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三国羅将伝  作者: 藍三郎
133/178

第二十章 美周郎(三)

 夏口水軍基地最深部にある、司令室の扉を蹴破る太史慈。


「黄祖ぉ! 何処だぁ!!」


 太史慈は声を荒げるが、何の反応も返ってこない。

 半ば予想していたことだが……司令室はもぬけの殻だった。

 黄祖達は、既に逃げ出した後だったのだ。

 用心深い黄祖のこと、緊急時の逃走経路を基地内に造っておいたに違いない。

 だが、基地の後方は、既に韓当、朱治率いる別動隊が包囲している。

 黄祖と僅かな手勢で、突破できるとも思えないが……


 室内を見回している内に、不自然な箇所を見つける。

 壁の一部がめくれ、空洞が覗けている。そこを蹴破ってみれば、地下に続く階段が口を開けていた。

 急いで脱出したため、入り口を完全に塞ぐ暇もなかったのだろう。


「ちぃ、逃がすかよ……!」


 甘寧と戦っている凌統の無事を祈りつつ……太史慈は更なる追跡を開始する。






「ゲェーララララララララララ!! むざむざ捕まって、たーまるかよってんだ!」


 数名の部下と共に、基地内の隠し通路をひた走る黄祖。

 この通路の存在は、今ここにいる側近以外には明かしていない。

 しかし、基地の外を、敵が既に包囲している可能性もある。その時は、強行突破せざるを得まい。

 ここにいる部下たち全員を捨て石にすれば、自分一人逃げることはできるだろう。


 生き残った者が勝ち。それが自分たち賊党の世界での唯一無二の掟だ。

 その意味では、自分はずっと孫軍に勝ち続けてきたのだ。今回も、勝利してみせる。


 ただし、黄祖が帰る先は劉表の元ではない……曹操軍だ。

 蔡瑁はかつての水賊仲間であり、曹操軍が彼らに密約を持ちかけて来た時、黄祖もそれに応じた。

 蔡瑁は顔を合わせる度に劉表への不満をぶちまけていたが、自分も全くの同意見だ。

 もうあの男に未来はない。かれこれ二十年近く彼の配下として戦ってきたが、見捨てることに何の躊躇いもない。

 そもそも、顔を合わせたこと自体この二十年で数えるほどしかない。

 向こうも、自分を汚れ仕事を押し付けるための駒程度にしか考えていまい。ならば、ご期待通りどこまでも汚れ切ってやるまで。

 所詮は金だけの繋がり……より大きな金と権力を持つ者が現れれば、そちらに靡くのは当然だった。


 今回の戦は、あくまで孫呉軍の力を計るためのもの……今日得られた情報を、曹操軍は高く買ってくれるはず。

 曹操軍の程旻は、その対価として相応の地位を用意することを約束してくれた。

 いかに今の孫呉が精強とはいえ、北の大半を支配する曹操軍に勝てるわけが無い。

 もし戦争になれば、完膚無きまでに叩き潰されるだろう。


 黄祖の脳裏に、周瑜の端正な顔が思い浮かぶ。


「すまし顔の坊ちゃんよ! 世の中何でもてめぇの思い通りに行くと思ったら、大間違いだぜぇ!

 ゲェ――ラララララララッ!!」


 あの男は、自分を孫堅、孫策の仇だと思い込んでいる節がある。

 とんだ濡れ衣だ。そんなことで殺されて、たまるものか。

 いかに奴とて、曹操軍という分厚い殻に護られた自分を殺すことは不可能だ。

 永く生き延びるのは、相手が誰だろうと構わず噛み付く狂犬いぬではなく、真の強者にかしずく従順な番犬いぬなのだ。

 最終的な勝者は自分となる。周瑜やつの悔しがる顔が目に浮かぶ。


(ゲラッ! 軍属になりゃあ、今までみたいに酒呑み放題ってわけにゃいかねぇだろうな。

 まぁいいさ、またのし上がればいいだけのこと。俺の人生の航海は、誰にも邪魔させねぇぜ!)



