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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十一章 荊州侵攻(二)

 劉表の葬儀から一週間……


 父の死の直後、やや歩み寄りを見せた劉埼と劉綜だったが、やはり長年の確執は根深く、すぐに関係は悪化してしまう。

 彼らとて、感情だけで争っているのではない。どの家でも言える話だが、後継者問題は当人らの意志だけで決まるものではない。

 一度兄弟が決裂し、相続争いが始まれば、他の臣下達は必ずどちらかにつかねばならなくなる。

 この時点でただの兄弟の優劣を競うものではなく、全ての臣を巻き込んだ勢力争いに発展する。

 そうなった以上、もはや後継者候補自身の意志で、争いを止めることは極めて難しくなる。

 既に争いは、個人ではなく集団の意志で生じるものに変わっているからだ。


 しかし、劉表が劉備を後継者に指名しても、劉表の側近を含む家臣団の中では、劉綜を領主に担いで曹操に降伏せよという意見が大半を占めていた。

 それだけ、誰もが迫り来る曹操の脅威を実感している証だった。





 そんなある日……劉埼は劉備の居る新野城しんやじょうに呼び出されていた。


「私に、江夏に行けと? 」


 劉埼の前には劉備と諸葛亮が座っている。そして、その傍らには趙雲が、空気のように気配を消して直立している。

 諸葛亮はゆっくり頷く。


「先月、江夏太守の黄祖殿が、揚州の孫権との戦いでお亡くなりになられました。

 現在、江夏は領主が不在の状況にあります。貴方には、取り急ぎ太守に赴任して戴きたいのです」


 孔明は、男の時の慇懃な口調で話している。その申し出に、劉埼は困惑する。


「し、しかし、今私が江夏に向かっては、その間に劉綜が……」

「そいつはもういいんだ。俺なんかを指名してくれた劉表さんにゃ悪いけどよ……俺ぁ、劉綜にこの地を任すつもりでいる。

 家臣達も、俺が領主になることなんざ望んでねぇだろうしな」

「そんなことはありません!そんなことは……」


 だが、家臣団の大半が降伏に流れている現状を考えると、劉埼はそれ以上言葉を紡ぐことは出来なかった。


「そ、それなら、尚更ここを離れるわけには参りません!

