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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十章 美周郎(七)

 曹孟徳、丞相就任の報は、瞬く間に中華全土を駆け巡った。

 後に、曹操が荊州に向けて三十万を越える軍を動かしたとの報もまた、天下を揺り動かす。

 それは、中原を制覇した曹操が、いよいよ残る敵対勢力を駆逐する戦に乗り出したことを意味していた。


 この報に、各地の諸侯は震え上がり、否応にも一つの決断を迫られることになる。

 曹操に降るか、抗うか……それは、ここ孫呉の地においても例外ではない。



「殿、今こそ決断の時でございます。曹操と盟をお結びください」


 孫呉の長史ちょうし(最高顧問)、張昭ちょうしょうは主君の眼を真っ直ぐ見つめて進言する。

 不老年齢は21歳。黒いおかっぱ頭に大きく丸い眼鏡をかけた中性的な容姿の持ち主で、黄色い朝服を羽織っていた。


 孫策に登用され、参謀として孫家を支えて来た彼は、今や家臣団の筆頭格にあった。

 いついかなる時も沈着冷静、現実的な思考を重んじ、数多の要素を考慮した上で国家にとって最善の道を選ぶ。

 豊富な知識に弁舌の才のみならず、己の信ずる主張を押し通すためなら、主君に噛み付く意志の強さも持ち合わせている。

 孫策の死後も、一切取り乱すことなく、弟の孫権を新たな領主に立て、彼を補佐しつつ孫呉を復興させてきた。


 そんな生粋の現実主義者である彼が選んだ道が、曹操との同盟であった。

 理由は至極単純……曹操が中原制覇を達成した今、どうあっても孫呉に勝ち目は無いからである。

 他の文官達も、皆張昭に賛同している。

 それが最も常識的な結論であり、彼らはそのような選択を選べるように、勉学を積み重ねてきたからだ。


 だが、武官達は話が別だ。彼らには、この八年間孫呉の地を守り通してきた意地と矜持がある。

 そう簡単に、帰順という屈辱に甘んじることなど出来ない。

 この議場では、中央の孫権から見て、左側に和平派の文官達が、右側に主戦派の武官達が集まっている。

 張昭が言葉を発した瞬間、議場にいる武官達が一斉に吠えちらす。


「張昭殿! 貴殿は我らが殿に、むざむざ曹操の軍門に降れと申されるのですか!」

「曹操は、天子を傀儡として権勢を牛耳る逆賊ですぞ!」

「此度の丞相就任こそは、その野心の表れ! 放っておけば帝位をも簒奪することは明白!」

「奴への服従は、漢朝への不忠、正義にもとる行いです!」


 相手が最高顧問の張昭ということもあり、決して直截的には言わないが、その内容は、明らかに張昭の不忠をなじるものだ。

 燃え盛る火の如く、次々に吼え立てる武官達。

 武官は戦うことが仕事、弁舌に長けているわけではない。その分、声の大きさと迫力で相手を威圧し、打ち負かすのだ。

 最も、そんな恫喝まがいの真似が通じるのは、覚悟の定まっていない文官だけだ。

 真に優秀な文官は知っている。頭で戦をする自分達にとって、議場は戦場も同然。

 ゆえに、常に周囲を暴力の刃で囲まれてもなお、決して屈さない覚悟でいるべきなのだということを……


 まして彼は、孫策の代から主君の意志であろうと、不服に思うことがあれば遠慮なく反駁してきた男だ。

 胆力においては、並の武官の比ではない。

 張昭は、眉一つ動かさず、武官達の声に耳を傾けていた。

 やがて、眼鏡の奥の冷徹な瞳が、武官達に向けられる。

 その厳しさと冷たさを凝縮したような瞳に、遥かに屈強な体を持つはずの武官達ですら威圧されてしまう。


「先程、“正義”という言葉を耳にしましたが……

