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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第二十章 美周郎(四)

(水上戦用の無双甲冑……既に完成していたとはね)


 長江を挟む崖の上から、双眼鏡を通して見える光景を凝視する。

 大勢はとうに決着し、夏口基地は完全に制圧されたようだ。

 ここまでは予測できた事態、黄祖を捨て石として孫呉の力を計る目的はまず成功したと言って良かろう。

 取り分け、噂に聞いていた孫呉製の無双甲冑をこの目で見られたのは僥倖だった。


(最も、向こうも私たちが監視しているのは知っているでしょうね。それを承知で、あえて見せたということは……

 他にも何か切り札があるのでしょうか……)


 いずれにせよ、それを考えるのは自分の領分ではない。一刻も早く、このことを程旻殿に伝えなければ。


 その人物は、薄紫色の着物を身にまとい、蝶の形をした髪飾りをつけ、やや長い黒髪を両側で束ねている。一見して、十代後半の美少女に見える。

 今目撃した内容を素早く書面に記すと、足下に置いている鳥籠の鳥に結びつけ、空に向かって放つ。

 白い鳥が江陵の方角に向かって羽ばたいた時には、崖の上には誰の姿も見えなかった。




 夏口における黄祖軍との最終決戦は、実に意外な形で収束した。

 孫呉にとって不倶戴天ふぐたいてんの敵である黄祖を、彼の配下である甘寧が惨殺したのだ。

 孫呉の誰にとっても予想外の結末であろう。ただ一人を除いては……


 甘寧は今、両手両足を拘束され、周瑜の前に引き出されていた。

 彼の周囲には、呂蒙に太史慈、四将軍が揃っている。甘寧がもし何かを企てていたとしても、周瑜に害なす行動を取ったなら、生きてここから出られまい。

 皆が憎悪の篭った視線を甘寧に送っている。当然だ。

 彼もまた、これまで孫呉の将兵を多数殺傷し、彼らを多いに苦しめたのだ。

 いくら黄祖を討ったとは言え、全てを水に流せるはずもなかった。

 更に言えば、誰も甘寧が本気で投降したなどと、信じてはいなかった。


 当の甘寧は、彼らの怨嗟などどこ吹く風といった様子で、気味の悪い笑みを浮かべている。

 自分が殺されるとは微塵も思っていない、死など少しも恐れていないように思える。

 かつてない緊張感に場が包まれる中、最初に言葉を発したのは、周瑜だった。


「主である黄祖を討ったのは、その首を手土産に、我が軍に降るためか」

「うんうん、そうだよ~」


 甘寧は、懐いた犬のように首を縦に振る。


 周瑜は、凌統と太史慈の口から、この男が血に飢えた殺人鬼であることを知っている。

 他の将軍達も同様だ。決断は周瑜に委ねているが……誰もが内心思っていた。

 降伏など認めず、こんな危険な男は、今ここで処刑すべきだと……


「私も、ここにいる彼らも、貴様がどういう男なのかは知っている。

 それでもなお、我々が貴様を受け入れると思っているのか?」

 

 感情を殺した冷徹な眼で見下ろし、厳しい言葉をかける周瑜。

 それに対して甘寧は……


「うふ、うふっ。うふふふふっ!」


 突如両眼を三日月型に歪めて笑い出した。


「な、何が可笑しいんだてめぇ!!」


 たまらず声を上げる黄蓋。怒りよりも、嫌悪感の方が勝っている。

 この甘寧の不敵さには、誰もが薄ら寒さを感じずにはいられなかった。

 甘寧は、不気味な猫撫で声で話しかける。


「ねぇ、周瑜さぁん。

 僕、知っているんだよ。もうじき、北の方から曹操の大軍が攻めてくるんだよね?

 もし僕の投降を認めてくれるなら、その時に彼らをいっぱい、いぃ~~っぱい殺してあげる!

