第十八章 覇王の生誕(十二)
渾元暦202年。
袁紹の急死によって、天下の形勢は一気に曹操に傾いた。
皮肉にも、袁紹の王としての声望があまりに高すぎたがゆえ、精神的支柱を失った袁紹軍は呆気無く瓦解していった。
残された袁紹の一族は、曹操への徹底抗戦を唱えるものの、後継者の座を巡って内紛を続けるばかりで、臣下達は次第に失望していった。
一概に彼らばかりを責められない。
袁紹は、王としてあまりに完璧すぎた。
彼に比べれば、誰もが力不足に映るのは已む無いことだった。
曹操は、官渡の戦いが終わった後の一年間に、袁紹軍への根回しを進めていた。
されど、袁紹が健在の間は、彼への忠義を優先し、誰も曹操に組しようとはしなかった。
だが、袁紹が急死してしまい、後継者争いが泥沼に突入。
敗色が濃厚になり、皆曹操の申し出に乗る方が良いのではないかと思うようになる。
結果、袁紹軍の主だった臣下は、多くが曹操に降っていった。
袁紹の死の時期は、“まるで狙い済ましたかのように”曹操にとって都合が良かったのだ。
袁紹軍は元々、勝利を至上目的として作られた軍隊。
そして軍の求心力は、全て袁紹が担っていた。
袁紹が死に、曹操の勝率が濃厚になった以上、勝ち目のある方に人が流れていくのは当然のことだった。
曹操は、率先した降った者を手厚く遇し、元々持っていた領土を保障した。
官渡の戦いの恨みは、全て水に流す……それが曹操の方針だった。
そのため、ますます多くの者が曹操に流れていった。曹操が、袁紹に次ぐ人望を持っていたことも大きい。
袁紹の意志を継ぎ、打倒曹操を誓う者は、不思議なことに多く現れなかった。
これは、生前の袁紹が、自分にもしものことがあった時、曹操に降るよう密かに指示を出していたためだ。
誰よりも優しい袁紹のこと。勝ち目の無い戦で、生き残った者達の命を無駄に散らすまいとしたのだ。
それに、皆が曹操に降れば、それだけ乱世は早く収まる。臣下達はそう解釈し、袁紹の遺言に従った。
僅か一年で、袁紹軍は飛躍的な兵力増強と技術革新を遂げた。
だが、さらに一年を経た頃には、かつての栄光など見る影も無い程惨憺たる有様となっていた。
残るは、袁家の地位と名誉にしがみつく俗物ばかり……曹操は、そのような輩には一切容赦しなかった。
最終的に、犠牲を最小限に留め……曹操は抵抗勢力を駆逐し、袁紹軍の全てを併呑する。
曹孟徳は名実共に、中原の覇者となったのだ。
ちなみに、袁紹を裏切り、曹操軍の影の功労者となった許攸であるが……
密告の功績によって相応の地位を与えられるものの、袁紹の死の報が許都に届いた翌日、自宅で首を吊っているのが発見された。
「もっと早くこうしておけばよかった」
「袁紹様を死に追い詰めたのは私のせいだ」
といった旨の遺書が残されていた。
しかし、袁紹に忠誠を誓いながらも彼を裏切った、許攸の矛盾は誰にも理解されず、忘却の彼方に捨て去られることになる。
曹操の中原制覇は、曹操軍の者達を熱狂させ、歓喜の渦に飲み込んだ。
誰もが、新時代の到来を喜んだ。
だが、曹操の勝利を最も喜んでいるのは、他ならぬこの男だった……
「ふ……ふふふふ……ふははははははははは!!」
黄河を臨む崖の上に立ち、高笑いする司馬懿。
どうしてこれが笑わずにはいられようか。
司馬懿は、半ば絶望していた。
官渡の決戦の最終局面……司馬懿は諸葛亮の妨害に遭い、許攸を裏切らせることが出来なかった。
それ以降も事あるごとに妨害され、最後まで曹操と袁紹の戦いに手出しすることは叶わなかったのだ。
袁紹軍が勝利した瞬間、歴史は“未来歴史書”を外れた方向で確定する。
もはや修正は効かない。司馬懿の望む未来は、永遠に失われてしまうのだ。
だが、蓋を開けてみれば、司馬懿が手を下すまでも無く許攸は裏切り、袁紹は急死し、曹操が中原を制覇してしまった!