 改めて問いましょう。我々が目指す正義とは、一体何でしょうか?」


 自分より遥かに位の低い者達に対しても、その口調は慇懃そのものである。

 しかし、その声には冷たい鋼のごとき意志の強さが込められていた。


 張昭の問いに対し、武官達が声を発する前に……上座から、答えが放たれた。


「我らの正義とは、揚州、ひいては天下万民の安寧と幸福……それ以外に有り得ぬ」

「さようでございます。殿」


 場にいる全員が、自らの主君を見つめる。

 耳の辺りで切り揃えた美しい金髪に、透き通った碧眼は、孫家の血族の証。

 白い帽子に白と青を基調とした装束に身を包み、上座に悠然と腰掛けている。


 孫権そんけん、字は仲謀ちゅうぼう


 兄孫策の急死で、新たに江南の統治者となった若き王である。


 武に長けた兄孫策と異なり、幼少より学問に打ち込み、先代が存命していた頃から、その政治手腕に定評があった。

 孫策の急死で新たな領主となった後も、民の要望を取り入れた善政を敷き、内乱の鎮静に尽力し、揚州の基盤を固め、傾きかけた孫呉を見事に立て直した。

 今や民からは、先代、先々代に勝るとも劣らぬほど支持されている。


 しかし、彼は孫策の明るく太陽のような気質とは正反対の、月のように物静かで、何をするにも淡々としていた。

 それは、父と兄を立て続けに失った悲しみゆえであり、また私情を挟まず王としての立場に徹しようとしているのだと受け取られ、臣下達は、この若き王を支えたいという想いを強めるのだった。


「今日の孫呉の礎を築かれた大殿、孫堅様。先代、孫策様が目指すものは、乱世を終わらせ、天下に平穏をもたらすことでありました。

 しかるに、現状を鑑みるに、中原の争いは終焉を迎え、民には平穏がもたらされ、乱世は鎮まりつつあります。

 ここで、我々が手を取り合うことを拒み、曹操に抗う道を選べば、天下を乱す結果になることは必定……それは、天下の安寧の大義に背くものでしょう」

「し、しかし、曹操には、天下簒奪の野心がある……それを見て見ぬふりをすることこそ、義に背くことになりはしないか?」


 喋り続ける張昭を制しようと、武官の一人が声を上げる。

 張昭はそれに対しても氷の面を崩すことなく答える。


「曹操に、天下の覇者となる野心があることは否定できません。しかし、現在の我々には、それを証明する手段がないのです。

 何故なら、曹操が天子を保護し、漢王朝の要職に就いた後に行った戦に政、その全てが漢朝の益になるものだからです。

 屯田制を敷き、民の安全と食糧を確保。領土の治安維持に努めたことで、犯罪の発生率は激減。

 優れた人材は身分に関係なく登用し、文化を奨励し、文人からの支持も集めています。彼がここ十数年の間に取った政策は、どれも善政と呼べるもの。

 戦においても、官渡の決戦で袁紹を打ち破り、漢朝を滅亡から救い、旧袁家の勢力に対しても、従う者には寛容な態度を示しています。

 その後も周辺の山賊や異民族を討ち、領土の安定に努めています。

 このように曹操の行いはその全てが、漢朝の復興に繋がっているのです。

 現に、漢王朝から腐敗の闇は一掃され、かつての輝きを取り戻しつつあります。

 そこで私達が曹操に反旗を翻せば、漢朝への反逆、逆賊の汚名を着せられることになりましょう」


 逆賊……その言葉の重みに、場は一気に凍り付く。文官達は元より、武官達の中にも青ざめた顔をした者が見かけられる。

 それでも、更に一人の武官が声を張り上げる。


「し、しかし! 曹操は丞相就任後、荊州に向けて大規模な軍を動かしています!

 荊州だけを攻めるには、明らかに過剰な動員……

 曹操の目論見は、荊州を奪った後、ここ孫呉の地を侵略することに違いありませぬ!」

 