 君達のために、そして、僕のためにね!!」


 誰もが言葉を失った。彼は自分を売り込んでいるのだ。

 いずれ訪れる曹操との戦乱で、自分は必ずや役に立つのだと……


 実際、甘寧の戦闘力は今まで戦ってきた孫軍が一番良く分かっている。

 彼が味方になれば、孫呉にとって強大な武力となるに違いない。 

 かつては敵だった者が、降伏した後、優れた将となるのは珍しくもないことだ。

 他ならぬ太史慈がその一人である。

 だがそれは……その者が主君の命令に従順ならばの話だ。

 孫策の心意気に打たれて降った太史慈とは違い、この男は危うすぎる……

 彼の狂った本性を知っていれば、信用などできるはずもない。

 現に、彼は主である黄祖を自分の欲の為に殺しているのだ。


「どぉ? いい取引だとは思わない?」

「………………」


 周瑜は無言で甘寧を見下ろしている。彼が動かない限りは、他の者達も声を発することができない。

 そんな中で周瑜はただ一人、眉一つ動かしていない。


「なるほどな。貴様の望みは合法的に殺人を行える場所の確保か」

「うんうん。黄祖あいつはもう終わっていたからね。

 君達に潰されるのは見えていた……道連れなんて冗談じゃない。

 それじゃあ、人を殺せなくなる。

 僕はねぇ、もっともっと、心置きなく、末永く人を殺していたいんだよ。

 それも、どうせなら天下を賭けた大舞台でね! きっと、殺し甲斐のある人がいっぱいいそうだよっ! 楽しみだなぁ」


 子供のように無邪気に、これから始まる戦乱への興味を語る甘寧。

 だが、そこには高邁な理想も信念もない。

 ただ、底無しの殺人への欲求があるだけだ。

 彼は自分の欲を満たすために孫呉を利用しようとしている。

 どうあっても相入れない存在……皆がそう思い、この男の存在を拒絶した。


「それで、私がその申し出を受けない場合は、どうするつもりだ?」

「そうだねぇ。殺されなかった人殺しが出来なくなる……それは嫌だ。

 仕方ないから、逃げようか。

 

 ここにいる全員を殺して」



 甘寧の不穏当極まる発言に、場の緊張が瞬時に最高潮に達する。

 全員が各々の武器に手をかけ、臨戦態勢を取る。

 何か事を起こす前に、取り押さえようとした者もいる。

 だが、それよりも速く……


 周瑜は、瞬時に甘寧の前まで移動し、刀を額に押し当てている。

 この場にいる孫呉の武将全員……誰もその動きを捉えることは出来なかった。

 周瑜は、刃を突き立てたまま、氷のような眼で見下ろしている。

 殺気は全く感じないが……もし甘寧が不審な動きを見せれば、即座に切り殺す意志は、はっきりと感じられた。


 だが、甘寧に恐怖はない。彼の頭を埋め尽くしているのは、先程の周瑜の動きだ。


(い、今の何? ただ動いただけなのに、凌統あいつの抜き打ち並みの速さだなんて……)


 ただの移動でこれなら、彼が凌統と同じ居合を使えば、どれほどの速さになるのか。

 甘寧の中で、彼への好奇と興味が膨れつつあった。


 駿足を誇る太史慈ですら、今の周瑜の動きは捉え切れなかった。

 彼だけではない、四将軍を含む孫呉の誰もが、今の周瑜には歯が立たない。

 彼は本来、武人ではなく軍師である……ただ、あまりにも才能に溢れていたのだ。

 文武の両立を容易くこなし、その双方を極めてしまうほどに……


 周瑜は、激務に追われながらも、凌統と同じく修練を怠ることは無かった。

 元々、僅か一年で凌家秘伝の居合を修得する彼である。

 他にも様々な流派を覚え、それらを融合・改良し、今や彼独自の剣術を確立させていた。

 比類なき才を持つ者が、努力を惜しまなければどうなるか……その体現者こそが今の周瑜である。

 彼は、かつて君主でありながら孫呉最強と讃えられた孫策の分まで強くなり、一人で二人分の役目を果たすことで、彼の欠けた穴を完全に埋めようとしているようだった。


「孫呉に降るというならば……今後そのような不遜な物言いは絶対に許さん。即座に斬り捨てる」


 その言葉には、感情の揺れが一成感じられない。ただ、淡々と“事実”を述べているだけだ。


「はぁ~~い。ごめんなさぁい」

   

