第十九章 孔明の出廬(四)
明朝、新野城の留守を趙雲に任せ、劉備三兄弟は徐庶に先導され、諸葛孔明の住まう庵へ出立した。
途中立ち寄った村で話を聞いてみたが、やはり孔明に関する詳しい情報は得られない。
だが、村人は何故か諸葛孔明の名前だけは皆知っていた。
何でも、数年前劉表の手の者が、諸葛亮、孔明なる人物を知らないかとあちこちの村に聞いて回ったそうだ。
一時期は懸賞金までかけられたらしい。そんなことなら、劉表からいくらかせしめておけばよかったと劉備は一人ごちる。
どうやら劉表は、城の者に口止めしつつ諸葛孔明を探していたらしい。
さすがに村人の口まで戸は立てられなかった。
劉表の思惑が気になるが……まずは諸葛孔明とやらに会ってからだ。
劉備の中でも、孔明への興味が膨れ上がるのを感じていた。
「こちらです、玄徳様」
徐庶が導く先は、およそ人の寄り付かぬ深山のさらに奥だった。
木々が生い茂り、天然の岩石や河川が行く手を阻む、馬でさえ歩くのが困難な、まさに秘境である。
そもそも荊州は、このような人の住めぬ未開拓の土地が半分以上を占めている。
荊州が中原の戦火から逃れてきたのも、まず使える土地が少ないからだ。
「なるほど……こりゃ、劉表が手を尽くしても見つからねぇはずだ」
武将である彼らにとっては、この程度の悪路は何と言うことはない。
関羽や張飛にとっては、軽い自然散策も同然だろう。
ただ、この森林にはそもそも道が存在しない。どこもかしこも同じような景色で、道順を知っている徐庶の先導が無ければ、とっくに道に迷っていた。
野性の熊や虎に遭遇したこともある。最も彼らは武将にとっては脅威ではなく、遭難した時の貴重な食糧源だ。
彼らも力の差は分かっているのか、関羽と張飛の闘気を感じただけで逃げていった。
「孔明先生がここに住まわれるようになったのは、三年ほど前のことなんですよ」
「え?そうなんか?」
「あの方は、見聞を広めるために中華全土を飛び回っておられます。
荊州だけでなく、中華のあちこちに、御自身のための庵を造っておられるのです」
「そこも、ここみてーに人の寄り付きそうもねぇ場所にあんのか?」
張飛が口を挟む。
「はい、私は行ったことはありませんが、我が師の話では、断崖絶壁の中に築かれた庵もあるとか……」
「中華のあちこちの、こんな迷路みてーなとこに家作ってんのか。
俺には、いつでもどこでも、徹底して人と関わりたくない、気合いの入った世捨て人としか思えねーぜ」
張飛は、最初からただの変人と決めてかかっている。
その物言いが気に入らないのか、徐庶はやや憮然となる。
「孔明先生には、私のような小人には計り知れない、深い考えがあられるに違いありません。
あえて俗世から距離を置くことで、世の中を曇りなき目で見つめ直そうとされているのでは……」
「はっ、そんなもんかねぇ」
張飛は、そういう現実から逃げているような人間を信用しない。
生きることは戦いだ。奪い合いだ。
争いも苦しみもない場所にいては、決して分からない地獄がそこにはある。
貧困の闇底では、血と暴力が全てを支配する。
偉大な学者が語る、綺麗事などありはしない。
自分以外は全て敵、奪った者が勝ち、弱者はただ踏みにじられるだけ。
だが、そんな地獄だからこそ、生まれる信頼もある。
ただの憐れみではない、自ら傷ついてでも、他者を助けようとした者ならば、本当の信頼を抱くことができる。
それこそが仁義だ。言葉にできない本物の繋がりだ。
自分達三兄弟は、この世の煉獄をくぐり抜けてきたからこそ、強固な絆を築いて来られたのだ。
諸葛孔明がどんな輩であろうと、あの地獄を知らぬ者に、自分達の志がわかるものか。
関羽は、また別のことを考えていた。
人の寄り付かぬ奥地に点在する諸葛孔明の庵……隠れ家と言い換えてもいいだろう。
住家を変えながら、各地を転々とする孔明は……まるで、何かから逃げているようではないか。