 曹操軍に降る理由は、他にもある。甘寧だ。

 八年前、何かの役に立つと思って拾った少年は、黄祖の予想を遥かに越えて強く、そして凶悪に成長した。

 実際、その強さは孫呉との戦において大いに役立った。

 だが、奴の本質は、金や名誉に一切興味のない……血肉に飢えた殺人鬼だ。

 自分はただ人を殺せればそれでいい……これは常々彼が公言していることだ。

 それゆえ、扱いやすい面もあったのだが……裏を返せば、それは殺す相手は誰でもいいということ。

 殺人鬼に人間の論理はおろか、自分達外道の法も通じない。

 その刃が、いつ自分達に向けられてもおかしくないのだ。何を考えているかわからない、あの不気味な笑みも、不安を更に煽り立てる。


 正直言って、この八年間、甘寧に恐怖を感じぬ日はなかった。

 彼が近くに寄ってくれば、笑って酒をかっ喰らい、恐れを覆い隠したものだ。弱みを見せたら、おしまいだ。

 この八年間、鮫と同じ水槽に入れられている気分だった……

 闇討ちして亡き者にしようとする考えも脳裏をよぎったが、既に甘寧は自分はおろか、黄祖軍が束になっても敵わぬほど強くなっていた。

 いっそ、孫呉との戦で討ち死にしてくれたら……と密かに祈っていたが、狂っているくせに妙に計算高い甘寧は、引き際を読むことにも長け、今日まで生き延びている。


 このまま首尾よく曹操軍に降れば、甘寧との縁を切れる。

 甘寧には、好きに暴れて来いと言い渡してある。自分が逃げるまでの間、孫呉軍を足止めしてくれるだろう。

 だが、今日は孫軍も本気で自分達を潰そうとしている。

 あの甘寧とて、生き延びることは出来ないだろう。

 もし生き残っても、自分はその頃曹操軍にいる。知らぬ存ぜぬを決め込むつもりだ。


 自分の生涯における過ちは二つ……

 孫軍と関わったことと、甘寧を拾ってしまったことだ。


 その二つの過ちを、今日断ち切るのだ。

 

 新たなる航路を目指して、黄祖は地下道をひた走る。








 何が敗因だったのか……


 左肩を押さえ、その場に膝を突く凌統。その肩はぱっくりと裂け、血が溢れ出ている。

 致命傷ではないが、これでは肩が上がらない。事実上の戦闘不能状態だった。

 そんな凌統を、甘寧は笑みを浮かべて見つめている。


 あの時……飛んできた錨を、屈んで避けたまではよかったが……

 直後、錨が垂直に曲がり、肩に食い込んだのだ。

 これを首か脳天に喰らっていたなら、既に自分はこの世に亡い。


 敗因は……二つ。


 敵が下に伏せたのを確認してから、鎖を動かしたのでは間に合わない。

 恐らく、甘寧は事前にこの居合の全貌を把握していたのだ。

 五年前、凌操と戦った時に……

 だから、凌統の本気を感じた瞬間、あの技が来ると考え、錨に下方向の動きを予め与えておいたのだ。


 もう一つは……単純な実力差。

 甘寧は自分の想像を遥かに越えて強く……自分はまだまだ未熟だったのだ。

 父を越えるどころか、父に追い付くことすらままならない。

 そして、甘寧が凌家の真の居合を眼にしたということは、凌操の放ったその技を、正面から破ったということ。

 父でさえ、自分の技は神速には程遠いと言っていた。

 まして、こんな未熟な自分の技など、通用するはずもなかった。


 この果たし合い、最初から勝ち目などなかったのだ。

 それを分かっていながら彼に挑んだのは、抑え切れぬ義憤ゆえか、それともあの男が言うように、復讐の歓喜ゆえか……

 いずれにせよ、自分の復讐は、これで終わりだ。


「殺せ……」


 自分を見下ろす甘寧を睨みつけ、凌統は声を搾り出す。


「貴様の勝ちだ……私は死ぬ。だが、覚えておけ……

 私が死しても、その意志は次の者に受け継がれる。

 孫策様が大殿、孫堅様の遺志を受け継ぎ、江東を制したように!

 孫権様が孫策様の遺志を受け継ぎ、孫呉の地を繁栄させたように!

