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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十章 美周郎(八)

 非常事態に、会議は瞬く間に紛糾する。

 殿中に曹操の放った暗殺者が忍び込み、孫権の命を奪おうとした一大事……

 その暗殺者は、既に自決して事切れていた。

 しかし、その遺品からは暗殺道具に加え、曹操との繋がりを示す物証が多数発見された。


 武官達からは曹操への憤怒の声が巻き起こり、それはもはや張昭ですら止めることは出来なかった。

 張昭自身も、今は何を言っても無駄だろうと理解していた。

 万が一のことを考え、孫権は多数の兵と共に、城の奥の安全な場所へと移された。

 会議は無期延期となり、武官達の心には曹操への更なる敵愾心が宿ることとなる。





「あひぃ~~~! 尚香しょうこうさまぁ! おおお! お助けをぉぉぉ~~!!」


 飛んでくる矢の雨から、必死で逃げ惑う諸葛瑾。


「瑾! よくも兄さまに恥をかかせてくれましたわね! 穀潰しの身で取り立ててくださった恩を忘れるとは何事ですか!」

「ぎょひー! ごめんなさいごめんなさい尚香さまぁ!」

「駄目です! 今日という今日は、その緩みきった根性、叩き直してくれますわ!」

 

 逃げる諸葛瑾に向けて、百を越える矢を射続けるのは、孫権の妹、孫尚香そんしょうこうだ。


 兄と同じ、流麗な金色の髪を背にかかるまで伸ばし、赤い着物を着用している。

 手には弓を携え、諸葛瑾に向けて間断なく矢を射っている。

 彼女は武芸を嗜んでおり、その気の強さも相俟って、“弓腰姫きゅうようき”とあだ名されていた。

 鏃は刃物ではなく、球形になっているので当たっても死ぬことはないが、痛いことに変わりはない。


「ああ、暗殺者に命を狙われるなんて、仲謀兄様、おいたわしや……」


 城の内部にいる孫権を想い、天に向かって嘆息する尚香。

 現在、孫権の周囲には厳戒態勢が敷かれ、尚香であろうと気軽に会うことは叶わなかった。

 誰もが、孫堅、孫策を見舞った不幸を思い出し、あの悲劇を繰り返すまいと気を張り詰めていた。


 頭の中は兄のことでいっぱいになりながらも……矢を射る手は全く止まることがない。


「そ、それなら、俺っちも労わって欲しいっす~~! うぎょぴ――――っ!!」


 尻に矢の直撃を喰らった瑾は、尻を抑えたまま跳びはね、草原をごろごろと転がっていった。





 


 この報は、孫呉の官僚から一般の兵卒、噂を漏れ聞いた民草までもが驚倒した。

 しかし……実のところ、最も驚いたのは、孫呉に潜んでいる曹操側の斥候達だった。


 何故ならば、彼らは孫権の暗殺の件など、まるで聞いていなかったからだ。


 混乱した斥候達は、“上”と繋がっている、自分達を統括する人物に意見を求める。

 それに対し、頭ははっきりと答えた。


(落ち着いてください。程旻殿からも、曹操様からも、そのような命令は一切出ておりません。

 恐らく、これは……)






(やはり、そういうことですか……)


 曹操の放った暗殺者の死骸、そして彼が所持していた数々の証拠品を検分し、張昭は一つの核心に至った。


(彼は……曹操の手の者ではない)