やがて……岩肌の目立たぬ場所に開かれた洞窟をくぐり抜けた先に、諸葛孔明の庵は姿を現す。
真上には青空が見え、周囲を岩肌で囲まれている。
山頂から垂直に開いた空洞部分に、この隠れ家は存在しているのだ。
普段は、あの入り口は重い岩で閉ざされているという。それなら、偶然人が洞窟まで辿り着いても、庵を見つけることは叶うまい。
孔明の庵は四方を壁に囲まれていて、正面には門扉が見える。
門の上には簡素な字体で、無名庵と書かれていた。庵の名前まで簡潔である。
「鬼が出るか蛇が出るか……一丁行ってみっか」
門の前に立つ劉備三兄弟。そこを徐庶に引き留められる。
「お待ちください」
「何だい、まずはあんたが取り次いでくれるってか」
「い、いえ……大変申し上げ難いのですが……
孔明先生からおおせつかっています。
庵の中に入るのは、玄徳様ただ一人にしてくれ、と……」
「なぁにい!?」
いきり立つ張飛。
「も、申し訳ありません!
ですが、孔明先生は静寂を好まれる方。玄徳様とは、二人きりでお話をしたいとのことで……」
「ああ、いいぜ」
不満顔の張飛をよそに、劉備はあっさり承諾する。
「あ、兄貴!」
「益徳、雲長、悪いがしばらくここで待っといてくれ。
諸葛孔明とは、俺一人で話をつける」
「分かった。何かあればすぐに我らを呼んでくれ」
相手が何者かも分からない以上、その本質を見極めるためにも、相手の流儀に従ってみる。
関羽は劉備の意図を汲んだ。
「本当に申し訳ありません、玄徳様」
重ねて謝罪する徐庶。
「じゃ、ちょっくら行ってくっかぁ」
関羽らに背を向け、門扉の前に立つ劉備。
まずは、門をニ、三度叩いてみる。すると……
声もなく、音もなく、門扉が内側に開かれる。
孔明か、使いの者が出てくると思っていた一同は、思わず面食らう。
「な、何だこりゃ……?」
門の奥に、人の姿は見えない。劉備が門を叩いてから、一秒も経たずに門が開かれた。
門がひとりでに開いたとしか考えられない。
「どうなってんだこりゃ、機械仕掛けか?」
門の両側を調べてみるが、そのような機構は見当たらない。
「兄貴ー、怖いなら一緒に行ってやろうかー?」
狼狽する劉備を見て、茶化す張飛。
「余計なお世話だ! あれだ、想像以上にゆるい門で、俺が叩いただけで開いちまったのかもな!」
自分でもそれはないと思いつつ、気力を奮って門の中へと踏み込む。
関羽らは門の外、ここからは本当に一人だ。
庭には木々が生え、その先に見える庵は派手な装飾もなく、質素にまとめられていた。
あの中に、諸葛孔明がいる。
だが、会う直前になっても、劉備は一体あそこに何をしに行くのか分かっていない。
何しろ諸葛孔明なる人物について、まだ何も分かっていないのだ。
徐庶や劉表の評価を鵜呑みにはできない。
そんな状態で、一体何を話せばいいのやら……
徐庶や劉表は、劉備の大徳があれば上手く行くと決め付けているが、徳だけで人を説き伏せられれば苦労しない。
人の信頼を得るには、その場の閃きではない、相応の下準備と根回しが要るのだ。
庵に近付いた途端……
「どうぞ、お入りくださいませ」
透き通った女性のような声が聞こえてくる。
門の時と同様、ひとりでに襖が開き、劉備を内へと導く。
それからもう一つ襖を越えた先の居間で……劉備は諸葛孔明と相対する。
諸葛孔明は、卓を挟んだ先に一人鎮座していた。
その姿は、劉備にとっては意外なものであったが……得体の知れない人物という先入観にはそぐわぬものだった。
腰まで真っ直ぐに伸びた黒一色の髪が、床に広がっている。
細い眉の上で切り揃えられた前髪の下には、大きく開かれた紫色の瞳な覗いている。
滑らかな白い肌に端正な顔立ち、紫色の衣を着物を着て、姿勢正しく座っている様は、美しさを越えた荘厳ささえ感じられた。
こいつが、諸葛孔明……!