これはもはや、僥倖や奇跡というより定められた運命だった。
「そう! もはや運命は定まっているのだ!!
この歴史の流れこそ、この司馬仲達が神となる何よりの証!!
天もまた、この私が神になることを望んでいるというわけだ!
ふはははははは……ははははははははははは!!」
「神になるとか言っているくせに天がどうとか言っちゃって……それ、矛盾してない?」
背後から冷ややかな声を浴びせるのは、諸葛亮だ。
司馬懿は答えない。眼中に無いとばかりに、背を向けたまま話を続ける。
「まだ分からんのか……もう貴様が何をしようが無駄なのだ。
私が神となる未来は、既に確定しているのだからな。
曹操と袁紹との戦の結末が、それを証明した。
貴様の存在など、歴史の流れに比べれば、ちっぽけな石ころに過ぎん。
石ころで大河の激流は止められんわ」
「あら、何かしらその変な余裕は……気に入らないわね」
だが、諸葛亮は内心苛立ちではなく警戒していた。
無駄に自信過剰なのはいつものことだが、どこかおかしい……
いつもの彼ならば、全身で喜びを表現しつつ、もっと昂ぶった口調で話すはずだ。
今の彼は、少々落ち着きすぎているように見える。
尊大に振舞うことで、戦意を昂揚しようとする意志が感じられない。
裏を返せば、そのような真似をせずとも、恐れるものなど何も無いということか……?
嫌な予感を感じつつ、やや後じさろうとしたその時……
司馬懿は振り向き様に腰の剣を抜き放ち、諸葛亮へと斬りかかる。
諸葛亮は咄嗟に扇を振るい、風の障壁を生み出すが……
司馬懿の剣は、風の壁を何も無いかのようにすり抜けていく。
この風圧ならば、大砲の直撃すらも防ぎきるだろうに……
司馬懿は苦も無く間合いに入ると、諸葛亮を袈裟懸けに斬り裂いた。
「!!?」
左の肩口から胸にかけて裂け、鮮血が吹き出る。
焼け付くような痛みが体を苛む。
一体、痛みを感じたのは何百年ぶりだろうか……
「ぐ……」
地面が鮮血で染まる。諸葛亮は、傷口を手で押さえつつ、急いで後退する。
すぐに扇を振って反撃を試みるが……象の肉も引き剥がす突風は、司馬懿に近づいた途端ただのそよ風になってしまった。
重力制御ではない。あらゆる術の行使に必要な“道”の発動が感じられない。
“道”が、発現できない。
聡明な諸葛亮は、自身に受けた傷と術が無効化されたことからすぐに答えに辿り着く。
「あんた……それは……まさか!」
「ふふふふ……顔が青いぞ、孔明。そう、貴様が思っている通りのものよ!」
司馬懿が手にしているのは、薄い青色の刀身を持った両刃の剣だった。
“青釭の剣”……袁本初の愛刀で、かつては“黄金剣”だったものだ。
袁紹の死後、彼の遺品の中から持ち去られ、杳として行方が知れなかったが……
密かに業に忍び込んでいた司馬懿の手に渡っていたのだ。
「“仙人殺し”の剣。文字通り、“仙人”にとっては天敵とも言うべき代物だ」
“道”をその身に宿す者達の多くが目指す到達点……
それが、究極の秘術“不老長生の法”だ。
長い時間を掛けて内なる“道”を精錬・凝縮し、全身を濃厚な“道”で満たす。
さすれば、全身を巡る“道”そのものが新たな生命の源となり、本来肉体の死を迎える時期を過ぎても、心臓を鼓動させ、細胞を活性化させる。
これにより、彼らは決して老いることも、寿命で死ぬことも無くなるのだ。
“道”を自在に操り、無限の生命を持つ彼らを、人は“仙人”と呼ぶ。
だが、倚天の剣と青釭の剣は、その“道”を吸収する。