 甘寧は舌を出して、悪戯を咎められた子供のように謝る。

 彼にとっては、己の保身はいついかなる時にも優先される。


「……かつて曹孟徳は、治世の能臣、乱世の奸雄と称された。

 だが、ただ人を殺めることだけを生き甲斐とする貴様は、治世においては世に何ら益することのない狂刃きょうじんだ。

 されど、乱世においては孫呉を侵す敵を屠る凶刃きょうじんとなろう。

 甘寧よ、今この場で誓え。

 孫呉の民や兵を、決して傷つけぬこと。私、そして孫呉の君主の命令には絶対服従すること」


「はいはい、誓いまぁす」


 刃を付き立てたままで、宣誓を要求する周瑜。甘寧も、それに軽い調子で答える。


「よかろう……いずれ貴様には、私の刃となりて孫呉の敵を討ち滅ぼしてもらう」


 場は一気にどよめく。周瑜の言葉は、甘寧の要求を飲むものだった。

 だが、軍部の最高司令官である周瑜の決定は絶対。異を唱えることは許されない。

 形式的にみれば、素直に投降した甘寧を斬ることこそ義に背く行為だ。


「任せてよ! 君の気に入らない人達は、みんな僕が殺してあげるからさ!」


 喜色満面で答える甘寧。


「だが、完全に信用するわけではない。次の戦まで、貴様の身柄は獄舎に繋がせてもらう」

「いいよぉ。禁欲するのも悪くない。その期間が長いほど、戦になった時の快感はたまらないからねぇ!」

 

 その後、狂ったように笑い出す甘寧。兵士達に連れ出される間も、彼は一切の抵抗をしなかった。

 周瑜は、終始冷静な態度を崩さぬまま、即座に夏口基地の調査に着手する。この案件に対する反論を封じ込めるように……

 だが、この場にいる将軍格は全員が、周瑜の決定に対する不安感を拭い去ることはできなかった。





 翌日……


 周瑜は、凌統が臥せっている病室を訪れた。 

 医師の見立てでは、傷は急所を避けており、十分な休養を取れば傷も完治し、また以前のように剣を振るう事もできるという。

 元より、武将の自然治癒力は人間のそれを遙かに凌ぐ。

 人間では即座に再起不能になる大怪我でも、死なない限りは時間を掛ければ完治してしまうのだ。

 甘寧は、そんな武将の治癒力も見越した上で……凌統を一時的な戦闘不能にし、かつ再起可能な状態になるよう精妙な力加減で傷を負わせたとしか思えなかった。


 床に臥せっている凌統の目は暗い。生気の無い瞳で、呆然と天井を見上げている。

 これは、単に傷が体に堪えるからではない。

 甘寧に、父の仇に、完膚なきまでの敗北を喫したことが、彼に肉体的な傷以上の痛みを与えていたのだ。


 しかし、周瑜の来訪とあっては寝たきりになっているわけにもいかず、上体を起こして応対しようとする。

 そんな彼を、無理はするなと制する周瑜。


「申し訳ありません……私が至らぬばかりに、大都督殿自ら脚を運んでいただいた上、斯様な醜態を晒してしまい……」

「気にするな。孫呉のための戦で負った傷は、名誉であり恥ではない……」

 

 周瑜は凌統の臥せる寝台の傍に立ち、いつもより幾分か柔らかい調子で答える。


「はい、父も生前、同じことを申しておりました」


 力なく答える凌統。父の事を持ち出したのは、自分へのあてつけと思ったが、それは邪推であると考え直す。


「話は聞いているか?」

「はい……」

 

 周瑜が甘寧の降伏を受け入れたことは、既に太史慈から聞かされている。


「その件について、何か言うことはあるか?」


 周瑜の問いに対し、凌統は可能な限り私情を除いた硬い口調で、答える。


「大都督殿の決定です。私風情が異を唱えることなどできるはずがありません。

 孫呉を取り巻く危うい状況……曹操軍との戦力差……それを鑑みれば、大都督殿の決定は最善であると理解しております」


 甘寧は強い……それは間違いない。

 彼の強さは、来るべき曹操との決戦において、必ずや必要なものとなるはずだ。


「それは孫呉の臣下としての言葉であろう? 凌操将軍の息子、凌公績としてはどうなのだ?

