第十九章 孔明の出廬(七)
「おはようごぜぇやす! 劉備さん!」
翌朝……
練兵場を訪れた劉備を迎えたのは、離れた場所からでもよく通る大声だった。
それに続いて、数十人もの兵士が同時に声を上げる。
「おはようございます! 劉備様!!」
その迫力に、思わず気圧される劉備。
だが、数十人の声よりも、最初に声を放った一人の男に一番迫力を感じた。
「お、おぅ。文長、おめぇも来てたのか」
「へい! 今日劉備さんが出発してから、ちょうど入れ替わりに」
劉備一行の前に駆け寄って来たのは、劉備はおろか関羽をも上回るほどの大男だった。
頑強な肉体を荊州軍の軍服に身を包み、尖った銀髪を後ろに逸らせ、額を晒している。
その顔に浮かべた笑顔は、安らぎどころか獰猛さを感じさせるものだった。
彼の名は魏延。字は文長。
劉表の家臣で、荊州軍の将軍である。
軟弱で知られる荊州軍の中にあっても、彼だけは別格。
その巨体に見合った武力の持ち主で、以前張飛と御前試合をやって引き分けたこともある。
背中に下げた、鋸のような刃を備えた大振りの蛮刀が、彼の気性の荒さ、闘争心の高さを具現している。
劉備が荊州に入った時、魏延は彼と知り合い、その器に惚れ込んだ。
強大な曹操軍を敵に回しても、なお懸命に抗おうとする姿に真の“漢”を感じたのだという。
徐庶とは体格も性質もまるで違うが、劉備に熱烈な信望を寄せているという点では共通している。
今では本来の家臣である劉表以上に、劉備を慕っている。
もし曹操が荊州に攻めてくれば、体を張って劉備を護ると常日頃から公言している。
「そうか、今日は合同訓練の日だったな」
魏延は、彼が率いる軍と劉備軍との合同訓練のため、頻繁に新野城を訪れていた。
しかし本当の目的は、ただ劉備と会いたいからだろう。
「へい、そうです。ところで……聴きやしたよ! 劉備さん!!
何でも、諸葛孔明ってえらい学者を仲間に引き入れたそうじゃねぇですか!」
「ま、まぁな」
劉備は冷や汗を流しつつ、魏延と一定の距離を取る。
この男、その場の勢いで肩を叩いてくることがあるからだ。
力の加減を誤られれば、骨を折られる程度では済まない。
しかし……学者か。仲間に引き入れておいて何だが、未だに奴が何者なのかはっきりしない。
学者、軍師、それともただの怠け者の引きこもりか……
呵呵大笑する魏延。
「さっすがは劉備さんだ!!
その天下万民を想う熱い拳にかかりゃあ、孔明だろうが何だろうがイチコロって奴ですねぇ!!」
「いや、別に殴り合って和解したわけじゃねぇから……」
劉備の脳裏には、夕日の差す丘で殴りあい、互いに大の字になって健闘を讃え合う自分と孔明の姿が浮かんだ。
「あははははははは!! 分かってやす! 分かってやす!!
所謂大徳って奴でしょ? 武器も拳も使わず、その桁外れの存在感だけで孔明を感服させちまったってわけだ!!
やっぱ劉備さんはすげぇ“漢”ですわ!
あはははははははははははははははは!!!」
絶対に分かっていない……劉備は内心ぼやく。
口調はまるで違うが、言っていることは大体徐庶と似ている。
ただ彼の場合は、徐庶のような天下大義のため、というよりは劉備本人への尊敬の念がより強い。
「それにしても……劉備さんに三度も足を運ばせるなんて、孔明ってのはふてぇ野郎ですね。
もし三度目も追い返すなんて舐めた真似しくさった日には……俺自ら乗り込んで、その首根っこを捕まえて引っ張ってくるとこでしたよ!!」
「は、はははは……」
笑えない冗談である。
もしあの孔明のだらけた姿を見たら、この男は即座に堪忍袋の尾が切れて、大暴れ。
その挙句、庵そのものを破壊しかねない。
「……何馬鹿なこと言ってんだよ」
小声で呟く張飛だったが、その一言を魏延は聞き逃さなかった。
「あー!? んだとこらぁ!?」
腰を屈め、張飛の前に顔を寄せる魏延。
それを張飛は、心底うんざりした顔つきで見据える。
「大体よー! てめーら劉備さんと一緒に行っていながら、ただぼけぇーっと突っ立ってたのかよ!!