 道半ばで倒れた者の想いを継承し、未来へ続く道を切り開く……人と人を繋ぐ絆こそが、孫呉の魂そのものだ!

 甘寧! 貴様がどれだけ生をなぶり、死を弄ぼうとも! 我らの命の炎は、決して消えることはないのだ!」


 後悔は山ほどある。だが、悲観はしていない。

 自分がここで果てようとも、残された者達が、必ず孫呉の平和を護り抜いてくれる……そう信じているからだ。

 負け犬の遠吠えに過ぎないことは分かっている……

 せめて最後に、自分の信念をぶつけたかったという、ただの自己満足だ。

 あの男にしてみれば、滑稽極まりないことだろう。

 笑われる……そう確信していた。だが……


 甘寧は、意外にも神妙な顔つきをして、何かを考えている。


「そうか……なるほど……

 つまり君たちは、殺しても死なないってことだね?」


 甘寧の物言いに、凌統は戸惑う。

 確かに、先程の凌統の叫びを比喩的に表現すれば、そのようになるのかもしれない。

 だが、甘寧の反応は、どこかずれたものだった。


「僕は今まで君達の仲間の首を刎ね、肉を裂いてきたけれど……殺せてはいなかったんだね。

 結局僕は、殺したつもりになっていただけなんだ……命は、失われるからこそ美しい……それは、つまらないな……」

 

 おかしい……何かが、変だ。

 大体この男は、何故自分を殺そうとしない?

 まさか自分の言葉を真に受けているわけではあるまいに……


「やっぱり、僕の選択は間違っていなかったようだね。

 命を奪えないなら……君達を殺しても意味はない」


 甘寧の謎めいた言い方に困惑する中……こちらに近付く複数の足音が聞こえて来た。




「お、来た来た。そろそろだと思ってたよ」


 暗がりから、数名の配下と共に姿を現したのは、何と黄祖だった。

 味方が助けに来たなどと、都合の良い想像はしていなかったが、まさか、今孫軍が血眼になって捜している黄祖が現れるとは……

 そういえば、ここは一体何処なのか。

 無我夢中で甘寧を追っていたため、深く考えはしなかったが、地下へ潜って行ったのは覚えている。

 ならば、この左右を壁で囲まれた通路は、基地の地下にあるという隠し通路なのか……

 黄祖は今、この通路を通って逃げている最中というわけだ。

 だからといって自分には何もできない。

 ここに甘寧がいる以上、敵が幾ら増えたところで結果は何も変わらない、死ぬだけだ。


「ゲ、ゲラァ……か、甘寧……」


 しかし……黄祖の様子もどこかおかしい。黄祖にとって、ここに甘寧がいるのは想定外……それどころか、彼を恐れているようにさえ見える。


「やだなぁ、黄祖。僕がここにいちゃ何かまずいことでもあるの?」


 見た目通りの少年らしい朗らかな笑顔で語りかける甘寧。

 それに対し、さらに底知れぬ恐ろしさを感じたのか、黄祖達はすっかり萎縮してしまっている。


「凌統、だっけ?」


 甘寧は、凌統の顔を見て言う。


「これから起こること、よーく見ておいてね」


 そう言い残し、黄祖達の方に歩を進める甘寧。

 どういう意味だ?

 絶対絶命の状況にも関わらず、恐怖や諦念よりも、困惑の方が勝っていた。


「どうしたの黄祖ぉ? 何か僕に言いたそうだねぇ?

 言ぃぃぃぃってご覧よぉぉぉぉ聞いてあげるからさぁ?」


 呼吸が荒い。今の黄祖に、かつての豪放磊落な親分の面影はどこにもない。

 しどろもどろになりながら、言葉を発する。


「お、おう、お前が無事でよかったぜ……俺ぁ心配して……」



「うううぅぅぅぅそぉぉだぁぁぁぁぁぁぁねぇぇぇぇっ!!」



 場の空気が完全に変わった。甘寧の全身からどす黒い狂気が放たれたのが感じられる。

 凍てつくような、焼け付くような狂気が、通路全体を侵食する。

 見ているこちらまで侵されてしまいそうだ。

 凌統は思い知る……これが、甘寧の本物の狂気。今まで見せていたのは、その表層に過ぎなかったのだ。


 甘寧は笑う。痙攣しているように全身をよじらせ、両の眼を三日月型に歪め、耳まで達するほど口を開いている。


「嘘っ! 嘘っ! 嘘っ! 大嘘っ!