 軍を預かる者として、心情的な整理がついていない者を軍に組み込むことはできぬ」

「……私は、あの男を信用することなどできません。あの男を生かしておけば、必ずやこの孫呉に禍を招くでしょう……」

「それがお前の本音か」

「ですが、大都督殿。貴方のことは孫権様と同じぐらい信頼しております。

 貴方ならば、あの狂犬ですら飼い慣らすことができるでしょう……」


 甘寧の本質は、ただ人を殺せればそれでいいという、実に単純なものだ。

 彼を意のままに動かすには、目の前に餌を置いてやればいい。要は動物と同じように扱えばいいのだ。

 周瑜ならば、甘寧の心理を見切った上で、彼を自在に操ることも可能だろう。

 彼が目を付けたのは、その戦闘能力だけではない……世俗のしがらみに囚われない、野性の獣のようなあり方だった。


「凌統よ、私とて、奴を信用しているわけではないぞ」

「はい……」

「ゆえに、奴が私の意に沿わぬ行動を起こした場合……それを掣肘する存在が必要だ。

 凌統、そうなった場合、お前は甘寧を斬る役目を任せたい」

「私に……でございますか?」

 

 周瑜の発言に戸惑う凌統。自分は所詮、奴に生かされた惨めな敗北者。

 そんな自分に、奴を止める大任など、果たせるわけが……


「凌統、お前が私を信じるように、私もまた、お前を信じている」

「!」

「お前が今まで積んできた努力は、決して無駄ではない。

 凌操将軍も言っておられた、息子は、いずれ自分をも越え、遥かな高みへ登っていく器であると。

 凌統、お前がここで全てを投げ出してしまえば、父がお前に託した信をも裏切ることになるのだぞ」

「父上が……そんなことを……」

「確かにお前は敗北したかもしれぬ。だが、お前はまだ生きている。

 その敗北を糧として、更なる高みへと駆け上がるのだ、凌統。

 それが、死した者の意志を無駄にしない、唯一の道であるはずだ」

 

 ああ……そうだ……


 ここで凌統は思い至る。

 並ぶ者なき天才で、挫折など知らずに生きてきたような周瑜様も……一度決定的な敗北を味わっておられるのだ。

 そう、一番の親友である孫策様……彼の暗殺を阻止できなかったという、自分などとは比べ物にならない“敗北”を……

 だが、周瑜様は、その敗北に挫けることは無かった。

 逆に、孫策様の意志を無駄にすまいと、己の才覚を更に磨き上げ、軍を取りまとめ、孫呉の地を護り続けた。

 自分が彼に憧れたのは、その比類なき才だけではない……友を、孫呉の地を、誰よりも思うやさしさではないのか。

 そして、自分も彼のようにありたい……そう願ったのではなかったのか。


 志半ばにして果てた父や孫策様と違い、自分はまだ生きている。今や誰よりも尊敬する人が、自分に期待に寄せてくれているのだ。

 それに応えずして、何が凌家の跡取りか……何が孫呉の戦士か!