 武官達が一斉に頷く。

 今日文武百官が揃う緊張集会が開かれたのも、曹操の荊州侵攻の報があったからだ。

 この場の誰もが、大戦の到来を間近に感じていた。


「ええ、そうでしょうね」

「ならば……」

「“だからこそ”、今同盟を結ばねばならないのです。

 曹操が揚州に攻め入り、戦が始まってからでは、全てが手遅れとなりましょう」

「な……そ、それは曹操を恐れて屈服するも同然ではないですか!」


 誰もが心の中で思いながらも、口には出せなかったことがついに放たれた。


「曹操は、降伏する者には寛容と聞く。貴殿らは命惜しさに、曹操に頭を垂れようとしているのではないか!?」


 張昭の後ろに控える文官達が、一斉に体を強張らせる。

 実際……張昭に賛同する文官の大多数は、曹操に恐怖するあまり、降伏論に流れていた。

 自分達が助かりたいがために孫家を降伏という屈辱で汚そうというのか……

 文官らをなじる文句が次々に飛び出す。

 気圧される文官達の中で身じろぎもしないで、最初に言葉を発したのはやはり張昭だった。


「命惜しさに降伏……ですか。命は確かに大切です。特に……私達が護るべき主君の命は」


 孫権に視線を送る張昭。


「曹操は降伏する者には寛容ですが、敵対者には一切の容赦がありません。

 もしも我々と曹操軍が矛を交えることになれば、その責は全て殿に被せられるのです。それが何を意味するか、勿論お分かりですね?」


 この場にいる者達の脳裏に、曹操と敵対した袁家の末路が思い浮かぶ。

 最後まで曹操に抗った袁家がいかに根絶やしにされたかを思い出し、慄然となる。


「幸いにも、孫呉は未だかつて、曹操と争ったことがありません。

 無論楽観は出来ませんが、この事実は曹操との交渉において良い材料となりましょう。

 この張昭、必ずや優位な条件を引き出して御覧に入れましょう。

 私の生は、その時のためにあったのだと解しております」


 淡々とした語り口ながらも、不退転の決意が感じられた。相手はあの曹操、和平交渉とはいえ、戦場に臨むも同然の覚悟を要するだろう。

 極度の緊張感の中でも、それに押し潰されることなく理性的に振る舞い、交渉を成功させられる人物といえば、張昭以外にいなかった。


「同盟と降伏とでは、その条件は天と地ほども違います。

 孫家の命脈を繋ぎ、呉の地を戦火に巻き込まぬには、早い段階での同盟締結が必須なのです」

 

 彼は、他の文官達のように単なる恐怖で降伏を選んでいるのではない。

 孫権を、孫呉の民を護る最善の道として、この結論に至ったのだ。

 古くから彼と道を共にしてきた武官は、皆それを理解していた。

 先程から喚き散らしているのは比較的若い武将ばかりで、四将軍を初めとする古参の将は、皆押し黙っている。

 口では張昭に勝てないことなど分かり切っているからだ。


「……理路、整然」


 小声で呟く韓当。


(全くだ。さすがは張昭殿……論にも信念にも、全く隙がない。武官われわれ程度が何を言ったところで、十倍の文言で言い返され、形勢が悪くなるのが落ちだな)


 程普の目には、張昭の姿が何人たりとて通さぬ分厚い氷の壁に見える。



「誰、とは申しませんが……この中に、曹操との徹底抗戦を望んでおられる方もいらっしゃるでしょう。

 それを責めるつもりはありません。この場に集った方々の中で、我らが主君を、孫呉の地を想わぬ臣などいないと信じております」


 そう言いながらも……張昭の瞳に映るのは、ただ一人の男の顔だけだ。




「ですから、“その方”にとっては、徹底抗戦という決断もまた、孫家の名誉や江南の独立という大局に立った、決して譲れぬものなのでしょう。

 その想いまで否定することなど、私にはできません」


 彼もまた理解している。張昭の言葉が自分に向けられたものであるということを。


「ですが、今一度よくお考えください。

 無謀な戦の結果、誰が責を負うことになるのか。誰を悲しませることになるのか……

 何より大切なお方を護るためには、どうすべきか……

 孫呉への忠誠心において比類なき皆様ならば、必ずやご理解頂けると信じております」


 これは、自分に対する糾弾……いや、宣戦布告というべきか。

 沈着冷静なようでいて、感情が高ぶると言葉遣いがやたらとくどく、皮肉混じりになる。

 それなりに長い付き合いだから、よくわかる。


 孫呉の大都督にして、主戦派の長、周瑜は張昭の鋭い視線を、真っ向から見据える。

 彼はずっと武官達の後方に座り、黙って耳を傾けている。

 張昭にとっては、感情で物を言うだけの武官など眼中に無い。

 文官の大半は既に懐柔し終えている。真に“敵”と見做しているのは自分一人だ。


 張昭は挑発している……軍部の首魁である自分を議場に引きずり出し、文武百官の前で論破することで、主君に降伏という決断を下させようとしているのだ。

 周瑜と張昭……かつては共に参謀として孫策の覇業を支えた二人は、武官と文官の最高位にまで上り詰め、今は主戦派と和平派に別れて対立している。

 孫呉を想う志は同じながらも、道を違えてしまったのだ。


(張昭、貴方は本当に真っ直ぐなお人だ。

 主君に媚びず、己を曲げず、正しいと信じた道を押し通そうとする姿は、並の武人よりもずっと勇ましい。

 伯符は、貴方のそんな無垢な情熱が好きだったのですよ。

 正反対のようで、自分と似通ったものを感じられたのでしょうな。

 ついぞ言うことは叶いませんでしたが……)


 彼は、何も変わっていない。孫策に仕え、歯に絹着せぬ物言いで彼を閉口させていた頃のままだ。

 では、自分は……自分はどうなのか?