 これから劉備殿が、危うい立場に置かれるは必至! 私には、貴方をお守りする責務があるのです!」

「劉埼、俺を甘く見るなよ。俺にはこの趙雲に義弟達と、頼りになる仲間がいっぱいいんだよ。

 例え曹操が攻めて来たって、そう簡単に殺られやしねぇ。

 それより俺が心配しているのは、劉埼、おめぇの方だよ」


「私……ですか?」


 諸葛亮は、微笑を浮かべてこう述べる。


「劉表様の家臣団は、一刻も早く劉綜様を新たな領主の座につかせ、曹操様に全面降伏しようとなさるでしょう。

 ですが、劉表様の遺言で劉綜様のことが記されていない以上、次男の劉綜様を領主の座につかせるのは難しゅうございます。

 しかし、先程申し上げました通り、あまり時の猶予はありません。

 多少強引な手を使ってでも、劉綜様を領主にしようとされるでしょう。

 玄徳様は、既にその地位を辞退されています。これで障害となるお方は、ただ一人……」

「私を……亡き者にしようというのですか……」


 孔明の話を聞いて、劉埼は慄然となる。

 確かに劉綜とは長年争ってきたが、まさか自分を殺そうとするなどとは夢にも思わなかった。

 それは、まだ弟への情が残っている何よりの証なのかもしれない。


「……劉綜様の真意は、この際問題にしなくともよいでしょう。

 重要なのは、貴方が亡くなることを好ましく思っておられる方々が、確かにおられるということ。

 劉綜様の意向に関係なく、家臣のどなたかが事を起こされる可能性は十分にあります。

 それに、劉綜様が既に曹操様と繋がっているとすれば……曹操様にとっては、自分に反抗的な領主よりも、従順な方が治める荊州を手中に収める方が、望ましいはずです。

 曹操様に降伏しようとなされている劉綜様が、どうして曹操様の命令に逆らうことができましょう」


 確かに……全て孔明の言う通りだ。曹操の脅威は、すぐ近くにまで迫っている。

 自分が極めて危うい立場に置かれていることを、劉埼はようやく理解した。


「別に、江夏で養生して来いって言ってんじゃねーぞ。お前には、重要な仕事を任せようと思っている」

「! 何ですかそれは!」


 重要な仕事と聞いて、劉埼は目を輝かせる。


「俺ぁなるたけここで粘るつもりだが、いよいよやばくなったら、全軍まとめて南に逃げることに する。

 そん時、俺は揚州の孫権と同盟を組むつもりだ。

 おめぇには、それまで孫呉と仲良くなって、同盟の話が上手くいくようにして貰いてぇ」


 黄祖によって失われた揚州の信頼を回復し、来るべき同盟の橋渡し役となる。確かに責任重大だ。


「分かりました! この劉埼、劉備殿の目指す理想がため、この大任を必ずやり遂げてみせます!」


 手を打ち付ける劉埼。その瞳には、若さと情熱が溢れている。


「頼むぜ、劉埼。それによ、俺ぁ見たくねぇんだよ。

 血を分けた実の兄弟で、殺したり殺されたりするところなんざ……」


 苦渋に満ちた顔付きで語る劉備。


「劉備殿……」

「待ってな……いつか、いつか必ず、おめぇも、おめぇの弟も、仲良く笑いあえる世界を創ってみせる。

 こんな非力な俺だが、どうか力を貸してくれねぇか?」



 返答を聞く必要はなかった。劉埼は、感動のあまり滂沱の涙を流している。


「今……父が貴方に荊州を託した理由が、はっきり理解できました。

 劉備殿、貴方の優しさと慈しみの心は、必ずやこの中華を救われるでしょう。

 この劉埼、生涯を賭して劉備殿に仕えることを、ここに誓います!」







「あ~あ、ようやく終わったわ。毎回思うんだけどよくあんな臭い台詞真顔で言えるわね。

 途中何度か吹き出しそうになったわよ」


 劉埼が退室した後……孔明は即座に天才軍師としての仮面を脱ぎ、元の怠惰な女へと戻った。

 だらしなく脚を崩し、髪留めを解いて黒髪を床に垂らす。この姿の孔明は、諸葛孔明の妻、黄月英だ。


「兄弟が殺し合うのは見たくない? よく言うわねこの詐欺ぺてん師。

 元々は、あんたがそうなるように仕向けたくせに」

 

