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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十章 美周郎(六)

「やれやれ、遠征の見送りに派手な式典は不要。ただ軍の行進を見せるだけでよい、と言われたが……」


 彼は、宮殿の欄干から身を乗り出し、眼下で行進する三十万の軍を見つめていた。

 顔の両側が覆われるほどに伸ばした黒い長髪に、白い上着と黒い脚絆だけの簡素な衣服。

 琥珀色の瞳が、陽光を浴びて怪しく輝いている。


「とんでもない。莫大な金をかけて華美なだけの見送りをするよりも、ありのままの軍の姿を見せ付けることで、民の心に“曹操”の存在を強く刻み付けているじゃあないか」


 都を闊歩する三十万の軍勢は、それ自体が時代の流れそのものだ。その威容が、民の心に与える影響は計り知れない。

 そして、軍の中心にいる真紅の衣を纏いし男こそが、彼の父……


 曹丕そうひ、字は子桓しかん。曹操の嫡男である。

 八年前はまだ幼子だった彼も、今では凛々しい青年に成長を遂げている。

 現在は21歳で、ついこの前、19歳で不老年齢を迎えたばかりである。


 今では、背丈も父よりずっと高くなってしまった。父からは、そのことで随分と嫌味を言われたものだ。



「子~~桓~~どぉ~~してそなたはそんなに大きいのだ?

