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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十章 美周郎(五)

 渾元暦208年……


 曹操は三公制を廃止し、丞相じょうしょうを復活させ、自らその位に就く。

 名実共に、曹操は漢王朝の最高権力者となり、天下統一への地盤を固めた。



 冀州、漢帝国首都、ぎょう……



 曹操の住まう宮殿が見下ろせる高台に築かれた墓の前で、荀或は手を合わせる。

 そして、どこか寂しげな表情で語りかける。

 

「昨日、曹操様が丞相に就任されました。あの時の曹操様の勇姿、貴方が見ていたら、きっと飛び上がって喜んだでしょうね……」


 丞相就任の式典は、華美なだけで無駄の多い儀式を嫌う曹操の方針で、可能な限り質素に進められた。

 それでも、真紅の帽子と衣に身を包み、威風堂々とした佇まいで宮殿の上に立つ曹操の姿は、重臣たちの目を惹き付けて離さなかった。

 曹操は、ただ文武百官を睥睨するだけで、己が時代の到来を、彼らの心に刻み付けたのだ。


 旗揚げ時代から同道した曹操の臣下達は皆、歓喜に震えた。

 荀或も、曹操の勇姿に感激しつつ……この場に“彼”がいない事を残念に思っていた。


「ねぇ、郭嘉かくか……」


 今も墓に眠る友に微笑みかける荀或。

 目を閉じれば、彼の特徴的な笑い声が脳裏に響き渡る……



 今を遡る事一年前……渾元暦207年。


 郭奉孝は、病でこの世を去った。


 脳に巣食った病ゆえ、元より完治する方法など無かった。

 だが、官渡の決戦後も、彼は床に臥せることもなく、曹操軍一の軍師として精力的に活動した。

 その神がかった頭脳的采配には聊かの衰えも無く、その後の袁家との戦いにおいて多大なる戦果を挙げた。


 そんな彼の最期の出征となったのが、一年前に行われた北伐だ。


 北方の異民族である烏丸うがん族は、長年袁家と同盟関係を結んでおり、袁家の生き残りである袁尚・袁煕を匿っていた。

 このまま放置していては、烏丸の協力を得て彼らが息を吹き返す可能性もある。

 袁家の息の根を止めるためにも、北方の脅威を取り除くためにも、烏丸への出征は避けては通れぬ道だった。

  

 郭嘉は、自らその北伐を立案し、曹操によって最高司令官に任命された。

 厳しい北の地に生きる烏丸族は、中原の人種よりも強靭な肉体を持ち、更には袁紹軍も使っていた幻獣種を騎馬として使用する。

 単純な数の優位が通用するとは限らない。

 内紛を繰り返す袁家とは異なり、族長おさの下、その軍は強固な結束で纏められている。

 官渡の決戦後、今日に至るまで曹操軍が戦った敵の中では、間違いなく最強の敵であった。


 曹操軍の敵は烏丸族のみにあらず、彼らが住まう北の大地もまた、遠征軍に牙を向いた。

 雪に覆われた険しい山岳地帯、身を切り裂くような寒風や吹雪も、曹操軍を多いに苦しめた。

 

 そんな曹操軍の危機を何度も救ったのが、郭嘉の冴え渡る頭脳だった。

 彼は、斥候部隊に加わり、烏丸の勢力圏を駆け回り、一目見ただけでその地形や気候の全てを把握した。

 数で劣る烏丸族は、必ずや地形を利用した罠を仕掛けてくると読んだのだ。

 地の利が敵にあるならば、それすらも奪い取ればいいだけのこと。


 果たしてその読みは当たった。

 僅か数日で、まるで何十年もその地で暮らしたように、郭嘉は烏丸の地の全てを知り尽くしていた。 地を読み風を読み、吹雪や雪崩の起こる時間を予測し、安全な道を選んで軍を誘導した。

 罠を仕掛けた烏丸の動きを先読みして、逆に彼らを罠にかけてしまうこともあった。

 