 今の自分は、孫策に対し胸を張ることができるのか……



 場が沈黙に包まれる中……手を叩く音が、その静寂を破る。 

 拍手の主は、周瑜ではない。彼のすぐ近くに座る、派手な頭をした男だ。


「いやぁ、さすがは張昭はん。わい、感動してしまいましたわ。

 こん中に、あんさんほど本気で孫家の事を想うておられる方が、どれだけいますことやら……」


 議場にそぐわぬ、方言交じりの砕けた言葉遣い。

 くすんだ金髪を逆立て、先端は白菜のようなもじゃもじゃ頭になっている。

 青緑色の朝服に身を包み、垂れ目の左側には、特徴的な泣きぼくろが見える。

 文官でありながら、彼は武官達の集まる右側に腰掛けていた。


「何か意見があるようですね、魯粛ろしゅく


 張昭は、青年の言を咎めることも無く、その名を呼ぶ。


「ほー、長史殿に名前を覚えておいて戴けたとは、この魯子敬、光栄の極みですわ!」


 魯粛ろしゅく、字は子敬しけい


 地方豪族の出身だが、家業には目もくれず、財を投げ打って困窮する人々を救い、武芸を学び私兵を集め、兵法の修得に力を入れた。

 その振る舞いから、故郷の人々からは「穀潰し」「狂児」などと呼ばれ、一族からは白い目で見られていた。


 周瑜が孫策の旗揚げのため、地方の豪族に資金や食糧の援助を求めた時、所有する蔵を一つを分け与え、それを切欠に周瑜と親交を持つ。

 それまでは、魯一族は袁術に遣えていたが、彼の度を越えた暗愚ぶりに見切りを付け、周瑜を頼って孫呉軍に加わった。

 以降、文官として、軍師として優れた能力を発揮し、次第に頭角を現して行く。

 周瑜とは友人で、彼の思想に共鳴しており、文官でありながら主戦派の中心人物の一人となっている。


 場が騒然となる中、魯粛は立ち上がり、張昭と真っ向から向かい合う。


「わいはあんさんのことは信頼しとる。あんさんなら、何があろうと、最後まで殿を見捨てへんやろ。

 けどな……曹操は別や。わいはあいつのことをよう知らん。

 そんな奴を信用することも、ましてや主君として仕えることなんざ、わいにはでけへん」

「それは、貴方個人の感情に過ぎないのではないですか?」


 魯粛の物言いに不快感を覚えた様子もなく、張昭は淡々と応じる。


「まぁ待ちや。さっき言うた通り、わいは曹操を信用してへん。

 このまま張昭殿のおっしゃる通り、同盟を組んだとしても、どないな不平等な条約を結ばされるか分かったもんやない。

 孫権様!」


 魯粛は大声で、沈黙を守る主君の名を呼ぶ。


「貴方は常々言われておりますな! 孫呉の決定は、民の意志が何よりも優先されると!

 ここ揚州は、袁術っちゅうアホタレのせいで、散々に荒らされてしもうた。

 漢朝の奴らも、揚州の窮状を知りながら、袁家を恐れて見て見ぬふりをするだけや。

 この地を救ったのは、漢朝や袁家やない、孫家とそれに仕える人達や!」


 袁術の放蕩ぶりに見切りをつけ、孫策に降った過去を持つ魯粛には、民を顧みない主君が土地を治めることの危険性を十分承知していた。


「民草はみんな思うとるはずやで!

 どこの馬の骨とも知らん奴らに、自分達の土地を好き勝手にされるのはもう沢山や、自分達の主君は自分達で決めたいってな!

