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三国羅将伝  作者: 藍三郎
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第十八章 覇王の生誕(十一)

「曹操! 曹操ぉ――っ!」


 輝くような笑顔と共に、駆け寄ってくる少年。


「何だ、その爽やか過ぎて気味が悪い笑顔は」


 その姿を琥珀色の瞳に映し、もう一人の少年は淡々と言い放つ。


「うるさい! それよりも私をよく見てみるがいい! 何か気付いたことはないか?」

「……少し太ったか?いかんぞ、いくら金持ちとはいえ贅沢をしてばかりおっては」

「え!? そ、そうなのか!?」


 慌てて腰の辺りの肉をつねってみる。


「って違ーう! 横じゃない! 縦だ! 私の身長を見ろと言っているのだ!」


 胸を張る袁紹。彼の目線は、曹操よりもやや高い位置にある。


「背、伸びたか」

「そうだ!! 長い間、ほんの髪の毛程度の差で競り負けてきたが、ようやく勝つことが出来た!

 これも、田豊特製の身長促進料理と、私の鍛練の成果!

 一度これだけの差がついた以上、もはや埋めることは不可能!!

 これからは一生貴様を見下してやるぞ! わはははははははは!!」


 長年苦杯を嘗めさせられてきた身長対決に勝利し、袁紹は哄笑する。

 一方曹操は、悔しげな様子もなく生暖かい視線を送っている。


「おう、それはよかったのう」

「何だ、随分あっさり負けを認めるのだな」

「いやいや、そなたが余に勝つために似つかわしからぬ努力をしてきたと思うと、いじらしすぎて敵わぬわ。

 そんなそなたの愛らしい一面を見られただけで、余は満足しておるぞ」


 袁紹は、耳まで真っ赤になって引き下がる。


「な、な、何を抜かすかぁ――っ!

 し、しかし、貴様は全く変わっておらんな……

 ここまで圧倒的な差がついてしまうと、些か物足りぬわ」


 圧倒的といっても、ほんの親指程度の長さなのだが。


「ああ、変わっておらぬよ」

 

 曹操は、笑みを浮かべて言う。


「昨年、十五歳の誕生日を迎えてから、身長も体重も一向に変わらんのだ」

「な……」


 袁紹は笑顔を凍り付かせる。曹操が口にした現象、その理由はただ一つしかない。

 肉体が、不老年齢を迎えたのだ。


「余は、永遠の十五歳になったわけだ」


 まるで他人事のように語る曹操に対し、袁紹は自分のことのように衝撃を受けていた。


「で、では、私たちの勝負の期限は、一年も前に終わっていたということか……」


 袁紹はその場に膝を突く。

 勝負とはお互い対等な条件でやってこそ意味がある。

 成長しない相手に背の高さで勝っても、嬉しくも何ともない。とんだ糠喜びである。


「お、おのれぇ――っ!!

 これでは……これでは貴様の勝ち逃げではないか!!」


 地面を叩いて悔しがる袁紹。これから先……自分がどれだけ背が高くなろうと、曹操を越えることは出来ないのだ。


「やれやれ、何故そなたが嘆かねばならぬのだ。

 嘆きたいのは余の方ぞ。余はこれから一生子供の姿のままだ。

 格好がつかぬのにも程があろう」


 不老年齢は自分では定められない。

 二十代で止まるのが大半で、最も理想的とされているが、それより前後することも少なからずある。

 曹操もその一人である。たが、口とは裏腹に悲嘆している様子は感じられない。


「曹操……お前は、いつもそうだ。

 私が勝った、追い付いたと思った瞬間……煙のように消え失せ、手の届かない場所まで行ってしまう。

 曹操! 私は貴様と、後腐れのない勝負がしたいのだ!」


 ずっと内に溜め込んでいた本音をぶちまける袁紹。

 曹操は、表情を崩さず話を聞いていたが、静かにこう言い放つ。


「勝負なら既についていよう。そなたは天下に並ぶ物なき名門袁家の次期当主。

 対して余の家など、お祖父様じいさまのお陰で一端いっぱしの貴族面ができるようになった成り上がりに過ぎぬ。

 地位、名声、伝統、格式……どれをとっても及ぶべくもない」


 いつも袁紹が自慢げに語ることを、そっくりそのまま言ってのける曹操。

 だが、今日の袁紹はそれでは満足しなかった。


「まただ……またそうやって、私との勝負を避けようとする……!