 劉備は答えない。実は全くその通りだからだ。


 劉備は劉埼と劉綜に会った頃から、二人の間に溝が生まれていることを見抜いていた。

 劉表は高齢で、いつ突然死してもおかしくなかった。

 ゆえに、後ろ盾を得るためにも、その後継者となる息子を自分の側に引き込んでおくことは必須だったのだ。

 劉綜は良識的で、かつ聡明で、自分にも早くから疑いの眼を向けていた。

 一方、兄の劉埼は大人になりきれない性格ゆえに、何事も保守的な父や弟に確執を抱いていた。

 それ自体は、若者なら誰でも経験する、他愛のない反発心だ。

 まして、乱世に生まれた豪族の子ならば、天下に対して何かを成そうとする想いが芽生えるのは当然のこと。


 だが、劉備は劉埼の若さに付け込み、言葉巧みに自分の思想を植え付けた。

 自分に都合よく動くように、洗脳したと言ってもいい。

 劉埼だけではない。劉備は、荊州にいる七年間に、同じやり方で何人もの人間を仲間に引き入れて来た。

 日常の、さりげない所作や言動で、自分への忠誠を植え付ける。

 これまでもずっと、劉備はこうやって臣下を増やして来た。

 人間の心理を読み取り、この最も弱い部分に付け込み、洗脳する。

 突出した武力や財力を持たぬ劉備が、この乱世でのし上がっていくには、他者の心を言葉で操ることが、唯一の手段なのだ。

 劉備自身も自覚している。荊州を真っ二つに割った元凶は、間違いなくこの自分……しかも、自然にそうなったのではない。


 最初から、自分の意志で、意図的に荊州を分断したのだ。

 もし自分がいなければ、あの兄弟は仲良くやれていたかもしれない……


 自分も義兄弟を持つ身として、それを痛いほど分かっていながら……それでも劉備は実行してしまう。

 それがどのような結果を生むか重々承知していながら、劉埼の心の弱さにつけ込んだ。

 実に平然と、何の躊躇いも無く。



「だけどね、貴方の最も性質たちの悪いところは、根っこはどうしようもなく善人ってところよ」

「悪いのに善人? はっ! そりゃどういうこった?」


 どういう意味なのかは、自分でも薄々理解できてはいたが、あえて問う。

 孔明は、いつもの意地悪な笑みを浮かべて答える。


「あの兄弟の仲を引き裂いたことに、貴方は罪悪感を消し去れていない。

 兄弟で殺し合いはさせたくない、いつか兄弟の仲を復活させたい……それは紛れも無い貴方の本心よ。

 だから皆、貴方の詐欺ぺてんに騙されるのよ。

 いくら人の内面を見る目を持つ相手でも、その言葉にも、心にも嘘が無ければ見破りようがない。

 貴方はさぞやご立派な聖人君子に映ることでしょうね。

 だけど貴方は言葉で本心を語りながらも、“行動で嘘をつく”。

 心から悲しみ、同情しながらでも、あっさり人を殺せる人間よ。

 いくら人を殺しても、まるで良心の呵責のない冷酷無慈悲な人間よりもタチが悪いわ。

 何故なら、彼らはどれだけ強くても、人を引き付けるってことがないもの。

 人間は所詮、一人では何もできない弱い生き物。だけど数を集め、手を取り合えば、信じられない力を発揮するわ。

 国を創ったり、戦争を引き起こしたり、ね……」


 人は絆や団結という言葉を、肯定的に捉えようとする。

 だが、大勢の人間の命を奪う戦争が起こるのも、数多の人間が志を一つにした結果なのだ。


「劉備、貴方は心底甘い、饅頭より甘ったるい人間だわ。

 だけどねぇ、それが人を引き寄せる要因となっている。饅頭も人間も、みんな甘い方が好きなのよ。

 自分に嘘をつける強さを持ちながら、他者を同情させる弱さをも併せ持つ……全く最悪の存在ね貴方って」

「褒められてんだかけなされてんだか……」


 特に否定はしない。

 自分がどれだけ危険で、おぞましい存在であるかなど、理解できている。

 ただ、立ち塞がる壁はあまりにも高すぎる。

 劉備にとっては、自分の人を騙す詐欺師の才能も、武器の一つでしかない。

 己を全てを尽くさずして、曹操あのおとこに打ち勝つことなどできないのだ。


「嘘といえば、貴方は一つ、とんでもない嘘をついているわよね」

「ああ……」


 本心と嘘を織り交ぜて言葉を操る劉備だが、真に嘘と呼べるのはこれだけだろう。

 その“嘘”が、劉埼を江夏へと遠ざける理由の一つでもある。




 そして、それからまた一週間後……

 劉埼は自らの側近と二万ほどの兵を引き連れて、江夏へ向かった。

 傍目からは、劉綜から逃げているように見えるだろう。


 それもまた劉備の狙いの一つ……

 彼は、劉綜が劉埼を亡き者にしようとしているという噂を、まことしやかに流布した。

 実際に劉綜にそんな企みがあるかどうかは関係ない。劉備と孔明も、その確証を掴んでいるわけではない。

 だが、信憑性のある噂と、劉埼が逃げ出したという事実……誰でもその二つを結びつけるだろう。

 こうして、劉綜に兄殺しの意図があったという憶測を、限り無く真実に近づけることが出来るのだ。

 これによって、家臣団を巻き込んだ兄弟の対立は、より激しいものとなるであろう。


 遠からず、荊州は曹操によって併合される。自分も逃げ出すことになるだろう。

 だが、劉埼という反乱分子を残しておけば、いずれ荊州争奪戦の足がかりを築くことが出来る。

 それが荊州の平穏を乱すことに繋がろうとも……目的の為ならば、劉備は何であろうと利用する覚悟を決めていた。







「うっす、劉備さん! お久しぶりです!」

「おお、文長じゃねぇか」


 新野城の通廊を歩く劉備と孔明の前に、魏延の巨体が立ちふさがった。


「何だおめぇ、てっきり劉埼と一緒に江夏に行ったものとばかり思ってたぜ」

「なぁにを仰いますか!! これから曹操の野郎が攻めて来るんでしょ?