 ずるいのぉ~~余にもその身長を分けてくれぬか?」

「おいっ! できるかそんなこと! それと纏わりつくんじゃねぇ! 恥ずかしいだろうが!!」

「何を言うか。父と子が慈しみあうのは当然のことであろう?」

「あんたのは子煩悩って言うんだよ!!」


 背中におぶさり、首に腕を回している曹操に対し、曹丕は喚き声を上げる。

 中原の覇者となり、天下統一に王手をかけた今となっても、こういう子供っぽいところはまるで変わっていない。

 曹丕の頭に顎を乗せて、ぐりぐりする曹操。


「のうのう子桓、背丈を分けてくれたら、そなたを余の跡取りにしてやるぞぉ~~」

「そんな大事をテキトーに決めんなっ!」



 しかし、曹丕自身としては優越感を覚えたことなど一度も無い。その逆だ。

 彼に相対する時には、常に上から抑え付けられているような感覚を覚えたものだ。

 これは、立派な父を持つ息子ゆえの重圧……というものではないだろう。

 曹操に相対した者は、誰もが心を揺り動かさずにはいられない。

 それは恐怖、愛情、尊崇と、人によって様々である。

 それが忠誠という形で実を結ぶか、敵対という形で発露するかもまた、人次第だ。


 曹操とそれ以外の人間は、その本質を全く異にする存在だ。

 己の常識では測れない、明らかな“異質”と遭遇した時、人は制御できない感情の渦に翻弄される。

 それが自然な反応というものだ。血の繋がりなどに何の意味も無い。

 結局は、自分もこの世に溢れ返っている“曹操以外の人間”の一人に過ぎないのだ。


 劣等感を通り越した、異質なるものへの決定的な隔絶……自分が父から感じるものはそれだった。



「丞相閣下の計画しておられる、漢王朝の大革新は、既に始まっているということですな」


 後ろから声が聞こえる。彼は先ほどから、曹丕の背後に控えていた。


 中央で分けた銀髪を耳の上辺りで切り揃え、尖った顎に切れ長の三白眼をしている。

 黒い朝服に身を包み、両腕を背中に回している。

 その顔立ちは、蛇や蜥蜴によく似ていた。


 劉曄りゅうよう、字は子揚しよう


 近年、軍師及び政治家として曹操の臣下となった人物で、曹操の新世代謀臣の筆頭格でもある。

 現在は業とその周辺の治安維持を司っており、そのせいか曹丕ともよく顔を合わせる。

 水も漏らさぬ徹底的な取り締まりで、業の犯罪率を激減させている。


 “劉姓”の人物であるが、彼は巷に溢れる劉なにがしとはものが違う。

 彼は後漢の光武帝こうぶていの庶子である阜陵質王ふりょうしつおう劉延りゅうえんの子孫に当たる。

 出自の怪しい劉備とは異なり、彼は正真正銘の皇族の出身である。


「劉曄は皇族だろ。漢王朝が親父あいつのいいように作り変えられていくことに含むことはねーのかよ」

「いえいえ、それこそが私が丞相閣下にお仕えしている最大の理由でございます。

 既に、漢朝の旧態依然とした政治構造は限界を迎えております。

 その行き詰まりに風穴を開けようとしておられるのが、丞相閣下。

 新しい時代は既に始まっております。それに目を背け、過去の栄光に縋っていては、先に待つのは滅びのみ。

 皇族とはいえ……いえ、皇族だからこそ、天下の安寧のため、決断を受け容れなければならないのです」

 

 予想できた答えだった。皇族でありながら、彼は曹操の改革に積極的に協力しようとしている。

 当人はどう意識しているのか知らないが、かなり異色の人物である事は間違いない。

 

 その異色さは、彼の経歴にも現れている。

 

 彼が7歳の時、病で臨終の床にあった母が、『貴方の父の近侍の一人は悪質な奸臣ゆえ、貴方が成人したら彼を殺しなさい』という遺言を遺した。

 彼は13歳になった時、生母の遺言に従い、兄と協力して奸臣を謀殺しようとするが、兄に断られたため、一人で斬り殺した。

 