 あんたの顔面と同じぐらい真っ赤な嘘だよ黄祖ぉぉぉぉ!

 そうじゃないだろぉ? 本当に聞きたいのは、何でお前がここにいるんだ、どうしてこの地下道のことを知っているのか、だろぉぉぉ!?」


 黄祖は答えない。何か言いたくても言えないように、口を小刻みに動かしているだけだ。

 恐らくは、彼も初めて味わうのかもしれない。甘興覇の、本物の狂気を。



「調べたんだよ。自分で」


 甘寧は、今までの態度と打って変わって、あっけらかんと答えた。


「いやだなぁ。何年の付き合いだと思っているんだい。君の考えていることなんて大体分かるよ。

 臆病な臆病な黄祖さん。だから自分で探したのさ。どうせ聞いても教えてくれないしね」


 甘寧は、穏やかな笑みを浮かべながら話す。

 だがそれは、相手に安らぎを与えるものではない。

 その対極だ。いつ爆発するか分からない不発弾のごとき恐ろしさが、今の甘寧にはある。


「どうしたの黄祖。いつもみたいに笑わないの?

 ほら、笑ってみせてよ。こんな風に……


 ゲェェェェェェララララララララララララッ!!!」


 再度狂気が爆裂する。声は若いが、黄祖そっくりにかかたいする甘寧。


「黄祖ぉぉ! 君はもう一つ嘘をついたね?

 僕が心配だったってぇ? 嘘だ嘘だ嘘だ!!

 君はさぁ、僕を最前線に放り込んで、自分は秘密の地下道で逃げるつもりだったんだ!

 見捨てるなんて酷い! 今まで君のために尽くしてあげたのに!

 まぁ今までもおいてきぼりにされることはよくあったけどぉ、今回は明らかに違うよねぇ!?

 君は僕を捨てようとした! 邪魔になったから!

 そりゃそうだよねぇ、天下の曹操軍に降るのに、僕みたいなのは余計なお荷物だからねぇ!!」


(やはり、周瑜殿の言われた通り……黄祖軍と曹操軍は繋がっていたのか……)


 甘寧の発言が真実であることは、黄祖の表情が物語っていた。




 黄祖は声も出ない。この男は、全てを見透かしていた。何もかも全てを。

 それでいて、何も知らないふりを装っていたのだ。

 ただの狂人ではない、利口な男であることは知っていた。

 まさか、これほどとは……


「黄祖ぉ! 君は酒の席で言ってたよねぇ!

 敵を騙すのはいい、でも仲間内の嘘は厳禁だって!

 いけないなぁ、親分ともあろう者が禁を破っちゃ。嘘ついた人はどうなるんだっけ? どうなるんだっけぇぇぇぇぇ?」


「……いい加減にしろや、甘寧」


 ようやくまともな言葉を放つ黄祖。その声には、まだ怯えが混じっている。


「さっきから回りくどいんだよ。

 俺にだって分かるぜ……てめぇが何を考えているかぐらい……」

「へぇ?」


 甘寧の笑いが止む。先程の穏やかな表情に戻り、こう言い放つ。



「だったら話は早い。君の考えている通りだよ。


 僕は今から、君たちを、殺す――」



 吹雪のような殺気が、通路を吹き抜ける。

 黄祖の周囲にいる兵が、武器を手にとって一斉に身構える。

 いずれも武将であり、黄祖と共に修羅場を潜ってきた歴戦の戦士たち。


 だが……


 甘寧の手の錨が、音も無く動いた。


 前方の空間を薙ぎ払う錨に、誰も反応することが出来ず……


 彼らは瞬時に、胴体を両断され、その臓物なかみを盛大にぶちまけた。





(は、速い……!?)


 凌統は絶句した。いきなり甘寧が仲間を殺傷した……それもある。

 だが、今甘寧が繰り出した技の速さは、先ほど自分が戦っていた時とは比べ物にならぬものだった……


「ゲェーラララララララララララ!!