「奴は戦場にいる限り、殺すことの出来る敵がいる限り、我が軍にとっては有用な武器となろう。

 されど、乱世が終結し、太平の世が訪れれば……その刃は無用の長物となる。

 奴がそのような状況に満足できるはずもない……

 お前の危惧したとおり、その刃は孫呉に向けられるであろう。そうなった場合にも、奴には消えて貰わねばならぬ」

「分かります……」


 甘寧は、最強の味方であると同時に、最大の敵でもあるのだ。

 そう……奴との戦いは、まだ終わってはいない。ただ、先送りにされただけだ。


「凌統、強くなれ。奴を打ち倒せるほどに…… 父を越え、奴を越え、孫呉の地を護り抜くのだ」

「大都督殿……!」


 凌統の瞳に、再び決意の炎が宿った。そうと決まれば、こんなところでいつまでも臥せってはいられない。

 彼の覚悟を悟ったのか、周瑜は表情を和らげ、ゆっくりと頷いた。






「周瑜……!」


 凌統の病室から出て、通廊を歩く周瑜を背後から呼び止める太史慈。

 この呼び方は、かつて孫策が存命の頃、三人でつるんで江東平定を行っていた頃のものだ。

 本来、大都督に対してこのような口の利き方は許されない。

 だが、周瑜はそれを意に介さず、冷淡に応じる。


「……甘寧の件について、何か反論でもあるのか?」


 甘寧に殺された凌操は、太史慈の盟友でもある。彼も、甘寧に対しては並々ならぬ怨みがあるはずだ。


「……違ぇよ。それについては文句はねぇ……ただな、これだけは聞いておきてぇ……」


 太史慈も、凌統同様、これが周瑜の深い計算に基づいたものであることは理解している。

 彼もまた軍人……私情を捨て、軍全体の益を考えることの出来る男だった。だが……


「てめぇ……こうなることを、最初から分かってたんじゃねぇのか?」


 太史慈の意を、周瑜はすぐに汲み取った。

 最初から、とは、それこそ戦いが始まる前から……という意味だ。


 思えば、今回の甘寧の降伏は、色々と手際が良すぎた。

 周瑜は、この展開にも一切動じなかったが、それは、筋書きを最初から知っていたからではないのか。

 だから、甘寧を許し、降伏を認めるという決断も、早々に下すことが出来たのではないか。



「ああ、そうだ」


 太史慈の疑問に、周瑜はあっさりと応えた。その反応に、太史慈は言葉を詰まらせる。


「甘寧には、事前に黄祖軍の内通者を通して、降伏の取引を交わしていた。

 その条件の一つが、黄祖の抹殺だ」


 黄祖は用心深く、例え孫呉の全軍で攻めようとも、取り逃がしてしまう可能性は残っていた。

 ならば、内部の事情に精通している人間を裏切らせるのが一番の上策……

 実際に、甘寧の裏切りが無ければ、孫呉軍は地下道を通って逃げる黄祖一味を捕らえられなかったかもしれなかったのだ。


「なら何で! それを俺や凌統に言わなかったんだ!」


 もしそのことを伝えていれば、凌統が傷を負うことも無かったのではないか……まかり間違っていれば、殺されていたかもしれないのだ。

 太史慈は、怒気を込めて叫ぶ。

 だが周瑜は、それをあっさりと受け流し、こう答える。


「言ったところで、お前達が甘寧を信用することなどできるのか」


 太史慈は言葉を詰まらせる。凌統の甘寧に対する怨みは尋常なものではない。

 実の父を、目の前で殺された怨みは、自分などとは比較にさえならないだろう。

 そんな彼が、いきなり甘寧の降伏を認めると言ったところで、果たして素直に従うのか……


「私も同じだ。所詮、甘寧とは内通者を通して情報をやり取りしたに過ぎぬ。信用などできるはずも無い。

 ゆえに、奴の孫家への服従の意志を確かめる必要があった。

 私は奴に、もう一つ条件をつけた。この戦において、孫呉の兵を決して殺めてはならぬとな」


 そう……凌統の傷を除けば、この戦、甘寧による孫呉側の死傷者の数は皆無だった。

 甘寧は、黄祖の抹殺と孫呉への不殺……その二つの条件を守った。だからこそ、周瑜は甘寧の降伏を受け入れたのだ。

 周瑜は、この戦を通して甘寧という男を試したのだ。

 例え自軍に犠牲が出る危険があっても……甘寧の凄まじい戦闘能力は、周瑜にとって魅力的なものだった。



 さらに言えば……凌統が甘寧に勝負を挑み、敗北することもまた、彼の計算のうちだった。

 彼の復讐心はあまりにも強すぎ、孫呉軍に降った甘寧と共に戦わせていては、いずれ周瑜の目論見に狂いを生じさせる危険があった。

 故に、一度決定的な敗北を味わわせる必要があった。

 己の力量の無さを思い知れば、自制心を生まれ、無闇に甘寧に突っかかっていくことも無くなる。

 そして、少し焚きつけてやれば、その敗北をバネにして更なる努力を重ね、強くなるはず……

 心に闇を持つ者は、それを深めれば深めるほど強くなる。それは、周瑜自身が経験していることだ。

 凌統に言ったとおりの、甘寧の監視役として仕上げることが出来る。

 幼少より凌統に接してきた周瑜にとって、彼の心理など手に取るように理解できた。


 今回の戦は、全てが周瑜の計画通りに進行した。