 最終的には、郭嘉自ら張遼、楽進を含む精鋭部隊と共に敵中枢に奇襲を掛け、電光石火の勢いで袁尚、袁煕を討ち取った。

 こうして袁家は完全にその命脈を絶たれた。

 戦う理由の無くなった烏丸族を、取引と脅迫、飴と鞭を織り交ぜて懐柔し、二十万もの兵を投降させる。

 実に郭嘉らしい、最速にして最良の結果を出す戦だった。


 だが……業へと凱旋して数日も立たぬ内に郭嘉は倒れ、その翌日に息を引き取った。

 少し前に烏丸で獅子奮迅の活躍をしていたとは思えない……あまりにも突然の死だった。


 荀或が病室に駆けつけた時には、彼は既に物言わぬ骸となっており、周囲には泣き崩れる郭嘉雑技団の面々がいるばかりだった。

 結局、死に目に言葉を交わすことも出来なかった。


 だが、不思議と残念な気持ちは起こらなかった。 

 恐らくは最後の最後まで……郭嘉は郭嘉だったのだろう。

 戦場に身を躍らせ、己が頭脳を燃焼させ、知略を振るうためだけに生きる純粋軍師。

 自分が満足の行く戦をするためならば、主君ですらも駒とする彼のあり方に、荀或は反発し……同時にその底無しの才能に、憧れを抱いてもいた。


 きっと彼は、死ぬ直前までも、次の戦のことを考えていたに違いない。それだけが、彼の生きるよすがなのだから。

 今の自分は、既に軍師を半ば引退し、漢王朝の重臣として内政に専念している。

 曹操のために、どちらがより己の才覚を活かせるか……考え抜いた末の結論だった。

 甥の荀攸も、今や十分自分の代わりを任せられるほどに成長している。

 自分のすべきことは、この漢帝国の政治を刷新し、民が安心して暮らせる社会を創り上げることだ。

 それは必然的に、天下統一を目指す曹操の助けにもなる。

 その事について後悔は無いが……命尽きるまで軍師として生きた彼が、少し羨ましくもあった。


 七年間、郭嘉はひたすら戦に明け暮れた。

 自らの病を省みずに肉体を、頭脳を酷使したことが、彼の死期を早めたのだという見方もできる。

 特にあの極寒の烏丸遠征は、郭嘉の身体に多大な負担を与えたに違いない。


 しかし医師の見立てでは、彼がここまで持ったのは奇跡のようなものだったと言う。

 官渡の戦いの頃ですら、度々発作を起こし、薬に頼らねばまともに生活すら出来ないほど悪化していたのだ。

 結果的には、郭嘉は七年も生き永らえた。

 病は、肉体は元より精神的な要素も大きく影響するという。

 軍略に没頭することによって、彼の内に生きる気力が生まれ、病の進行を抑えたのかもしれない。

 