 私には分かっているぞ……最初から諦めたような態度を見せながら、決して本気を出そうとしない。

 貴様は今まで、ただの一度も全力を出したことなどあるまい!

 私は……互いの家名を取り払った、ただ一人の袁本初として、曹操!

 お前に勝ちたいのだ! 本気を出したお前と、雌雄を決したいのだ!!」


 そう、この頃から自分は、曹操への劣等感を拭えずにいた。

 この破格の才を持つ友と一緒にいると、今まで名門の家柄であることをよりどころとしてきた自分が、実にちっぽけな存在に思えてならなかった。

 曹操への対抗意識は、飽くなき向上心となり、袁紹を熱く燃え上がらせていった。


「袁紹、余はそなたが何を言っておるのかさっぱり分からぬ。

 余はそれほど上等な人間ではない。そなたにあって余に欠けているものなど、それこそ星の数ほどあるだろうに……」


 そうは言っても、袁紹は凄んだ顔をしたままこちらを睨んでいる。

 到底納得はしていなさそうな顔つきだ。


「例えば……そう、優しさだ」

「や、優しさ?」


 意外な物言いに袁紹は面食らう。


「さよう。そなたの袁家への想い、田豊への想い……そして、友を想う心……

 そなたの真っ直ぐな優しさこそは、余には決して持ちえぬ素晴らしき宝よ」

「な……な……」


 まるで予想外の方向から切り返され、袁紹は顔を赤らめてうろたえる。

 涼しげに微笑む曹操。

 一陣の風に吹かれて、彼は言う。



「そなたの優しさ、いつまでも大切にせよ。

 さすれば、余はそなたの前で本気を出すことを約束しよう……」









 一時のまどろみから覚める袁紹。

 夢……そう、あれは、過ぎ去った日々の一幕だ。

 自分は今、冀州は業の居城にいる。


 彼の自室の周囲には多数の衛兵が詰め、蟻一匹通さぬ厳重な警備を敷いている。

 袁紹も、愛用の黄金剣……いや、青釭の剣を、常に肌身離さず持っている。


 官渡の決戦から、もう一年が過ぎようとしている……



 渾元暦201年。


 田豊、沮授ら多くの戦没者を弔った後、袁紹軍は今新たに生まれ変わろうとしている。

 業に帰還した後、袁紹が全軍の前で立ち上げた大演説は、敗北の後遺症を拭い去り、士気を完全に蘇らせた。

 袁紹の声望は前にも増して高まるばかりで、多くの優秀な人材が集まり、周囲の異民族も改めて袁紹への恭順を誓った。

 その勢いは留まるところを知らず、後一年と経たぬ内に、曹操軍を遥かに上回る規模に拡大すると思われた。


 翌年には、新たな南下作戦が実行に移される。

 真に偉大な王が率いる軍の結束が乱れることはない。

 去年の敗北で浮き彫りとなった袁紹軍の弱点は、全て取り除かれている。

 敗北を糧として成長した軍は、何よりも強い……誰もが、次の戦における勝利を確信していた。



 今ならわかる……曹操が、自分の最大の長所は、優しさであると言った意味が……


 今まで何故曹操に勝てなかったのか……


 それは、曹操に勝とうとしていたからだ。

 あの男は、常に目の前の相手など眼中に無く、その更に先を見据えていた。

 勝ち負けにこだわっている限り、あの男と同じ境地に達するなど、できるはずもなかったのだ。


 今の自分には、曹操に対する敵意や劣等感はすっかり消え去っている。

 自分の意志は、自分だけのものではないと気付いたのだ。

 王とは、民の代表者。ならば王の意志とは、民全ての意志に他ならない。

 民を導き、よりよい未来を目指すことこそ、王に与えられた使命だ。

 それに比せば、優劣や勝ち負けなど、どれほどの価値があろうか……

 天下の頂とは、民を見下し支配するためにあるのではない。民と一体となり、彼ら全てを幸福にするためにあるのだ。

 互いを思いやり、助け合うことで、争いや憎しみの気持ちは消え、全ての民は一つになれる。

 それが、袁紹の目指す新時代の姿だった。


 真の王の境地に至るのに必要だったもの……それこそが、曹操の言った優しさだった。

 全てを包み込む優しさ無くして、民の意志を汲み取ることなどできない。

 それを教えてくれた曹操に、袁紹は心から感謝していた。彼がいなければ、今日の自分はなかった。




「袁紹様、失礼致します」


 衛兵の一人が、白い小包を持って部屋に入ってくる。