 曹操ならば、今孫権を殺めたところで、こちらの反抗心を煽り立てるだけだということは分かっているはず。

 和平か抗戦かを決める議論の途中で、この事実が発覚したのも、あまりにも都合が良すぎる。

 この暗殺未遂事件によって一番得をするのは誰か。


 考えるまでもない、周瑜だった。

 この事件は、降伏論に流れかけていた武官達の心を奮い立たせ、議論を途中で打ち切ることに成功した。

 警備を強めるために、しばらく孫権が表舞台に出て来ることはない。結果的に、周瑜の望んだように決断は先送りにされたのだ。


 この一件は、全て周瑜の自作自演……

 曹操の暗殺者と目された男の死体は、彼が用意した囚人か、元黄祖の兵だろう。

 物証など、いくらでも捏造できるし、衛兵達は全員が周瑜の手駒だ。口裏を合わせることなど容易い。

 だが、それが分かったところで、周瑜の陰謀を暴き出すなど不可能だ。

 自作自演である可能性が極めて高いとはいえ、そうではない可能性も残っている。

 仮にあの暗殺者が偽物だと証明できたとしても、人々の心に巣くった疑惑は、決して打ち消されることはない。

 周瑜の狙いは、全ての人間を完璧に騙し切ることではない。

 文武百官に、曹操への疑心を植え付けることなのだ。

 得体の知れない相手への不安は、曹操への敵意に変じ、やがて孫呉を周瑜の望む方向へと導くだろう。


 分かってはいたが、恐ろしい男だ。まさか偽の暗殺事件をでっちあげてまで、降伏を取り下げようとするとは。

 あの男は、己が野心のためなら手段を選ばない。そのことを再認識すべきだ。

 孫呉の平穏にとって一番の敵は、曹操ではなく、あの男なのかもしれない。


 周瑜は、誰もが認める万能の天才だ。しかし、その才があまりに深すぎるがゆえ、己の能力を過信している。

 自分ならば、あの曹操軍を相手にしても勝てると信じきっている。


 だが、張昭に言わせれば、それは愚か以外の何物でもない。

 孫呉軍の総兵力は約二十万、対する曹操軍は、今や百万に達する勢いだ。

 これで勝てると思う方がどうかしている。

 自分は戦に関しては門外漢だ。武人の中には、戦は数で決まるものではないと言う者もいるだろう。

 だが、戦と政は元来不可分なもの。文官の自分でも、奇策や偶然で埋められる差かどうかは分かる。

 あの曹操に圧倒的不利と言われた官渡の戦いでさえ、三十万対四十五万で兵力にはさほどの差はなかった。

 それでも曹操は、終始劣勢を強いられ一時は敗北寸前まで追いやられた。やはり、数が戦に及ぼす影響は、あまりにも大きい。

 その規模が大きくなればなるほど、絶望的な差となっていく。

 一人で五人の敵を討ち果たすのは、将軍級の実力者であれば容易であろうが、十万の兵で五十万の敵を打ち倒すのは不可能に等しい。

 しかも曹操軍は数だけの烏合の衆ではない。人材面においても、技術面においても、こちらを優に上回っているのだ。

 今曹操に抗うことは、無謀以外の何物でもない。

 戦になれば、孫呉は間違いなく負ける……それを未然に阻止し、孫家の血脈を長らえさせることこそ、自分の役目だ。


 皮肉な話だ。孫権を唯一の主と定めながらも、彼を守り通すために、曹操を彼に勝る優れた統治者として評価せねばならないとは……

 若い主戦派の人間の中には、張昭を、孫呉を曹操に売り渡そうとする売国奴と陰口を叩く者もいる。

 だが、張昭にとっては自身の名声など、何ら執着してはいない。

 周瑜が開戦の為に手段を選ばぬならば、こちらも相応の覚悟で臨むまでだ。

 それがどれだけ屈辱に塗れた降伏であろうとも……自分が逆臣の汚名を被ろうとも……

 孫家を存続させ、呉の地に平和をもたらすことこそが、己の果たすべき使命だと信じているのだから。







 非業の死を遂げた兄、孫策の意志を継ぎ、孫呉を天下に名だたる強国に成長させた江南の若き王、孫権。

 私情に流れず、何よりも民を第一に考え、より良き政治を行う為の努力を惜しまない。

 孫仲謀は、誰からも賞賛される“名君”と呼ぶに相応しい人物であった。


 だが、民や臣下が自分に寄せる熱情とは裏腹に、孫権自身は己の王という立場を、どこまでも冷淡に捉えていた。


 “王”とは、国家を維持する為に必要な歯車のひとつに過ぎない。

 王とて所詮は一人の人間だ。その点において、国家を形成する無数の民と何ら変わりない。

 ただ、彼らとは果たすべき役割が違うだけ……それは、国家を代表する、“象徴”としての役割だ。


 その象徴が民にとって尊敬に値するものであればあるほど、彼らの心にも誇りが生まれ、国家を繁栄させる活力となる。

 ゆえに、王は民を裏切ってはならない。民の期待に背いてはならない。

 常に民を第一に考え、民を慈しみ、民の願望を実現する存在……それが王に与えられた役割。

 そんな王であってこそ、民もまた王のために、国家のために尽力するようになる。

 王と民は、上下の繋がりのように見えて、その実、互いに奉仕し合う関係なのだ。

 王に臣従するのが民の務めだが、王もまた、民に対しては奴隷であらねばならない。


 彼はずっと、民にとって理想的な王を“演じて”きた。 

 それだけが、己の果たすべき役割だと信じていたから。


 そこに、孫権自身から生じた王としての気概や信念などと言ったものはない。

 元より、望んで今の地位に就いたわけではない。

 もしも兄が不慮の死を遂げなければ、自分は決して王になることは無かった。


 孫権にとって、“王”とは孫伯符以外に有り得ない。

 彼が見せた、誰もを魅了する王者としての輝きは、孫権の心も魅了した。

 自分は、そんな兄を心から誇りに思い、彼を補佐する立場で一生を終えることを望んでいた。

 願わくば、兄弟二人で手を取り合って、天下に安寧をもたらしたい……それが、孫権の夢だった。

 

 だが、その夢は破れ、兄は逝ってしまった。王の座が宙に浮いた以上、誰かがそれに座らねばならない。

 急がねば、どこの馬の骨とも知れぬ人間に奪い取られてしまう……

 孫呉において“資格”を持つのは、弟である自分だけだった。


 こうして、孫仲謀は兄の跡を継ぎ、揚州の統治者となった。


 だが自分には、王としての矜持や、中核となる信条など何も無い。

 自分の人生は、全て他者に委ねる形で進めてきた。

 積み重ねてきた知識も努力も、全ては父や兄の覇業を支えるためだ。

 そんな自分がいきなり王になったところで、何かを生み出せるわけでもない。

 

