第三章 虎牢関の戦い(二)
ようやく重い腰を上げた反董卓連合軍は、洛陽侵攻の最大の難所と言うべき、虎牢関に進軍していた。
しかし、各地に展開しつつある董卓軍により、諸侯の足並みは揃わず、真っ先に戦地に馳せ参じたのは、公孫贊軍と劉備の義勇軍のみだった。
「嗚呼……今日も我が白馬陣は美しい。
陽光を浴びて輝く真白き騎馬たちは
あたかも戦場に咲き誇る百合のようでは無いか……」
虎牢関の前にずらりと並んだ自身の軍勢を見て、公孫贊は恍惚する。
公孫贊の軍団は“白馬義従”と呼ばれ、
鎧や兜、装飾品、乗っている馬まで全て白一色だった。
将兵達は全員髭を剃る事を強要され、
髪も白く染めるか綺麗に剃るように命じられている。
あまりに肌が色黒の人間は、白粉で白く塗りたくれと言うぐらいの徹底ぶりだ。
白を至上とする、公孫贊の美学を象徴するかのような軍勢だった。
「ひゃぁ……ここまでやられるとぐぅの音もでねぇや」
公孫贊軍に交って、劉備率いる義勇軍も虎牢関前に到着する。
「ふふふ……玄徳よ。お前も我が白馬陣の魅力に取り付かれたか。
白の美しさを理解するとは、さすがは我が弟だ」
例によって、全く勘違いした台詞を吐く公孫贊。
「あ……しかし兄さん、幾らなんでも旗まで真っ白ってのは……」
袁紹軍なら“袁”、曹操軍なら“曹”と大きく文字が刻まれた他の旗と比べ、
公孫贊軍の軍旗は一点の曇りも無い白一色だった。
「何か問題でもあるのか?玄徳」
真剣な顔で聞いてくる公孫贊。
何故か地雷を踏んだような気がしながらも、劉備は答える。
「え……だって白旗ってまるで戦う前から
降伏しているみたいじゃないですか。絶対印象悪いですよ……」
劉備の言うことは最もなのだが、公孫贊は猛烈に反駁する。
「何を言うか!そのような俗習など、私の知ったことでは無い!
大体、何故白が敗北の証なのだ!
白とは白星に象徴されるように、誇り高き勝利の証なのだ!!」
「はぁ……まぁ確かに変ちゃ変ですよね……」
公孫贊に凄まれ、苦し紛れに答える劉備。
「なぁ、あの白旗ってさ。好きな字を書けばまた別の旗として利用できね?
でっかく“劉”とか“張”ってさ」
「倹約策としてはいいかもしれんな」
張飛の思いつきに適当に答えつつ、劉備を見やる関羽。
兄弟子に媚びへつらうあの男が、
決起集会であれだけの宣言をした男とどうしても重ならない。
重ならないゆえに非凡なのか。関羽は今だ、自らの主君を見極めきれずにいた。
「しかし玄徳よ。お前の軍は何とも雑然として、見ていて気持ちの良いものでは無いな。
お前も私に習って、白一色に染めればいいのに」
(絶対にやだよバーカ)
と心では思っていたが、愛想笑いを浮かべて何とか話を繋ぐ。
「ま、まぁうちの軍は兄さん達の引き立て役ってことで一つ……」
「ふむ……そうだな。白薔薇の茨、百合の草のように、
白以外を少しは混ぜた方が我が軍の美しさもより引き立つというものか。
お前も美学を理解するようになってきたな、玄徳」
「はぁ……」
適当に言った事だが、公孫贊は納得したようだ。
実際、劉備は公孫贊軍を矢面に立たせ、自らは後方で戦力を温存するつもりだった。
その為には、今のうちから公孫贊をおだててその気にさせておかないと。
「だが玄徳。お前の軍の中で、その乗騎だけは例外だ。
よもやお前が、そんな純粋高潔なる白を宿した馬を所有していようとはな」
公孫贊は、先ほどから物欲しそうな目で劉備の乗騎を見ている。
劉備の馬は、公孫贊と同じく全身真っ白の白馬だった。
それも、単に白いだけではなく、
女性の肌のような……どこか妖気を漂わせる白だった。
加えて、額には、真珠のような宝石が埋まっているようにも見える。
顔立ちも菩薩のように優しく、とても軍馬には思えないほどだ。
「すんません兄さん、“的廬”だけはあげられませんや」
「そ、そんな事はわかっている!
