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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十一章 荊州侵攻(一)

「ん~~~っ、美味しーっ♪」


 諸葛孔明は頬を膨らませ、至福のひとときを堪能していた。

 卓の上には白い饅頭が積まれた皿が乗っている。

 甘さは控え目、それでいて、口に入れた途端、濃密で芳醇な味わいが口内を満たす。

 その美味さに、孔明は最高級の賛辞を送った。


「はぁーっ、やっぱりあんたの料理は最高だわ。ますます腕前に磨きがかかったようね。子龍」

「ありがとうございます、月英様」


 作り手の趙雲は、深々と一礼する。

 今の孔明は“黄月英”であるため、趙雲もその名で呼ぶ。

 なお、孔明の一人二役を知っているのは、劉備三兄弟に趙雲、徐庶だけだった。


「いやぁ、まさかあんたが馬鹿劉備のところにいたとはね。

 この、何の面白味も無さそうな生活の中で、それだけは救いだわ」


 そう言って、饅頭を口へと運ぶ。諸葛亮と趙雲、二人は旧知の仲であった。

 当時、諸葛亮は幽州にいた。趙雲はその頃に彼女と知り合い、饅頭の作り方を教わったことがあるのだ。


「中華広しといえども、“私が考えた”この饅頭を、ここまで美味しく作れるのは貴方しかいないわ」

「いえ、月英様が創り上げた基礎に、私なりの工夫を加えたまでのこと。

 全ては月英様の発想があればこそ……」

「あははははは! そうそう、分かってるじゃない。私は偉大な人なのよ~」


 以前、旅の途中で趙雲は諸葛亮に知り合い、彼女に饅頭の創り方を教わった。


「ま、あんたがここにいると何かとやりやすいわ。何かと、ね……」




 

「何だなんだ? 美味そうじゃねぇか! 子龍御手製の饅頭かぁ、そりゃ美味いに決まってるよなぁ」


 そこに劉備が現れる。

 劉備の顔を見た途端、孔明は表情を曇らせる。

 饅頭を呑み込んだ後、あからさまにため息をつく。


「はぁ……」

「おい、何だよその反応は」


 孔明は、眉間に皺を寄せ、汚物でも見るような視線を向ける。


「せっかくの絶品の饅頭も、あんたの顔を見ると味も半減しちゃうと思ってね~」

「何でだよ!!」

 

 いきなりの暴言に吼える劉備だが、諸葛亮は羽扇を口許に当てて、更なる不快感を示す。


「ちょっと、菌をばら撒かないでよ。あんたのいい子ちゃん病が感染うつったらどうしてくれんのよ」

「はっ! てめぇこそ、ナマケモノ病を感染うつすんじゃねぇや」


 乱暴に椅子に腰掛けると、饅頭に手を伸ばす。 


「おほっ、やっぱ美味いなぁ。さすがだぜ、子龍」

「ありがとうございます、玄徳様」

「せっかくの丹精込めて作られた饅頭も、こんな味の分からない奴に食べられちゃあ可哀想だけどね~」


 いちいち反応していたらキリが無いので、無視して食事を進める。

 


 そんな中、孔明は何かを思いついたのか、突然目を輝かせると、劉備に猫なで声で話しかける。


「ねぇねぇ、玄徳様ぁ」

「んだよ、気持ち悪い声出しやがって」

 

 孔明は、目線を趙雲に向けてこう言う。 


子龍これ、私に頂戴」


「……っ!」


 思わず噴出しそうになるのを抑える。

 