彼女(あるいは彼)に対し、劉備が最初に抱いた印象は、およそ人間とは思えない……といったものだ。
それは、単に人間離れした美貌というような、程度を表す意味ではない。
およそ人間という枠組みから逸脱した存在……
まるで、絵画の中の美女を見ているように、現実感に乏しかった。
劉備が抱いたのは、美への憧憬や羨望とは程遠い……異質なるものへの困惑、そして警戒だった。
その直後、後ろの扉がひとりでに閉じられる。他の人がいた気配はない。
劉備の驚きを他所に諸葛孔明は自己紹介を始める。
「はじめまして、劉備様。私、姓は諸葛、名は亮、字は孔明と申します。
本日は、かような辺鄙なところへ、遠路はるばるようこそお越しくださいました」
孔明は、にっこりと微笑むと、劉備に歓迎の意思を示す。
実に自然な、礼に則った応対に、劉備は面食らう。
とりあえず、こちらも礼には礼で返さねばなるまい。
「は、はじめまして。俺は劉備、字は玄徳って言います……」
ぎこちなく喋る劉備を見て、孔明はまた微笑む。
「普通に話して下さって構いませんよ。どうぞお座りください」
「あ……じゃ、お言葉に甘えて……」
劉備は座布団の上に胡座をかいて腰掛け、孔明と卓を挟んで向かい合う。
孔明は、聖人のような穏やかな笑みを浮かべたまま、話を進める。
「貴方のことは、徐庶からいつも聞かされていました。天下に大いなる志をお持ちということで、是非ともお会いしたい、とも思っておりました。
ですが、何分私、体が弱く、新野のお城まで行くだけの力など無いのです。
わざわざ足を運んでいただいたこと、あらためてお詫び申し上げます」
孔明は、深々と頭を下げる。
「い、いや、あんたのせいじゃねーっすよ。本来は俺の我侭すからね。それで……」
早速本題に入ろうとするが、まず何から切り出せばいいかわからない。
そもそも、この孔明は天下の趨勢について、どれだけのことを知っているのか。
まずはそこから話さなければならないのだろうか。
だが、劉備の懸念は杞憂に終わった。諸葛亮は手をかざして劉備を押し留める。
「いえ、貴方の事情は、既に徐庶から伺っております。
漢王朝を復興し、天下万民に安寧をもたらす……大変素晴らしい志だと思います。
されど、北の曹操様はあまりにも強大。
ゆえに、それに打ち勝つ知恵を、私に求めに来られた……違いますか?」
孔明は、劉備に説明されるまでもなく、今天下がどういう状況にあるか承知しているようだ。
それならば話が早い。
「ああ、その通りだぜ。教えてくれ、孔明さん!あんたの頭の中にある秘策を!」
諸葛亮は大きく息を吸い込むと、一言で答える。
「天下三分の計」
「天下……三分?」
「はい。現在の曹操様の権勢は、御自身の確たる天下を打ち立てておられることにあります。
あまりにも巨大な勢力を持っておられるがゆえに、民は天下と曹操様を、知らず知らず結び付けてしまわれているのです」
「だってそりゃ仕方ねーんじゃ……は!」
ここで劉備もまた気付く。自分もまた、無意識下では天下は曹操にあると認めてしまっていることに。
諸葛亮はにっこりと笑って続ける。
「そう、表向きの態度はどうであれ、今や中華の民全てが、天下の座は曹操様にあると認めてしまわれている。
それこそが、曹操様の権勢の根底にあるもの。
曹操様が天下の主だという、人々の意識がある限り、あの方の天下は決して侵せません。
曹操様こそが正道であり、刃向かう者は全て逆賊と見なされるでしょう。
天下に反する行為は、志を同じくする民の信を得られます。ですが、それも一時的なもの。
既に確たる天下があり、彼ら自身も内心ではそれを認めてしまっている以上、時が流れるにつれてその熱は冷めていくでしょう。
逆賊であるということは、既に心の中では、敗北者である現実を受け入れてしまっているのですから。
長き中華の歴史を見ても、天下に背く者が、天下を手中に収めた例など存在しないのです。
あるとすれば、天下を治める為政者が民の信を失い、天下を手放してしまった時のみ……