 どちらが正しいのか……荀或には分からない。

 死の直前まで戦に明け暮れることが出来て幸せだったのか……それとも、まだまだ戦い足りなかったのか……


 郭嘉雑技団は、彼の死によって解散。軍に残った者、去った者と、それぞれの行き先は様々である。



「貴方が計画し、前線で指揮を執る予定だった荊州、揚州攻略戦に、いよいよ殿は着手されます。

 大丈夫です。貴方がいなくとも、曹操様は必ずや、貴方の計画を完遂してくださいます。

 最も、貴方にとっては、自分の参加できない戦など、何の興味もないかもしれませんがね……」


 荀或の知る郭嘉とは、そんな男だった。

 されど、いくら語りかけたところで、死者の心情を解することなど出来ない。死者が未来を知り得ることは、決してないのだから……

 残された者にできるのは、死者に想いを馳せ、己が未来を生きていく……ただそれだけだった。





 多数の蹄鉄の音が、業の往来に響き渡る。

 道行く人々は、揃ってその場に平伏する。

 天に掲げられしは、真紅の旗に黒き“曹”の一字。


 これより荊州に向けて出立する、曹操軍総勢三十万である。

 軍馬に跨がり、甲冑を纏った将兵の行軍に、民は恐怖と同時に畏敬の念を覚える。

 この中華最強の軍勢が、自分達の味方であるという事実。恐怖は安堵に変わり、やがてそれは誇りへと昇華される。

 民の意志そのものが、精強なる軍勢を更に力強く後押ししていく。

 絶対的な力は、民の信を生み、その信により、力は揺るぎなきものとなる。

 強き軍は、国家の安全を護り、平穏の中で民は才覚を発揮し、国を豊かにする。

 それこそが真の富国強兵。国が豊かなればこそ兵は強くなり、兵が強いからこそ国は豊かになる。

 かつて繁栄を極めた王朝に必ず存在した、軍と民の理想的な関係を、曹操軍は実現していた。


 平伏していた民から、どよめきが起こる。従順な民草達も、“あの御方”がすぐ傍を通ると知って、平静を保っていられるはずもない。

 三十万の軍の中で、最も異彩を放つ一団が姿を現す。

 異“彩”という表現は不適当かもしれない。

 何故なら彼らが纏う軍服と甲冑は、全て墨のように黒かったのだから。


 黒騎兵団くろきへいだん……総勢十万からなる黒き衣を纏った彼らは、曹操軍の中核を成す精鋭部隊であった。

 いずれも曹操に絶対の忠誠を誓い、その資質と才覚、そして暴力を認められた猛者ばかり。

 戦場で相対すれば、生き残ること叶わぬ漆黒の死神。

 曹操軍の“至強”の象徴であり、またその体現者達である。


 その先陣を切る将軍を見て、群衆は歓声を上げる。

 波打つ黄土色の長髪に、彫りの深い顔立ち。漆黒の甲冑の上には軍衣を羽織り、乗騎には得物である大輪刀が括りつけられている。


 張遼、字は文遠ぶんえん


 呂布軍から曹操軍に降った後、官渡の決戦、袁家との戦、烏丸への遠征において、数多くの武功を上げ、今や曹操軍に無くてはならぬ将軍の一人となっていた。

 武力は元より、部下からの信望も篤く、中華一の大将軍の呼び声高い。

 曹操軍最強と称される将は……その乗騎もまた尋常ならざるものだった。

 鎧のように分厚い筋肉を覆う漆黒の体毛。蹄が発達したような鋭利な爪、鰐のように深く裂けた口には、牙がびっしり生えそろい、爛々と輝く青い瞳には、肉食獣のごとき凶暴性が宿っている。