この剣を前にしては、“道”を源とするあらゆる術が無効化され、仙人といえどもただの人と化す。
さらに、全身の“道”を吸い尽くされれば、肉体が本来の寿命を迎え、瞬時に木乃伊と化して死ぬ。
“道”によって命を永らえている仙人にとっては、まさに天敵と言うべき武具なのだ。
諸葛亮の天候操作は、風や雲に自身の“道”を浸透させ、自在に操ることにある。
先ほどは、起こした風に含まれる“道”を吸収され、風力をそよ風同然に落とされたのだ。
「かつて世界を滅ぼした“反道兵器”の断片……まだ残っていたとはね」
「全く誤算だった……まさか、袁紹が“これ”を持っていたとはな。
これのせいで、奴に手出しすることはできなかったが……くくく、禍福はあざなえる縄の如し。
結果的に奴は死に、私はこれを手に入れることができた……
私の野望を阻む可能性があるのは、同じ“始まりの四仙”である貴様と貴様の兄だけだった。
しかし、“仙人殺し”の前では、貴様も無力!
もはや何人たりとも、我が野望を止めることはできんのだ!!
ふはははははは……ははははははははは!!」
運命は、あらゆる面において自分に味方している。
司馬懿の哄笑は止まらない。
「そうかしら? その剣を持っていれば、貴方も“道”を使えなくなるのよ?
その剣で刺されれば、あんたが死ぬ可能性だってあるんだからね」
諸葛亮の指摘は正しい。彼らにとっては、仙人殺しは猛毒の塗られた剣に等しい。
相手のみならず、自分の“道”も封じられる。
司馬懿ならば、重力制御と青釭の剣、二つを同時に使うことは出来ない。
さらに、もしも武器を奪われ刺されたら、即座に死に至る危険をはらんでいるのだ。
「ほう……ならば、試してみるか?」
挑戦的な眼差しで、諸葛亮を見つめる司馬懿。
何とか平静を装う諸葛亮だが、息の荒さは隠せない。
“仙人殺し”で斬られた箇所からは、血と同時に体を流れる“道”も漏れ出て、青釭の剣に吸収されている。
“道”は自分たちにとって、生命力そのもの。
その痛みたるや、傷口に硫酸をかけるような、尋常さらざるものだった。
何百年ぶりだけに、また格別の苦痛を伴っている。
それでも気絶したり絶叫したりしないのは、生来の鈍感さが幸いしたというべきか。
(あ……我ながら間抜けだったわ……何分二百年近く何もなかったから、平和ボケしすぎてたかしらね)
青釭の剣を突きつけ、距離を詰めようと脚を前に踏み出す司馬懿。
その瞬間、諸葛亮は羽扇を力の限り振った。
同時に、司馬懿も青釭の剣の力を発動させる。
諸葛亮の放った突風は、先ほど同様虚しく消え失せ……なかった。
だがそれは、司馬懿に向けて放った物ではない。
発生した竜巻は、諸葛亮の身体を飲み込むと、そのまま遙か彼方へと飛んでいってしまう。
一瞬で、青釭の剣の射程範囲外に逃れてしまった。
だが、司馬懿に落胆の色はない。
「逃げたか。ふふふ……貴様ならそうすると思っていたぞ……」
あの女に、命を賭けてまで自分を止めようとする気概などあるまい。
確かに、仕留められれば最上なのだが、さすがに逃げる仙道を捕らえるのは難しい。
それでも、抑止力及び切り札としてこの剣は十分役に立つ。
目障りな蝿も、しばらくは大人しくなる。当分は安心して行動を起こせそうだ。
「ふぅ……やぁーってくれたわね、全く……」
何とか司馬懿から逃げ延びてきた諸葛亮は、大樹にもたれかかり、“道”を使って傷口を治療していた。
想像以上の重傷だ。最後の力を振り絞って竜巻を起こしたものの、自身の内の“道”は大量に失われている。