 高貴な出自に似合わぬ、何とも血生臭い話である。

 最もそれは、未来の禍根を断つためには、己の手を汚すことも辞さない決断力と言えなくも無い。

 その点では、父と非常に似通っている。彼が曹操に心酔しているのも、その部分によるところが大きいのではないか。



 曹操は、出自や家柄に囚われない人材登用をすると公言している。

 それは、相手が皇族であっても関係ない。その者の持つ才のみを、色眼鏡無く評価する。

 そんな男だからこそ、劉曄もまた彼の理想に共鳴したのだろう。


「ふん……いずれ親父は、今の天子を追放して天子に成り代わるかもしれねぇぞ」

「それはそれで、時代の必然でございましょう」


 不敵な笑みを浮かべながら、あっさりと答える劉曄。

 彼の曹操への忠誠は、自身に流れる皇族の血よりも、遙かに重い。

 それどころか、既に漢王朝は滅び行くものと決め付けている節がある。


 曹操軍において異色である皇族の血。皇族の系譜において異色ある血塗られた履歴。

 曹操の息子である自分が言うのも何だが、かなり異色の人物だと思う。

 彼に限らず、曹操の臣下は皆こんな調子だ。昨年亡くなった郭嘉などその筆頭であろう。

 漢の常識に照らせば、異色、不遜、僭越と評され、爪弾きにされてきた者達……父は、そんな者達を集めて、その常識を丸ごと引っくり返そうとしている。


 適材適所……不当な基準を捨て去り、純粋に人の才のみを評価し、それに適した役職を与える、旗揚げ以来変わらない曹操の方針。

 このやり方が、優れた才を持つ人物を多数引きいれ、今日の曹家の隆盛を築き上げたのだ。

 その正しさは理解できているが、同時に、それに猛反発する漢朝の保守勢力の心情も、まぁ理解できないわけではない。


 彼らにとって不倶戴天の仇である曹家の嫡子が、そのようなことを考えるのはおかしいだろうか。

 しかし、心情的には彼らに共感できる部分もあるのだ。

 何故なら、自分自身が、曹操の息子ということで純粋に才だけを評価されることなく、今の地位にいる男なのだから。


 曹操の周りに集う者達は、この劉曄を含め、皆才気に溢れた者ばかりだ。

 そんな彼らは、自分を無条件で敬ってくれる。

 だがそれは、自身の力で築いた主従関係ではない。自分が、曹操の息子だからに過ぎない。

 彼らに比して、自分はどれだけ小さい人間なのかを、幼少の頃より思い知らされてきた。


 曹操の息子という評価は、望む望まぬに関わらず、永遠について回るのだろう。

 自分は終生、劣等感に苛まれるに違いない。だがそれで、父に猛然と反発できるほど、曹丕は子供ではなかった。

 だが、同時に父がいたからこそ今の自分がいるのだと、心の底から感謝できるほど真っ直ぐな人間でもない。

 所詮自分は、悪人のふりをしつつも善人になれない、露悪的な偽善者だ。

 ゆえに、父に相対した時には、反発でも尊敬でもない、自分自身でも説明の出来ない感情が沸いてくるのだ。



「ま、その大改革とやらも、この遠征に失敗したら、先行き怪しいもんになっちまうがな」

「おや、曹丕様は、お父上が負けるとお思いですか?」

「いんや。こっから先は所詮消化試合だ。どうあっても、もう親父の天下はひっくり返らねぇ。

 この戦力差で、誰がやっても負けるはずが無ぇよ。親父なら尚のことだ。

 けどよ……“親父だからこそ負けるかもしれない”……そんな気もしている」


 曹丕の謎めいた答えに対して、劉曄は困惑するどころか納得したように微笑む。


「……素晴らしい。貴方は既に、お父上の本質を掴まれつつあるようだ」

 

 戦も政も、何もかも完璧にこなしながらも、そのあり方にはどこか不安定感が付き纏っている。

 曹操という男を知れば知るほど、その心の底にあるものが見えなくなる。

 世の人間が曹操に対して抱く不信感の正体が、それなのではないか。


「私などは新参ゆえ、まだまだ丞相閣下の御心の一端さえ、理解できているかどうか……」

「やめとけやめとけ、考えるだけ無駄だ。

 どれだけ考えても……結局、訳分からねぇってところに落ち着くんだからよ」



 曹丕は、南に向かって動く大軍を見つめながら、劉曄にも聞こえないように呟く。



「変な仏心出して、躓くんじゃねぇぞ……後で困るのは俺なんだからな」







(ふふふ……安心せよ、息子よ。余は、この遠征、一切手を抜くことはない)


 結局曹丕は見送りに来なかった。今頃は、宮殿の上からこちらを見ているのだろう。

 そんな息子のささやかな反骨心も、愛らしく思える。“父親”とは、そういうものなのだろう。



 彼の思考は、一年前に飛ぶ……

 ちょうど郭嘉が亡くなり、一週間が経った頃だった。


「どういう風の吹き回しかの、程旻」

 

 執務室にて、曹操は程旻と一対一で話している。

 彼の申し出はこうだった。


 自分はこれより荊州に向かい、劉表に不満を抱く荊州水軍をこちらに寝返らせる。

 そして、彼らの手を借りて軍船を多数製造し、揚州への侵攻に備えるというものだった。


 この作戦は、本来は郭嘉が実行するはずだった。

 急死した彼に代わって、その任を勤めようというのだ。

 程旻は、荀或、郭嘉と並ぶ古参の重鎮。曹操の中華統一の決定づけるやもしれない大任を果たすのに、申し分ない人材だ。

 しかし……


「そなたはずっと、揚州遠征に反対しておったのでないか?」


 この年、袁家を滅ぼし、中原制覇を果たした曹操だが、次に取るべき道は二つあった。

 一つは、中原を制した勢いに乗り、このまま荊州、揚州に攻め込み、最速で覇業を完遂するというもの。

 もう一つは、戦を止め、当面は中原の統治に専念する。孫呉を初め、各地の反曹操勢力は、圧倒的武力を背景にした交渉によって、自発的な降伏を促すというもの。

 群臣達の意見も真っ二つに割れ、日夜議論が繰り返された。

 その中で、主戦派の筆頭格が郭嘉、非戦派の筆頭格が程旻だった。

 郭嘉が北へ出発するまでの間、二人は毎日のように激論を闘わせていた。


「自発的降伏こーふくだなんてなぁぁぁぁにを生温なぁまぬぅるいことを!

 荊州は恐るるに足ぁぁりませんが、孫呉はまるで別ぇぇぇぇっ格でぇす!

 降伏を受け入れるまで待ぁぁぁつなどとぉ!

 そぉぉやってあーまやかしていては、奴らはまーすます増長し、近い将来、殿の覇業を脅かすことは明々白々白々っ!