「曹操が、貢ぎ物と称してこのようなものを送り届けて来ました」

「貢ぎ物?」


 衛兵は、袁紹の机の上に白い小包を置く。


「失礼ながら、中身は入念に検査させていただきました。特に危険はないと思われますが……」


 今も昔も、袁紹は常に暗殺の危機に晒されている。

 これは、彼に限った話ではなく、この乱世で名を上げた人物は皆同じである。

 ゆえに、乱世で覇を競う者にとって、暗殺への対策は必須といってよかった。

 口にする物の毒味は勿論、袁紹が手にする物全てに、念入りな検査が行われている。

 袁紹も、片時も気を抜くことなく、自分を襲う見えざる刃に警戒を強めていた。


 衛兵が退出した後、袁紹は、検査のため一度封の開けられた小包を再度開いてみる。

 貢ぎ物と言ったか……曹操は一体どういうつもりなのだろうか。

 もしや、講和の申し出か? それとも……

 未だあの男への不安を拭えない自分を意識しつつ……箱を開けてみると……





 袁紹は絶句する。

 


 箱の中身を凝視したまま、目を逸らそうとしない。


 体中に震えが走り、心臓の鼓動が急激に速くなる。

 充血した瞳が大きく開かれ、だらだらと汗が流れている。

 その肌は、死人しびとのように青ざめていた……


 ただ佇んでいるだけで、気品と威厳を湛えていた先程までの姿は、一瞬で消し飛んでいた。


 袁紹は震える手で、箱の中身を手に取る。




 一つ目は、一枚の書状だった。


 文面は以下の通り、簡潔に記されていた。



 “我らが友情の証として送る  曹 孟徳”



 間違いなく、曹操の筆跡である。


 そして、もう一つは……



 かなりの業物と思われる、一本の短剣だった。



 袁紹の左手から、書状が落ちる。右手は短剣を掴んだまま、震え続けている。

 柄に毒が塗られているわけでも、掴んだ途端に何か仕掛けが発動したわけでもない。

 それでも、刃に映る袁紹の顔は、かつてない程の驚愕に塗り潰されていた。

 



 分かった……たちどころに、“理解わかってしまった”――


 彼が何を言いたいのか。

 この短剣を送り届けた曹操の意図、その全てが、瞬時に理解できてしまった。

 

 短剣に移る自分の顔が、いつしか曹操に変わっていた。

 幻像の曹操は、酷薄な笑みを浮かべ、袁紹に語りかける。




 そなたは全く持って素晴らしい王だ。

 そなたほど民を想い、民に尽くし、民と一体となった王は他におらぬ……


 ならば理解できているであろうな?


 このままそなたが天下の頂を目指し続ければ、何が起こるのか……!




 ああ……そうだ。


 自分が王としてあり続ける限り、曹操との戦いは避けられない。 

 戦いが起これば、民は苦しみ、人が大勢死ぬ。

 自分が田豊や沮授を失った時のような悲しみと苦しみが、中華全土に広がっていくのだ。


 曹操は強い。幾ら袁紹軍が強くなろうとも、容易に勝ちを得ることはできないだろう。

 どれだけ圧倒的不利な状況にあろうと、決して諦めずに喰らいつく。

 そのことは、官渡の戦いで証明されたではないか。


 結果として、戦いは長引き、戦乱の時代は終わらない……

 戦いは自分と曹操が死ぬまで続き、その後に待つのは指導者無き暗黒の時代だ。

 自分達のしてきたことは、あの戦いの日々が、全て無為に帰してしまう。


 ならば、民を守るためにはどうすればいいか?

 王として、天下万民のため、自分は何をすべきなのか?


 ああ、自問するまでも無く答えは明白だ。

 

 どちらかが退けばいいのだ。


 どちらかが自ら敗北を選び、一方に全てを委ねて、歴史から姿を消す。

 そうすれば、泥沼の乱世は回避できる。

 中華最大の勢力である二つの軍は統合され、もはや誰も逆らうことは出来ないだろう。

 迅速に天下は統一され、指導者の手によって輝かしき新時代の幕が上がる。


 そして、自分はよく知っている。無二の親友だからこそ、断言できる。


 曹操が、決して道を譲らないことを。


 彼は命尽きるまで、自分と戦い続けるだろう。

 退くことを知らない、前に向かうことしか出来ない。

 曹操とは、そういう男なのだ……



 この短剣は何のためにある?