 劉備のような人徳も、曹操のような才能も、そして兄のような天下に賭ける情熱も無い。

 自分には、“王として目指す場所”が存在しないのだ。

 そんな自分に出来るのは、どこまでも凡庸な王だけ。

 一切の私情を挟まず、あらゆる修飾を剥ぎ取った、ただの機構としての王だった。


 歯車としての王に徹し、孫呉の灯を決して絶やさない。自分に出来ることは、その程度のものでしかない……


 だが、孫権が“凡庸”と考えていた王の姿は、この時代において極めて貴重なものだった。

 この乱世、野心に燃える領主達に翻弄されて、民も疲れ果てていたのかもしれない。

 民の生活および、領土の発展を第一に考える孫権の政は、呉の民に熱狂的に受け容れられた。


 この数年間……脇目も振らず、ひたすら領土のために尽くしてきた。

 それを苦と思ったことはない……だが同時に、楽しいと思ったこともなかった。

 これは義務なのだから。孫策の弟である自分に課せられた義務……それが孫権という男の限界だ。

 臣下達が期待する、天下の主としての器など、こんな自分にあるはずも無い……




 暗殺者騒動の後、孫権は城の最奥に篭り、多数の護衛に囲まれた状態で政務を執り行うこととなった。

 現在、孫権の前には周瑜が立っている。


「衛兵の数を三倍に増やしました。どこかに行かれる場合は、必ず兵を五人以上お連れくださるようお願いします。

 しばしの間、不自由を強いることをお許しください」

「分かった」


 周瑜は、自ら護衛の責任者として立候補した。

 彼には、他にもやるべき仕事が山ほどあるはずだが、それに新たな重責が加わっても、まるで苦にした様子がない。

 現在に至るまでの彼の働きは膨大かつ多種多様、一体いつ睡眠を取っているのだというほどのものだった。

 いかなる時も、涼しげな態度を崩さない彼には、疲労や緊張という概念など存在しないように思える。


「私も、当面は殿のお傍で政務を執り行う所存です。衛兵達に聞かれたくない重大な案件があれば、いつでもお申しつけくださいませ。

 無論、万が一の事態があれば、私も身命を賭して、殿の御身をお守りいたします」


 周瑜の実力は今や孫呉最強だ。ある意味、主君の護衛という任務に、これ以上適した人材はおるまい。


「私が不在の折は、朱治、韓当の両将軍が護衛に当たります。

 政務も、出来る限りは我々の方で行いますので、この機会に養生なされてはいかがでしょうか」


 周瑜の申し出に孫権は、首を横に振った。


「よい。しばらくは満足に外出もできぬのだ。仕事に打ち込みでもしないと、息が詰まりそうになる」


 そう、これではまるで、軟禁も同然ではないか……その台詞は、声に出す前に飲み込む。


 周瑜は、言外に非難の意味を感じ取り、少し目を伏せる。


「申し訳ございません……一刻も早く、領土内の不穏分子を洗いだし、殿の不自由が解消されるよう尽力いたしますので、どうかしばしのご容赦を……」

「いや、お前を責めるつもりはない。全ては私の命を守るためにやっていること。その忠誠心に、改めて感謝の意を告げよう」

「ありがたき幸せ……」


 深々と一礼する周瑜。


 だが、孫権の心から周瑜への疑念が消えることはなかった。

 今回の暗殺未遂事件については、孫権もまた、張昭と同じ見解にたどり着いていた。

 全ては周瑜が仕掛けた、徹底抗戦を押し通すための策……

