第十八章 覇王の生誕(十)
「い、今、何とおっしゃいました!?」
荀或はうろたえながら問い掛ける。
聞き逃したわけではない。荀或の耳には、しかと届いていた。
この戦、余らの敗北だ……と。
要塞の外からは、袁紹軍を打ち負かし、凱旋してくる曹操軍が見える。
皆、ようやく勝ち取った勝利に沸き立っているのが、遠目からでも分かる。
荀或自身も、思わず飛び上がりたくなったほどだ。
だが、その気分を一瞬で凍り漬けにしたのが、先程の曹操の発言である。
戦いはまだ終わったわけではない。勝ったと思って油断するな……それならまだ分かる。
実際、荀或もつい心が緩むのを自制している。
しかし、こうもはっきりと“敗北”を宣言するとは……
冗談だと思いたかった。
だが、曹操は穏やかな笑みを浮かべるばかりで、否定も肯定もしなかった。
「余は、烏巣に発つ直前、郭嘉とある賭けをした」
「賭け……でございますか?」
唐突な発言に、戸惑う荀或。
「許攸が烏巣食糧基地の所在を明かした時から……余には今この時までの絵図が描けておった。
郭嘉も同じだ。されど、余とあやつでただ一つだけ、読みが違う箇所があった」
「それが、賭けの内容……」
「然り。郭嘉は、あの最終局面で、袁紹は前進を選ぶと思っておった。
自分には四十五万の兵がいる。
誇り高き袁家の当主が、こんなところで負けるはずかない……とな」
それは……荀或も全くの同意見だった。
これまで垣間見て来た袁紹の性格を考えると、特に違和感がないように思える。
かつて董卓軍と戦った時、袁紹とは実際に会っているが、世評通りの尊大かつ傲慢な人物だった。
「郭嘉の戦略の肝は、袁紹の傲慢ゆえに生じる油断を突くことにある。
自軍を過信して無理に攻め立てれば、隙が生まれる。
相手の隙に付け入るのは、天才軍師、郭嘉の真骨頂。
そのまま袁紹軍を潰滅させ……あわよくば、袁紹の命も取れるはずだった」
だが、現実はそうはならなかった。
早馬から袁紹軍が撤退したことは知っているが、袁紹を討ち取ったという報告はない。
郭嘉の読みは、最後の最後で外れたのだ。
「だが、余はそうは思わなんだ。頭の良さならば、余はそなたや郭嘉に及ぶべくもない。
烏巣を焼き、袁紹軍を敗走させたのは、紛れも無く郭嘉の功績よ。
だが、余にはただ一つそなたらを上回っていると自負しておることがある。
余は、袁紹を知っておる。この曹操軍の誰よりもな。
あやつが真に勝利にのみ貪欲で、真に自軍のことを想っているなら、分かるはずなのだ。
あの局面で撤退することこそ、自分に仕える民を守り、なおかつ勝利を手中に収める最善の選択であることに」
動悸が激しくなる。黒い予感が、体中に広がっていく。
「何故か……は、あえて語るまでもあるまいな」
荀或は震えながら頷いた。
何と言う不覚……勝利の興奮で、つい失念してしまった。
曹操軍は、袁紹軍の全てを殺し尽くしたわけではない。
敵には、まだ四十万近い兵士が残っている。
勝てない戦に見切りをつけ、戦力を温存したまま後退することが、どれだけ英明な判断であることか……
袁紹軍が数で劣る曹操軍に遅れを取ったのは、ひとえに食糧不足による士気の低下があったからだ。
一旦業に引き返し、食糧を十分に得れば……袁紹軍は再びその最大最強の力を取り戻す。
「知っての通り、賭けは余の勝ちぞ。そして、戦いはまた振り出しに戻ったというわけだ」
天候も地形も、人間の強さまでも、戦場の遍く全てを読み切った郭嘉であったが、袁紹の“心”までは読み切れなかった。
彼だけではない、自分を含む、曹操軍の軍師は全員……
袁紹の心の成長を真に理解していたのは、曹操だけだった。
「ですが!!」
荀或は思わず声を荒げる。
「体勢を立て直せるのは、こちらも同じです!
もし袁紹が再び大軍を率いて南下しても、既に烏巣の地下食糧施設の所在は割れています!
今度はもっと早く補給線を断つことができるはずです!