 最悪の事態を招く前に、迅速に! 間髪入れず! 揚州を攻め落とし、覇業を完遂することこそ、天下安寧への近道なのでぇす!!」

「孫呉とて愚かではない。正面から我らと戦ったところで、勝ち目などないことは分かっているはずだ。

 実際、孫呉内部でも、我が殿への帰順を望む声があると聞く。

 粘り強く交渉を続け、無理な条件さえ提示しなければ、彼らは降伏の道を選ぶはずだ」


 甲高く叫ぶ郭嘉に対して、程旻はどっしりしたいわおの如く動じずに、淡々と述べる。


「温い! ぬぅぅるいですよぉ程旻殿!

 そぉぉれはあくまで文官ぶーんかーんの話でしょ?

 孫堅、孫策の代から付き従っている、あそこの将軍どもは、そぉぉぉんなこと真ぁぁぁっ平御免のはずです。 

 みんなこっちに喧嘩を売る気満々まーんまんですよ!

 奴らを野放しにしーておけば、いずれ我々に牙を剥くことは必定っ! 確実っ! 確定事項っ!

 そうなる前に! 徹! 底! 的! に叩く必要があぁぁぁるのです!

 武力による光速神速最速の制覇こそ、我々が取って来た道ではあぁぁぁぁりませんかぁ!」

「そうだ、今日に至るまで、我々は戦った。戦いすぎた。

 ここは一時矛を収め、今一度国家の基盤を固めることに専念すべし。

 郭嘉、貴公の周辺諸侯への強硬な姿勢こそが、殿の悪名を広め、反発を生んでいるのだ。

 我らがすべきは、その認識を改めさせること。

 まずは漢朝の政治を刷新し、人心を慰撫し、国を富ますことで、我らが殿に、中華をよりよく導いて行く意志があることを、内外に知らしめるのだ。

 民の声望が強まれば、周辺諸侯も、殿こそが天下の主に相応しいと認めざるを得まい。

 闇雲に戦に走るのではなく、善政を敷き、国家の基盤を安定させることこそ、天下平定への一番の近道であるはずだ」

「えーえ! 我が殿以上にこの中華を上手く治められるお方など存在しませんとも!

 その点については、貴方と同意見です。

 ですがね! 今我らが立つ中原と、孫家が治める江南とは、風土も文化も民の意識もまるでまぁぁぁるで違うのです!

 それはもはや、漢朝より独立した一つの国家も同然!

 そんな彼らが、素直に恭順を選ぶなど考えられませぇぇぇぇん!

 彼らの反抗の意志を挫くには、幾ら言葉を連ねたところで無駄無駄無駄!

 絶対的な力の差を見せ付けて、叛意を根こそぎ刈り取る以外あぁぁぁぁりません!」

「……貴公の言うように、江南が中原とは全く別の文化系統を持つならば、力で押さえ付けるやり方は、より多くの反発を生みかねない。

 例え孫家を滅ぼし、揚州を得たところで、そこに生きる民の信を失っては、統治することなど叶わぬぞ」

「うむ。余も江南の文化には興味がある。

 できることならば、あの豊かな土地を戦火に巻き込みたくはない」


 上座から、彼ら二人のやり取りに耳を傾けていた曹操が、初めて口を挟んだ。

 程旻に賛同するような物言いに、郭嘉は憮然とした表情になる。

 曹操は、そんな郭嘉を見て口元を吊り上げ、ある問いを発する。


「郭嘉よ。そなたが遠征を主張する理由は、本当にそれだけか?