「私思うんだけど、あんたにこいつは過ぎた部下だと思うのよ。宝の持ち腐れ、豚に真珠、猫に小判。

 考え無しのバカなあんたより、天才軍師であるこの私の下でこそ、その真価を発揮できると思わない?」

「何が天才軍師だ。孫子を読んだこともないくせ!」


 余人が聞けば耳を疑う発言だが、全くの事実であった。

 この女、新野城にやって来るまで、兵法書の類など読んだことが無いと抜かしやがった。


「天才とは、世間の常識に囚われないから天才なのよ」

「はっ! やなこった! てめぇの考えてることなんざお見通しだよ。

 どうせ子龍に労働掃除洗濯炊事なんでもやらせて、自分は徹底的に怠けるつもりだろうが。

 てめぇの思い通りにはさせねぇよ」


 全くその通りであった。

 主に不平も文句も言わず、ただ従順に、完璧に命令だけをこなす趙雲は、諸葛亮にとって理想的な執事なのだ。


「どうしても駄目ぇ? 子龍はどぉ?」

 

 諸葛亮は趙雲を見上げる。


「私の今の主は玄徳様です。全ては玄徳様の決断に委ねます」

 

 そう言うと思った。

 何事においても、自らが仕える主に服従する……それが趙雲という男だからだ。

 そんな特質を持つからこそ、趙雲を引き入れたいと思ったのだが……


「ほら、子龍もそう言っているだろ。諦めろ」

「ふぅ、相変わらずの契約至上主義なのね。あ~あ、こんなことなら初めて会った時に部下にしとくんだったわ」

「申し訳ありません。当時は既に、伯珪様に仕えておりましたので……」 

「そうそう、前から気になってたんだけど、何であんたこいつに仕える事にしたの?

 あんたに限って、まさかこいつの徳や仁義に惹かれたとか、脳に蛆が沸いてんじゃねぇのかって答えじゃないでしょうね?」

「言ってくれるじゃねぇか……」


 憮然とする劉備をよそに、趙雲は話を進める。 


「玄徳様には、以前命を助けていただいたことがあるのです。

 その時に、もしも伯珪様との契約が切れた場合は、玄徳様の下へ行くと約束を交わしたのです」

「まぁ、予約って奴だな」

「ちょ、予約って何よ! そんなの知らないわよ!

 じゃあ私も予約する! この馬鹿がくたばったら、私の召し使いになりなさい!

 恩ならあるでしょ、饅頭の作り方を教えてやった恩が!!」

「はい、考慮しておきます。ですが、全ては玄徳様の許可次第ですが……」

「おう、精々俺のご機嫌を取るんだな」


 途端に不機嫌な顔つきになる諸葛亮。


「えー、それは死んでも嫌ー。あんたにおべっか使うぐらいなら、この饅頭崇める方がまだましー」

「俺もだよ。てめぇなんぞより、この饅頭の方がよっぽど尊敬に値するぜ」


 二人同時に、饅頭を口に含み、同時に噛み砕く。


「はぁ……で、何の用?