それに僕らには、李典の造った無双甲冑があるじゃないですか。
李典も言っていました。あれの量産に成功すれば、三十万の兵力に、十万人分上乗せできると!
袁紹軍の長所たる数の優位は、これで消滅します。
それに、軍師にあるまじき考えかもしれませんが、今僕たちは勢いに乗っています。
例え一時の勝利にせよ、袁紹軍に勝利したという事実は、曹操軍全てに自信を与えるはずです。
両軍互角の戦において、この自信が生み出す力は、勝敗を分かつ決め手になるでしょう!
僕も粉骨砕身、曹操様の勝利がために尽力します! ですから、ですから……」
必死で曹操軍の優位を述べる荀或。
認めたくない、信じたくない。
あの、長く苦しい戦いの末に勝ち取った勝利が……
曹操が、郭嘉が、みんなが命を賭けて成し遂げた勝利が、泡沫のごとき幻想であるなどと……
だが、一方で荀或は虚しさも感じ始めていた。
自分は、曹操に絶対の信頼を寄せている。
ならば、口でどれだけ反駁しようと、心の中では認めてしまっているのだ。
曹操の言うことは、紛れも無く真実なのだと……
「もうよい、荀或」
憐れむような、慈しむような笑顔で荀或を見つめる曹操。
「違う……違うのだよ、荀或。
兵力、人材、技術、時節、地形、謀略、そして勢い……そなたが述べたものは、もはや瑣末な枝葉に過ぎぬ。
決定的な差は、余と袁紹との王としての格に外ならぬ」
「王としての、格……」
「袁紹は、この戦で数多の喜びと哀しみを味わい、王として、人間として、大きく成長した。
強さと優しさ、大胆さと繊細さ、天下の全てを背負う傲慢と寛容を併せ持つ、真の王となったのだ。
余程度とは比べるべくもない」
「そんなことは……!」
「余は、余の愛する人間しか幸せにできぬ!」
反駁しようとした荀或を、一言で黙らせる。
いつしか曹操の表情は、笑顔と狂気の入り混じった凄絶なものと化していた。
「何故なら、余が天下の頂を目指すのは、全て自分のためだからだ!
民のためでも、ましてやそなた達のためなどではない!
自分の、この浅ましい本性を満たすためだけに、天下を手中に収めようとしておるのだ!
荀或、そなたには分かっておるはずであろう!」
「………………」
何も……言えなかった。
そう、自分はもうずっと前から分かっていた。
彼は自分達とは違う。
内に制御不能の魔性を宿し、ただ本能に従い覇道を突き進む怪物……それが曹操の本質なのだと。
だが、荀或はそんな曹操の在り方を、“破格の器”と見なした。
そして、信じたのだ。彼ならば、この混迷の時代に、新たなる秩序を築いてくれるだろうと。
いかな苦難が降り懸かろうとも、決して立ち止まらず、覇業を達成するだろうと。
彼の危うさも恐ろしさも理解した上で、それでも彼を支えていこうと決めたのだ。
だが、袁紹は、そんな曹操をして自分より格上と認める存在なのだ……
「袁紹は、違う。あやつは、余のような人でなしではない。
人間のままで、人間を捨てることなく王となった。
今のあやつは、心からこの中華に生きる民を想い、民のために天下を平定しようとしておる。
王とは、人民の代表者。
ならば、誰よりも天下の民を想い、己もまたただ一人の人間として天下に臨む者こそが、王に相応しいのではないか……」
宙を見上げる曹操の瞳には、憧憬の色が浮かんでいた。
「袁紹は、今や天下を照らす黄金の太陽ぞ。
世界を温かく包み込み、生きとし生ける者全てを育む太陽……
余なぞは、太陽の光を浴びて輝く日陰の月に過ぎぬ。
余は言ったな。兵力や人材など、さしたる問題ではないと。
その理由がこれだ。太陽の下には、自然と多くの人が集まる。