 ああ、やっぱりこの笑い方、笑いにくいや。やっぱりこっちの方がいいよね。

 あひゃはははははははは!! ひゃはっ! ひゃはははははははははははははっ!!!」

 

 弾け飛んだ血肉の噴水を目に焼き付けながら、甘寧は彼本来の、狂ったような笑い声を上げる。

 

 何とか錨から逃れたのは黄祖だけだった。彼につき従っていた十名近い将は、全員血みどろの肉塊と化している。

 彼の部下とは違い、彼は最初から後退を選んだ……だから避けることができたのだ。



 恐怖と怒気の両立した顔つきで、黄祖は甘寧を睨む。

 

「はっ! そういうことかい……てめぇ、俺らの首を手土産に、孫呉に降るつもりだな?」

(何!?) 

 

 黄祖の発言を聞いて、凌統も驚く。

 甘寧はまだ殺人の余韻に浸っているようで、否定も肯定もしない。


「ゲララララッ! 笑わせんなよ。てめぇみたいなイカれた殺人鬼が、まともな奴らに受け容れられるわけねぇだろ!」


 これについては黄祖に全面賛成したかった。

 甘寧が? 自分達の孫軍に? あまりにも非現実的すぎて、想像すらもできなかった。


「そうかもね」

「なぁ、甘寧……分かってんだろ?

 てめぇみたいな外道を受け容れられるのはよぉ、同じ外道だけだ。

 まさか、今更真っ当な道を歩もうとしよう思ってんじゃねぇよなぁ?

 できるわけがねぇ! 悪党は所詮、死ぬまで悪党……そんなこたぁ、お前自身が一番良く分かっているはずだよな?」

「あら? もしかして、僕を懐柔しようとしてんの?」

「見捨てようとしたことは謝る。すまなかった、許してくれ……

 俺とお前、一緒に曹操軍のところへ行こうじゃねぇか」

「そうだね、黄祖。君には恩がある。僕が今こうして生きていられるのも、君が漁村で拾ってくれたお陰なんだろうね」

「そ、そうだ! どうしても放っておけなかったんだよ! お前を!」

「君には感謝すべきだろう。食糧、居場所……

 それに何より、戦う場所を……人を好き放題に殺せる場所を提供してくれた。

 この八年間、結構楽しかったよ。君は僕にとって、父と呼べる人なのかもしれないね。





 でも――」





 次の瞬間……




 黄祖の右腕は、肘の辺りで切断されて飛んでいた。



「ゲ、ゲェェェェラァァァァァァァァァァァァッ!!!」



 悲鳴をあげる黄祖を酷薄な笑みを浮かべて見据える甘寧。




「それが、僕が君を殺さない理由はならない」




 黄祖は、義腕である左腕で切断面を抑えつつ、その痛みにのたうち回る。

 傷口から流れる鮮血が、地面を更に赤く染めていく。

 黄祖とて一流の武将……それが、気圧されていたとはいえ、刀を抜く暇もなく右腕を切断されるとは……

 甘寧は、そんなかつての主に、歪んだ視線をぶつけると……


「ねぇ黄祖、君の考えは大体当たっているけど、やっぱり不正解だ。 

 僕が人殺しをする理由は、いつでも、どこでも、誰が相手でも関係ない……たった一つ!


 殺したいから殺す! それだけだよ……!」


 そう言い放ち、再び狂気に満ちた笑い声を上げる。


 世俗の倫理も、盗賊の掟も関係ない。彼はただ、人を殺したいという欲望にのみ従って動く真性の狂人。

 情や恩義は、彼を縛る枷にはなりえない。

 そもそも彼は、実の両親であろうと既にその手に掛けているのだ。



「あひゃはははははははははははっ!!!

 いい格好だねぇ、黄祖ぉ!! 左腕だけ義手じゃ不恰好だろう? だから左右揃えてあげたんだよ!!

 ひひゃははははははははっ!!!」

「こ、このガキャァ……!」

「君が言ったんだよ? 僕は外道で救いようの無い悪党だって!!