 ならば、今のように自分が厳重な監視下に置かれているのも、周瑜の計画通りなのでは……

 その意図は明白だ。自分を、これ以上張昭に接触させないため……彼の直訴で、自分が降伏を決断するのを、何としても阻止しようとしているのだ。


 周瑜が、曹操との戦にどれだけ執着しているかは分かっている。

 その気持ちは、孫権にもよく分かる。

 周瑜は、天下に孫家の御旗を掲げんとした孫策の夢を、未だに捨てきれずにいるのだ。

 孫策が、孫権にとって尊敬すべき兄であったのと同様に、周瑜にとっても、掛け替えのない友だった。

 その喪失感は未だに癒されていない。悲しみを埋めようとする意志が、周瑜を野心に走らせるのだ。

 自分も、未だに兄の幻影を振り払えていない。


 自分は、周瑜に同情している。互いに大切な人を失ったという、仲間意識さえ抱いている。

 だから……孫権の中では、周瑜を疑う一方で、信じたいと思う気持ちも同時に存在していた。

 全ては憶測に過ぎないのだ。

 暗殺未遂事件は本当にあり、周瑜は心から自分の身を案じている。

 休養を薦めたのも、普段多忙な自分を気遣ってくれただけかもしれない。

 事実、周瑜はこの八年間、領主となった自分を懸命に補佐してくれた。

 結果として、彼は軍部の全権を握ることになってしまったが、それを許したのは外ならぬ自分自身だ。

 自分には、戦の才能はない。張昭も同様だ。

 孫策の死を機に、揚州を手中に収めんとする劉表の野心、主権を奪い取ろうとする内部の反乱分子から国を守るには、周瑜に頼るしかなかったのだ。


 彼がいなければ、今の孫呉の繁栄はなかった。

 そんな彼を疑うことは、臣下の曇りなき忠誠を、裏切ることになりはしないか。 


 だが……


 周瑜を信じたい……そう思う度に、孫権の脳裏に、“あの時”の記憶が蘇る。


 自分達にとっての運命の日……


 江東の小覇王、孫伯符が没した日だ。







 信じられない……


 信じたくない……



 孫策の亡骸が、城に運びこまれたと聞き、孫権は兄の下にひた走る。

 彼はまだ、現実を受け入れてはいなかった。

 自分はこれから、兄と共に孫呉の輝かしい未来を切り開いていくのだ。

 兄は強く、雄々しく、誰にも負けない天下無双の男だ。

 そんな兄が死んだなどと……

 群臣達の語る言葉の、何もかもが信じられない。悪い夢の中を彷徨っているような、非現実感に付き纏われていた。


 だが、扉を開け、棺に入れられた兄の遺骸を目にした時……



 孫権は、嫌が応にも現実を受け入れざるを得なくなった。

 孫策の体には目立った外傷は一つもなく、穏やかな表情で目を伏せている様は、まるで眠っているようだった。

 だが、孫権に根付いた理性的な思考は、淡い希望を切り捨てる。

 これだけの人間が、一人の人間の死を見誤るはずもない。

 兄の魂は既に天上に旅立った。目の前に見えるのは、冷たい骸でしかない……その時の孫権の心を支配したのは、悲しみではなかった。


 孫策の棺の前には、周瑜もいた。

 その時見せた周瑜の姿を、自分は生涯忘れないだろう。



「うああああああぁぁぁぁぁぁ!! 伯符! はぁぁぁくふぅぅぅぅ!」


 止まらぬ涙を流し、黒髪を振り乱し、悲嘆に顔を歪める周瑜に、普段の沈着冷静な軍師の面影はどこにもない。


「なぁ、お前が死んだなんて嘘だろ? 私たちの道は……これからのはずだろう?