てめーらがもっとしっかりしてりゃ、劉備さんを三度もあんな山奥に行かせることはなかったんじゃねぇか? おぅ!!」
魏延は劉備に対しては熱烈な敬意を払っているが、関羽と張飛ら兄弟は別だ。
特に張飛には、見た目が子供程度にしか見えないこともあり、内心見下した態度を取っている。
それどころか、劉備が今まで中華を放浪し、苦労しなければならなかったのは、彼らが無能なせいだとさえ思っている。
「ああ!? いもしなかった奴が知った風な口利いてんじゃねーよ!!」
「益徳、少し落ち着け。魏延殿もだ」
売り言葉に買い言葉、すぐに喧嘩に発展すると見越した関羽は、急いで張飛を制止する。
魏延も、関羽に対しては一目を置いているのか、ここは口を紡ぐ。
張飛は納得行かない様子だったが、あんな子供じみた挑発に乗るのはどうかと考え直し、ため息を付いた後にこう言う。
「劉備さん劉備さんって……なぁ魏延よぉ。そんなに兄貴が好きなら、兄貴の部下になっちまえばいいじゃねぇか」
俺は嫌だけどな……
今度は言葉にせず、心の中でのみで呟く。
だが、この台詞は魏延には効果覿面だった。
「む! そ、それは魅力的ではあるのだが……むぅぅぅぅ……」
魏文長の根幹を成しているのは、いかに漢らしく生きるか、だ。
劉備の姿は、彼が追い求めている漢に限り無く近い。少なくとも、魏延の目にはそう映っている。
だが、自分は一度劉表に忠誠を誓った身。
それを裏切って劉備の下に走るのは、彼の定めた漢の生き様ではない。
だからこそ、魏延は劉備を心の主と見做しながらも、劉表の臣であり続けているのだ。
そこから邪推すれば……魏延が劉備の義兄弟を嫌うのは、旗揚げ時代から同道し、何の気兼ねもなく劉備に忠誠を捧げられることへの嫉妬があるのかもしれない。
「ところでよ、文長。どうなんだ? おめぇが知ってる、今の天下の情勢は」
喧嘩が収まったところでほっとしつつ、魏延に質問する劉備。
比較的劉表に近い場所にいる彼は、劉備以上に世情に通じていた。
魏延は途端に真面目な顔つきになる。
「北の方の反乱は……ほぼ鎮圧されやした。
曹操が、この荊州に攻めてくるのも時間の問題だと、専らの噂です」
「そうか……そうなったら、陸戦じゃまず勝ち目はねぇ……長江に逃げ延びるしかねぇか」
「それなんですがね……劉備さん、あんまりウチの水軍の奴らを信用しねぇ方がいいですぜ」
「へぇ? お前がそれを言うか」
身内のことを語る魏延の顔は、隠せぬ不快感に満ちていた。
「奴らは所詮水賊上がり、元は漢の風上にも置けない外道でさ。裏で何を考えてやがるか分かったもんじゃねぇ」
「……裏で曹操と通じている可能性も、無きにしも非ずってか……」
「恥知らずの奴らなら……あの“死神”蔡瑁なら、やりかねねぇです」
魏延の話を聞き、劉備は考え込む。
(……信用できねぇのは水軍だけじゃねぇ。荊州軍そのものってことも……)
相手はあの曹操軍だ。獅子は兎を狩るにも全力を尽くす。
正面から戦を仕掛ける前に、より優位な形で開戦するため、荊州を内側から崩そうとする可能性が高い。
特に今は、後継者争いで家臣が真っ二つに割れている最中だ。
曹操ならば、彼らの内紛に漬け込むことなど造作もあるまい。
袁紹亡き後の袁家との戦でも、曹操は袁家の後継者争いを煽り、敵軍を次々に離反させ、戦を最小限に留めて勝利を収めてきたのだ。
今回もそれと同じだ。荊州の内部を揺さぶった後、圧倒的兵力差で脅しかけ、劉表に降伏の意志を固めさせる。
常に保身を気にするあの劉表のこと……最後は呆気無く降伏するのだろう。
そうなれば、劉備の存在は無用の長物どころか、危険因子となる。
もはや荊州で安穏と過ごせる時期は、終わっているのかもしれない。
「劉備さん……はっきり言って、荊州の中でも曹操に降伏しようって意見が半分以上を占めていやす。
劉表様だけが、まだ意見を露にしてねぇですが……」
魏延も内心では分かっているのかもしれない。
劉表さえも、既に降伏の意志を固めてしまっていることを。
それでいて、魏延自身は劉備に従って曹操に抵抗しようとするつもりでいる。
彼の言う、あくまで己の君主に従う“漢の生き様”と矛盾していることに、彼は気づいているのだろうか……
「ですが、劉琦様なら……あの方は、劉備さんの理想に殉じる覚悟を決めていやす。