 天賦の才を持つ軍師にしか分からぬ、他の理由があるのではないか?」


 郭嘉は、途端に真摯な顔つきになり、戯れを一切省いた表情で語りだす。


「……やはり、貴方様は全てお見通しのようです。

 ええ、貴方様の推察通り、私が孫呉を危険視する理由は、水軍の強さや江南という土地の特殊性でもありません。

 孫呉が頼みにするのがそれだけならば、我らにとって脅威に値しません。

 例え彼らが攻めて来たところで、たやすく打ち破れるでしょう。

 何故なら、我々は決して油断しないからです。

 兵力差に驕ることなく、数を最大限に活かし、ありとあらゆる策を警戒し、刃向かう敵は全力で叩き潰す……

 それこそが“至強”を維持する唯一の道であると、我々はあの官渡で学んだはずです」


 天下分け目の戦いに立ちはだかった袁紹軍は、曹操軍にとって紛れも無く最強の敵だった。

 それは、単に四十五万もの大軍勢ゆえではない。袁紹軍が、あらゆる面で完璧だったからだ。

 数の優位を最大限に活かした用兵、主君と臣下の堅い結束、潤沢な資金に明かせて集めた新兵器に優れた人材。

 欠片ほどの油断もなく、ただ勝利のためだけに十全に機能する軍隊。

 この巨大なる力の暴風の前に、曹操軍は終始苦境に立たされ、一時は敗北を覚悟するほどに追い詰められた。

 結果的に曹操が勝利をもぎ取ったものの、それはいくつかの偶然が、曹操軍に有利に働いたからに過ぎない。

 それはまさに奇跡と呼ぶべきものだった。


 彼らはこの戦いを通して思い知った……油断や驕りの存在しない軍が、どれだけ強いのかということを……

 いかな大軍勢とて、油断次第で強くも弱くもなる。

 袁紹の死後、袁家には未だ多くの兵が残っていたが、袁家の残党は、曹操軍を見くびり、浅ましく内紛を繰り返したことで、呆気なく打ち破られていった。

 敗れた袁軍を吸収し、曹操軍が中原最大の勢力になった後も、勝つためには全力を尽くす袁紹の思想は受け継がれている。

 “油断さえなければ”、今の曹操軍に抗える者など存在しない。

 更に、彼らは知っている。道を同じくする者達が、戦において最後まで油断することなく戦い抜くことを。

 今は対立している郭嘉と程旻も、互いの実力は認めている。

 いざ有事となれば、二人とも手を取り合い、全力を尽くして事に当たるだろう。

 それは、共に想像を絶する修羅場を潜り抜けた者だからこそ成り立つ、絶対の信頼だ。

 天の時、地の利、そして何より人の和があるからこそ、今の曹操軍は無敵なのだ。


「ですが……それでも私は恐れずにはいられない……孫呉にいる、ただ一人の男の存在を……」


 声に震えが混じり始める。それだけで、曹操は全てを察することができた。


「周瑜か?」


 郭嘉は黙って頷く。


「ええ……孫呉の大都督、周公瑾。彼の今日までの戦歴を見て、確信しました。

 彼は“本物”です! その頭脳は私に匹敵するばかりか、内政や人心掌握にも長けている。

 いえ、彼は全ての能力に秀でています。彼に欠けているものなど無いほどに……」


 優れた軍師は、相手の戦歴を見るだけで、その力量を量れるという。

 孫家三代に仕え、孫呉を中華に名だたる勢力に仕立て上げた王佐の才を、郭嘉は破格の人物と見なした。

 あの自信過剰の郭嘉がそこまで言うのだから、どれだけ周瑜を警戒しているのかわかろうというものだ。

 周瑜の名は、既に天下に知れ渡っているが、郭嘉は彼を世評を遥かに越える実力者と見なしたのだ。


「周瑜については、余も徹底的に調べてみた。何でも、知謀のみならず、武においても将軍級の実力者だそうではないか。