 本当はただ眠っているだけなんだよな?

 そうだよ、お前はいつだって人を喰ったような真似をして私を驚かせてくれるんだ……だが、さすがにこれは笑えないぞ。

 お前の作戦は不発に終わったんだ。ははははは……ははははははは!!」


 乾いた声で、泣きながら笑い出す周瑜。


「だから……なぁ、起きてくれよ、目を覚ましてくれよ……

 伯符ぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」


 暴れ出す周瑜を、数人がかりで取り押さえる。

 このままでは、棺を壊しかねない勢いだったからだ。


「おい! 落ち着けよ、公瑾!」

「お気持ちは痛いほど分かります! ですが、ですがどうか……」


 周瑜を抑える黄蓋と呂蒙の目にも、大粒の涙が流れている。

 本来、最も感情を爆発させてしかるべき二人が、抑え役になっている。

 それが、今の周瑜の狂乱の酷さを表していた。


「そうだ! 華佗かだだ! 華佗はどこへ行った?

 神医と呼ばれた奴ならば、伯符を蘇らせることもできるはずだ!

 華佗を、華佗を捜せぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 孫策は、発見された時には既に絶命していた。それから何人もの医師が蘇生の手段を講じたが……いずれも徒労に終わっている。

 例え華佗がいたとしても、死んだ人間を生き返らせることなど、不可能だ。


 これがあの周瑜なのか……誰もが、彼の狂態に飲まれている。

 暴走する感情を御せぬまま、周瑜は叫び続ける。


 だが、その時……

 

 乾いた音が、室内に鳴った。


 いつの間にか、周瑜の前に張昭が現れ、その頬を張っていた。

 生粋の文官である彼が、直接的な暴力を振るうのを見るのは初めてだ。

 周瑜は顔を右に向けたまま、茫然自失に陥っている。

 周瑜に対し、張昭は平時と変わらず、淡々と述べる。


「華佗は昨晩、既に仮の宿を引き払っています。

 殿の訃報を聞いた後、一縷の望みを込めて、華佗捜索の指令を発しておきました」


 皆が悲しみに暮れる中、張昭はただ一人、行動を起こしていた。

 いついかなる時も最善の手段を選ぶ……主の死という事態に瀕しても、張昭は己の在り方を崩さなかった。


「これで……満足ですか?」


 厳しい視線で、周瑜を真っ直ぐに見つめる張昭。

 責めるでも諭すでも無い……眼鏡の奥の瞳には、哀れみさえ感じられた。

 周瑜は首を右に向けたまま、彫像のように固まっている。

 やがて、呂蒙と黄蓋を振り払い、孫策の棺に背を向ける。


 酔漢のようにふらついた足取りで、歩を進める周瑜。

 それから、天を仰ぎ見て、悲しみにくれた表情のまま……嗤う。


「ふはははははははは……はははははははははは……ははははははは!!