傷は、すぐに癒える。だが、失った“道”はそう易々と取り戻せるものではない。
この先約十年、能力の減衰は避けられないだろう。
かつてのような、大規模な稲妻や暴風を起こすことなど叶うまい。
そんな状態で、司馬懿とまともにぶつかり合うなど論外だ。
だが、それ以上に……諸葛亮は、戦意が急速に萎んでいくのを感じていた。
「なーにやってんだろ、私……」
司馬懿の野望を阻止するのも、元々ただの気紛れで始めたことである。
さっきの様な痛い思いをしてまで、やるほどのことではないのだ。
「……もう、どうでもいいわ……」
司馬懿が世界中の人類の意志を統合したとしても、それが何だというのだ。
この世に恒常的なものなど、何一つありはしない。
世界は常に巡り、変わっていくものなのだ。
この世界が永久不変のものであるなど、ただの幻想でしかない。
所詮は、“ありえたかもしれない”無限の可能性の一つに過ぎないのだ。
無から有が生まれ、世界に生命が溢れた時のように……有から無に戻る時が来てもおかしくない。
どんな形になろうとも、世界は世界でしかない。
そして諸葛亮にとって、この世界において執着すべきものなど、何一つ存在しなかった。
馬鹿馬鹿しい。
いつもと同じく、全てを成り行きに任せればいいのだ。
“道”は休息を取っていれば回復する。
荊州の庵に戻って、のんびりしながら暮らそう。
それがいい……
歴史など、所詮はただの道筋だ。
もう二度と、そんなくだらないものに関わってなるものか。
「さぁ、未来歴史書よ! 私に新たなる道を示せっ!!」
司馬懿は未来歴史書を取り出し、新たな頁をめくる。
後五年程度は、さしたる大乱も起こらず、曹操の天下が続くだろう。
次なる大戦の舞台は荊州、揚州……赤き壁の戦いを乗り越えた後、中華は三つに分かたれ、三国による興亡の時代が始まる。
その果てに誕生するのが、司馬仲達を神とする新たなる世界だ。
全ての意志が、神の元に溶け合った世界……【神】の降誕だ。
「ふむ、未来歴史書という名は少々味気ないな。
ここはこの司馬仲達が、正しき歴史を導くこの書に、新たなる名を与えよう……」
そう、三国の興亡を描いた歴史書――
【三国志】と名付けようではないかッ!!
魏・呉・蜀
さぁ三国の龍達よ! 互いに覇を競い、喰らい合うがいい!!
最後に残った一匹を贄として捧げ、我が神世界の扉を開くのだ!!
その戦が苛烈であればあるほど、贄としてふさわしき物になろうぞ!!
ふははははははははは……
はははははははははははははははははははははっ!!!
<第十八章 覇王の生誕 完>
第一部完!
最大規模である官渡の戦いは、結局曹操と袁紹の一対一の、心の戦いだったと言うオチ。
可能な限り袁紹を持ち上げる目的は一応達せられたかな。
最後の結末は十八章書いている途中で思いつきました。
それまでに考えていたのは……
業に戻った時に、息子たちに田豊が殺されていて(田豊に権力が集中するのを恐れて謀反の罪を着せた)
袁紹にはそれに激怒しつつ、表面上は平静を装い、
わざと息子たちの対立を煽る(曹操を倒した者を後継者にするとか)ことで、
曹操の天下取りを早くした……と言う案もありました。
袁紹は普通に病死します。いや本編でも一応死因は不明なんですがね。
オリジナルの新作をやりたい願望もあるけど、
二兎を追うもの一兎を得ずというしまずは羅将伝の完結に専念します。
ここまで読んでくださった方々、どうもありがとうございました。
引き続き二部もよろしくお願いします。
とはいえ別の小説に移ることもなく、そのまま続きます。