 よくぞ一人の人間が、これほど多くの才を持ち得たものよ。

 二物どころではない。天はこやつに、七物も八物も与えおった!」


 誰よりも人材に執心している曹操が、周瑜に関心を示さぬはずがなかった。


「彼の才能に比せば、呉という土地ですら狭すぎるぐらいです。

 彼が未だ揚州に留まっているのも、主君が二代続けて急死するという不幸があったからこそ。

 全てが順風満帆に行っていれば、とうの昔に長江一帯を制覇し、第三勢力として我らと袁家との争いに名乗りを上げたやもしれません。

 周瑜は……孫呉かれらは、二度の主君の死を経ても、その度に蘇り、先代を遥かに上回る規模に成長してきました。

 我らが最も恐れるべきは、彼らの異常な成長速度……彼らが未だ揚州に収まっているのも、度重なる逆境があったからこそ。

 その縛りが無くなった今、彼らは想像を超える速さで発展していくでしょう。

 ゆえに、まだ我らの圧倒的優位が確立されている間に、叩いておかねばならないのです!」


 郭嘉の震えが、一層激しくなる。


「それに……私には、私には分かるのです! 周公瑾、あの男はあまりにも逸脱した才能を持っている。

 そんな男が、戦いもせず降伏を受け入れるなど、私には考えられない……

 彼の作り上げた軍が、たかが黄祖や劉表ごときの手から領土を守るためだけのものとは、到底思えません。

 あの軍は、もっと大きな戦……そう、天下に打って出ることを想定して組み上げられているとしか思えないのです。

 曹操様、彼もまた貴方と同じ、ただ上だけを目指す者……衝突が不可避ならば、それは孫呉が発展途上である今しかないのです!」


 確たる証拠などない、戦歴や陣容から立てた予想だ。

 だが、同じく破格の才を持つ郭嘉が見れば、それは天才ゆえの野心の発露と受け取れる。

 超常の才を持つ者が、その才を十全に発揮できぬ一生に満足できるはずがない。

 それは、軍師としてしか生きられなかった郭嘉が、一番よく笑っていた。


「なるほどの。そなたの意見はよく分かった。ところで……」


 郭嘉は、顔を俯かせたまま、体を小刻みに震わせている。


「さっきからそんなに震えて……あの周瑜と戦うことが、それほどまでに“嬉しい”のか?」


 曹操の言葉を聞いた途端、郭嘉の震えがぴたりと止まった。

 程無くして、彼は更に激しくその身を揺らす。


「く、くくくくく! ははははははははは!! はははははははははははは!!」

 

 これまでずっと堪えていた笑いの衝動を、一気に解き放つ。


「えーえ! そうですよ! やはり貴方は素晴らしい! 私の心理など余すことなくお見通しであらせられる!

 そう! 私は楽しみで楽しみで仕方がない、あの周瑜と、頭脳を戦わせる時がね!」


 周瑜のことを語る時、体に震えが走ったのは、恐怖ゆえではなく……自分の脳髄を完全燃焼させられる敵と戦える、歓喜の発露だった。

 これまで孫呉との戦を強硬に推し進めてきた真の目的は、何ということはない、周瑜と戦いたいという彼自身の欲望だったのだ。

 先程周瑜について語った内容は、彼自身にも当て嵌まる。

 純粋軍師たる彼は、周瑜というもう一人の天才を知りながら、仲良く手を取り合うことなどできないのだ。


「あああ……官渡の戦いから後は、ろくな戦も無く正直退屈の極みでございましたよ。

 ですが! ですがですが! ようやく私の脳髄を燃やし尽くせる敵が現れてくぅぅぅださいました!

 いやいやいやいや! この世界には私を愉しませるものが溢れています!