 あぁぁははははははははははははははっ!!!」


 涙を流しながら哄笑する周瑜に、孫権はまず恐怖を覚えた。

 周瑜にとって、兄とはそれほど大きな存在だったのか。

 それが失われる悲しみとは、かくも人を狂わせるのか……

 戦慄するあまり、その場から一歩も動くことが出来ない。

 憐れに感じる前に、周瑜の心にぽっかり開いた闇が、恐ろしくて仕方がなかった。




 その後、周瑜は全てを失った抜け殻同然となり、復帰するまでに長い時間を要することになる。

 復帰した後の周瑜は、孫策の分まで懸命に働き、今の孫呉の繁栄に大きく貢献した。

 あれ以降、周瑜が弱音を吐いたり、取り乱したりすることは一度もなかった。

 かつての、否、それ以上に強く、凛々しく、完璧な姿であり続けた。

 彼は、王に成り立ての自分をよく補佐し、孫権も周瑜を信頼に値する人物と認め、臣でありながら、師に対するような敬意を払っていた。


 だが……孫権は決して忘れない。あの日の周瑜の狂乱を……

 彼の内に垣間見えた、底無しの闇を……


 あれ以来、周瑜は孫策の名を口にすることはなかった。

 兄のような王であれ……そんなことは今まで一度たりとも言われたことはない。

 だが、そこに危うさを感じる。今の周瑜は、癒えていない傷を庇って、何事もないかのように見せ付けているとしか思えない。

 彼は、まだ孫策しんゆうの面影を引きずり続けている……


 同じ境遇だからこそ、よく分かる……何故なら、自分も……







 強さという仮面を被り、己の弱さを覆い隠す者……


 同じ境遇だからこそ、よく分かる。


 共に、孫伯符を生涯の主として定めた者同士……

 それがどうして、彼以外の者に仕えることができよう。ましてや、彼の代わりに王位に就くなどと……

 本来ならば、彼が死んだ時点で生きる意味を失うはずだった。

 だが、孫策が遺したものは、あまりに大きすぎた。

 それを無に還さないためにも、彼は死ぬこともできず、王にならざるを得なかった。

 それがどれだけ孫権の心を引き裂いたか、想像に難くない。

 彼は“理想的な名君”という仮面を被ることで、悲しみで壊れそうな己を繋ぎ止めているのだ。


 完璧な外装は、内面にも影響を及ぼす。孫権が、優れた指導者たる器なのは間違いない。

 しかし、外装は所詮外装。心の奥には、か弱い部分が残ったままだ。


 孫権の在り方は、この周瑜じぶんに非常に似通っている。


 自分も、孫策の死によって生きる目標を失い、彼の遺したものに縋り付くことで、何とか生きながらえている弱い男だ。

 だからこそ……孫権の心理は、手に取るように理解できた。

 張昭は、徹底的に理を突き詰めることで、孫権を説き伏せようとしている。

 彼らしい、無駄のない最善の方策だ。しかし、彼は分かっていない。

 最終的に人間の行動を決するのは、理でも情でもない、その人間の“本性”だ。

 本性は、人によって千差万別。合理や情愛といった数少ない基準で、人間の全てを計れるように考えるのは、現実主義者の抱く幻想だ。


 人間は、その場その時の判断で行動しているように見えて、その実本性に忠実に従っている。

 同時に、本性に背く行動は、どうあっても取ることは出来ない。

 生命の尊さを真に知る人間は、人を殺すことなどできないし、逆に甘寧のような殺人鬼は、人を殺すことなく生きていけない。

 本性とはその人間の、魂の根源に根差したもの。あるいは、あらゆる虚飾を剥ぎ取って最後に残る本性こそ、魂と呼ぶのかもしれない。

 人間の本性を正しく理解すれば、その者を意のままに操ることすら可能となる。

 

 自分は、孫権の本性を既に掴んでいる。

 いかに張昭が正しい理を唱えようと、最終的に決断を下すのは孫権だ。

 彼は必ず、迫り来る曹操軍に対し、開戦を決断するだろう。

 自分は、彼の心の最も弱い部分を、既に握っている。張昭は、その決定に抗うことはすまい。


 自身の希望よりも、正しい理よりも、主君の意を優先する。

 主君に対しても何ら臆さず、強硬に主張する張昭だが……その分、従者の枠を逸脱せぬよう、主従の間には厳格な線を引いている。

 それが張子布という男の本性だ。


 己が目的のためには、主君でさえも利用する。そこに一切の躊躇いは存在しない。

 孫策に比して、孫権や張昭を劣った存在と見なしているわけではない。

 彼らの理想や生き様は敬愛に値するし、自分が目指す孫家による新王朝には、二人の存在が必要不可欠だ。


 だが、目的を果たすことは、全てに置いて優先される。それ以外の全ては、駒として割り切ることが出来る。

 それもまた……周瑜自身の、決して譲ることのできない“本性”なのだから。


 周瑜が、人間の本性への理解にたどり着いたのも……己自身の本性を知ったからだ。

 

 狂乱の極みと絶望の底を味わい尽くした果てに、ついに彼は己という存在を正しく理解する。

 自分を突き動かすものは、忠義でも友情でもない……それは、夢への執着だ。

 