 身命を賭して劉備さんを守ることこそ、この魏文長の使命ですから!!」

「頼もしいこと言ってくれんじゃねぇか」


 混じり気の無い、本心だった。


「当然の事ですよ。俺だけの問題じゃありやせん。何せ劉備さんは、この荊州の主となられるべきお方っすからねぇ!」 

「い、いや、それは劉綜のことだろ?」

「そんなのあいつらが勝手に言っているだけです。

 劉表殿が劉備さんを指名された以上、荊州の主は劉備さん以外にありえねぇです!!」


 劉表が、今わの際に劉備を後継者に指名したと聞いて、魏延は飛び上がって喜んだ。

 これまで、劉表への忠誠と、劉備への尊敬との板挟みになって彼なりに苦しんでいたが……これで何の気兼ねも無く、劉備に忠誠を捧げることができる。


「劉表殿の死の間際で、劉備さんが見せたあの“仁”の心……俺ぁ心底感動いたしやした!!

 誰よりも父と子の絆を思う慈愛……あれを見て、劉備さんを主だと認められねぇ奴は、人間じゃねぇです!!」


 話を聞いていた孔明は、扇で口許を隠して笑みを浮かべる。

 正解だ。あれを見て退屈以外の何物でもないと断じた私は、比喩的な意味に留まらず、正しく人間ではない。



「でもよ、俺はもう荊州の領主を辞退しちまったわけだし……」

「劉備さん……分かっていやすよ。

 どうせ劉綜派の奴らが汚い手を使って、劉備さんに領主の座を捨てるよう脅しかけたんだ!

 いくら劉表殿の子供だからと言って、自分の地位欲しさに劉表殿の遺志を捻じ曲げるたぁ……漢の風上にも置けねぇ野郎だ!!」

「おいおい、そりゃお前の早とちり、邪推ってもんだ」

「劉備さんは優しいお人だ……だから、劉綜みたいな奴でも庇おうとなさる。

 分かっていやす……俺には分かっていやす」


 魏延の思い込みは止まらない。既に彼の内には、劉綜への殺意が芽生え始めているようだ。

 これで、魏延が暴走して劉綜を斬り殺しでもしたら何もかも滅茶苦茶になってしまう。


「だから違うって言ってんだろ! くれぐれも、滅多な真似はするんじゃねぇぞ」

「そうですか……なら、そういうことにしときやす」


 口ではそう言っても、到底納得はしていない顔つきだ。



 だが……


 これもまた、劉備の計算通りだ。


 いくら劉表が劉備を指名したとはいえ、いきなり荊州の主になるには無理があるだろう。

 はっきり言って荊州に未来はない。このまま荊州に留まっても、曹操に蹂躙されるのを待つだけなのだ。


 だが、領主の座を辞退しても、「劉備こそが劉表に指名された正統なる後継者だ」という厳然たる事実は残る。

 魏延のように、無駄に想像力を逞しくする者もいるだろう。


 劉綜は、卑劣な手を使い兄劉埼を抹殺しようとし、正統な後継者であるはずの劉備をも追放した……

 この流説が、いつか人々の間で暗黙の真実に昇華されれば、荊州における親劉備、反曹操の動きはより活発になる。

 これも未来に向けて打った布石の一つだ。


 魏延のこの依存心と思い込みの激しさは、将来武器となる……劉備はあくまで打算的に、冷徹に思考を進めていた。






 魏延と別れた後、劉備と孔明は本来の目的地へと歩み出した。

 

 階段を降り、城の地下にある一室へと歩を進める。

 衛兵が守る門をくぐって、目的の部屋へと向かう。 

 この衛兵は、劉備の許可を得た人間以外は決して通さないよう厳命されていた。


「よう、元気かい? 何か閉じ込めているみてぇで悪ぃな」

「何か、困ったことなどはありませんか?」

「いえいえ、ここには本も多くありますし、望めば何でも持ってきてくれますからね。中々に快適な環境ですよ」


 その男は、幾つもの書架に囲まれた一室で、椅子に腰掛け本を読んでいた。


「何より……もう俗事に煩わされずに済みますからね。

 余計な心労が無くなったせいか、病も順調に快復していますよ。

 これこそ、健康で人間らしい“文化的”な生活というものですね」


 癖なのか、彼は片眼鏡に指を当てる。


 劉備と諸葛亮の前で、穏やかに微笑んでいるのは、二週間ほど前に死んだはずの前荊州牧……劉表だった。


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