軽く振るう諸葛亮。すると、離れた位置にある座布団が宙に浮き上がり、諸葛亮の下へと引き寄せられた。


「おお!!」

「このような、本来人が身につけるはずもない術も使う事が出来ます」

「では、不老不死の法も……」


 その問いに対し、諸葛亮は静かに頷いた。


「はい。確かに私は、人を不老不死にする秘法を知っております」

「! やはり! 孔明先生! どうかこの私に、その秘法をご教授くださいませ!!」

 

 諸葛亮は、またしばし考え込んでいたが、やがてこう答える。


「劉表様……貴方には、我が主、玄徳様が大変世話になっております。

 その貴方の頼みを、断ることなどできようはずがありません。

 よろしいでしょう。貴方に、我が道術の最奥……不老長生の法を伝授いたしましょう」

「あ、ありがとうございます!」


 目を輝かせて喜ぶ劉表。


「勿論、誰にでも教えるわけではありません。

 劉表様の文化への愛情、領民を想う心に触れ、未来に命を繋ぐ価値のある方だと信じたがゆえに、この秘法を託すのです」

「そこまで言っていただけるとは……光栄の極みですよ」


 そうは言っているが、既に彼の目は、永遠の命への欲でぎらついていた。


 劉表は気づかせないつもりでいるのだろうが……諸葛亮は、この部屋の外に、数十人もの兵が控えていることを知っていた。

 もしも断ったり、白を切るようならば、彼らを動かして強硬手段を取るつもりなのだろう。


 仮にそうなったとしても、その程度の修羅場ならば潜り抜けられるだけの力はある。

 だが、何分まだ本調子ではない。争いごとに巻き込まれるのは御免だった。


 ここは素直に劉表に従うことにして、諸葛亮は話を進める。



「不老不死はこの世の奇跡、人の枠を越える秘術です。そのためには、相応の代償を支払わねばなりません。わかりますね?」

「ええ、分かっていますよ。最初から、楽に得られるものだとは思っていません。

 最も、その代価が、失明したり、四肢を失うようなものでは困りますがね」


 せっかく不老不死になっても、身体が不自由では意味がない。

 自分の目的は、歴史上全ての文化を堪能することなのだから。そのためにも、五体満足な身体は必要だ。


「ご安心ください。不老不死を得ても、劉表様のお体に何か異常が発生することはありません。

 私がそうであるように……そもそも不老不死とは、全身の細胞が常に活性化している、人間にとって究極の健康状態なのです。

 後遺症どころか、不死に至れば今貴方を蝕んでいる病も完治するでしょう」

「おお! それは嬉しい限りですねぇ」


 諸葛亮の語る不老不死が、自分の理想に限りなく近いことに、歓喜する劉表。


「それで、代価のことですが……道門の掟により、仙道は直系の弟子以外に、自分の術を教えてはならぬことになっているのです」

「なるほど……分かりますよ。誰にも彼にも術を教えては、世界は仙道で溢れてしまいますからね」

「はい。世界の安寧を保つためにも、“道”は少数の選ばれた者にのみ、伝えられるべきものなのです」


 有象無象の野蛮な愚民どもに、秘術を伝えて何になろう。

 永遠の命を得たところで、低俗な娯楽に耽溺し、無為に時を浪費するのが落ちだ。

 真に価値ある宝は、文化を解する選ばれし者のみが受け継ぐべき。

 自分はその一人というわけだ。劉表は鼻が高くなる。


「大変な失礼であることは承知しておりますが、不老不死の法を伝授するには、劉表様に私の弟子になって頂かねばならないのです」

「何だ、そんなことですか。失礼などと、とんでもありません。

 貴方に物を教わる以上、貴方を師と仰ぐのは当然のこと。

 諸葛孔明様、どうかこの私を貴方の弟子にお加えいただきますよう、よろしくお願いいたします」


 立ち上がって、深々と一礼する劉表。


「頭をお上げください、劉表様。話にはまだ続きがございます。

 仙道の掟により、仙人の弟子になる者は、現在持つ地位を全て捨て去り、俗世との関わりを断ち切らねばならないのです」

「ほう……」


 つまり、今の荊州牧の地位を捨て、ただの劉表として弟子入りせねばならぬということか。それこそが、支払うべき代価なのだ。

 今まで、数多の策略を凝らして護り抜いてきた荊州牧の地位を、全て捨てる。なるほど、相応の重みのある代価である。


「これには理由がありまして、俗世との関わりが残ったままですと、秘術の修行に支障が出ます。

 仙道の修行において最も大事なことは、精神の安定です。

 世俗と交われば、望む望まぬに関わらず、数多のしがらみにより心乱されてしまうもの……

 それでは秘術の修得はおぼつきません。一切の枷を捨て去った、深遠なる無の境地に至って初めて、奇跡をその身に宿すことが出来るのです」

「ええ、分かりますよ、孔明先生……」


 自分はかなりの高齢だ。術の修得に手間どってしまい、その途上で死んでしまっては目も当てられない。

 それに、永遠の命に比せば、今の地位などどれほどの価値があろう。

 そんなものは、不老不死になってからまた築き上げればいいのだ。


「荊州牧を退けば、私の弟子入りを認めて頂けるのですね?」

「いえ、それだけでは不十分です。貴方の影響力を思えば、引退した後も家臣の方々が、貴方を頼ろうとするでしょう。それでは結局同じことです」

「では、どうすれば……」

「生きながらにして、俗世との関わりを断つ手段、それは……死んだと見せかけて、表舞台から退いていただくことです」

「なるほど……」


 それから諸葛亮は、医師や葬儀関係者を抱き込んで、劉表の偽りの死を演出する策を述べた。

 劉表も、演技には自信があるからとその申し出を快諾した。


「それで……貴方には、“死”の直前に、後継者を指名して頂きたいのですが……」


 諸葛亮は、やや心苦しそうに述べる。


「今の私は、玄徳様の家臣です。ですから……」

「いえいえ、分かっておりますよ孔明先生。劉備さんを後継者に指名せよと言うのでしょう?