 孫文台が掲げ、孫伯符が引き継いだ、孫家による天下統一という夢……

 幼き周瑜はその輝かしき夢に魅せられ、生涯を賭して孫家に仕えると誓った。

 主君を補佐し、共に天下を導く喜びを分かち合う……その夢の形は、奇しくも孫権が抱いたものと同じだった。


 だが、自分はその主君を、守り抜くことが出来なかった。

 孫策を守りきれなかった自分に、いかな存在意義があるのだろう。八年前……一度周瑜の心は死んでいる。

 しかし……心は死しても、夢は終わることはない。孫家の血脈は、まだ続いているのだ。

 残った夢の形骸に縋りついて、生きるよすがとしている。その執着こそが周公瑾の本性だ。

 今の自分は、ただ執着だけで生きている。


 孫策の死は、周瑜を己が本性への理解へ至らせた。

 周瑜が狂乱し、長きに渡って絶望の底に沈んだのも、孫策の死そのものが原因ではない。

 彼の死を機に、己が本性があまりにも歪で醜悪なものであることに気づいたからだ。

 友の為、主君の為、孫家の為……口では綺麗事を並べつつも、所詮自分は他者の夢に縋りつくことでしか生きる意味を見出せない、妄執の塊である事を思い知らされたのだ。


 周瑜が孫策に心酔したのも、彼の太陽のような明るさが、自分の暗く醜い本性を覆い隠してくれたからだ。

 彼の傍に立ち、彼の為に尽くしている間は、目的のためなら何でもする己を正当化することが出来た。  

 夢への執着を他者への忠誠に置き換えることで、自分の本性を、忘れ去ったふりをし続けることができた。


 だが、孫策の死と同時に全ての虚飾は剥ぎ取られ、後には夢に縋りつく、亡霊の如き妄執だけが残った。

 周瑜は、そんな己を憎み、疎み、罵り、この世から消し去りたいと思うほどに追い詰められた。

 しかし、幾夜もの苦悩の果てに……周瑜は悟ってしまう。

 どう足掻いたところで、己の本性には決して抗えないということを。


 孫策はもう帰ってこない。しかし、夢を実現することは出来る。

 その可能性が残っている限り、自分は前に進み続ける。目的のためならどんなことでもやってみせる。


 その理解に至った時……周瑜の時は、再び動き出した。


 もはや、その流れを押し留めることはできない。例え相手が曹操であろうとも……


 曹操も、自分と同じ……己の本性に忠実で、目的を果たすまでは止まることを知らない存在だ。

 今まで、数多の強者が彼に敗れ続けたのも、結局は勝利への執着が足らなかったからだ。

 曹操のように、貪欲に、傲慢に、そして純粋に、天下の覇を追い求めねば、彼に打ち勝つ事は出来ない。


 自分の夢への執着が、曹操に劣るものとは思わない。

 自分は既に、曹操と同じ境地に至っている。自惚れでは無く、彼と並び立つ存在となったのだと確信できる。

 この境地は、一度精神を壊すこと無くしては達し得なかった。

 孫策の死が、自分を“周公瑾”として完成させたのだ。

 これは神がもたらした、この世で最悪の皮肉だ。

 

 地の利はこちらにある。優れた人材もいる。無双甲冑“水虎スーフゥ”を初めとする新兵器も揃っている。

 残る問題は、圧倒的な兵力差のみ。

 だが、その兵力差も、埋める方策は出来ている。自分は、曹操も持ち得ぬ“力”を手にしている。

 自分は既に、悪魔と契約を交わしているのだから……



 ――そーゆーこと! もうテメェは、後戻りすることはできねぇんだよ!




 悪魔の囁きが、耳の奥で聞こえた。


 