あの人が次の荊州の主になってくれれば、荊州は君命により一丸となって、曹操と戦うでしょう。
蔡瑁の奴ぁ、次男の劉琮様を担ぎ上げようとしていやすが、結局あの人は次男坊、最終的には劉琦様が主になられるはずです。
そしてゆくゆくは……」
劉備に、荊州の統治権を譲り渡す……
「そ、その話はまた今度……それも、劉表が引退すればの話だろ……」
苦笑混じりで話を逸らす劉備。
魏延が自分に何を期待しているのかは分かっている。彼自身も気づいていない、無意識の願望であろう。
劉備は劉表の庇護下で、七年もの間荊州で過ごしてきた。
だが、その七年の間に劉備の元には多くの兵や人材が集まり、荊州軍の中にも、魏延のように劉備に共鳴する勢力も少なくない。
潜在的な劉備の勢力は、今や荊州軍全体をも凌駕しつつあるのだ。
今ならやれる。
劉表を斬り、反乱を起こし、荊州を奪い取る――
そうすれば、確たる基盤が出来、曹操に対抗することができるだろう。
そして南の孫権と手を組み、荊州と揚州に天下を打ち立てる。これもまた、天下三分の一つの形だ。
しかし……
自分の最大の武器は、仁義と大徳の英雄という声望だ。
これがあるからこそ、劉備は裸一貫になろうとも、多くの英傑が彼を慕って集まってくる。
恩人を裏切り、力ずくで州を乗っ取るというやり方は、劉備の名声を地に落としはしないか……
確かに、自分の領土を手に入れることによって生まれる利益は計り知れない。
だがそれでも、曹操軍の強大さに比せば気休め程度のもの……
もし、荊州を奪った瞬間に曹操が総攻撃を仕掛け、また全てを失ってしまったら……今度こそ、劉備には何もなくなる。
運良く生き延びられても、もう誰も劉備を保護しようとしないだろう。
そんなことで、孫権との同盟も上手く行くはずが無い。
合理的に考えて……荊州を乗っ取るという選択は、最善ではない。
本当に?
本当にそう思っているのか?
劉表を斬らないのは、ただ自分の名声を損ねたくないだけか?
合理的という言葉は、臆病な自分を慰めるためのものではないのか――?
ああ……分かっている。
自分はまだ、曹操のように全てを理で割り切れてはいない。
劉表はただの隠れ蓑であり、自分の覇業の為に礎に過ぎないということが分かっていても……心の奥底で、彼に同情してしまっている自分がいる。
彼を殺したくないあまり、合理的という言葉に逃げているだけだ。
人を救いたい。人を殺したくない。
では、人を救うために人を殺すことはできるのか?
劉表は、己の自尊心を満足させる為に、劉備を託っている。
劉備もまた、曹操から逃れるために劉表を利用している。
二人の間にあるのは思いやりなど微塵も無い、ただの利害関係だ。
だが、劉表の庇護がなければ、自分は今日まで生き延びては来られなかった。
どれだけ否定しても、そこに恩や情が生まれるのを抑えられない。
覇業を歩む者には、全く必要の無いものだ。恩情とは相手に“抱かせるもの”。
自分が持っていたところで、ただの枷にしかならない。
劉表にとっては、自分はただの使い捨ての駒。切り捨てるのに一片の未練もあるまい。
しかし、相手が情を向けてくれないから、自分は情を向けないことなど……本当にできるのだろうか。
単純な利害関係では割り切れない。それが正しい人間の姿というものだ。
だが、人間の理に囚われているようで、人間の理を覆すことなど、できるのか?
自分はまだ……内なる“病”を克服できていない。
この七年間……自分は何一つ変わっていない。
決定的な矛盾を抱えながらも、答えを出すことができず、それでも前に進み続けている。
全部孔明の言ったとおりだ……
自分は……他人はおろか、自分自身の本性にすら、嘘をつき続けている。
もうそれが、嘘か真か分からなくなってしまうほどに……
魏延軍との練兵を終えた後、劉備は書庫を訪れていた。
気分が晴れない時はここを訪れ、一心不乱に学問に励むのである。
曹操とは、覇者としての姿勢だけではない、知識や経験といった基本的な能力差で遅れを取っている。
少しずつでもいい……それを埋めていく必要がある。
結局、この日孔明は練兵場に姿を現さなかった。
(あのヤロー、自分が何のために雇われたのか、分かってんのか?)