天下の座に無い者が、新たに天下を治める好機はそれ以外に無いのです。
そして、今また天は乱れ、その機に乗じて新たに覇者となった方がおられます」
「それが……曹操、ってか……」
曹操は、既に天下を手中に収めている……
諸葛亮の意見は、冷静になればなるほど、どれも認めざるを得ないものだった。
「つまり、こういうことか。
曹操が既に天下の主になっちまった以上、俺は時代の流れに逆らう逆賊で……
もうどうやっても、天下を取ることはできねぇと……!」
諸葛亮の微笑みは、肯定を意味しているように思えた。
劉備自身も否定できない。その現実があまりに絶望的なものだからこそ、彼は七年間も何も出来ずにいたのだから。
孔明は、劉備にある質問を発する。
「劉備様……天下とは、一体何でしょうか?」
それは、基本的でありながら皆省みることのない命題だった。
「天下が何か……だとぉ? そんなの決まってんだろ。
俺らが今いるここ! 漢の民が暮らす中華の大地全て!それが天下だ!」
「それだけですか?」
「それだけ……って……」
「中華の外はどうですか?
万里の長城を越えたさらに広がる、遥かな大地……黄河、長江を抜け、海を越えた先にある、未知なる大陸。
この世の月と太陽が照らす場所は全て……天下なのではないですか?」
「た、確かにそうだが……そいつぁ、俺らの求めている天下とは違う……」
「違う……それは即ち、天下は一つではない。複数存在するということですね?」
「それは……」
自分でも、どこか矛盾が生じているような気はしている。しかし……
「いえいえ、それで正しいのです。試すようなことを言って、申し訳ありませんでした」
「え?じゃあ、本当に……」
「天下とは世界の全て、ただ一つであるからこそ、天下。
にも関わらず、天下は複数存在する。
つまり、私達が天下と呼ぶ天下は、いくつかに分かたれた天下の一部なのです。
しかし、それもまた天下であることには変わりない。
矛盾ではありません。何故なら言葉の意味とは、元来明確な定義があるわけではなく、その共同体に生きる人々が決めるもの。
言葉が人によって生み出されたものである以上、それは当然の帰結でしょう。
天下とは、ある共同体に生きる人々が、ここまでが自分の領域であると線引きして初めて決定されるもの。
劉備様、貴方がこの中華の大地を天下だと思われているように。
大勢の民が信じていることは、もはや真実と言っても何ら差し支えありません。
そして、天下が人の手で決定される以上……天下を分けることも創ることも、全ては人次第ということです」
「天下を……創る……」
「これまでこの中華では、ただ一つの天下を賭けて、数多の群雄が争ってきました。
そして、最終的に勝ち残られたのが、曹操様……
一度決まった結果は、遍く民の心に刻み付けられ、覆すことなど叶いません。
ですが……“天下を奪う”ことは出来ずとも、“天下を創る”ことは出来ます。
曹操様の天下に捕われることなく、劉備様、貴方御自身の天下を創られませ。
さすれば、貴方を必要する民や、貴方の力になりたいと望む将も自然と集まるでしょう。
それは、貴方の大望を叶える、第一歩となるはずです」
もう一つの、天……
劉備の中に、一筋の光明が射した気がした。
「所詮は言葉のまやかし……そう思われますか?」
「え、そ、それは……」
「お気になさらず。実際、そう思われても仕方がありません。
机上の空論を現実にするには、想像を越える艱難辛苦が、あることでしょう。
ただ、私が言いたかったのは、天下も世界も、結局は言葉でしかない、ということです」
「言葉……」
「不思議なものですね。言葉は人が生み出したものでありながら、人は言葉に縛られずにはいられない。
正義、倫理、規範、慣習……人の社会は言葉で形作られています。
言葉に縛られることで初めて、人は社会で生きていくことができるのです。
裏を返せば……言葉によって、社会を支配し、作り替えることすらも可能。
言霊の力は無限大……
いかな不条理とて押し通す、人が生んだ秘法なのですよ」