 あんたがここに来るってことは、どうせ仕事の話でしょ? さっさと済ませなさいよ」


 諸葛亮に促され、劉備は単刀直入に話を切り出す。


「劉表さんに会って来た」

「あっそ……で?」


 劉備は、饅頭を咀嚼しながら何かを考えていたようだが……やや沈鬱な面持ちで言葉を切る。



「ああ……かなり、悪いみたいだぜ……」








 渾元歴208年、八月、荊州……


 迫り来る曹操の脅威を前にしながら、荊州の統治者、劉表は、ずっと床に臥せっていた。

 若々しく見えても、既にかなりの高齢である。最近、病状が一気に悪化し、医師の見立てによれば、いつ死んでもおかしくない状態らしい。

 死の淵に立ち、劉表は家臣団、並びに劉備達を襄陽の城に集め、遺言を伝えようとしていた。


「劉表さん……やっぱりもう、駄目なのか?」


 劉表は、最期に語らう相手に劉備を選び、傍らに呼び寄せた。

 病床の劉表は、青白い顔に力無い笑みを浮かべる。

 頬はこけ、目は落ち窪み、元々細い体はさらに痩せこけている。


「人はいずれ死ぬものです……私にも、その時がやって来たということですよ」

「俺ぁ、あんたには七年も世話になっちまった。今俺が生きていられるのも、全部あんたのお陰だ。

 そのでっかい借りを、俺はまだ、何一つ返しちゃいねぇんだぜ……」


 劉備の両目から、大粒の涙が零れる。

 そんな劉備を見て、劉表はゆっくり首を横に振った。


「違います……それは違いますよ、劉備さん。

 私は貴方に、既に借りを返してあまりあるものを貰っています」

「何だって?」

「それはね、劉備さん、貴方の生き様そのものですよ。

 曹操さんという強大な敵を前にしても屈することなく、友愛と仁義を重んじ、天下万民を幸福にする道を探し続けておられる。

 貴方の根底にあるのは、天よりも広く、海より深い優しさです。

 そう……私はついに気付いたのです。

 人が人を思い、慈しみ、支え合う心……優しさこそが、人類が生み出した最高の文化ということに。

 人は一人では生きていけない、一人では、文化を生み出すことはできない。

 人と人とを繋ぐ優しさがあって初めて、文化は生まれる。

 そこに愛があるからこそ、文化は豊かに、美しく、花開くのです。

 劉備さん、貴方のお陰で、最期に至高の文化に触れることができました……ありがとうございました」

「劉表さん……」


 劉備の涙は止まらない。


「劉備さん……貴方にお願いがあります」

「な、何だ?俺にできることなら何でも言ってくれ!」

「私が死んだら、劉備さん、貴方に荊州の統治権をお譲りします……

 曹操さんの手から、荊州を……この文化の都を、守っていただけないでしょうか?」


 劉表の発言に、家臣達は騒然となる。

 今まで劉表は後継者についても、曹操への対応についても、はっきりしたことは何一つ口にしなかった。

 それが、二人の息子どちらかならまだしも、一介の客人である劉備を直接、後継者に指名するとは……

 いきなりの発言に、劉備は動揺を隠せない。


「ま、待ってくれよ。そんなこといきなり言われても……」


「その通りです! 殿!!」


 声を荒らげるのは、主に曹操への帰順を望む家臣達である。

 彼らは次男の劉綜りゅうそうを後継者にしようと、これまで手を尽くして来た。

 長男の劉埼りゅうきは、劉表とは酷く折り合いが悪い。

 だから、劉綜の次期領主の座は揺るぎないと考えていたのだが、まさかここで劉備が第三の後継者として浮上してくるとは。

 彼は劉表の血族ではない。しかし、彼の二人の息子と異なり、劉表の口から直接後継者として使命されている。

 加えて荊州には、劉備を慕う者が多数いる。劉表の遺言が公になれば、その数はさらに膨れ上がるだろう。

 このままでは、荊州を劉備によって乗っ取られてしまう……彼らの焦燥は計り知れなかった。


「もう一度よくお考えくださいませ! 劉表様!」

「親の地位は、子が継ぐが道理でございます!」


 劉綜派の家臣が、劉表の下に集まり、口々にわめき立てる。

 その中には、劉表の次男、劉綜の姿もあった。

 耳のあたりまで伸ばした黒髪を真ん中で分け、眼鏡を掛けている。

 線が細く、神経質そうな顔つきは、父によく似ている。


「父上! それほどまでこの私が信用できませぬか!

 このようなどこの馬の骨とも知れぬ男に任せていては、間違いなく荊州は破滅します!

 どうか、どうか今の言を撤回してくださいませ!」


 劉綜は困惑していた。父が劉備に荊州を譲るという展開は、考えなかったわけではない。

 だが、父の性格上、それだけはありえないと半ば確信していた。

 実の息子だからわかる。常に慇懃で余裕のある態度を見せている父の本性は、誰よりも保身に長けた臆病者だ。

 天下の趨勢を握るため、数多の策略を弄しているが、その実自分から兵を動かして侵攻することは殆どない。

 それによって、彼は融和と中庸を重んじる主君として名声を得て来たが、所詮は荊州という土地にしがみつくだけの、中途半端な野心家。

 曹操に対しても、反乱の気配を匂わせつつも、本気で抗うつもりはない。

 ただ、中立という特別な地位にいる自分に浸りたいだけなのだ。

 いざとなれば、劉備を差し出して、講和を申し入れるはずだ。

 自分には、父の心情がよく分かる。何故なら、自分もまた父と非常に似通った人間だからだ。



「綜! 劉備殿に向かって何だその物言いは!