この公孫伯珪、弟から物を奪うような厚顔無恥な真似は決してせぬぞ!」
心中を見透かされ、公孫贊はしどろもどろになる。
実際、機嫌を取る為の贈り物はしてもいいが……この的廬だけは譲れなかった。
この的廬は、劉備の愛馬であると同時に……最大の切り札なのだから。
「お疲れさ〜〜〜ん」
公孫贊の下から戻ってきた劉備を、張飛は茶化して出迎える。
かっ飛んだ性格の公孫贊の相手に疲れたのか、劉備は少々やつれた顔つきをしていた。
「ま……根回しはこれで終了と。後はどうやってあの虎牢関を突破するかだな」
虎牢関は、“関”と名づけられてはいるが、
実質的には関所というより要塞と呼ぶに相応しい規模と堅牢さを誇っていた。
董卓の洛陽占領後、董卓軍の手によって大規模な補修が行われたのだ。
現在、虎牢関の門扉は堅く閉ざされたまま、沈黙を保っている。
扉一枚隔てた向こう側には、董卓の羅刹の軍勢が集結しているはずだ。
それが解き放たれるのはいつなのか……
拭えぬ緊張感を残したまま、時間だけが過ぎ去っていく。
「よし、雲長。おめぇの出番だ。
必殺の門扉斬りで、いつもみたいにぶった斬って、みんなの度肝を抜いてやんな」
「そんな必殺技を持った覚えは無いのだが……」
そう言いつつも、青龍偃月刀を取り出した関羽はやる気である。
劉備は、自分の力を利用して義勇軍の存在を
敵味方に強く印象付ける腹積もりだろう。
売名行為かもしれないが、敵を威圧し味方の士気を上げる効果はある。
雲長自身も、戦へと気持ちを切り替えるには丁度いい儀式だと思った。
虎牢関へと馬を進めようとした、その時……
堅く閉ざされたはずの門扉から、軋むような音が聞こえる。
それは徐々に大きくなり……次第に門自体を揺らすようになっていく。
何かが、門の内側から扉を叩いている?
底知れぬ殺気を感じ、劉備たちは即座に臨戦態勢に移る。
次の瞬間……
門扉に皹が入り、そこから槍の穂先が突き出てくる。
二尺近くある分厚い門を貫くなど、どれだけの膂力があれば為せるのだろうか。
門には、依然閂がかけられたままだった。
しかし、扉の向こう側の人物は、閂を外す事すら惰弱と言わんばかりに、力任せに門をこじ開けようとする。
責め苛むような暴の前に、ついに扉は屈服した。
閂はへし折れ、蝶番は弾け飛ぶ。
門扉は槍に突き刺さったまま剥ぎ取られ、一騎の将がその奥から現れる。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハ―――――――――ッ!!!!」
戟に刺さった巨大な門扉を軽々と持ち上げる、狂貌の将。
跨るは、血のように赤い猛獣馬。
呂布が、赤兎馬に乗って現れた。
「ひ、ひぃぃぃぃ!?」
公孫贊は、ただでさえ白い顔をさらに蒼白く染める。
彼だけでは無い。
この場にいた人間は全て……あの関羽でさえも、呂布の圧力を伴った殺気に圧されていた。
関羽の“城門斬り”に対抗するかのような、呂布の“城門剥がし”。
だが、呂布の開戦の知らせは、これで終わらなかった。
「挨拶代わりだ……受け取れぇ――――ッ!!」
呂布は戟に突き刺さった虎牢関の門扉を振り回すと、公孫贊軍に向けて投げつける。
棒の上に置いた皿を放り投げるように、実に無造作に、簡単に。
方形の塊が、群がっていた公孫贊軍を直撃した。
巨大な門扉の下敷きになり、多くの将兵が命を落とす。
「蝿叩きだ!!ヒャハハハハハハ!!!」
体躯に似合わぬ怪力に、将兵達は慄然となる。
武将ならば見た目以上の身体能力を持っていてもおかしくは無いが、呂布のそれは武将の尺度でも規格外だった。
「くぅ……やってくれたな!」
すんでのところで回避した公孫贊は、今ので呂布に対する戦意を取り戻した。
「往け、白馬義従たちよ!あの者を取り囲んで討て!白薔薇の陣だ!」