 でもね、僕も一つ教えてあげるよ。本物の外道は、自分が外道だとは言わない。

 相手を外道と呼ぶ者は、所詮は本当の悪を知らない、外道未満の半端者だってね!!」 


 確かに黄祖は、己の欲望の為に平然と他者を犠牲に出来る、外道と呼べる存在だ。

 だが甘寧は、道を外れているのではなく、唯一無二の己の道だけを突き進む存在なのだ。

 彼は、同じ外道を相手にしても、共感や友情を抱いたりはしない。

 彼にとっては、善も悪も関係ない。

 相手が誰であろうと、いずれは解体し血と臓物をぶちまけるための動く肉袋に過ぎないのだから……。



 またも、甘寧の手の錨が動く。その黒き刃は、生者を刈り取る死神の鎌だ。

 

「ひ、ひぃぃぃぃぃぃ!?」


 黄祖は、思わず体を芋虫のように丸める。その上を、錨が通過していく。

 殺そうと思えばすぐにでも殺せた。だが、今のは黄祖に恐怖を与えるためだけのものだった。


「ひぃひゃははははは!! 怖い? 怖い? 怖い!? 怖いよねぇぇぇぇ!?

 それが君の本性だよ黄祖!! 君と一緒に過ごしていてよくわかったよ! 君が僕を心底恐れていることがね!!

 僕に気取られまいと、酒に溺れ、必死に虚勢を張って痩せ我慢している姿は中々に滑稽だった!!

 見物だったよ! 君と過ごした八年間、本当に、本当に本当に楽しかった!!」

 

 全て……全て見抜かれていた。自分の腹も、計画も、内なる心も全て……

 愚かだった。あの漁村で、あの子供を拾いさえしなければ……!

 こんな化け物を飼い慣らそうとしたなどと、どこまでも浅はかだった――!


「極限の恐怖もまた、命を価値を高めてくれる……

 それはまさに、長い時間を掛けて醸成したお酒のよう……君が好きで好きで仕方が無いお酒だよ!

 ずっと楽しみにしてたんだ! 君という酒樽を割って、中身をぶちまける時をねぇ!!」


 甘寧の目には、自分に怯える黄祖が極上の美酒のように見える。

 彼にとって見た目の美醜など全く意味の無いもの。

 彼が興味を示すのは、ただその肉の中に詰まったなかみだけだった。


「や、やめろ! く、来るなぁ!! 来るんじゃねぇ!」


 もはやいかな説得も通じないと理解したのか、黄祖は残る両脚をばたつかせ、必死で命乞いする。

 既に彼は、まな板の上で活け作りにされるのを待つ鯉でしかなかった。

 そんな彼の足掻きは、甘寧の嗜虐心を満たす結果しか生まない。

 黒い錨が振り子のように振れ、黄祖の両足を切断する。


「ぎょえるぁぁぁぁぁぁっ!!?」


 これで黄祖は四肢を失った達磨状態となる。


「あひゃはははははっ!! 駄目だよ黄祖ぉ!

 君はそうやって命乞いして人達を、一体何人殺して来たと思っているんだい?

 自分だけ助かろうなんて、虫が良すぎるよねぇ? なーんて、凌統なら言うんじゃないかなぁ?」


 今度は義手になっている左腕を、肩口から切り飛ばす。


「ぎぃへぇっ!!」


 悶え苦しむ黄祖を愉しそうに見遣ると、背後にふり向き、凌統に意味ありげな視線を送る。


「よぉし! それじゃあ僕もやってみよう! 正義の味方って奴をさ!

 やいやい黄祖! 今までお前に虐げられてきた人達の恨みつらみ、体で思い知れぇ!

 この僕が成敗してやる! なぁぁんちゃってぇあひゃははははははははっ!!!!」


 今度は胸板が裂かれる。次は腹、その次は腰……錨が揺れ動く度、黄祖の体は切り裂かれ、口に溢れる血で濁った悲鳴をあげる。


「ごはっ! ごぶっ! げはぁっ!」


「今のは名も無き村人の分! これも名も無き村人の分! 

 これも! これも! これも! これも! これもこれもこれもこれもこれもこれもぉぉぉっ!

 ひひゃっ! ひはっ! ひひゃはははははははは!!! くひひゃははははは!!