それと同様に、真の王の下には、兵も、民も、才も、自然と惹き寄せられるものなのだ。
袁紹軍はこれから先、手が付けられぬ程大きくなっていくぞ。
袁紹自身が沈まぬ太陽となった以上、落日が訪れることはない……
よいか、断言するぞ。
袁本初のいる限り、何人たりとも袁紹軍を打ち滅ぼすことは叶わぬ!」
曹操軍の優位は、あくまで一時的なものだ。
これから戦いが長引けば長引くほど、安定した基盤を持つ袁紹軍は勢力を盛り返していく。
仮にまた袁紹軍が南下してきて、何とか撃退したとしても……結局は今回の繰り返し。
両軍の勢力が同等で、兵の質も人材も、参謀の頭脳も互角ならば、道は二つしかない。
正面衝突の結果両軍壊滅寸前まで消耗するか、永遠に決着をつけないまま、戦況を膠着させるかのどちらか。
そして、賢明な指導者ならば、決して前者は選ばない。ゆえに後者以外ありえないのだ。
だが、曹操に言わせれば、袁紹の指導者としての器は自分を上回るという。
荀或は信じたくはないが、彼の言うとおり、袁紹軍の進歩がこちらを上回るならば……月日を経るごとに差は開いていくだろう。
そしてじわじわと追い込まれ、最終的には飲み込まれてしまうのだ。
「この戦、最初から余らに勝ち目などなかったのだ」
何の感情も込めずに、淡々と語る曹操。
「あの白馬津で、袁紹を見た時から、余はあやつの内に眠る大器を見抜いておった。
……それが、間もなく目覚めるであろうことを……」
あの時に……既に結末は見えていた。
袁紹が真の王となることも、袁紹軍と正面から争っても、勝つことはできぬことも……
「だが、余はこうなることを望んでおった……余の期待通り、あやつは真の王へ至った。
今や袁紹は、人間の完成型に限りなく近い。ずっと余が追い求めていた理想なのだ。
袁紹は、余にとっても太陽なのだよ。
人間らしく笑い、悲しみ、民を慈しむあやつが……余には眩しくて仕方がない……」
荀或は、声も出すその場で膝を突く。
では、今までの自分達の戦いは何だったのか。
自分達は、袁紹が真の王とやらになるための踏み台でしかなかったのか。
確かに、曹操は天下統一のためとはいえ、あまりにも悪名を広めすぎた。
ここで袁紹が曹操を打ち倒せば、彼の名声は不動のものとなる。
中華を救った英雄、袁紹の下で、中華は一つに纏まるはずだ。
それが曹操の狙いなのか?
袁紹の天下統一をより盤石なものとするために、あえて憎まれ役を引き受けようとしたのか?
天下の安寧を第一に考えるならば、それが最善の道なのではないか……?
「それでも……それでも、僕は……」
荀或の瞳から、いつしか涙が溢れていた。
「曹操様……僕にとっては……貴方がただ一つの太陽でございます……
貴方がいなくなれば、僕は生きる光を失います……」
曹操は、そんな荀或を穏やかな顔で見つめている。
だが、その琥珀色の瞳の奥の感情が揺らめくことはない。
ああ、この方は、やはり僕らとは違う存在なんだ……
あの方がいつも笑顔でいるのは、別に嬉しいからでも愉しいからでもない。
相手の感情を引き出すためには、常に笑顔でいる方が都合がいい。
ただ、それだけの話……その裏にあるのは、冷徹に“人間”を観察しようとする、あの方の本性だ。
それでも、僕は……
「安心せよ、荀或」
え……?
荀或の心を見透かすように、曹操は言う。
「余は、むざむざ袁紹の軍門に下るつもりはないぞ?」
今日自分は、一体どれだけ驚いたのだろうか。
この方は、どれだけ自分を驚かせてくれるのか。
曹操は、袁紹に負けるつもりはない?
ならば、あれだけ袁紹を讃えていたのは、一体何だったのか。
「袁紹に……勝てるのですか?」
「秘策がある……そう申したであろう?」
秘策?