 剣の存在意義とは何だ?


 曹操は、この短剣で自分に何をして欲しいのだ!?



 誰にも袁紹は殺せない。


 ならば、自然に拠らず袁紹を消し去る方法は、ただの一つしかないではないか……









 自分は……自分は曹操の要求を拒絶できない!

 

 自分はもう昔の袁紹ではない。


 心から民を想い、民の幸せを願う真の王に“なってしまった”のだから!!

 

 真の王は、民を幸福にする道しか選べない。

 そして、一方が絶対に退かないとわかっている以上、乱世を止めるためには、自分が歴史から消える以外の道は存在しないのだ。


 “歴史から消える”とは、文字通りの意味である。


 王が存在する限り、その民は自分達の王を頂点に押し上げようとするだろう。

 一度王に忠誠を誓った民は、もはや他の王を認めることなどできない。

 その忠誠と熱情は、王自身でさえも逆らうことは出来ないのだ。

 王の意志とは、即ち民の意志そのものなのだから。



 ――そなたの優しさ、いつまでも大切にせよ。

 さすれば、余はそなたの前で本気を出すことを約束しよう……


 今こそ全身で理解する。

 これが曹操の“本気”……

 全身の震えが止まらない。

 自分は……あの頃から、既に曹操の魔性に絡め取られていた! 


 これこそが、曹操の最大にして最後の秘策だったのだ!!



 曹操は、中華の誰よりも人間の才を愛し、求めている。才とは、その人間の“本質”とも言い換えられる。

 曹操の人間の本質を見抜く眼は常軌を逸している。

 僅かなやり取りから、人間の深層心理まで把握してしまうのだ。

 その分析は性格、思想、行動原理のみならず、“これからどんな人間に成長するか”にまで及ぶ。


 曹操の計画は、幼い頃から既に始まっていた。

 彼は幼き頃から……いや、この世に産声を上げ、己のサガに目覚めた時から、天下の支配と変革を志していた。

 彼はありとあらゆる情報を仕入れ、自分が天下に至る道筋を組み立てた。

 いずれ世は乱れ、動乱の時代が訪れる。

 そうなれば、自分が天下の頂に登り詰められる好機が生まれる……

 彼の青春時代は全て、その時のための下準備に費やされた。


 袁家の当主候補である袁紹は、自分が天下の頂に君臨する上での最大の敵に成り得る存在だった。

 帝と宦官がその権力を失えば、次に台頭するのは袁家ら名門貴族だ。

 世が乱れれば、彼は必ず天下の争奪戦に名乗りを上げる。

 袁家の権力と財力があれば、天下の頂に最も近い者となるだろう。

 曹操は、袁紹の名を知った時から、彼を仮想敵と見なし、その心理を深く分析していった。

 彼と友人関係になったのも、少しでも彼の情報を仕入れるためだ。


 殺すという選択肢もあった。

 だが、結局は当主が他の人間に変わるだけで、袁家の勢力は小揺るぎもしない。

 何より幼き頃の自分には、殺人を隠し通すだけの権力は持ち合わせていなかった。

 よって、曹操は長きに渡って袁紹との友人関係を続けることになる。


 偽りやかりそめといった言葉をあえて前につける必要はない。

 曹操が他人に向ける感情は全て、偽りであり、かりそめのものなのだから……



 そして……曹操は気づいたのだ。

 袁紹は覇者ではなく、王者……一人の民として世を治める素質があることに。


 それを知った時、この袁紹の大器は、最大の脅威であり……同時に最大の切り札になると確信した。


 彼を“真の王”として目覚めさせれば……

 将来二人が天下の覇を競う状況になった時、彼自ら王の座から退かせることができる――!





 人間は変わる。


 人間は成長する。


 だがそれは、人間は“変えられる”ということだ!


 その人間の本質を的確に把握すれば……自分の都合のいいように、傀儡の如く操ることができるのだ! 