 父上が劉備殿を次の当主に決めた以上、そのご意志を尊重するのが子の道というものであろう!」

「兄上……!」


 兄、劉埼の言葉に、劉綜は不快の念を強める。


 子の道だと?

 これまで散々、父、劉表を卑劣だ姑息だ、臆病者だと陰口を叩いていた貴様が言うか?


 劉埼は髪を短く刈り、武官風の衣装を着た青年だ。眼鏡もかけていない。

 一見、父や弟とは正反対の、武人肌の人物に見えるが、よく見れば骨格や体型、顔立ちは劉表に似た細々としたもので、無理に着飾っているようだった。


 その姿も、父への反骨心の現れなのだろう。

 父の消極的で、謀略に重きを置くやり方を、彼は常々批判していた。

 当然、父との関係は悪くなるばかりで、そんな彼が父の代わりに寄る辺としたのが劉備である。

 彼は劉備を希代の仁君と称え、もう一人の父と見做している。

 劉備が荊州の主になろうと、劉埼は何も困ることはない。


 自分は違う。

 父の器の小ささを知りながらも、自分は父を軽蔑しているわけではない。むしろ尊敬さえしている。

 この乱世において、荊州は殆ど戦火に晒されることもなく、独立を維持し続けた。

 それを支えてきたのは、父が諸侯に仕掛けてきた権謀術策の数々だ。

 父の裏の顔を知っていても、それで父への敬意が揺らぐことはない。

 この乱世は、理想や綺麗事だけでは生き残れない。

 どれだけ卑劣なやり口であろうとも、自らの領土を守るためにあらゆる手を尽くすのは乱世の群雄として当然のことだ。

 自分も、父を倣って荊州を護り抜いていこうと決意していた。

 劉景升の意志を正しく引き継げるのは自分しかいない……そう考えていた。

 父を誰よりも尊敬してきた自分が、ずっと父を軽蔑し続けた兄に、父への不敬をなじられている。

 この状況は、劉綜の怒りを爆裂させるのに十分だった。


「この劉備の傀儡めが! 父上の真意も理解できぬお前が口を挟むでないわ!」

「今父上がおっしゃられた言葉が全てだ!

 お前こそ、父上の想いを自分の都合の良いように捩曲げている!」

「何だと!?」


 互いを睨みつけ、罵り合う兄弟。

 やがては取っ組み合いに、ひいては剣を抜いての殺し合いに発展しかねない勢いだった。

 劉埼、劉綜、それぞれの支持者達も、主に続いて声を荒げる。やがて、家臣団を真っ二つに大論争が巻き起こる。



「このっ!」


 ついに劉綜が、腕を振って殴り掛かる。

 これは彼の方が短気だったというわけではなく、兄の方も手を上げるのは時間の問題だった。

 劉埼派と劉綜派、争乱の口火となるその一撃は……

 

 劉埼に届く寸前で止められていた。


「……劉備ぃ!」

「劉備殿!」


 劉備は兄弟の間に割って入り、劉綜の腕を掴んで留めていた。

 普段の彼らしくない、陰に篭った声で言う。


「もう……やめろ」


 劉綜のこめかみに青筋が浮かぶ。一体誰のせいだと思っているのか。


「黙れ!父上をそそのかし、この荊州の乗っ取りを目論む、恩知らずの奸賊めが!