 張昭はん! 江南の民の熱き意志は、お上が降伏を決めたから言うて、抑えられるもんやありまへんでぇ!!」


 魯粛は、自らが生まれ育った揚州という土地を愛している。

 だからこそ、その土地が不当な権力によって侵害されるのが、我慢ならないのだ。


「そうだ、その通りだ……」

「この揚州を治めるのは、孫家以外にありえない!」

「曹操に主権を譲り渡したとて、民がそれを認めるはずもない!」


 魯粛の啖呵に、萎縮していた武官達も息を吹き返す。

 たちまち「曹操と戦うべし」との声が、議場を覆い尽くす。



 だが、それでも張昭は動じなかった。前以上に冷たい口調で言葉を紡ぐ。


「民が独立を望んでいる、だから戦をすべきという結論は、些か短絡的に過ぎるでしょう。

 私達の存在意義は、国家を、そして国家を形成する民を守ること。

 民の意志に従うことと、民の安全を守ることは全く別物です。

 それを忘れ、ただ民の意志だけを優先させるのは、殿の御心を曲解していると言わざるを得ません」


 張昭の言に対し、孫権は首を縦に振る。


「私の望みは、一人でも多くの民に、平和と幸福をもたらすことだ。

 そのためならば、民の意志に背き、我が名を貶めることになろうとも、一向に構わぬ」


 主君にそう言われては、魯粛も押し黙るしかない。

 他の武官達も、孫権の慈悲に触れ、頭を冷やしつつあった。


(殿様……やはり貴方は優しい御方や。張昭殿も同じ。真剣に民のことを考え、そのためならば何もかも捨てる覚悟を決めとる。まさに君主の鑑やで!

 ……けどなぁ……気付いておられまっか?

 貴方が理想的な主君であればあるほど、貴方を天下の主にしたいっちゅー、民の熱情は強まるばかりやというけとに……)

 

 民の平穏を願う孫権の存在が、民を戦乱へと導いている。その矛盾を、この若き王は自覚しているのだろうか。


 張昭の弁舌は続く。


「仮に、江南の民が戦を望んでいたとしても、その結果としてもたらされるものは数多の民の屍です。

 彼らを無謀な戦に駆り立てぬためにも、私達が未然に食い止めねばなりません。

 それが、国家の政を司る、私達の使命なのですから」


 自分達や地位や権力は全て、力無き民を守るためにある。公に奉仕する者ゆえの信念が、この男にはある。


「魯粛、貴方は曹操が信じられないと言われた。その考えは、私にもよく理解できます。

 私とて、彼に対して甘い期待を抱いているわけではない。

 ですが、少なくとも彼は愚かではない。これまでの経歴を見ても、彼は数多の局面で、大局に照らして最も利益となる道を選び取っています。

 そんな聡明な男ならば、理解できるはずなのです。

 孫家を蔑ろにして、この揚州の地を治めることなど叶わないと。

 曹操も、揚州の地で内乱が頻発することなど望まないでしょう。

 無論、私も孫家無くして揚州の平穏はありえないことを、交渉の席にて説く所存です」


 あらゆる面から、同盟の利を説く張昭。その論に綻びは無く、孫権と呉の民の安全、そして天下の大義を深く考えている。

 さらに、張昭自身も、交渉の席にて身命を賭す覚悟でいる。

 孫呉の臣が、そんな彼をどうして否定できようか……


「その通りだな」


 沈黙を破ったのは、意外にも周瑜だった。


「張昭殿はこの八年、中原との外交に心を砕いて来られた。

 張昭殿が抱く曹操軍への認識は正しい。彼らは利を重んじ、加えて実に合理的だ。

 呉を治める最善の道とは何なのかを、弁えていないとは思えませぬ」


 張昭に賛同するような周瑜の発言に、皆は困惑する。

 だが、それで油断する張昭ではない。

 この八年、彼がどれだけ軍備の増強に力を入れてきたか知っている。

 かつて孫策と共に志した、孫家による天下統一の野心を、この男が捨て切れているとも思えない。

 この男は、まだ何か切り札を持っているはずだ。

 さながら真剣による立ち合いの如く、張昭は周瑜の一挙一動を慎重にうかがっている。


「ですが……孫呉の今日の発展は、中原からの独立を維持しているという意識が生んだもの。

 民が我らを支持しているのも、孫家がこの地を守護する意志があればこそ。

 それを、曹操が軍を動かしたというだけで即座に恭順に走っては、民の信を失うことになりかねません。

 曹操の傘の下、一時の安寧を得たとしても……それは緩やかな衰退への道を辿ることになるでしょう。

 それに、曹操が袁家の勢力に寛容な態度を取ったのは、ひとえに当時袁家にはまだ大多数の勢力が残っていたからです。

 曹操が荊州に出兵したというだけで、即座にこちらから頭を垂れれば、我らの存在を低く見られかねません。

 それは、張昭殿の考えておられる交渉にも、不利に働くのではありませんか?