言葉……か。確かに、劉備が曹操に対抗するには、唯一の武器かもしれない。
曹操が掲げる合理性……だが、それもまた言葉によって成り立つものであるはずだ。
曹操自身も言っていた。物事の価値を測る物差しは、一つではないと。
価値観がそうであるように、理もまた普遍的なものではない。
完璧に見える理も、見方を変えれば綻びが生じるのではないか。
「あまり抽象論ばかり言っていても仕方ありませんね。具体的な話に移りましょう。
劉備様、まず貴方は、南の孫権様と盟を結ばれなさいませ」
「孫権と、同盟……?」
「はい。劉備様の天下を創る、と申し上げましても、今それを成したとして、曹操様に力で捩伏せられることは必至。
ゆえに、曹操様を除いて最も強い勢力をお持ちの孫権様と手を組まれるのが、現状では最善の策でしょう」
孫権との盟は、劉備も考えていた策だ。
孫家の治める揚州の地は、中原の戦火を逃れたまま今日に至っており、曹操の影響力が薄い。
中原とは違う独自の気風を持つためか、人々の多くは中原の支配を嫌い、独立を主張している。
取り分け領主である孫家への支持は絶大で、孫策の急死という一大事があっても勢力を衰えさせなかったのは、孫家を中心とした江東の民の連帯感に寄るところが大きい。
戦力面においても、兵の士気の高さ、長江という水の利に中華最強と言われる水軍、人材も粒ぞろいで、手を組むならこれ以上の相手はいないだろう。
草庵に引きこもっているようで、中々世情に通じているようである。
「盟を結んだ後、孫権様にも、先程と同じことを申し上げます。
孫権様にも、御自身の天下を創っていただきましょう。
劉備様、貴方は孫権様と手を取り合いつつ、御自分の天下を創られるがよろしい。
さすれば中華に三つの天下が生まれ、曹操様が唯一無二の主であるという意識は消えます。
民が、自分に相応しいと思う天を、自分で選ぶのです。
そして劉備様。貴方は孫権様の天下と共に、曹操様に立ち向かわれるがよいでしょう」
「なるほどな……その策の肝が分かってきたぜ。
孫権との同盟で気をつけることは、俺が孫権の勢力に取り込まれること。
この乱世で、盟なんざあてにならねー。
だが、俺自身の天下を創って、孫権と対等の立場になれば……あいつらの力を借りつつ、独立を保つことができる!」
諸葛亮は笑顔で頷いた。
もちろん、孫権もそう易々と劉備の好き勝手にはさせないだろう。
だが、劉備の持つ戦力は、曹操と戦う上で無視できないはずだ。
力の差がありすぎて、最初から交渉の余地がない曹操とは違う。
対等の卓につくことができれば、そこからが劉備の腕、ならぬ舌の見せ所だ。
盟を結んだところで、曹操との絶対的な力の差は変わらない。
しかし、曹操一人に向かって突き進む、今の中華に新たな風を吹かすことはできる。
人間の社会は、言葉によって如何様にも変わる。
これまでの世界を劇的に変革しうる言の葉……それが……
「天下……三分……」
諸葛亮は、菩薩のような笑みを浮かべる。その時……
「舐めんな」
押し殺した声と共に、卓に銃剣が突き刺さった。
「ど、どうなされました? 劉備さ……」
「猫っ被りはもう十分なんだよ。そろそろ正体見せろよ」
銃剣を卓に突き刺した劉備は、一気に剣呑な雰囲気に変わっていた。
相手を威圧する凄みのある形相に変わり、射抜くような眼光で睨み付ける。
「さっきからへらへら笑いやがって。
見ようによっちゃ聖人っぽく見えるかもしれねーが、俺は騙されねぇぞ。
それは、人を見下して、虚仮にして、嘲笑っている奴の顔だ!!」
実を言うと、今までずっと我慢していたのだ。
少し言葉を交わしたところで、こいつの腹は分かった。
今まで嘘と裏切りの渦巻く修羅場を潜り抜けてきた劉備には、この程度の嘘を見抜くことなどわけはない。
隠された、だからこそあからさまな嘲りに耐えながら話を聞くのは、中々に苦痛だった。
苛立ちが臨界点を越えて、劉備をあのような行動に走らせたのだ。
「てめぇの語る天下はな、軽いんだよ!