 お前のせいだ……お前さえいなければ、全ては上手く行っていたのだ!」

 

 誰よりも父に近く、父の心情を理解する自分こそが後継者だと、劉綜はずっと信じていた。

 それが、父が劉備を招き入れてから、全てがおかしくなり始めた。

 元来温和で戦を望まぬ荊州の地に、劉備を慕う者達が続々と集まり、反曹操の気運が高まり始める。

 父にささやかな反感を抱きながらも、何をするでもなかった兄も劉備に感化され、強硬に曹操への抗戦を主張するようになった。

 そして父までもが、病で気が弱くなったところに付け込まれ、荊州を劉備に渡そうとしている。

 元々、仲の良い親兄弟ではなかった。しかし、今まではそれなりに折り合いをつけていたのだ。

 それをここまで悪化させたのは劉備このおとこのせいだ。

 決して被害妄想や責任転嫁ではない。劉備には、人を狂わせる魔性がある。

 劉埼や彼の支持者は、それを大徳や器の大きさと錯覚して、崇め奉っているだけなのだ。


「貴様! 劉備殿に何という暴言を! 劉備殿は父上と同じぐらいにこの荊州の地を想っておられる!

 そこに二心はない! 劉備殿や関羽殿、張飛殿らがおられたからこそ、この荊州は曹操の脅威から護られていたのだ!

 その恩義を忘れ、言うに事欠いて奸賊呼ばわりとは何事か!」

「逆だ! 逆なのだ兄上! 劉備がいるからこそ、荊州は曹操に敵視されるのだ!

 劉備さえいなければ、もっと早くに和平を締結できていたものを……」

「お前はこの乱世を甘く見すぎている! 平和とは、力無くしては勝ち取れぬのだ!

 劉備殿には力がある。その力を正しい方向に導く信念がある!」

「力に頼らずに平穏を維持することこそ、父上の選ばれた道だ!

 兄上は、父上の政を否定するのか!」

「貴様こそ、父上の意志を尊重するならば、何故父上が直々に指名された劉備殿を認めようとしない!

 結局貴様は、領主の座を奪われるのが嫌なだけなのだ。この恥知らずが!」

「恥知らずは兄上の方だ! 後継者になる見込みがないからと、劉備に縋ってこの荊州を支配しようとしているくせに!」




 諸葛亮は、家臣達に混じって兄弟の言い争いを眺めている。

 今の彼女は月英ではなく、その夫、諸葛孔明の正装に身を包んでいる。


 二人とも、感情を爆発させて腹のうちにあるものを全てぶちまけている。

 売り言葉に買い言葉で、思ってもいないことまで口に出してしまう。

 こうして、理性を欠いた二人の争いは、終わることなく続く。

 理は劉埼にある。現当主の劉表が劉備を後継者として指名した以上、それを覆そうとする劉綜に非がある。

 しかし正しいことを言っているのは劉綜だ。

 特に彼の劉備に対する評価は、全くその通りと言わざるを得ない。

 あそこで二人の争いを引き止めようとしている男こそ、兄弟の仲を断ち、骨肉の争いに致らしめた元凶だ。

 正当性は劉綜の側にある。にも関わらず、彼が兄を論破できぬのは、父が劉備を指名したという厳然たる事実があるからだ。

 この事実がある限り、劉綜の主張は全て弾き返され、話は振り出しに戻る。

 だが、劉綜は決して譲らない。

 己の野心ゆえか、それとも父を慕い荊州を想う信念ゆえか。

 後者だとすれば皮肉な話だ。彼は、父を愛するがゆえに、父の意を捩曲げねばならないのだ。


 一方で、父を厭うている劉埼が、父の意を通そうとしている。

 互いの主張と真意がちょうど入れ代わってしまっている。

 あの二人は、人類同士の争いの縮図だ。いずれか一方が善、あるいは悪と割り切れる闘争の何と少ないことか……

 嘘は真意を曇らせ、互いの理解を遠くする。その嘘に、悪意があるかどうかは関係ない。

 嘘こそが争いを生み出す火種……だとすれば……


(この世で一番の嘘つきは、中華一の大悪党かもしれないわね。どこぞの誰かさん?)