 同盟を結ぶにしても、今はまだ時期尚早かと……」


 周瑜の提言に、場の熱気がやや抑えられる。主戦でも和平でもない、真意をぼかした曖昧な言い方だ。

 まさか、これが切り札というわけでもあるまい。


 周瑜がさらに口を開いた、その時だった。



 慌ただしい足音が、こちらに近づいて来る。

 あちこちに体をぶつけながら、滑り込むように議場に転がり込んで来る。


「あらっ? おっとぉ? とっとっとっ!」


 あまりに急いで入り込んだため、体の均衡を保つことができず、男は蹴つまずき、くるくる回った後で、仰向けに転倒する。

 何人かの文官が、慌ててその場を退く。

 男を見て、最初に声を上げたのは、孫権だった。


きん!」


「やぁやぁ我が愛しの仲謀様! 諸葛子瑜、只今参上いたしましたっす!」


 背中まで伸びた長い黒髪に、袖が長くぶかぶかな黒い朝服を着込んでいる。

 長く伸びた前髪のせいで、両の眼は隠れてしまっている。

 諸葛瑾は、仰向けになったまま、逆さに見える主に向けて、緊張感とは無縁の笑顔を向けた。





「いやいやぁ、仲謀様も周瑜様も張昭様も朝からお姿を見かけないと思って、兵隊さんに聞いてみたら……

 今日が全員集合の会議だってこと、すっっっかり忘れていたっすよぉ!

 何ともお恥ずかしい限りっす!」


 諸葛瑾は、どこに座るのも分からぬ様子で、後方の真ん中辺りに腰掛けている。 

 これが何のための会議かも分かっていないのかもしれない。

 言語道断とはまさにこのこと。この厳粛な場で胡座をかき、まるで悪びれた様子もなく、へらへらと笑うこの男に、皆冷たい視線を向けている。

 怒鳴り付けるのも馬鹿らしいといった様子だ。

 周瑜と張昭は無表情を崩さず、孫権は額に手を当てて、かすかに嘆息する。


 諸葛瑾しょかつきん、字は子瑜しゆ


 かつては孫権の食客で、何をするでもなく一日中寝転がっているだけの男だったが、孫権の領主着任に伴い、君命によって異例の大出世を果たした。

 役職上は、彼もまたこの議場に連なる資格を持つ孫呉の高官なのだ。

 当然、他の群臣からは猛反発された。

 こんな人間に官僚が務まるはずかない……これは、君主の権限の濫用ではないか……

 しかし、孫権は頑として譲らなかった。


 どれだけの反対があろうと、最終的は君命が優先される。

 こうして諸葛瑾は文武百官に名を連ねることとなった。

 だが、誰もが予想だにしなかったことに、瑾は官僚として優秀な働きぶりを見せた。

 軽薄な態度こそ変わらないが、必要な業務は完璧にこなし、仕事においては非の打ち所がなかった。

 それゆえか、この異例の人事への非難は静まっていき、瑾は孫呉の重臣の一人として溶け込んでいった。


 だが……

 張昭は今でも思う。この諸葛瑾の抜擢は、実に不可解だった。

 あの孫権が、単なる友情で瑾を取り立てたとも思えない。

 彼は諸葛瑾の内に眠る才能を見抜いていたのか?

 それにしても、君命で一方的に特別待遇を与えるなど、王として中庸を重んじる孫権らしからぬ行いだった。


 実際、孫権が人事に直接介入したのは、後にも先にも諸葛瑾の一件だけである。

 そういえば、あの時は周瑜も特に反対しなかった。

 孫権に周瑜……あの二人が特別に目をかけるような才が、あの男にあるというのか。


「会議を続けましょう」


 張昭の一声で、群臣達は我に返った。張昭は、最初から諸葛瑾を無視して話を進めるようだ。

 彼の意に沿い、群臣は瑾を“いなかったもの”と見なす。

 瑾はまだ遅刻の言い訳をしているが、聞こえないふりをする。



 だが、議論が再会することがなかった。

 

 瑾が現れて程なくして、伝令の兵が駆け込んで来る。

 重臣達が集う議場に、ただの兵卒が顔を出すなど、尋常な事態ではない。


「た、大変でございます!!」

「何事や!?」


 ただならぬ事態を感じ取った魯粛が、声を荒げる。

 それに対し、兵が放った答えは、議場を戦慄させるに足るものだった。



「と、殿の御命を狙った曹操の暗殺者が、城内に……!」



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