一応軍師という触れ込みで劉備軍に参加しているのだ。
奴の頭の出来がどの程度かは知らないが、それらしく振舞ってもらわないと、下に示しが付かない。
まして、あの自堕落な本性を、他の者達に見られた日には……
「なぁ!?」
劉備は素っ頓狂な声を上げる。
孔明は横に長い椅子の上に仰向けに寝転がり、書物を読んでいた。
周辺には、既に読み終えたものかこれから読む予定か、何冊もの書物が乱雑に散らかっている。
しかし、劉備を驚かせたのは孔明がここにいたことではなく、その格好だった。
白い羽織ではなく、白い着物の上に紫色の衣を着込み、髪留めも解いて長い黒髪を背中に広げている。
無名庵で会った時と同じ、怠惰な美女の姿であった。
「お、お前!? 一体何やってんだよ!?」
慌てて声を掛ける。諸葛亮は面倒くさそうな動作で、視線を書物から劉備に移す。
「あら、見てわからないの?
『私は今本を読んでいます』なんて教科書的な答えを期待しているわけ?
それなら、『貴方は今何をしているのですか?』と教科書的に質問して欲しいわね」
その人を虚仮にした態度まで、素の孔明のままだ。
「そうじゃねーよ! 孔明! てめーは男ってことで劉備軍に入ったんだろうが!
それに、そのだらけきった姿を他の奴らに見られたら……」
「孔明? 誰のことかしら?」
「おいおい、怠けすぎて自分の名前まで忘れちまったのか?
いいか、てめぇはな……」
完全におちょくられている。
そう見做した劉備は引き攣った笑みを浮かべ、こめかみに十字型の血管を浮かせた。
孔明は、劉備が何か言う前に、落ち着き払って告げる。
「私の名前は黄月英。諸葛孔明の妻よ」
「ああ!? 孔明の嫁だぁ? 何言ってやがる、孔明はてめぇ自身……」
そこで劉備は思い至る。
「……なるほど、そう言うことか。
考えてみりゃ、てめぇが四六時中あんなお上品な態度取っていられるわきゃねーもんな。
だからといって、今までの高潔で聡明な、天才軍師サマって印象を崩しちまったら色々とやりづれぇ。
世の殆どの人間は、てめぇの本性を知ったら絶対落胆するだろうし、今までみたいにちやほやされなくなるもんなぁ。
だったら、演技のお前と本当のお前、別人ってことにすりゃあいい」
「これが本当の私って言うのは簡単よ。だけど、人間は先入観と現実との乖離を中々埋められない生き物。
現実を見せ付けられたところで、戸惑うばかりで中々それを受け容れようとしない。
それについていちいち対応するのって、本当に面倒くさいのよ。貴方にとってもそうでしょ?」
「確かにな……つか、その面倒は全部俺に押し付けられそうな気がする」
「でしょ? 貴方と私、双方にとって利益のある提案だと思うけど?」
「分かったよ。今のてめぇは、諸葛孔明の嫁、黄月英だ」
「別に偽名って訳でもないのよ。黄月英は、現実に私が女として使っていた名前。
更に言えば、諸葛孔明ってのも本名じゃないの」
「本当の名前は何てぇんだ?」
「さぁて、忘れちゃった」
長い長い年月を生きる間で、名前など数え切れないほど変えてきた。
性別や身分も様々だ。もはや正確な記憶など残っていない。
何人もの人生の積み重ねが、今の孔明なのである。
ここで、劉備は意地の悪い笑みを浮かべる。
「しかし、ある意味筋が通っているぜ。
てめぇみたいな世の中舐め腐った引きこもり野郎の嫁か旦那になれるのは、てめぇ自身しかいねーわな」
「失礼な上に物の価値を知らない男ねぇ。
妻帯者、あるいは夫持ちってことにしているのは、余計な虫が寄り付かないようにするためでもあるのよ。
この世に並び立つ者の無い美男美女の夫婦なら、誰だって諦めが付くわ。
ほら、私って軽く絶世の美男子か、傾城の美女ぐらいは行ってるでしょ。
ひょっとしたら……この美しさで知らない間に、誰かの人生を狂わせているかもしれないわね」
「自惚れもそこまで行けば立派なもんだ」
「悲しいわね。目に見える美しさを否定するのは、劣った自分を認めたくない心の表れよ」
「俺は人の内面で美醜を判断するものでね。
俺の目からは、てめぇは木にぶら下がって一日中ぼんやりしている、毛むくじゃらの獣にしか見えないぜ」
孔明は、その獣の姿を思い浮かべ、なる程そんな生き方も悪く無い……と思っていた。
「そういや、あんたの本性を知っているのは、俺と徐庶だけだな」
「徐庶は全然大丈夫。いつもみたいに何か深い考えがあるんだろうと勝手に了解してくれたわ。
ま、私の本性が知れたら、私を紹介したあいつも困るしね」
それならば、騙しきるのも容易いだろう。
「そりゃ結構なことだが、何だってあいつはそんなにてめぇを信じきれるんだ?