 最も、世の中はそう簡単に割り切れないことは理解している。

 世界中の人々が自分の心を素直に明かせば、それで争いが無くなるほど、この複雑怪奇な利害関係の絡み合った世界は単純ではない。

 “彼”も、それを理解しているからこそ、完璧な嘘で自分を塗り固めて、強引に世界を変えようとしているのだ。



 それについて、諸葛亮が特に感情を揺さぶられることはない。

 ああ、そうか、程度のものだ。


 彼にとっては、すっかり見慣れてしまった光景だ。

 あまりに退屈なので、思考を巡らしただけのこと。

 彼女の頭の大半を占めていたのは、長い時間同じ姿勢で立っているのは面倒なので、何でもいいから早く終わってくれというものだった。

 また、趙雲の饅頭が食べたくなってきた。


 そんな孔明の願いが通じたか、事態は進展を見せる。




「やめろって……言ってんだろ!」


 押し込めていたものを解き放つように、劉備は声を荒げる。


「何を……!」


 逆上しかけた劉綜だったが、すぐにその口は閉ざされることになる。

 前髪から覗く、劉備の眼光にいすくめられ、全身が固まってしまったからだ。

 劉備とて、関羽や張飛に護られたまま何もしなかったわけではない。

 彼らと出会う前、さらに出会った後も、幾多の修羅場をくぐり抜け、指の数では到底間に合わぬほど人間を殺しているのだ。

 未だ戦場に出たことがなく、ましてや人を殺めたことのない劉綜が、劉備の本気の殺意をこめた視線に耐えられるはずもなかった。

 だが、暗く濁った劉備の瞳には、殺意ではなく、一抹の哀しみが込められていた。


 劉埼も劉綜も、一言も声を発することができない。

 その時……


「ごほっ! がはっ! ぐはぁっ!?」


 激しく咳込み、発作を起こす劉表。明らかに尋常な事態ではない。


「父上っ!?」


 同時に叫び、駆け寄る兄弟を、数名の医師が遮り、慌ただしく応急処置を始める。

 その切羽詰まった様子から、最悪の事態を覚悟せねばならぬほど危険な状態なのは容易に読み取れた。


 父は、間もなく死ぬ……

 その事実を受け入れざるを得なくなり、二人は争っていることも忘れて愕然となる。


 そんな二人の肩を、劉備は後ろから抱きしめる。


「よぉっく見てろ……おめぇらの父ちゃんは……もうすぐ、死ぬ……」


 はっきり言葉にして言われ、兄弟は慄然となる。


「この荊州を巡る問題が、今日明日に決着するなんて思ってねぇ。

 綜の言う通り、悪いのは全部俺かもしれねぇ。

 けどな……最期の時ぐれぇよ、父ちゃんに、兄弟仲良くしている姿を見せて、送ってやっちゃくれねぇか!?」


 劉備の目から、とめどなく涙が溢れる。

 劉埼、劉綜もまた、熱い涙を流しながら死にゆく父を看取る。


 ここに来て、二人は父の真意を理解する。父は、悲しかったのだ。

 いがみ合う、自分達兄弟の姿が。このままでは、兄弟のどちらが跡継ぎになっても、骨肉の争いが起こることは必至。

 ならば、あえて第三者である劉備に全てを委ね、自分達兄弟の仲を修復したいと思ったのではないか。

 二人の中で、猛烈な後悔が沸き起こる。

 何故もっと、父と分かり合おうとしなかったのか……

 それに気付いた時は全てが遅く……父の魂は冥府に引かれていた。


「父上!!」


 二人が声を発した瞬間……

 劉表は微笑み、何とか唇を動かそうとする。


 だが、それも凄絶なまでの苦悶に塗り潰される。

 手を首に当て、口から泡を吹き、両足をばた付かせ、必死の形相で苦痛に耐える。


 しかし、それも長くは続かず……

 突然劉表の体の動きが止まり、四肢が病床に投げ出される。


 皆が固唾を飲んで見守る中……医師は静かに首を横に振った。



「ご臨終です」




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