そうだ、確かに曹操は言った。
青州兵を動員する際に、反対する程旻らを押し切るため、文武百官の前で、「秘策がある」と言い切った。
だがあれは、程旻らを説き伏せるためのはったりではなかったのか。
あるいは、曹操だからこそ通じるはったりこそが秘策……
荀或はそう思っていた。
だが……
本当に、あるのか? 秘策が……
「いやはや、本当に貴方は人が悪い。やはりあったんじゃないですか。秘策」
突然、室内に曹操と荀或以外の声が聞こえた。于禁の声ではない。
後ろを振り向くと、そこには賈栩が柱にもたれ掛かり立っていた。
「か、賈栩!いつの間に……」
「大体五分前ですかね。急いで戻って来ましたよ……面白い話が聞けそうな予感があったもので」
「今まで、盗み聞きしていたというわけですか」
憮然とした表情で問う荀或。そうでなくとも、主君の部屋に無断で立ち入るなど僭越にも程がある。
睨んで来る荀或に、肩を竦めて答える賈栩。
「おやおや、盗み聞きとは人聞きが悪い。私はちゃんと曹操様の目の届くところにいましたよ」
曹操の方に振り返る荀或。
曹操は笑顔でこくりと頷いた。では、賈栩はずっと荀或の背後にいたというのか。
曹操は、それを知りながらずっと黙っていた。
つまり、賈栩の気配に気付けなかった自分が鈍感なのだ。
途端に恥ずかしさが込み上げてくる。この部屋には、他にも多くの衛兵がいるが、先程の泣きながら曹操に懇願する姿をこの男に見られたのは屈辱だった。
賈栩は、そんな荀或に意地の悪い視線を送っていたが……今は二の次であるとして、曹操の側に歩み寄る。
「以前、私は言いましたな? 貴方には、我々にも知り得ない秘策があるはずだと……
貴方はそれに、否、と答えられた。
だが、やはり秘策はあったのですね。それは一体何ですか?
恥ずかしながら、私にはこの状況を打開する策など何も思いつきません。
まさしく打つ手無し。ですが、貴方は秘策があるとおっしゃる。
先程の、袁紹軍を討ち滅ぼすことはできぬと言われたのは、嘘だったのですか?」
曹操は、静かに頭を振った。
今までの発言に嘘なかった。では、袁紹軍を倒せないというのは、やはり真実なのだ。
曹操の発言を思い返してみる……
彼は、袁紹がいる限り、袁紹軍を討ち滅ぼすことは不可能と言った。
袁紹がいる限り?
ならば曹操の秘策とは、袁紹ただ一人を殺す策なのか。
袁紹軍が、袁紹の絶大な求心力で成り立っているならば、中核を失った袁紹軍はいずれ空中分解するだろう。
それこそが曹操の策だ。間違いない……もはやそれ以外に勝ち目などないように思える。
だが、どうやって袁紹を殺す?
暗殺……?
馬鹿な、そんなことができるなら、とっくにやっている。
この官渡開戦前からあらゆる手を試してきたが、どれも不発に終わっている。
官渡にいる頃でさえ殺せなかったのに、業に帰還した袁紹を仕留めることなどできるはずもない。
分からない……もはや、袁紹が突然病に罹って死ぬことを祈るぐらいしかないのではないか。
「ねぇ、教えてくださいよ曹操様。秘策ってのは何なんですか?」
「そうですよ! 策があるならば、曹操軍全員一丸となってそれに賭けるべきです!
僕にできることがありましたら、何でもお申しつけ下さい!」
「いや、そなたらの手を借りる必要はない。元よりこの策は、余ただ一人にしか使えぬのだからのう」
曹操にしか使えない?
自分達の協力が要らないとなると、それほど大規模な人員は必要としないのか……
思い切って、頭の中に浮かんだことを尋ねてみる。
「既に命令を発した後なのですか?
その、袁紹を殺すことのできる、暗殺者に……」
荀或の答えを聞いた瞬間、曹操は思わず吹き出した。
可笑しくてたまらないとばかりに笑い出す。
「暗殺者ぁ? おいおい、あの袁紹を取り囲む厳重な警備をかい潜ってあやつを殺せる凄腕がいるならば、余が紹介して欲しいぐらいぞ。
例え于禁が万全の状態であろうと、袁紹の首を取るなぞ不可能よ」
暗殺ではない……?