純粋というか何というか……」
「純粋っていい言葉よね。どんな無知無能無思慮であっても、純粋というだけで好意的に解釈できてしまう。
何を犠牲にしてでも、この天下を救ってやろうなんて大それた望みも、純粋だったら許されるのよねぇ」
「……悪かったな」
「あら? 別に私は貴方のことを言ったつもりは無いけれど?」
孔明は意地悪そうに笑ってみせる。
「諸葛孔明は曹操に勝つ秘策を考える為、一人部屋に篭って必死で知恵を絞っているって城の連中には説明してあるわ。
集中力を極限まで研ぎ澄ます必要があるから、部屋には誰も入れないようにって」
「その間てめぇは怠け放題か。ひでぇ詐欺だ。
つか、嘘設定でもてめぇは引きこもりなんだな……」
「あら、私は軍師よ? 人を騙し、欺き、裏をかくのがお仕事。
敵を騙すためにはまず味方からって言うでしょ?」
「てめぇの場合は全部自分の都合でやっていることだろうが!
まぁいいさ……それよか、軍師を名乗るなら、それ相応の働きを見せてもらいたいもんだなぁ?」
「しているじゃない。だから、今こうやって勉強しているのよ」
「ほう、かの諸葛孔明様が読まれるほどの書物だ。俺なんか目を通すのもおこがましい、高尚で難解な書物なんだろうなぁ?」
「そうでもないわよぉ。初めて読む本だけど、結構面白いわ。
私思うんだけど、役立つ兵法書って読み物としても面白いのよね。
これは兵法書に限った話じゃなく、実用書全てに言えること。
どれだけ内容が詰め込んであろうとも、素人の頭では理解できない難しい言葉を並べ立てて、実際には何の役も立たない本なんて、作者の自己満足の極みだと思わない?」
「お前も大概自己満足だけで生きてる人間だと思うがな。で、そんな面白いのかそれは」
「内容自体はまぁまぁってとこね。でもね、この注釈がやたら面白いのよねぇ」
「注釈?」
「そう、貴方もよく知っている……あの曹操が付けたものだそうよ」
「曹操だと……?」
劉備は、漢王朝にいた頃のことを思い出す。確かあの時、曹操が言っていた……
自分は、ある古代の兵法書に注釈をつけていくのが趣味だと。
何冊か紹介されたことも覚えている……
「ち、ちょっと待て……お前、今どんな本を読んでんだ?」
劉備は孔明の傍に寄り、彼女が持ち上げている本の表紙を見る。
それを見た劉備は、驚愕に顔を凍りつかせる。
「お、おおお、お、おま……」
「なぁによ、陸に上がった魚みたいに……」
「お前……これを今まで一度も読んだことがねぇって言うのか?」
「うん」
あっさりと頷く孔明。
本の表紙には、「孫子」と書かれていた。
「じゃ、じゃあ、この辺に転がっている本も……」
孔明は、やはりあっさり頷いてみせる。
他の本は、「呉子」や「六韜」と書かれている。
少なくとも、軍師を志す者ならば、どれも一度は目を通しておくべき書物だ。
「何よぅ、そんなに有名なの? この孫さんって人は」
「………………」
こ、こいつ……こいつはっ……!
その先は、恐ろしくて言えなかった。
自分は、ひょっとしたらとんでもない思い違いをしていたのではないか……
今度ばかりは、これが彼女流の冗談であると本気で祈りたかった。
<第十九章 孔明の出廬 完>
第十八章 覇王の生誕(七)にいくらか加筆しました。
楽進と許楮の戦闘シーン追加。