 この計画は、甘寧の心理、そして凌統の心理を的確に見抜かずしては実現できない。

 人間心理にも精通した天才、周瑜ならばこそできる計略だ。



 太史慈は、歯噛みしたまま声も出ない。

 この男は、凌統の復讐心と、自分への忠誠心につけ込んで、都合のいい駒として利用しようとしている。


 だが、それを分かっていても、太史慈は何もいうことが出来ない。

 甘寧を従わせ、凌統を強くすることが出来れば……孫呉にとっては益となるからだ。

 そして、孫呉に属する自分は、軍を強くしようとする周瑜の信念を否定することはできない。

 彼はあらゆる手を使って、存亡の危機に瀕する孫家を守ろうとしているのだ。それを非難することなどできるものか……


 考え抜いた末、太史慈が発したのは、たった一つの問いだけだった。


「周瑜……てめぇは一体、何をしたいんだ?」


 あまりにも漠然とした問いである。

 彼の問いに、周瑜は眉一つ動かさず答えた。



「私の望みはただ一つ、孫呉の恒久なる繁栄だ。

 そしてその障害となるものは、何であろうと排除する……それだけだ」




 その言葉を最後に、周瑜は背を向け、太史慈の前から去って行った。

 太史慈は、呼び止めることもできずに、しばらくその場に立ち尽くす。


 脚絆から、当分吸ってなかった煙草を取り、口に銜える。

 だが、火もつけずに彼はじっと、周瑜が去って行った方向を見つめていた。



 どうして、こうなっちまったんだ……



 太史慈は、心の中で呟く。

 孫家の為に全てを尽くす周瑜のあり方は、昔と全く変わっていない。

 しかし、太史慈の目には、何かが歪んでしまっているように思えてならない。


 切欠は考えるまでも無い……孫策の死だ。

 周瑜にとってかけがえの無い友である彼が死んでから、全てが狂ってしまったように感じる。

 孫策の死は、周瑜の心に暗い影を落とし、今も彼を蝕み続けているのではないか……


 あるいは、逆かもしれない。周瑜は何も変わっていない。

 変わっていないからこそ、彼にとって半身と言うべき孫策が欠けた今、軋みを生じつつあるのではないか……


 確かに、周瑜の采配によって、孫呉は未曾有の繁栄を手にした。

 太史慈も、周瑜の理想に共鳴し、孫呉の発展に力を尽くした。

 その結実こそが“今”である。それは、間違いなく喜ぶべきこと……


 だが、その内部の歯車は、ところどころ悲鳴を上げているように思えてくる。 

 今は小さな軋みでも、やがて全体に広がり、破局をもたらすのではないか……

 そんな危うさを、太史慈は今の周瑜から感じていた。



 もし……孫策あいつが生きていたら……



 そんな何の意味も成さない問いを打ち消し……太史慈は、吸っても無い煙草を噛み潰した。






 太史慈の孫家への忠誠心は本物だ。斜に構えているが、その本質は実に良識的。

 現に、先ほどの己の感情を理性で押し留めてみせた。そういう人間は実に扱いやすい。

 感情と論理……その両面から操作が効くからだ。

 呂蒙や四将軍も本質は同じ。凌統も、復讐という心の闇を抱えてはいるが、人間の平均を逸脱するほどではない。

 即ち模範的な臣下とは、理性で物事を判断できる常識を持つ、なおかつ何を捨ててでも主に奉仕する忠誠心を持つ者ということになる。


 ただし、その理性が、時と場合によっては枷となる。

 いかに主君の為とはいえ、良識のある人間は倫理を逸脱する行為に対し嫌悪感を示す。

 だが、覇業とは元来血塗られたもの。薄汚い権謀術策無くして成し遂げられるものではないのだ。

 時には、国家で定めた掟を逸脱し、主君ですらも欺かねばならぬこともある。

 その場合、先ほどの模範的な臣下とは別の種類の駒が必要になる。


 それは、感情ではなく、利害による忠誠を持つ者。

 その代表例が甘寧だ。彼の望みはただ殺人を行うことで、孫呉に降るのも単に自分を庇護して欲しいからで、それ以外の余分なしがらみや枷は一切存在しない。

 表沙汰に出来ない“裏”の仕事に手を染めさせるには、実に都合のいい人材なのだ。

 彼の要求するものを的確に見切り、それを提供し続ければ……利害で繋がる関係を維持できる。

 そういった人間は、時として模範的な臣下以上に、有用な人材になりうる……



 自分に信頼と尊敬を寄せてくれる配下達を、結局ただの道具としてしか考えていないことを、周瑜は冷静に自覚していた。

 彼の口から放たれる言葉は全て、配下の力を十全に引き出すためのもの。

 孫呉を護るために孫呉の全てを駒として扱う……それがどれだけ歪な考えかは分かっている。

 一歩間違えれば、独裁者になりかねないことも。


 さりとて、それに心を痛めるような段階はとうに越えている。

 自分は、もっと冷酷に徹しなければならない。

 如何なる手を使ってでも、曹操軍を打ち負かし……天下に孫家の旗を掲げる。


 自分はもはや、それ以外の生き方は選べない。後戻りすることなど……出来ないのだ。


  

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