 されど、人間の心理には不安定な要素が多すぎる。

 袁紹が、曹操の望むとおりに成長するとは限らない。

 だから、直接相対し、言葉を交わし、実際に己の眼確かめる必要があった……


 あの白馬津の戦いで、曹操が前線に出てきた真の理由は、袁紹を直に観察することだったのだ。

 最終的に、曹操の望みは果たされることとなる。


 そして……曹操は、確信する。あのもう少しで、袁紹は自分の望み通りの真の王に覚醒するだろうことを。

 傲慢な態度を取ってはいたが、その内で桁外れの大器が胎動していることを、的確に見抜いていたのだ。


 それから曹操は、間接・直接を問わず、ありとあらゆる手を尽くして袁紹の目覚めを後押ししていった。

 それは曹操にとっても危険な賭け。

 真の王になった袁紹が、曹操の想像を越えて遙かに強くなっていく危険性は理解していた。

 実際、降伏という選択を本気で考えたこともある。

 曹操は前に進むしかない男だが、道に塞がっているならば止まるしかない。


 それに、自分を完敗させるほどの王ならば、自分よりもずっと上手く天下を治めてくれるだろう。

 人間の可能性を引き出す、自分の理想をも実現してくれるはずだ。

 曹操にとっては、勝っても負けても最終的には目的を達成できる、二段構えの策だったのだ。


 だが、天は曹操に味方し……官渡の戦いにおいて、辛くも勝利をもぎ取った。

 そうなれば、策を実行に移すだけだ。

 いかに立派な人間であろうと、目的を達成するにおいて、自分以上に信頼のおける人間など存在しないからだ。



 官渡の決戦における勝利は、最終作戦に必要な布石。

 曹操にとっては、どうしても勝たねばならぬ戦いだった。


 何故なら、袁紹に曹操を脅威と認識させるには、一度決定的な敗北を与えなければならなかったからだ。

 ただの一度でいい。袁紹ならば、それで分かるはずだ。

 曹操が、死ぬまで自分に抗い続けることを。

 自分から天下の座を降りぬ限り、乱世は永遠に終わらないことを。



 これが、曹操が幼年時代から仕掛けていた“秘策”の全貌である。




 今にして理解する……曹操は分かっていたのだ。

 自分が、この短剣を見れば、秘められた意図を全て察するであろうことを。

 自分が、曹操の思い通りの行動を取らざるを得なくなることを。


 何という男だ。ここまで冷徹に人間の心を己の策略に取り入れられるなどと、もはや悪魔の所業としか思えない。

 これが本当に、同じ人間の成せる業なのか!?


 いや……だからこそ、曹操もまた“王”なのだ。

 彼の唱える王の役割とは、心を司ること。

 曹操は、人間の心理を誰よりも深く理解している。

 だがその“理解”は全て、他者を利用し操るための手段でしかないのだ。

 力ではなく、心で人を屈服させる……それが曹操の覇道なのだ。


 誰よりも他者を理解しながらも、誰よりも利己的な王の姿。

 精神こころ暴力ちから、その二つを同時に、かつ完璧に司る曹操こそは、王者と覇者の資質を併せ持つ、中華史上類を見ない真の“覇王”ではないか。

 しかも、曹操は、袁紹のように他者に影響され、成長してそうなったのではない。

 生まれた時から、彼はこの世でただ一人の覇王だったのだ。




 短剣を見つめながら、袁紹は思う。

 そこまで相手のことを理解できるのは、真の友以外にありえないではないか。

 ならば、この短剣は紛れも無く、“友情の証”だ。


 袁紹の生涯を通じて、曹操は間違いなく最高の友だった。


 ゆえに、これは天上天下で曹操以外には実行できない“秘策”なのだ――


 


 脳髄が揺れる。視界が歪む。

 短剣に映る曹操が、歪んだ笑顔で語りかける――



 そなたは優しい男だよなぁ!?


 そなたは、真の王なんだよなぁ!?


 だったら、何をすべきかは分かっているだろうなぁ?


 なぁ、袁紹ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!







「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!

 曹ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ操ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
























 渾元暦202年


 袁本初 永眠



 公式には、死因は“病死”と発表されている……





 後に、曹操はこんなことを口にしている……



「董卓は恐ろしい、呂布は強い、劉備は底が知れぬ……

 されど、本気で負けると思った相手は、袁紹だけよ」



「あやつは余にとって、最大の敵であり、最高の友であった。

 あれだけ余を理解し、また余が理解した男は他におらぬ……

 “あの瞬間”、余と袁紹の心は溶け合い、本当の意味で気持ちを通じ合わせることができた。

 離れていても、お互いの気持ちを完全に理解することができたのだ。


 

 重ねて言おう。


 袁本初は、余にとって人生最高の友であった、とな」




申し訳ない、第十三章と十四章の間にある間章を大幅に修正しました。

今度の展開を考えている内に、ちょっと変更したい部分があったので……

しかしあくまで仄めかす程度の内容なので読まなくても問題はないはずです。


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