天下に挑んでいる奴らは、英雄だろうと極悪人だろうと無力な民草だろうと!
自分の人生を賭けて、己の全てをぶつけているもんだ!
てめぇにはそれがねー!
天下を積み木遊びか何かだと思って、笑いながら玩んでやがるんだ!
そうじゃなきゃ、そんな緩みきった面で、天下の大事を語れるはずがねぇ!!」
劉備の怒声を浴びて、諸葛亮の顔から笑みが消えた。
だが、その顔は、さらにいびつに歪んでいく。
諸葛亮は、天井を見上げて、一声。
「あ~~あ、面倒くさぁ」
先程まで孔明を包んでいた、聖人のごとき雰囲気は完全に消え去っていた。
だらしなく脚を崩し、肘を卓について身体を傾ける。
瞳は半ば閉じられ、表情は寝ぼけているような、緩み切ったものに変わっていた。
絶世の美女も、表情と態度を変えれば、ここまで別人になってしまえるのだろうか。
つくづく思い知る。見た目の美醜など、内面には全く関係ないことを。
「いきなり追い返したら徐庶のバカがうるさいから、当たり障りのないこと言っといて、後は全部徐庶に押し付けようと思ってたのに。
今時曹操に刃向かおうってぐらいのバカだから、ちょっと持ち上げてやれば、あっさり感激して帰ると思ったのに。
バカはバカらしく、持て囃される自分に満足していればいいものを、無駄に鋭いんだから。ホント、面倒くさい男」
先ほどの慇懃な態度は完全に消し飛び、あからさまに劉備を罵る諸葛亮。
指を鳴らすと、どこからともなく羽毛の扇が飛んでくる。
生きた鳥のように空中を飛ぶそれを手に取り、自分に向けて扇ぐ。
「それがあんたの素かよ。いいぜ、その方がずっと腹を割って話せるってもんだ!」
銃剣を卓から引き抜き、再び座布団の上で胡坐をかく劉備。
先ほどとは違い、挑戦的な視線を諸葛亮に向けている。
一方の孔明は、その視線を受け流すように、だらけた態度を崩さない。
「一体何が不満なのよぉ。天下三分、いい考えじゃないの。
今日一時間ぐらい前に即興で思いついた案の割りには、結構いけてると思うんだけど~~」
さらりととんでもないことを言ってのける諸葛亮。
「いいや、あんたのさっきの策は悪くなかったぜ。
是非とも参考にさせてもらおう。ありがとよこの野郎」
「怒ったと思ったら今度は感謝? あんたホント忙しい男よねぇ」
「そうだな……俺にも今の俺の気分がよく分からねぇ。
あんたを思いっきりぶん殴りたい気もするし、抱き締めて頬をすり寄せてやりたい気もする」
「うえぇ、気持ち悪っ! 前者の方が百倍はマシね」
両手を肩に当て、震え上がる仕草を取る諸葛亮。
「まぁ、一つだけ確かなことはある。それは……あんたがとんでもなく優秀な人間ってことだ」
「本当のことを言われても嬉しくないわよ」
「そんなあんただから分かっているとは思うけどよ。
天下三分……そいつはただの前段階だ。曹操に対抗する……ほんの第一歩に過ぎねぇ。
孫権と手を組んだところで、曹操との戦力差はひっくり返らないだろうし、何より孫権という新たな敵を生み出すことになるかもしれねぇ。
俺が求めているのは、さらにその先にあるものだ!