 大きさや色こそ違え、その姿は呂布の赤兎馬によく似ていた。


 その馬の名は黒捷こくしょう

 正確には馬ではなく、馬という種族の祖とも言われる幻獣種である。

 この中華においても、殆ど目撃例が存在しない、極めて貴重な種族なのだ。


 烏丸族の住まう北の大地に生息しており、その荒々しさと凶暴さは、烏丸の民からも恐れられている。

 一年前、北方遠征にも従軍していた張遼は、黒捷と出会い、誰もが乗りこなせなかった彼を乗騎とした。

 黒捷の暴力に飲まれぬどころか、自由自在に乗りこなす姿は、烏丸の民ですらも勇者と讃えた。


 厳しい大自然で生き抜いてきた黒捷だったが……張遼もそれに劣らず、戦場に次ぐ戦場で己が魂を鍛え上げていたのだ。

 種族は違えど、同じく武と暴に生きる者同士、何かしら共感するものもあったのだろう。

 黒捷も張遼の“雄”としての格を認め、背中に乗せることを許したのだ。

 この行軍の最中も、張遼が手綱を握る限り、決して暴れることはないだろう。


 張遼に続いて現れたのは、天を突くように黒髪を逆立たせた若者だった。

 額には赤い鉢巻を巻き、精悍な肉体を黒い格闘装束で包んでいる。


 楽進、字を文謙ぶんけん


 軍師、荀攸によって推挙され、曹操によって兵卒から将軍に取り立てられたこの男は、袁術戦での大功を皮切りに、将として数多くの武功を上げていくことになる。

 武器は己の五体そのもの。鉄甲で覆われた拳は、兜ごと脳天を割り、甲冑ごと身体を貫く。

 取り立てられた恩義ゆえ、曹操への忠誠心は人一倍強く、一本気で明るく、裏表の無い性格ゆえ上官、同僚、配下の全員から親しまれている。

 しかし戦場に身を躍らせば、その剛拳を血に染め、恐れを知らぬ進撃で敵軍を蹂躙する。

 人間としての魅力と野性の本能を併せ持つ、希有な男であった。

 彼もまた、今や曹操軍に無くてはならぬ将の一人となっていた。



 女性の声が、一気に大きくなる。続いて現れたのは、軍という場に紛れているのが場違いに思えるほどの美男子だった。

 憂いを帯びた紫水晶の瞳に、耳が覆われるところまで伸ばした輝く紫色の髪。

 細身ながらも背の高い体躯を漆黒の貴族装束で包んでいる。


 張合ちょうこう、字は儁乂しゅんがい


 かつては袁紹軍に所属していたが、官渡の戦いの終盤において、曹操軍に降り、以降将として活躍している。

 一説によれば、彼の投降が、官渡の戦いの勝敗を決定付けたとも言われている。

 袁紹軍においても高く評価された観察力と戦術眼、そして、儚げな容姿に似合わぬ実力。

 それは曹操軍に入った後もいかんなく発揮され、袁家を相手にした中原制覇の戦において大きな戦果を上げた。

 彼もまた、今や曹操軍の中核を成す将軍の一人である。


 自分に憧れの眼差しを向けてくる婦女達に、張合は片目を軽く閉じてみせる。

 その魅惑的な仕草を目にした女性達は次々に黄色い悲鳴を上げて倒れていく。

 張合は涼しげに微笑むと、顔にかかった前髪を払う。


 その後も、黒騎兵団に属す名だたる将軍たちの行進が続く。

 彼らが姿を見せる度に、民は歓声を上げるが……やがてその声が、ぴたりと静まる。

 彼らは皆、凍りついたように一点を凝視している。

 その瞳に映るものは、恐怖、憧憬、尊敬、あるいは、それら全てが入り混じった形容不能な感情。

 “彼”が近づいて来るだけで、民草は心がざわめくのを抑えられない。誰もが言い知れぬ“圧”を感じている。

 三十万の大軍の、ほぼ中央に彼はいた。

 いや、この大軍だけではない。今や、彼こそが広き中華の中心となっていた。民も、兵も、国も、そして時代すらも、全てが彼を中心に廻っている。


 中原の覇王、人民の統率者、生ける天の形……



 漢帝国丞相、曹操。字は孟徳……



 四方を黒い軍服の将に囲まれている中、彼はただ一人赤き衣を身に纏っていた。

 楕円形の帽子を被り、赤い外套をはためかせている。

 耳の辺りで短く切り揃えた黒髪、大きな琥珀色の瞳。細く小さな体躯と、どこか幼げな顔立ちは、少年のそれである。

 不老年齢により、彼の肉体は十五歳から成長することはない。

 だが、今や中華の誰もが知っている。

 この少年の姿をした覇王が、どれだけの戦歴を重ねてきたのか……どれだけ苛烈に、容赦なく、天下への道を駆け上がってきたのか……

 彼が成し遂げた覇業は、到底常人の器に収まるものではない……まさに破格の英傑と呼ぶに相応しかった。

 子供の姿も、人によっては得体の知れぬ不気味さや、禍々しい印象を与えることもあった。


 そんな無数の民草の意志を浴びながら……曹操はまるで意に介さぬかのように、微笑みを浮かべたまま、悠然と馬を進める。


 旗揚げ時代から同道し、曹操の周囲を守る曹操四天王……夏侯惇かこうとん夏侯淵かこうえん曹仁そうじん曹洪そうこうの姿は今ここにはない。

 彼らは官渡の戦い後、領土内にそれぞれの居城を与えられ、そこに駐屯していた。

 いつまでも曹操付きの将軍にしておくには、彼らの地位は高まりすぎたのである。

 だが、彼らもまた、今回の南方遠征に参加することなっている。