 構いませんよ。いずれ私は、孔明先生の弟子になるつもりでいます。

 その弟子が、師が仕えるお方のために尽くすのは当然のことでしょう」

「ありがとうございます、劉表様……」


 今や劉表は正常な判断力を失っていた。

 劉備を指名することで、この荊州がどれだけ混乱するか……

 残された者たちがどれだけ悩み苦しむことになるか……それすらも瑣末なこととしか映らなかった。

 今の劉表に見えているのは、目前に迫った不老不死のみ。

 それを手にするためならば、何を捨てても意に介さない状態になってしまっている。


 だから……








(まさか……こんなあっさりだまくらかせるとはねー)


 全て自分の思い通りにいったことに、諸葛亮は少し驚いていた。

 劉表とて、裏では謀略家として知られた群雄である。自分などよりもずっと長く、騙し、騙される修羅場を潜ってきたはずだ。

 それがああも簡単に……欲望に取り付かれた人間とは、あそこまで無防備になるものなのか……


 諸葛亮が、劉表の前で語ってみせた不老不死に仙道の掟の話……あれは全て嘘八百である。

 不老不死を餌に劉表を意のままに操るため、一芝居打ったのだ。


 まず、不老不死は他者に教えられるようなものではない。

 自分の“道”をいくら与えたところで、単に健康になるだけで、死ななくなるわけではない。

 弟子になるには俗世との関わりを断たねばならない……これもまた大嘘だ。

 彼女ら仙人に掟などはない。ただ、己の好き勝手に、自由気ままに生きているだけである。


 これだけなら、世に五万といる詐欺目的の似非えせ仙人と変わらない。

 だが、彼らと諸葛亮には決定的に違う点が一つある。

 それは、諸葛孔明が、正真正銘、不老不死の仙人だということ。

 劉表の目の前で、どうあっても人間の常識では説明できない秘術を披露したこともある。

 人知を超えた存在に相対した時、人は思考能力を著しく欠いてしまう。

 本物の不老不死の仙人が語ることならば、無条件で真実であると受け容れてしまうのだ。

 “タオ”や道術については、誰も正確な知識を知らないのだ。だから、如何様に歪めて伝えたところで、その嘘を見破ることはできない。

 見破る基準は、その人物が“本物”であるかどうか……

 逆に言えば、もしも本物であると証明されたならば、その言葉にまで嘘があるとは思わないのだ。


 孔明が劉表に話した方法とは、長い月日をかけて自分の中で錬成された不老不死の“タオ”を、その人物に注ぎ込むというものだった。

 それにより、細胞は諸葛亮と同じ状態になり、死の束縛から逃れられる……

 しかし、実際はただ“タオ”により細胞が活性化するだけで、不老不死になる効果など無い。

 扇から生じる光や、身体が蘇る感覚だけは本物なので、騙されてしまうのだ。


 では、諸葛亮自身はどうやって不老不死になったのか。

 それは、偏に才能と呼ぶしかない。そして才能の無い人間がいくら努力したところで、道術は身につかない。


 “タオ”とは、そもそもそういうものなのだ。





 それにしても……


 まるで飢えた餓鬼のようだ。劉表を眺めながら、諸葛亮は心中で呟く。

 文化を愛するあまり、どれだけ喰らって満ち足りることはなく、最終的には人の道を踏み外してでも手に入れようとする。

 その在り方は、彼の今の主によく似ている。自身の欲望に忠実という点においては、あの男より正直で分かりやすい。


 だが、それだけではない。同時に、この世で一番嫌いな男の面影を、劉表から感じたのだ。

 彼もまた、奴と同じ。世俗を超越した観測者になることで、神や天になった気分に浸りたいのだ。

 そうすることでしか、無意識下で肥大化した自尊心を慰めることはできない。

 互いは知る由もないだろうが、実は似た者同士が手を組んでいたのだ。


 “あの男”が劉表とつるんでいたとは思わなかった。

 劉表に、不老不死などという出鱈目を吹き込んだのは、それを餌として、この自分を探し出させる為だ。

 彼は何としても、この荊州に自分を引き寄せる必要があったのだろう。

 だとすれば自分のこの行動もまた、奴の計算通りの結果なのかもしれない……


(だから……何だってのって話だけどね……)


 今は、奴の思惑通りに動いても構わない。

 こちらの益になることを、奴が関わっているからといって退ける必要は無いだろう。

 少なくとも、今は……



 あの日……無名庵で行われた三度目の会合で……

 自分は劉備を、天下を三分する君主の一人に押し上げると約束した。

 それには、彼女自身の利益も絡んでいる。でなければ、こんな面倒なことをする気にはならない。




 嘘と欺瞞が二重三重に折り重なり、それぞれの思惑が蜘蛛の糸のように絡みあう。


 しかし、そんな渾沌とした状況をも押し流すほどの激流が、荊州に迫りつつあった。


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