 いぃぃひゃはははははははははははははっ!!!!」


 狂笑に顔を歪ませ、黄祖の身体を切り刻む。

 その瞳は、至上の歓喜に潤い、輝いている。

 大量の脂肪あぶらと共に噴出する血肉と臓物を眼に焼き付ける。

 黄祖の命が、これまでの人生の全てが、赤い奔流となりて溢れ出る。

 命が消え行く瞬間こそ、甘寧にとっての至福の時なのだ。


 黄祖……悠々自適に生きてきた彼の最期は、その理想とは程遠い、痛みと苦しみに満ちたものだった。



 黄祖が絶命する瞬間を見切り、仕上げに唯一何の傷も与えていない頭部を切断する。

 宙を舞う、黄祖の生首をつかみ取る。黄祖の首から下は、既に原型を留めぬほどに損壊していた。


「首級、いただきっと」


 返り血で真っ赤に染まった甘寧は、その亡骸を見下ろして言う。


「思った通り、酒臭かったよ、あんたの中身! 何だか、僕も酔っ払いちゃいそうだよ。あひゃははははははっ!」


 それが言葉通りの意味なのか、殺人の快楽に酩酊しているのかどうかは、定かではない……


 甘寧は、黄祖の髭を掴み、うきうきした足取りで凌統の側に近寄る。

 今度は、自分が……凌統は身構えるが、甘寧は人懐っこい笑顔を向ける。


「お待たせぇ。ねぇねぇ、今のちゃんと見てくれた?」

「あ、ああ……貴様、一体どういうつもり……」

「よかったぁ。単に黄祖の首を持っていくだけじゃ、孫呉の人が殺したのを横取りしたと思われかねないからね。

 どうしても、証人が必要だったのさ」

「何……だと!?」

「出来れば傷つけたくはなかったけれど、あんまり君が一生懸命だったから、つい僕もその気になっちゃったよ。

 痛くしちゃって、ゴメンね」


 身体中に震えが走る。黄祖の読みは当たっていたのだ。

 こいつの真の目的は……


「それじゃ、僕は呉軍きみたちに投降するよ。

 取り次ぎはよろしくね、凌統」



 ああ、やはり、そうなのか……

 

 黄祖達を惨殺した甘寧を見て、凌統は確信した。

 彼と自分との間には、考えている以上の差が開いている。その気になれば、自分を殺すことなど簡単だったはず。

 彼は最初から自分を殺すつもりはなかったのだ。左肩に受けたこの裂傷こそ、手を抜いた証拠。

 奴は、致命傷となる首や頭を狙わなかったばかりか、わざと浅く切り裂いた。

 戦闘不能と死の狭間を正確に見切り、凌統を生かしたのだ。


 思えばこの戦、甘寧は孫呉の兵をただ一人も殺していない。

 殺したのは、黄祖とその側近、そして逃亡兵と、どれも黄祖の兵ばかりだ。

 理由は明白……呉に投降するのに、彼らの兵を殺しては都合が悪いからだ。

 甘寧は殺人鬼だが、自分自身の都合が重なる場合は実にたやすく欲望を抑えることができる……そんな男だった。


「ぐ……ぅ……!」


 凌統は、かつてない屈辱に身もだえする。


 自分は……利用されたのだ!

 甘寧自身が言った通りだ。自分は、彼が黄祖を殺すのを目撃させるために、この地下道まで誘き寄せられたのだ。

 自分は、甘寧を、父の仇を討つために、必死で努力してきた。

 だが、甘寧にとっては、自分は敵ですらなかった。

 それは、今甘寧の圧倒的な強さを目撃した自分が、一番よく分かっている。

 自分が今生かされているのは、ただ単に甘寧の役に立っているから。自分はただの投降を有利にするための、証人でしかなかったのだ。


 自分の生殺与奪の権利は、この世で最も憎いあの男に握られている。

 凌統の復讐の結末は、殺される以上の無念と恥辱で彼を打ちのめした。


「う、うおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」


 やがて、黄祖を追ってきた太史慈の足音が聞こえた頃にも、凌統はその場に突っ伏し慟哭し続けていた。

 甘寧は、そんな凌統を、柔らかな笑みで見つめるのだった。



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