刺突剣を抜き放ち、難を逃れた配下に号令を下す。
さすがによく鍛えられているのか……白馬の騎兵達は左右両面から、呂布を挟撃する。
「おい!やめろ!!」
劉備は思わず叫んだが、もう遅い。
「ヒャハハハハハッ!!!」
身の丈の倍以上もある方天画戟を旋回させると、
取り囲んでいた将兵達の上半身が、血の塊となって吹き飛ぶ。
その速度と重量の前では、避ける事も防ぐ事も敵わない。
戦場に降る血の雨が、呂布の全身を濡らす。
武将としては比較的地味ないでたちだった彼も、今は血に塗れた赤い悪鬼と化していた。
「だぁから言わんこっちゃ無い……」
「あの野郎……ただもんじゃねぇや」
劉備ら三人は、呂布の驚異的な実力に慄然となる。
「くっ……ここは白百合の陣で……」
攻勢を司る白薔薇の陣と、守勢を司る白百合の陣。その二つが白馬義従の基礎となる陣形だ。
自軍が大きな打撃を受けても冷静さを失わないだけ、公孫贊も一軍の将ではあったが……
呂布と赤兎馬を相手にするには、あまりにも遅すぎた。
「暴れようぜぇ!赤兎ォ!!」
方天画戟の尻で、赤兎馬の腿を叩く呂布。
その瞬間……呂布を乗せたまま、赤兎馬の姿が掻き消えた。
「何ぃ!?」
公孫贊が我が目を疑った時には……彼の左側にいた部隊が、爆発でも起こったように吹き飛んだ。
「ヒャハハハハハハハハ!!!」
瞬間移動でもしたかのような動きで移動し、爆撃のような殺戮を引き起こす呂布。
怖れを為して退いた部隊を見るや否や、再び赤兎馬を疾駆させる。
間を置かずに別の場所へと跳躍した呂布と赤兎馬は、絶望する暇さえ与えず兵士達を赤き死の海に叩き落す。
翼が生えているかのごとく、戦場を自在に飛び回る赤き戦将。
これこそが、呂奉先が“飛将軍”と称される由縁だった。
「ヒャハハハハハハハハ!! アハハハハハハハハハハハハハ!!!」
狂笑をあげながら、次々と敵兵を血祭りにあげていく呂布。
戦場の呂布は、まさに水を得た魚だった。
水を掻き分けるかのように、戟を振るって兵士達を鮮血の海に還していく。
一度戟を振るえば十数の兵が吹き飛び、運よく間合いから逃れた者も、赤兎馬の突進に巻き込まれ絶命する。
敵兵の首が飛び、肉が裂け、身が砕けるたびに、彼の中の戦闘衝動は深まり、とめどなく分泌される快楽物質が脳を絶頂させる。
呂奉先……彼こそはまさに戦場の申し子だった。
単騎で戦場を縦横無尽に駆ける呂布と赤兎馬。
しかし、誰一人とて彼を止められるものはおらず、公孫贊軍は一気に総崩れになっていった。
「わ……私の白馬陣が……私の美が……」
手塩にかけて練成してきた白馬陣が、たった一人の手で見るも無残に崩れ行く様を見せ付けられ、公孫贊はいよいよ精神の均衡を保てなくなっていった。
「しっかりしてくださいよ!兄さん!!」
公孫贊を叱咤しつつも、劉備はいぶかしんでいた。
何故呂布は単騎なのか……この期に一気に兵を送り込めば、迅速にこちらを殲滅できるのに。
しかし、それについては考える時間を要さなかった。
呂布の戦いぶりを見ればよくわかる。
あれは血に餓えた野性の獣。
一度戦場に解き放たれれば、敵味方の区別など無く殺戮を続けるだろう。
それによる自軍の被害を怖れているのだ。
(不幸中の幸いって奴か……最も、このままだとあいつ一人に全滅させられそうな勢いだが……)
ここは自分達が何とかするしかない。
劉備は、最も信頼する二人の義兄弟の名を叫ぶ。
「益徳! 雲長! やっちまえ!!」
「ヒャハハハハハハハハ!!!」
呂布の強さは圧倒的だった。
多くの兵士達は避けられない死の恐怖に怯え、逃げ出す者もいる。
しかし……その中で、全く怖れを抱かず呂布に挑む二人の武将がいた。
「おらぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