曹操に抗うんじゃねぇ、勝つための秘策だ!
そしてあんたは、その答えを知っているんじゃないか?」
諸葛亮は、明後日の方向を向いて、つまらなさそうに聞いている。
「あんたの余裕は、ただ性格が地獄の閻魔様でも矯正できないぐらいどうしようもなく捩じくれていることから来るもんじゃねぇ」
「随分な言われようね」
「あんたの余裕の裏には何かがある……あんたは何かを隠している。
俺の求めている“何か”はそこにある気がしてならねぇんだ。
あんたの知っていること全て! 俺の前に引きずり出してみせるぜ!」
劉備の口上を聞き終えた諸葛亮は、はぁとため息をつき、やや遅れてこう答える。
「さっきから貴方は何なのよ。私にあれをしろこれをしろって、求めてばかりじゃない。
私は貴方の所有物では無いし、そもそも貴方に協力してやる義理なんかこれっぽっちも無いのよ。
そういう貴方はどうなの? 私の前で、自分の全てをさらけ出して見せたの?」
「何……?」
「貴方は曹操に勝ちたい勝ちたいって言っているけどさ。
どうしてそうしつこく天下を求めるの? 何か得をすることでもあるの?」
「それは……」
劉備は息を吸い込み、意を決してこう答える。
「俺は……全ての人々が幸せに生きられる世界を創りたい……ただ、それだけだ!」
笑い飛ばされると思った。しかし、諸葛亮はむしろ哀れみにも似た視線を送ると、こう告げた。
「だったら答えは簡単じゃない。貴方みたいなバカでもすぐに導き出せる、最良の答えよ」
劉備は、内心その答えを予期していた。果たして、諸葛亮が口にしたのは、それと全く同じものだった。
「曹操に降っちゃいなさいな。乱世を終わらせて天下を一つにするのに、これ以上の近道は存在しないわ。
抵抗勢力が全て降伏してしまえば、戦争なんて起こりようがない。
中華の民は幸せに暮らし、私も面倒ごとに巻き込まれずに済みましたとさ。めでたしめでたし」
「そ、それは……」
「できないの? どうして?
漢王朝の再興? まぁ、確かに曹操に任せておけば、漢王朝は遠からず滅ぶでしょうね。
だから何なのって言ったところよねぇ。
永遠に続く王朝なんてありえないし、滅んだところでまた新しい王朝ができるだけ。
一握りの王が大勢の民を支配するって図式には何も変わりはないのよ。
ああ、貴方の漢王朝の再興ってのはただの御題目だっけ」
けらけらと笑って、諸葛亮は話を続ける。
「後、貴方なら分かっていると思うけど……天下三分。
これは中華を更なる乱世に叩き込む、貴方の理想とは対極の、まさに最悪の策よ。
三つに分かたれた天下は、決して相容れることはない。さりとて、共存することも叶わない。
そこから始まるのは、これまで以上の大動乱の時代よ。
三国の力が拮抗すればするほど、決着は長引き、乱世はますます深まっていく。
三匹の龍が、互いに喰らい合う地獄の出来上がり。
まぁ、人は争わずにはいられない生き物。
戦っている状態こそが幸福というのなら、あながち貴方の理想とそぐわないこともないわねぇ?」
「そ、そんなことはねぇ!!」
「うふふふふふふ!