 これは、まだまだ死ぃぬわけには参りませんねぇ!」



 だが……そんな彼の夢は叶うことなく……烏丸遠征を終えた後、郭嘉は病でこの世を去るのだった。

 彼の死後、江南戦略について曹操が選んだのは、郭嘉の案であった。





「余が荊州、揚州侵攻を決断したのは、別に郭嘉へのはなむけというわけではないぞ?」

「はい、それは存じております。貴方は大事を決めるのに、私情を挟まれるお方ではない。

 貴方は常に、中華全体のことを考えておられる」


 そんな、冷徹ながらも情に流されず全てを平等に評価できる男だからこそ、彼は曹操に仕えることを選んだのだ。

 かつて彼は曹操を日輪に、己を支える者と形容した。程旻の名は、その話を聞いた曹操に与えられた名だ。

 曹操が見ているのは、虚飾や人格を剥ぎ取った、その人間の才覚のみ。

 誰よりも才を重んじる彼だからこそ、郭嘉という不世出の天才を信じている。

 ゆえに、孫呉と周瑜を放置しておくのは危険だという、郭嘉の遺言を……本人としては、そんなつもりはなかったのだろうが……信じたのだ。


「そなたも、郭嘉の意見に賛成する気になったのか?」

「いえ……私個人としては、慎重論に変わりありません。やはり、現在は戦を控え、国家の基盤を固めるのに専念すべきと考えております」

「そうであろうな。そなたは一度決めた意志を曲げるような男ではない。

 それが何故、先んじて荊州に赴くなどと、郭嘉の代わりを務めるようなことをする?」

「“程立”の意志は、仰る通り決して曲げようがありません。ですが、今の私は、曹操家の軍師、程旻です。

 日輪たる貴方を支えることこそ、我が使命。貴方が遠征を決断されたならば、私はそれに全力を尽くすまで。

 見解の相違を理由に、主君の決定に背くことなどできませぬ」


 確固たる己を持ちながらも、現状から目を背けず、その中で全力を尽くす。

 峻厳なる容貌の内に熱情を秘め、決して折れぬ硬さを持ちながらも、主君の意に沿い、自在に形を変える。

 程旻とは、高熱で融解した鋼のような男だった。ゆえにこそ、いついかなる状況においても、己の才覚を最大限発揮できる。


「無論、貴方様が私を力不足と仰るならば、黙って引き下がりますが……」

「いや、元より余も、そなたが最もふさわしいと考えておった。

 問題はそなたの意志だったのだが……それが解決された今、拒む理由などありはしない」

「は……殿の覇業完遂のため、粉骨砕身、努めて参ります」


 程旻は床に手を突き、深々と頭を下げた。


「だがな、程旻……これだけは言っておく。

 余は、そなたに郭嘉の代わりをやらせようとは思っておらぬ。

 程旻よ、そなたはそなたのやり方で、この遠征を成功させるがよい。

 それが降伏という形であろうと、余は一切頓着せぬ」

「は!」


 掌と拳を合わせる程旻。

 彼には、郭嘉のような天性の閃きは無い。

 しかし、いかな事態にも動じず、的確に対処できる彼の資質は、周瑜も含めた不確定要素の多い孫呉攻めにおいて大いに発揮されることだろう。

 彼が信条とする堅実な戦とは、定石に則った工夫の無い戦……という意味ではない。

 むしろその対極……あらゆる状況に対応できる柔軟性と汎用性を備えた軍こそが、真に堅実と呼べるのだ。

 この遠征には、旧袁紹軍の兵士も多く加わっている。また、計画通りに進めば、荊州の水軍もまた自軍に編入される。

 南方遠征軍の実態は、曹軍、袁軍、官軍、そして荊州軍と数多の軍が入り交じった混成軍であった。 これでは、完璧な統率など望むべくもない。

 だから、今回の作戦には、程旻の基本に忠実な軍略が適しているのだ。

 程旻は己の色を持たない、任務にのみ忠実な、曹操軍で最も軍人らしい男だ。

 彼は配下に余分な思想を強制することはない。ただ、任務を確実に遂行することのみ要求する。

 それは、どの軍であろうと変わることはない。ゆえに、程旻はこの遠征軍を率いるのに非常に適した軍師なのだ。


 その後、程旻は荊州に向けて立ち……程無くして、荊州水軍との密約を交わしたとの報告が、曹操の下に届いた。




(程旻に遊びはない。それが、余や郭嘉との決定的な違いだ。

 あやつは戦いを通して何かを得ようとしたり、戦いそのものに意味を見出そうとはせぬ。

 ただ、最上の結果を得るために、あらゆる手を尽くすだけ……)


 兵力差で圧倒的に上回る戦において、唯一の敗因となるものは、心の緩み。

 劣勢に置かれた場合は、心の余裕が秘策を生み出す場合もあるが、優勢においては致命的な隙に繋がる危険性がある。

 程旻の戦に遊びも緩みも驕りも存在しない。彼の戦は、常に勝ち続けるための戦なのだ。


 曹操は、自分がどれだけ不安定な人間なのかを良く知っている。

 内に秘めた魔性は、自分自身でさえも制御できないことを……

 その揺らぎもまた、戦における不確定要素になりうる。


 だからこそ、此度の戦はほぼ全てを程旻に任せている。

 程旻の創り上げたこの遠征軍こそが、現状における曹操軍の最強戦力だと信じていた。

 圧倒的な力と完璧なる軍略は、あらゆる“奇跡”を押し潰すだろう。



 だが……


 もしも、この戦で、自分にとって予想外の事態が起こるならば……


 曹丕の危惧が、現実のものとなるならば……


 それは間違いなく、己の思考を越えるものであるはずだ。



 心の奥底で、曹操はその“何か”に期待していた。


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