 江東科学研究所……


 此処では、揚州の最先端の科学技術が結集し、無双甲冑を始めとする新兵器の開発が進められている。

 無双甲冑水虎も、この研究所の産物だ。


「お~う、久しぶりやの、おっちゃん。また一段と太ったんちゃうか?」


 魯粛は、あの暗殺未遂事件の直後、人知れずこの研究所に馬を走らせていた。


「いいだろぉ~~僕は君達みたいに、体使うのが仕事じゃないんだから」


 熊のように丸々と太った体を揺らし、椅子に腰掛けたまま答える。

 あまりの肥満体に椅子と体が釣り合っておらず、彼が動く度に椅子は軋み、肉が椅子からはみ出してしまっている。

 背は標準的だが、とにかく顔も体も前後左右に膨れ上がっている。

 真ん中で分けたくすんだもじゃもじゃの黒髪を肩の辺りまで伸ばし、鼻の上には長方形の眼鏡をかけ、やはり熊のようにつぶらな瞳をしていた。

 彼は手元の実験結果をまとめた資料を眺めながら、中華饅を頬張っていた。傍らには、大きな皿の上に中華饅が山ほど乗っている。

 肉がたっぷり詰まった饅を、大きな口で咀嚼した後、茶を一気に飲んで流し込む。


 彼の名は虞翻ぐほん。字は仲翔ちゅうしょう


 揚州の機械技師で、江東科学研究所の所長である。

 このような姿だが、機械工学にかけては第一人者で、無双甲冑・水虎は、彼の作品だ。


「ぐふぅ。今日はなぁ~にかなぁ。珍しいね、君がここにやって来るなんて……」

「周瑜はんは殿の警護でしばらくお傍を離れられへん。

 せやから、わい一人で来た。ええか、単刀直入に言うで」


 魯粛は、一拍置いてこう続ける。


赤獣部隊せきじゅうぶたい……あいつらを動かす」


 話を聞きながら、間断無く物を食べていた虞翻だったが……その動きが止まる。

 そして、食べかけの肉饅を皿に置き、車輪付きの椅子を百八十度転回させ、魯粛と向かい合う。


「ようやく事の重大さに気付きよったか」

「う、うん。まさか彼らを動かすだなんて……何かあったのかい?」

「悪いがこれは極秘任務や。殿であろうとも知られたらあかん。もちろんおっちゃん、あんたも黙っといてや」


 やや凄むような目付きを向ける魯粛。

 虞翻は、殿にも内密という時点で、この案件が主君の意に反する、危険な行為であると見抜いていた。

 それなら、後々責任を問われぬよう、聞かないに越したことはない。


「いいよぉ。僕は研究に専念できればそれでいいんだからね」


 彼は好きに研究を行い、好きなだけ飯を喰らうことができれば何の不満もない。

 上の人間が何を考えていようと興味を抱くことはなかった。

 元より、自由な研究を認める代わりに、周瑜の指令には絶対服従という条件で、虞翻はここにいる。

 虞翻は文字通り重い腰を上げると、魯粛を研究所の地下へと導いた。



 この研究所には、決して明るみに出ない裏の顔がある。

 施錠された幾重もの扉を開き、たどり着いた先は……

 真っ直ぐ伸びた通路の左右に、鉄格子で閉ざされた部屋が幾つも並んでいる。

 まるで監獄のようだ。

 その表現は間違っていない。この地下研究施設では、死罪相当の重罪人や“特殊な素質”を持った人間が集められ、ある研究が行われている。

 この施設の存在は、孫権も張昭も知らない、いわば孫呉の暗部……

 その真実について詳しく知る者は、周瑜と、魯粛を初めとする彼の信頼篤き数名の同志だけだった。

 ちなみにその中に、呂蒙や太史慈は含まれていない。この現実を受け容れるには、彼らはあまりにも善良すぎた。



 その牢の一つから、ガン、ガンと、鈍く響く音が聞こえる。


 魯粛はその前で立ち止まると、牢の中にいる人物に対して笑みを送る。


「おお、あんさんも久方ぶりやな。相変わらずやっとるのー」


 牢の中にいる大男は、両手両足に枷を掛けられていた。

 唯一自由になる頭を、先程から硬い柱にぶつけている。

 額が割れて、顔面が朱に染まっても意に介さず、金鎚で釘を打ち込むように、一心不乱に叩き続けている。


「おいおい、そないやっとったら、頭割れてまうでぇ」


 魯粛の声を聞き、男は動きを止める。

 短く刈った黒髪に、浅黒い肌。絞り込まれた筋肉を持つ大男で、体には縦横に傷痕が走っている。


 その数、合計十二……


「のう、周泰しゅうたい……」


 男……周泰は、血まみれの顔を檻の先にいる魯粛達に向けると、唇の両端を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべた。






<第二十章 美周郎 完>






甘寧が相当にアレでしたが周泰も相当にアレです。


荊州戦まで行くつもりだったけど予想外に長引いたのでここで切ります。

通してみたら殆ど周瑜がメインだったのでタイトルも変更。

前の孔明と対比する意味でも。


本作の周瑜は郭嘉クラスの頭脳、張遼クラスの戦闘力、

そして曹操と同等の人心掌握術を持つ

超人だらけの羅将伝の中でも全ての能力に秀でた完璧超人という設定。


しかし弱点は……それは言わぬが華ってことで。


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