さらに言っちゃえば、劉玄徳。貴方こそが、天下をかき乱す元凶でもあるのよ。
貴方が生き続けている限り、曹操に不満を抱く者たちは、貴方を旗印として集まってくるわ。
貴方という希望が存在する限り、彼らは刃向かうことを止めないでしょうね?
反抗心だけで生きている民ってのは怖いわよぉ?
あいつらは、信じることのためなら何でも許されると思っているからねぇ?
その先にあるのは、暴力と略奪の嵐……最終的には仲良く皆殺しの憂き目にあってはい、おしまい。
それが嫌なら、さっさと曹操に降りなさいな。
反曹操の象徴である貴方自ら頭を垂れ、曹操に屈服するのよ。
そうすれば、貴方にバカな期待を抱いている愚民どもも無駄な抵抗を止めて、大人しく曹操に従うわ。
分かる? 天下を安んじるにおいて、貴方が降る以上の上策なんて存在しないのよ!」
「俺は……俺は……」
分かっていた……分かりきっていたことだ。
それをはっきりと、容赦なく指摘され、劉備は声も出ない。
「ねぇねぇねぇ、さぁぁぁっきまでの威勢のよさはどおしたのぉ? 何か言いなさいよぉ劉玄徳ぅ?
ほらほらほらほらぁ? こうしている間にも力なき民草は乱世の荒波に飲まれて苦しんでいるぞぉ?
貴方が戦いを止めない限り、その荒波はますます激しくなるばかりよぉ?
乱世を止めたいんでしょぉ? 全ての人々を幸福にしたいんでしょぉぉぉぉ?
だったら降伏しちゃいなさいな? 何でできないの? 簡単なことじゃない?
いい加減認めなさいな貴方は本心では全ての民を幸福にできるなんて思っていないただ自分がお山の大将になりたいだけ天下を独り占めにしたいだけの強欲で自己中心的な救いようの無い浅ましい下衆それが貴方の本性身の程を知りなさいバァカ金も無い力も無い器量も無い才能も無い貴方には何も無いただある物といえば底無しの自尊心だけそれを寄る辺に生きてきたそれ以外の生き方なんて知らない狗畜生にも劣る本能を抱えたまんまで何が仁義よ大徳よ笑わせるわこの詐欺師いかさま野郎嘘吐きそうよ貴方は嘘吐きよ人を騙し自分自身にも嘘をついている希望なんて無いのに絶望しかないのに希望はあるなんて自分を偽って前に進むことを止めようとしない諦めが悪いその嘘は天下の全てを巻き込んで大勢の民を地獄に叩き落すんだわ貴方は悪魔よ生きていてはいけない存在なのよ何で貴方みたいなのがまだ生きているのよとっとと死ねばいいのに死ねばすぐに天下は平和になるわ私も面倒ごとに巻き込まれずに済むわそうよそれが一番手っ取り早い解決法最善最短最良の選択今ここで死になさいさまさか死ぬ度胸も無いっての人は幾らでも殺せるのに自分が死ぬのは嫌なのね本当屑な男死ねよ屑が死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……
あ、ここで死なれたら貴方の部下二人が怒って私を殺しにかかるかもね。
死ぬんだったら、私のいないところにして頂戴」
劉備は思わず立ち上がる。拳を握り締め、瞳を血走らせ、諸葛亮を睨みつける。
首筋に血管を浮かべ、絞り出すように声を放つ。
「俺は……俺はなぁ!!」
「ぶっぶ~~時間切れ~~」
「はぁ!?」
「本日の活動時間は終了しました。私、諸葛孔明は十二時間の休眠状態に入ります。御用があれば、また明日お越しください」
その言葉を最後に……諸葛亮は糸が切れたように倒れ、そのまま眼を閉じ、寝息を立て始めた。
「ちょ、待てよ! 時間切れって何だよ!! おいっ!!」
いくら声を荒げても無駄だった。
諸葛亮は、眠ったままごろごろ転がり、やはり自動的に襖を開けて、奥の部屋へと引っ込んでしまった。