確かに自分でも都合の良すぎる考えと思ったが、そうなるとますます分からない……
「どうやら貴方の考えておられる方法は、我々の予想を遥かに越えるものらしい。
ならば、こちらも常識を捨てて考えましょう」
そう言って賈栩が出した答えは、荀或よりも遥かに突拍子もないものだった。
「曹操様、貴方は摩訶不思議な術の使える仙人か妖術使いに袁紹抹殺を依頼した。
これなら、袁紹がどれだけの兵に囲まれていようと関係ない。
呪いなり何なりで、袁紹の心臓を止めてしまえばいい……」
賈栩の発言に、荀或は呆気に取られていた。
「ちょ、賈栩、いくら何でもそれは……」
「ありえないとは言い切れないでしょう。
あの劉備の白い馬……的廬と言いましたか……あの馬が使う瞬間移動が良い例です。
この世には、我々の常識では計り切れないものが確実に存在しているのですよ。
大体、我々の縋る常識など、主観に頼ったあやふやなもの。
我々がある時期を境に肉体的な成長が止まり、老いが無くなるのも、普通の人間からすれば十分異常、仙人か妖怪の類としか見えませんよ。
常識とは、視点が変わるだけで容易く揺らいでしまう危ういものなのです」
賈栩の口上に、荀或は反論する言葉を持たなかった。
歳を取らない武将、各地に点在する謎の遺跡など、この世界には、まだまだ謎が多い。
その全てを解き明かさぬ限り、“ありえない”などという言葉を使うことは出来ないのだ。
「話を戻しましょう。“ありえない”を持って私の妖術説を否定することはできない。
ですが、そんな便利な方法があるなら、何故早く実行しなかった、という反論は有効でしょう。
私の予想はこうです。
曹操様、貴方は妖術使いに依頼し、袁紹を呪い殺そうとした。
ですが、その呪いには、長く複雑な儀式が必要だったのです。
それまでに袁紹に攻め滅ぼされては元も子もない……
貴方は儀式が完成するまで、袁紹の攻撃を持ちこたえる必要があった。
それが袁紹をすぐに殺せなかった理由です。いかがでしょうか、曹操様?」
曹操は、黙って賈栩の話を聞いていたが……顔を綻ばせて考える。
「ほう、面白い。実に面白いぞ、賈栩よ。
突拍子もないように見えて、しっかり筋は通っておる」
自分の時は鼻で笑い飛ばしたのに……荀或はややへこむ。
「その言い方からすると、どうやら不正解のようですな」
賈栩は肩を竦める。彼自身も、半ば冗談で言ったのだろう。気落ちした様子はない。
「待て待て、確かに賈栩の答えは真実ではない。
だがそれだけで不正解の烙印を押すのは、せっかく答えを出してくれたそなたに悪いというものだ。
ここは、余もきちんと理由を説明せねばなるまい」
「では私の妖術説は、事実関係ではなく論理的に否定できるというのですか?」
「然り。妖術説を否定する最大の論拠がこれだ。
袁紹に、妖術の類は通用しない!」
「ほう……それは、何故に?」
「余の持っておる倚天の剣……これは道術、妖術の源となる“道”を吸収する効果を持つ。
それにより、あらゆる道術、妖術、呪術から、持ち主の身を守るのだ」
かつて虎牢関の戦いで、曹操は倚天の剣を用いて董卓の“道”を吸収し、見事深手を負わせたことがある。
曹操は、この剣を常に肌身離さず持っている。
この剣の持ち主に対して、あらゆる“術”による攻撃は無意味と化す。
あらゆる道士や仙人の天敵となりうる武具……ゆえについた仇名が“仙人殺し”。
「存じております……まさか」
「袁紹も、同じものを持っておるのだよ。
倚天の剣と対をなす、もう一つの仙人殺し。
あやつがいつも持っておる黄金の剣、あれがそうだ」
全くの初耳だった。しかし、袁紹と幼い頃からつるんでいる曹操が言うからには、本当なのだろう。
「あれの正式名称は、“青釭の剣”と言う。
倚天の剣と同じく、代々曹家に受け継がれてきた宝剣だ」
「それが何故、袁紹の手に……」
「昔、曹家が袁家に莫大な借金をした時に、そのカタとして持っていかれたのだ。
青釭の剣の名の通り、本来は青白い刀身をしているのだが……袁紹の奴め、自分の趣味に合わせて金ぴかに塗りたくりおった。
あれは、曹家を屈服させたというあやつなりのあてつけなのかのう」
先祖代々の宝物を悪趣味な色に塗られたというのに、まるで気分を害した様子がない。
むしろ、曹操はそれも袁紹らしい、好ましい要素と受け容れているようだ。
「青釭の剣も、倚天の剣と同じく道術や妖術の類を無効化し、跳ね返す。
それ以外は何の効果も無い……人間同士の戦いにおいては、ただの剣に過ぎぬ。
だが、術や呪いを使う相手に対しては、まさに最強の切り札と成り得るのだ」
「なるほど……それならば、妖術説を取り下げざるを得ませんな」
「袁紹も余と同じく、道術殺しの力を持つ。
くくく……これで余が袁紹に勝る部分など、何一つ無くなったというわけだ」
自嘲するように笑う曹操。
「十年前……もしあやつが余に先んじて虎牢関を攻めておれば、董卓を討ち取れたであろうな。
“道”を操る董卓にとって、青釭の剣は天敵だ。
そうなれば、天下の趨勢はとっくの昔に袁紹で固まっていた」
荀或はここであることに気づく。
もしかすると……だからあの時曹操は兵力差を承知の上で、真っ先に虎牢関に入ったのか。
袁紹に董卓を殺させないために。
あの虎牢関の戦いの裏で、そんな深い謀略が渦巻いていたとは……
「虎牢関……懐かしい。思えば、私が荀或殿と始めて策を戦わせたのもあそこでしたな」
賈栩にそう言われ、昔を振り返る荀或。
あの頃自分は、まだまだ駆け出しで、曹操様の力になろうと必死だった。
そして、あの頃から曹操は、まるで考えの読めない異境の住人だった。
その二つは、今も全く変わっていない。
「で、では、曹操様は一体どうやって袁紹を殺すおつもりなのですか?」
たまらず問いかけた。暗殺は不可能、妖術も通じないとなれば、他にどんな手があるというのだ?