単身跳躍した張飛は、呂布の背後から蛇矛を繰り出す。
鎖で接続された穂先が柄から離れ、呂布の背後を狙い撃つ。
「ヒャハッ!!」
だが、呂布は振り向くことすらせず、方天画戟を掲げて蛇矛の穂先を跳ね返す。
「ちぃ!!」
「死角からの攻撃は悪くない……だが、声を出せば位置が丸分かりだぞ、益徳」
張飛の失敗を嗜める関羽。
「悪ぃ悪ぃ! ついついやっちまうんだよな……」
(最も…… あの男ならば、死角からの攻撃だろうと反応してみせただろうが)
「何だてめぇらは?」
呂布の全身に漲る暴風雨のような殺気。
間近で見れば、それがより圧迫感を持って感じられる。
だが、関羽も張飛も、全く臆する様子を見せなかった。
「俺様は張飛! 字は益徳! てめぇをぶっ殺す男だ!!」
「我が名は関羽! 字は雲長! そなたも只の畜生にあらざるなら、名を名乗られよ!!」
「いいぜぇ! 俺様は呂布! 呂奉先様だ!!」
三人の将は、互いに名乗りを上げる。
「では呂布殿、いざ参る!!」
青龍偃月刀を掲げ、呂布へと斬りかかる関羽。
赤兎馬の駿足ならばかわす事も出来たが、呂布はあえてそれをしなかった。
真正面からの一撃を、方天画戟で受け止める。
衝撃が、両の腕に電流が流れたように伝わってくる。
これほどの気魄の乗った一撃は、早々味わえるものではない。
「ヒャハハハハッ!! ようやく生きのよさそうな奴が出てきたか!!」
呂布の眼が、さらなる歓喜に輝く。
たった一撃で、呂布は関羽の持つ実力の程を見切っていた。
この男は強い……自分が本気で戦うに値する相手だ。
強者との戦いが、呂布にとっての最高の快楽。
これまでの殺戮は、蟻を踏み潰すよりも容易い遊戯だったが……ようやく、“戦い”と呼べるものを愉しめそうだ。
「くたばりやがれぇ!!」
俊敏な動きで再び背後に回り、蛇矛を繰り出す張飛。
だが、今度は呂布ではなく、赤兎馬の足によって弾かれた。
赤兎馬の鋭利な蹄は、刀剣と比較しても遜色ない強度を備えていたのだ。
「小僧! てめぇは後回しだ! 赤兎とでも遊んでいろ!!」
「何だとぉ!?」
「グロロロロロロロォォォォォォォン!!!」
呂布の闘気に呼応してか、赤兎馬も猛獣の如き嘶きを上げる。
「はぁぁぁぁぁぁっ!!!」
一方、関羽は青龍偃月刀を振るい、さらなる連撃を繰り出す。
その全てを、呂布は弾いてみせる。
超重量武器である方天画戟を使っているとは思えない、機敏かつ正確な動きだ。
(この男……)
膂力も技術も規格外で、およそ付け入る隙が見当たらない。
比類なき戦闘力に、果て無き闘争本能。
呂布こそは、戦場における完全な武将と呼べる存在かもしれなかった。
だからといって、関羽の戦意が鈍る事は無い。
相手が誰だろうと、立ち会うならば全力を尽くす。
それが関羽の礼儀であり、また己が生き延びる為の信念でもあった。
さらに激しさの増す関羽の攻撃を払いながら、呂布の歓喜もまた高まっていく。
「ヒャハハハハハハハハハ――――ッ!!楽しいなぁ!!」
「よ、よし! 白馬義従達よ! 我が命に従え!!」
刺突剣を掲げ、将兵達に統率を取り戻そうとする公孫贊。
劉備も、張飛と関羽が呂布の動きを止めたのを見て、まずは一息つく。
(だが、あの赤い奴の動きが止まったということは……)
間髪いれず……城門から多数の騎馬兵が溢れ出てくる。
獣の毛皮をあしらった、董卓軍の精鋭騎馬隊だ。
呂布が動かないならば、巻き添えの心配は要らない。
呂布の攻撃で一気に消耗した公孫贊軍を壊滅せんと、怒涛のごとく押し寄せてくる。
「むぅ……!」
畳み掛けるような窮地に、公孫贊は眉間に深い皺を寄せる。
「大丈夫だ! 兄さん!」
劉備は、地平線の向こうを見据えて叫ぶ。
「こっちも援軍到着だ!!」