 いくつかの部隊は、既に荊州に向けて出発し、先んじて越境する予定だ。 

 荊州、および揚州を制圧する為の作戦行動は、既に始まっている。それこそ、一年も前から……


 曹操率いる本隊が三十万、四天王の率いる別働隊合計十万、そして荊州水軍十万の兵を加えた、合計五十万が、今回の遠征の総兵力である。




 四天王不在の曹操の傍には、彼の腹心の配下が守りを固めている。

 長く真っ直ぐに伸ばした黒髪に、漆黒の瞳、女性を思わせる幼い顔立ち。

 細身の身体を、黒い軍服で包んでいる。


 許楮きょちょ、字は仲康ちゅうこう


 彼もまた、曹操軍黎明期から付き従っている忠臣で、その華奢な外見に似合わず、規格外の剛力を誇る将である。

 巨大鉄球を手に戦場を暴れ回る姿は、人の形をした獣そのもの。

 その出自は定かではないが、自分を取り立ててくれた曹操には計り知れぬ恩義を感じ、命を賭して守り抜く覚悟を決めている。

 大らかで朴訥な人柄からは想像しにくいが、彼は常に沈着冷静。

 今も、行軍に乗じて曹操を殺そうとする者がいないか、抜け目無く警戒を払っている。


 そして、曹操のすぐ傍には、参謀格である二人の軍師が侍っている。


 荀攸じゅんゆう、字を公達こうたつ

 賈栩かく、字を文和ぶんわ


 両者とも、黒い軍服に軍帽を被っている。

 荀攸は柔和な顔をした美青年で、艶やかな青緑色の髪に、宝石のような潤んだ青色の瞳を持っている。

 荀或の年の近い甥で、曹操軍への加入こそ遅かったものの、その後叔父と共に多くの戦場を渡り、その知謀に磨きをかけていった。

 今では、内政に専念している荀或に代わり、曹操を補佐できるまでに成長した。

 爽やかで礼儀正しい人柄ゆえ、周囲の評判も良い。


 賈栩は、そんな荀攸とは対照的な人物だった。

 切れ長の三白眼、浅黒い肌に黒い巻き毛、顔には、猜疑心の強そうな笑みを浮かべている。

 初めて彼が歴史の表舞台に出た時、彼は董卓軍の軍師だった。

 彼もまた、かつては曹操の敵であり、官渡の大戦が始まる前に曹操軍に降っていた。

 あの曹操をも罠にかけた知謀と、機を読み時流に乗る世渡りの上手さを買われ、曹操に仕えることを許された。

 彼の最大の武器はその舌。言葉という毒で、人を惑わし、欺き、陥れるのが彼の本領だ。

 普段も、慇懃な態度の中に毒を忍ばせている。そんな男だからか、あまり周囲の人間には好かれてはいない。

 最も彼は、そんな悪評など気にもしない。他者が自分という人間をどう思っているか、それすらも好んで策略に組み込んでいる。


(クククククク……! 素晴らしい。曹操様、ここにいる数十万の人間……否、今や中華全ての人間が、貴方を意識せずにはいられない。

 貴方を恐れ、敬い、惹きつけられている。貴方という存在に、縛られている!

 今や中華を語るにおいて、丞相の存在は欠かせませぬ。

 そう! 貴方は曹孟徳という個人でありながら、同時に中華そのものになりつつあるのです!

 さぁ、今どんな気分ですか? 中華最強の軍勢を率い、中原の民全ての心を掌握し、覇王の座に登られた心境は!?


 ええ、私には分かります。分かりますとも。

 貴方にとっては位人臣を極めることなどただの過程だ。袁家を討ち滅ぼしたのも、目的のために必要だったからに過ぎない。

 苦闘の果ての達成感も自己満足ゆえの陶酔も、いずれも貴方とは無縁なものだ。

 貴方は未来だけを見ておられる。今に時を止めることをしない!

 今に、そして過ぎ去りし時代に執着せざるを得ない凡俗とは、決定的に違う存在なのです!

 

 貴方の本質は虚無だ。何者をも取り入れるがゆえに、何者とも結び付くことはない。

 数多の民の意志が、熱情が、奔流となりて貴方を飲み込もうとも、貴方という存在が変わることはない。

 何故なら貴方は無なのだから。如何様に姿を変えようとも、本質は変わらない。前に向かう意志は変わらない!

 貴方という絶対の“個”は、全ての民の意志を飲み込んで、突き進んでいくのでしょう。

 これだけ多くの民の熱情を、真正面から受けながら、貴方の心には漣一つ立っていないのでしょう。

 貴方ならば、自分の思うがままに世界を創り変えることもできるはずだ。

 それこそ私が待ち望んでいた、個人の意志が、世界を変革する時……!)



 表面上の態度こそ大人しいままだが、賈栩の心は激しくざわめいていた。

 彼に限らず、近くに曹操の存在を感じて、心を動かさぬ者など存在しない。

 曹操自身を除いては……



 己を中心として、人々の感情がうねりを上げる中、曹操は台風の目の如く、“無”であり続けた。

 感動や感慨……それは、自分には縁の無い概念だ。

 精々、後で何かの役に立つかもしれないと目に映る民一人一人の顔を記憶するぐらいだ。

 勿論、周囲への警戒も怠らない。

 彼にとっては、民も兵も国も、中華というこの巨大な共同体全てが、目的を果たすための道具であり、舞台だった。


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