「……そなたらは、まだ根本的なところを分かっておらぬようだ。
何故、袁紹を殺すなどという考えが出てくるのだ?
余は“袁紹軍を討ち滅ぼすことはできぬ”と言ったはずだ。
その袁紹軍の中には、当然袁紹自身も含まれるのだぞ。
紛らわしい言い方はやめよう。はっきり言っておく。
袁紹を殺すことは、不可能だ」
「な……?」
曹操の秘策とは、袁紹を殺すことではない?
分からない……
袁紹を殺さずして、どうやって袁紹軍を討ち滅ぼす?
いや、まず袁紹軍は倒せないとはっきり言ったではないか。
正解どころか、思考の取っ掛かりすら見つからない。
秘策とは、一体何なのだ?
「くくくくく……くくくくくく!!
いやはや……正直全く分かりません。もはや私の思考の限界を越えています。
ですが、これだけは断言できます。
貴方が“秘策”と言うほどの策、呪いだの暗殺だのという“生ぬるい”やり方であるはずがない。
きっと血も涙も無い、目を覆わんばかりに酷いやり方なのでしょうねぇ!!
いえいえ、答えずとも結構でございます!
貴方の底無しの恐ろしさを想像するだけで、私は愉しくて愉しくて死んでしまいそうなのですから!!
ああ! 良かった! 貴方に仕えて本当に良かった!!」
表情を歪ませ、全身で喜悦を表現する賈栩。
曹操は不遜な口を咎めもせず、天井を見上げて言い放つ。
「そなたらが今日この日まで持ち応えてくれたお陰で、全ての条件は整った。
これで、最後の策を実行に移すことができる。
それが成功するかどうかは、余にも断言することはできぬ……」
曹操は目を細め、長年の親友の姿を思い浮かべる。
「袁紹は素晴らしい人間だ。余自身も含めて、あやつほど中華の王にふさわしい人間はおらぬ。
あやつは、この余にとって、かけがえの無い……親友だ。
その気持ちに、一片の偽りも無い……」
だが――
「余は、曹操だ。前に進む事しか知らぬ人間だ。
例え袁紹が人民全てを幸福にする真の王であろうと、天下の頂に座ろうとするならば……
蹴落とし!
引き摺り下ろし!
奪い取るまでよ!!」
古の賢者は、徳を持って世を治めることを王道と呼び、武と策を持って世を治めることを覇道と呼んだ。
尊王賎覇……
覇道は力さえあれば誰にでも為し得る。ただ、敵対勢力を武力で殲滅すればいいのだ。
そこに理想や大義は無い。ただ浅ましい欲望があるだけの、血塗られた道だ。
対して王道は、限り無い徳を持って人心を癒し、争うことなく天下を治める。
誰にでも出来ることではない。
ゆえに覇道は賎しく、王道は尊いものとされた。
袁紹は、覇道を歩みながらも、その途上で真の王道に目覚めた。
清濁二つの王の道を知る彼ならば、中華の歴史上初めて、真の王道を体現できる王者になるだろう。
ならば自分は――
この世の何物も恐れない。
いかなる理にも囚われない。
誰であろうと、その覇業を阻むことは許されない。
我こそは天下の簒奪者、乱世の奸雄、曹孟徳よ!!